霧の中の子どもたち
2021年製作/92分/ベトナム
原題または英題:Children of the Mist
スタッフ・キャスト
- 監督
- ハー・レ・ジエム
- 製作
- スワン・ドゥビュス
- トラン・フォン・タオ
- 編集
- スワン・ドゥビュス
2021年製作/92分/ベトナム
原題または英題:Children of the Mist
「霧の中の子どもたち」
原題:Children of the Mist
2021年製作/作品時間92分
撮影地:ベトナム
製作国:ベトナム
監督:ハー・レ・ジエム
編集:スワン・ドゥビュス
プロデューサー:スワン・ドゥビュス、トラン・フォン・タオ
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「アジアンドキュメンタリーズ」の配信で観た。
いいフイルムが揃っているから、このライブラリーはお薦めです。
フォロアーさんから
モン族の映画があると教えられた。
「モン族」といえば、おお!聞き覚えのある名前だ。
あのクリント・イーストウッドの「グラントリノ」で、老人の家の隣に引っ越してきた“厄介な”移民の一家。彼らがこの「モン族」だった。
今回観ることにした本作品は、ベトナムの北部の山中で、3年をかけて撮られていった「ディレクターと少女ジーとの記録」。
でも、僕の事前の予想に反して、そこは《未開の地》というわけではなかった。
家屋はいかにも昔の農家で質素ではあるが、
ラジオは当然存在するどころか、全員がスマホを持ち、14歳の主人公ジーは見知らぬ相手と出会い系サイトもやる。フェイスブックの話題で恋バナも飛び出すかと思えば、国際女性年に彼氏と別れたんだとグチる。
立派な学校もある。子供たちはFILAのアウターを着て、ベトナム国家への忠誠を歌う。
面白い女先生はクラスを沸かせてとても楽しい授業をやっている。
文房具店もあるのだろう、黄色いセロファンを貼って竹の骨のランタンを作って夕方の庭先でみんなで遊ぶ。
大人たちも良い人たちだ。飲めや歌えやの、みんな仲良し小好しだ。お父さんはイジられキャラで頼りないし、お母さんは怒ってばかりいる。
つまりこれは
「どこにでもいる、ごく普通の中学2年生」、
「その少女の家庭生活」だ。
だがしかし、そのようなありふれた生活と同時に「少女略奪の嫁さらい」だけは、モン族の習慣として続いている。
これはこの村の、古くからの伝統文化なのだ。
幼女・少女の「強制結婚」は、まだまだ世界各地でたくさん残っている風習だ。
・女は、多かれ少なかれ、生まれながらにして男性たちに利用され消費をされる「商品」として、
また
・男は、生まれながらにして兵隊として国に召し取られて、国のために死ぬことになっている「消耗品」として、
濃淡こそあれ、人間の世界ではこの男女の運命は有史以来定められている。
後半、
嫁さらいの強制結婚について
撮影者はドキュメンタリー取材を忘れて“取材対象”に手を出してしまうのだ、そこがこの作品の特徴だ。
つまり「嫁さらい」前夜の女友達ジーに、撮影者は個人的に話しかけ、アドバイスをして助け出そうとする。これ、黒子の勇み足。
でもそんな事をしてしまってはモン族の文化の、そのままの記録映画にはならないのだが。
改変や演出はヤラセだ。ドキュメンタリーとしてはやってはいけない失敗な行為だ。
芥川龍之介の「杜子春」は、
堪え切れずに禁を犯して声をだしてしまった息子の、その徳を讃えた小説だったが、個人の小説ではないこのベトナムでの取材で「禁」を犯した本作のディレクター=ジエムは、撮影で何を残し、そして何を壊したのだろうか。
ジーは社会の授業で「危機に立ち向かうには強い心が必要です」と教科書を朗読していたが・・でもこの「嫁さらい」は、外部の人間がお節介や善意で触れてはならない彼らの独自の文化として、この子にも及んだ訳だ。
これ、男性ディレクターならどうだったか?
ジーの顛末をば、「ドキュメンタリー取材の鉄則」に則ってそのままを静観し、記録したかも知れない。
けれど今回女性ディレクターのジエムは足を踏み外したようにみえる。
本作は少女ジーの記録ではなく、様相としては「女性ディレクターと少女ジーとの記録」になっているところがミソだ。
面白いことに、このドキュメンタリーは、そのような取材者を含めてのドキュメントなのだ。
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【文化の多様性とはなんだろう】
「嫁さらい」は、果たしていけない行為なのか?悪習なのか?
僕はあえてそれを問うてみたい。
先進国がもっともらしく唱え、彼ら先進国から見下す”未開の者たち“への生活指導。
指導者然として教え込むインテリゲンチャのモットーや人権。そして「多様性を重んじる」とは、
いったい何なのだろう。
かつての世界の長=ローマ帝国は、
その版図は、ヨーロッパからインド〜アフリカまでを制覇し、全世界を属国としていた歴史がある。
ついそこで我々は勝手に思い込んでしまうイメージは「植民地に加えられる圧政」なのだが、ところがあにはからんや、ローマはそんなケツの穴の小さい、みみっちい事はしていなかったと、
僕は世界史の講義で習った。
つまりローマ帝国は、納税と兵役の義務さえ帝国に上納するのであれば、属領である各国が有するそれぞれの文化習俗も、そして言語も宗教も、そのままに大らかに認め、それぞれ各国なりに自由に守らせて彼らの文化を保護させていたのだという。
つまり、属国の「文化の多様性」をそのまま認め、むしろそれを正しく守らせる事で、ローマはそのコレクションの偉大さと太っ腹を歴史に示したのだと。
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映画は
ジーの遊び心で起こった一大事の顛末を、橋田壽賀子の「ホームドラマ」のように観せてくれた。
ティーンエイジャーの恋心と、両家の結納でのあの激しい争奪戦=学校や党役員も巻き込んでの手に汗握る花嫁争奪戦には爆笑。ジーは大泣き。
そして今回の事でいろいろを学んだ年頃の娘ジーの、しょんぼりの表情でエンディングである。
可哀想になぁ。主導権を握るはずの彼氏がここまでカメラの晒し者となり、コケにされていて。
つまりモン族の「嫁さらい」の風習もずいぶんと変わって来ているようだ。
ま、そこも含めてのドキュメントか。
ジーはカラオケのテントで、自分の身の上の残酷さをしみじみと歌う。
哀調の歌謡曲を他の女の子たちと歌いながらも、でも「モン族に生まれたことは受け入れる」と言っていた。
彼女が決める事が最終的には正解なのだ。
モン族も過渡期だ。
女たちにも決定権が萌芽し、男の側にも身を引くマナーが生まれているようだ。
ローマ帝国ではないが、
嫁さらいを続ける彼らに関しては、僕は文化人類学的な興味は湧く。しかしジーの置かれた環境は、スマホの登場で侵略され、モン族のすべてが変わっていってしまう現代の悲しさも見た。
画一化されて独自のものを失っていく人間の文明の行先を、ここにも憂えてしまう僕がいる。
この手のドキュメンタリーを観るごとに、そうやって僕は考え込んでしまうのだ。
モン族の嫁さらいは罪なのだろうか・・
・ ・
「多様性ってなんですか?」
Diversity yog dab tsi ?
↑↑恐るべし。「グーグル翻訳」は「モン語」をも網羅している。
アジアンドキュメンタリーズで視聴。
以下、紹介内容を転載する。
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北ベトナムの山間に暮らすモン族の伝統的風習、「嫁さらい」に巻き込まれた14歳の少女の一部始終をカメラが追った。主人公のジーは学校に通いながら、家業の藍染めや農業、家畜の世話などを手伝う。父親は一日中酒に酔っていて、母が生活を切り盛りするため、子どもは大切な労働力でもあるのだ。春節の祭りの日、ジーはヴァンという少年と懇意になり、彼の家に連れ去られた。母親はジーを取り戻そうとするが、「嫁さらい」に親は関与できない。結婚を迫るヴァンと拒むジー。騒動は学校や両家の親族まで巻き込んで、二転三転してゆく。現代においても女性の人権を認めない、伝統的価値観が根強く残るモン族の社会を描いた作品だ。
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描き出されている事象から考えさせられることは様々だが、それもこれも、監督が主人公のジーとの人間関係をしっかりと築き、寄り添いながらも客観性を失わずに、彼女たちの生活を犯さない距離を保っているからこそだろう。
中で、たった一度、監督はジーの問いかけに対して、自分の感情を伝え、厳しい指摘を投げかける場面が出てくるが、そこが出色。
それにしても、教育の果たす役割の大きさ、重さを思ったし、現場の教師たちが、きちんと信念を持ってこの問題から真正面に向かおうとしている姿勢にも感動した。
少数民族の文化を守り続けることと、普遍的な人権を国として擁護し、彼らに伝え続けていくこと。それを並行して行っていくことの難しさがしのばれたが、それとは全く別に、スルスルっとスマホなどの文明の利器は、こんな少数民族の中にも巧みに入り込むのだなと感心もした。