劇場公開日 2024年10月11日

「マイケル・ケインとグレンダ・ジャクソン。老優二人の魂の演技に、ただただ平伏するのみ。」2度目のはなればなれ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0マイケル・ケインとグレンダ・ジャクソン。老優二人の魂の演技に、ただただ平伏するのみ。

2025年1月6日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

主人公カップルが、90歳近い年齢であるということ。
出演者自身、概ねその年齢に達しているということ。
それだけで、ある種の「サスペンス」が全編で維持されることに、観ながら気づいた。
なんといっても、彼らはいつなんどきお迎えが来ても、本当におかしくない年齢なのだから。

次のシーンで、突然、倒れるかもしれない。
ふとしたことで何が起きてもおかしくない。
暖かで、穏やかで、優しい愛と冒険の物語に、
そんな漠然としたサスペンスが常につきまとう。
彼らのドラマは、ドラマツルギー通りに終わるとは限らない。
ある時、唐突に打ち切られて終わってしまうかもしれない。
いや、現実なら、終わって当然の時期を描いた物語なのだ。

観終わって、家に帰ってから、
妻レネ役のグレンダ・ジャクソンが、映画の公開を待たず、
実際にこの世を去っていたことを知り、愕然とする。
「私に残されている時間はそんなに長くない」
あの劇中のセリフは、なんのことはない、
「グレンダ・ジャクソンにとっての現実」だったのだ。

そして、改めて気づく。
この映画自体、まかり間違えば、撮り切れないで終わったかもしれない可能性があった。
80代後半~90代の俳優を使うということは、そういうリスクすら秘めているわけだ。

現在、齢91歳のマイケル・ケインの引退作。
齢87歳で逝去したグレンダ・ジャクソンの遺作。
これは、偉大なる二人の俳優が遺した、
最後の演技であり、最後の記録である。
ただの劇映画ではない。
俳優自身の人生の終末期を生々しくフィルムに刻印した、二人の魂の記録でもある。
僕たちは心して、居住まいを正して、この宝物のような映画を観なければならない。

― ― ― ―

お正月、今年の一本目。
下高井戸で再映してくれて、本当によかった。
見逃していたが、もともと観たいと思っていた映画だった。
僕としては本当に珍しく、劇場のロビーでかかっていた予告編を観て「これは観たい」と思わされた映画だった。
マイケル・ケインの表情にやられた。
マイケル・ケインの声にやられた。
マイケル・ケインの涙にやられた。
予告編だけで、ちょっとうるっときてしまった。
そういうことだ。

僕は昔から、マイケル・ケインが大好きだった。
名優でありながら、奇天烈な映画や、癖の強い役にも、選り好んで出る、変な俳優。
最初に知ったのは、傑作ミステリ映画『探偵スルース』だったか。
ハリー・パーマーもののスパイ映画(レン・デイトン原作)も良かったが、個人的には『殺しのドレス』や『デス・トラップ 死の罠』『ペテン師とサギ師/だまされてリビエラ』のようなミステリ色の強い映画で熱演しているケインにしごく愛着がある。『迷探偵シャーロック・ホームズ/最後の冒険』でのアル中でアホでマヌケのホームズ役(ホームズは真の探偵役であるベン・キングズレー演じるワトソンが雇った「役者」という設定)もとても面白かった。リメイク版の『探偵スルース』での作家役も良かった(映画はイマイチだったが)。もちろん、サイテー映画として名高い『スウォーム』や『アイランド』に出ている時だって、マイケル・ケイン自身は全く手を抜いたりしない。
Z級からA級まで、なんでもオファーがあったら出る、最強の性格俳優。
そんな彼が「これが最後」と決めて出たのが、『2度目のはなればなれ』だった。

― ― ― ―

名優が「老い」を演じた映画といえば、ヘンリー・フォンダとキャスリーン・ヘップバーンの『黄昏』、リリアン・ギッシュとベティ・デイヴィスの『八月の鯨』、ジャン=ルイ・トランティニャンとエマニュエル・リヴァの『愛、アムール』、それから去年公開された、ダリオ・アルジェントとフランソワーズ・ルブランの『ヴォルテックス』あたりがぱっと思い浮かぶ。
個人的に忘れられないのが、ルネ・クレマンが監督した『狼は天使の匂い』だ。
すでに自分が末期のガンだと知っていたロバート・ライアンの見せる、一世一代の名演技。
何度観ても、僕はラストでわけもわからないくらいに号泣する(笑)。

今回のマイケル・ケインとグレンダ・ジャクソンの演技も、思わず涙腺を刺激するものがあった。演出自体は少し説明過多でくどいし、その割にストーリーラインがイマイチ追いづらいし、ときどきテレビドラマのような陳腐なシーンが挿入されることもあり、すべてがすべて好みの映画だったとはいいがたいのだが、少なくとも老優二人の演技に関しては本当に素晴らしかった。

ただ佇んでいるだけで、絵になる。
どこかを見つめるだけで、想いが伝わる。
二人が向かい合うだけで、空気が変わる。
なんなんだろうね、これは?

演出に関しても、二人がもう大して歩けないこと、
思い通りには動けないことを、
しつこいくらいに描き込んでいた部分に関しては、とてもよかった。
徹底的に足元を映し、ゴム底の靴を映し、杖の先を映し、ものを探る手元を映す。
一定時間立っているだけで、座らざるを得ない「時間の限界」を示す。
90歳になって生きることの困難を、細かな所作とアイテムによってリアルに描き出す。
ふと見える衰えの瞬間、記憶の齟齬、うつろな表情、身体を走るヤバい痛み。
そんな耐久臨界ぎりぎりを迎えた「器」のなかで、なお確固とした「知性」がきらめき、熱い「情念」が渦巻いている。もちろんながら、老いてなお、人はやはり人なのだ。

― ― ― ―

本作は、ある種のロード・ムーヴィーでもある(中盤だけだが)。
あるいは、「旅立ちの理由」と「旅の途中」と「旅の後始末」を対等に描く映画ともいえる。

老人ホームでの変わらない毎日、繰り返されるルーティーン自体、決して悪いものとしては描かれない。穏やかな日常、大切な人々とのふれあい。これはこれでかけがえのない時間だといえる。少なくとも、そのようにこの映画では描かれる。

でも、人生にはやはり、何かしらの「刺激」が時に必要だ。
80になっても、90もなっても、原理原則は変わらない。
人間には、必要なのだ。
時には、周りが迷惑するくらいの、思い切った刺激が。
それが、いわゆる「冒険」というものだ。

この映画は、一人旅に勝手に出かけてしまった、バーニーの冒険の物語でもあると同時に、自分から進んでバーニーを煽って旅に行かせた、「レネの冒険の物語」でもある。
忘れてはならない。
はなればなれを画策したのは、けっしてバーニーではない。
猛烈な勢いで背中を押したレネこそが、この件の真の首謀者なのだ。

彼女は、いつも「新鮮」であろうとする人だ。
だから、毎日、化粧をする。
夫にも、日中は装った姿しか見せたくない。
それくらい、日々「新しい自分」を見せたいと思っている人だ。

レネは、なぜバーニーを旅に送り出したのか。
それは、日常の繰り返しのなかでゆったりと死に近づいていくバーニーに、新しい「刺激」を与えたかったからだ。戦争から帰還して以降、夫がずっと抱えていた「何か大きなわだかまり」を解放し、解消させる「最後の機会」を与えたかったからだ。彼が「わだかまり」と向き合うのが怖くて、わざと参加期限を逃したことに気づいていたからだ。
さらには、旅から帰ってきたバーニーに、「新しいレネ」を見つけてほしかったからだ。

同時にそれは、残り僅かになった自らの人生に対する「刺激」でもあっただろう。
夫がそばにいないというシチュエーションを「敢えて」作り出すことによって、彼女は、バーニーの存在の大切さ、バーニーがそばにいる本当の意味、バーニーに対する自分の愛を、改めて「確かめよう」としたのだ。

二人には、ひとときの「はなればなれ」が必要だった。
残り僅かな二人の時間の「価値」を高めるために。

周りを騒動に巻き込むことは、レネにとっても、バーニーにとっても、本意ではなかっただろう。「刺激」としては面白い余禄にはなったけれど、あくまでこの冒険は、ふたり自身のためのものだった。
結果的に、バーニーは心残りだった死んだ戦友との思い出に、一定の決着をつけることができた。レニも、自分のなかにいまも渦巻いているバーニーへの想いに、改めて火をつけることができた。
冒頭の二人のシーンと、ラストの二人のシーンは、
似ているようでいて、少し違っている。
たしかに、小さな冒険は、二人に新しい命のうるおいを与えたのだ。

― ― ― ―

●映画としては、フランスでの最初の夜、部屋をシェアしてくれたジョン・スタンディング演じる空軍出身の老人から、自分がアル中であるとの告白をバーニーが受けるあたりから、俄然面白くなった感じがある。
フランスに来ても、正式な招待者として参加していない後ろめたさと、集まっている大半のメンバーがアッパー・クラスであること(バーニーは過去篇から見ても明らかにワーキング・クラス)への疎外感で、どことなく寂しげで孤立気味だったバーニーが、「若干気後れしていた相手」の「弱み」を知り、自分との「共通するトラウマ」を知り、悪い言い方をすれば「ある程度マウントを取れた」ことで、だんだんと活力を取り戻していく様がまあまあリアルに描かれていた。
ちなみに、マイケル・ケインは労働者階級の出身、ジョン・スタンディングは貴族階級の出身で、二人はもともとの友達どうしである。さらにはグレンダ・ジャクソンも労働者階級の出身で、長く労働党で政治家および閣僚を務めていた。このへんのキャスティングは明らかに意図のあるものだといえるだろう。

●元ドイツ兵と心を通じ合わせるシーンも、演出自体はこれ見よがしでかなり気持ち悪かったが、シーンとしては悪くなかった。全体に言えることなんだけど、お互いに手を握り合わせるやり方とか、敬礼の長さとか、見つめ合うときの表情とか、この監督の演出って、どうも貧乏たらしいというか、観客に媚びてるというか、どこかテレビあがりの人みたいなんだよね(笑)。まあ、そういうのが好きって人もいるんだろうけど。
ちなみに、マイケル・ケインは何作もの戦争映画に出演しているが、ジョン・スタージェス監督、ジャック・ヒギンズ原作の『鷲は舞いおりた』(1977年)では、イギリスに潜入してチャーチル誘拐計画に挑むドイツ人将校役を好演している。

●戦没者墓地を老人二人が墓参するシーンについては、ときどき本感想欄でコメントを下さるお仲間の方から、『続・夕陽のガンマン』の墓地での決闘シーンと絡めて、ご紹介をいただいていた。たしかにおっしゃるとおりでした。観させていただきましたよ!!

●レネが、バーニーの不在時に、若き日に交わした熱いキスと初めてのセックスを想起しながら、内なる興奮と性的欲求を煽り立て、駆り立ててゆくシーンは、ほとんど「怪演」と呼びたくなるくらいの迫力と生々しさがあった。たとえ老婆ではあっても、間違いなく、淫靡で、官能的で、美しいシーンだった。
人間、90近くになってもああいう情動ってのは、実際にあるんだろうなあ。

●黒人のぽっちゃりした介護師の子は、本当にとても良い子だと思う。でも、あれだけ介護している相手の老人に入れこんじゃうような子は、決してこの職業に向いているとは言えないだろう。みんな、早晩亡くなっちゃうからね。

●「The Great Escaper」という原題は、出元はバーニーを探す警察官が面白がってつけたSNSのハッシュタグだが、当然ながら英米圏の人にとっては、ジョン・スタージェス監督、スティーヴ・マックイーン主演の名作戦争映画『大脱走』(原題 The Great Escape、1963年)を想起させるものだろう。あれも、「戦争とは何か」を語るとともに、アメリカなりの「ワーキング・クラスのしたたかさと反骨心」を描いた映画だった。

●エンドロールまぎわに、この映画が実話ベースの物語であることが、しっかりと確認される。ほぼそうだろうと確信をもって観ていたので、いい答え合わせとなった。
てか、お二人は結局、その順番で旅立たれたのね!! それはちょっと思いがけなかった……(笑)。まあ、現実ってのはドラマツルギーどおりにはいかないもんだ。

じゃい
Mr.C.B.2さんのコメント
2025年1月7日

幾千の戦士の墓、「無駄死にだ」と言う主人公の台詞。「続夕陽のガンマン」のサッドヒルの墓地と通じるものがありますね。
「サッドヒルを掘り返せ」であの墓場が再建されたのは嬉しかったです。
あのカンを墓に置いたのは「渡せなかった。すまない」と言う気持ちだったのかと。

Mr.C.B.2
Mr.C.B.2さんのコメント
2025年1月7日

共感どうもです。今年もよろしくお願いします。

Mr.C.B.2