「無我の境地」劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来 ユートさんの映画レビュー(感想・評価)
無我の境地
鬼滅の刃の無限城のは、私は観ていて「推しの子」の第二クールを思い出しましたね。
劇場でやったらどうなるんだろうって。
観ていた人も脳裏でそう思った人もいたのではないか。
そういう意味では無限列車の引き伸ばしのようにも思う。
でもどうポイントを抑えるのだろう。
分からない。
無限城がまるで東◯だった。
今回の心に残ったのは「無我の境地」という言葉でした。
その後、無我って何だろうと映画館を出ても考え続け、〝三昧〟かな、とか〝ギアを2速落とすこと〟かな、とか色々考えました。
無我と無欲って違うよな、とか。
でもこれに皆共感するって、皆苦しんでいるんだな、と思う。
大変なんだなって…。自分もだけど。
無限城は大きく分けて三つの闘いがあった。
しのぶさんが・・・
原作を読んでなかったんですよ。
ガビーンってなった
これネタバレですか?
皆、見てるでしょう
もうええでしょう(独断)
あの炭治郎の「これからお前の首を斬る!」って叫ぶ所が良かったですね。
分かるーって思った。
「何?叫んだ?」って水柱が言うところが良かった。
駆け引きを凌駕した地へ往く ということだと思う。
猗窩座はAIという感じがしましたね。
センスの長けたAI。どんどん感覚を反応させるという。
そういう時に勝るのは想いなんだと思う。
想いに入るというか。
それが最短距離の結果を生む
結果として みたいな
ちょっと観てから日が経っちゃったけど、そんな感じだったような…
だからセンスは人じゃないんだよ
と思う。
想いが人なんだ
と僕は思う。
僕は心の中の鬼を理解するから鬼を倒せるのだと思う。
猗窩座は自分の中の鬼に気づき理解したのだと思う。
ある意味で言えば、闇とか心の中のこわい話とかを書く、表に出す、というのは、そうした闇やこわい話を理解する方法である。
表に出す、表すことは、ある意味で言えば理解であり、ある意味で言えば滅殺である。
#胡蝶しのぶ
そういう意味では善逸は獪岳を受け入れていたなと思う。鬼としてではなく、兄弟子として。反面、獪岳は善逸を受け入れてなかった。
理解が相手、鬼を滅するのであれば、善逸の方が強い。
#善逸と全集中
#獪岳
度々書くんだけど、大和魂って「受けて立つ」ことなんじゃないかと最近考えて思う。
それは心の中の鬼にも「受けて立つ」ということなのね。その鬼を理解する。そして倒す。…。
ヘイトとして弾くというか、受ける前に違う、みたいな流れあるけど、そうかならばと受けてから立ちあがることが大事と思う。
その方が素直に生きられると思うんだけど。
猗窩座のフィギュアが欲しい。
#鬼滅の刃
#鬼滅の刃無限城編第一章猗窩座再来
「鬼滅の刃」が「鬼殺の刃」というタイトルでは無いのは「滅する」ことと「殺める」ことは違うということを作者が意識してるからだと思う。
#鬼滅の刃
#鬼滅の刃無限城編第一章猗窩座再来
扇子持ってる鬼、俺の中にも居るなと思った。
#鬼滅の刃
割と俺も何でも分解すると思った。
獪岳も人生上手く行ってたらなってたなと思った。
#鬼滅の刃
ノイローゼとか統合失調症になってなかったらなってたと思う。
鬼滅、2回目観て、猗窩座悪く無いじゃん、って思った。
悪いの鬼舞辻無惨じゃんって。
いきなり頭ぶち抜いてるじゃんって。
他の奴らは血飲んだりしてるけどさ、選択権はあるじゃん…。
猗窩座だけ無しなのかよ、と。
で、記憶が無くなって暴走みたいな感じでしょ?
シャドームーンみたいなもんじゃん。
改造されてるじゃーんって。
炭治郎の親父って面白いなと思った。
病弱だけど舞を舞って、殆ど一撃で熊を倒すという。
あれ見ると、無名でもいいお父さんっているんだなと想起する。
見取り稽古
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