ボレロ 永遠の旋律のレビュー・感想・評価
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いろんな角度でボレロを楽しめる映画
聴覚、視覚だけでなく、嗅覚や触覚にまで訴えてくる作品。この映画を観ている間に、私のボレロのイメージが二転三転させられた。
もともと私がこの曲に持っていたイメージは、異国のパレードがずっと遠くからゆっくり近づいてくるイメージ。その為、イダの踊りを見たときはこんな官能的な曲なのかと驚いた。
その後、彼の戦争体験や母の死などのエピソードを見て、ラヴェル自身の声にならない叫びのような内面的なものへとイメージが変わった。
そして最後の演奏では、この曲がラヴェルの人生そのものと重なって聴こえた。同じメロディが繰り返されるのは、様々な女性に囲まれながらもどこにもたどり着かない彼の姿。カタストロフィーとあう言葉もあった唐突な曲の幕切れは、崩壊する彼の精神や術後あっけなく亡くなった結末に重なるように思える。
もっとも作曲したときにそんな事は考えていなかったと思うが、そう考えるとこの作品のストーリーのモヤッとした部分もスッキリする気がする。
それにしても女性達は彼のどこに惹かれていたのだろうか。
…
オープニングや最後の演奏に合わせたダンスを観て、人それぞれ全く違う解釈をしているんだなと気付くことができ、色々と自由に考えることができ楽しい時間だった。
最後はやっぱり……
『ボレロ』を生で初めて聞いたのは、高校生の時にクラシック鑑賞会みたいなことをやったときだった。
確か、日本フィルハーモニー交響楽団が来ていたんではないかと思うが(場所は市内の劇場)記憶は曖昧。生のボレロはインパクトがすごくて、クラシックなんて聞かないクラスメートも感動していた。
この映画は、その『ボレロ』を作曲した、モーリス・ラヴェルの自伝的な映画(ラヴェル役はラファエル・ペルソナ)。といっても、半分くらいを『ボレロ』の作曲に悩むラヴェルの描写と、その後の反響の大きさに辟易する姿に充てられていて、子供の頃や若い頃が時系列に関係なく時々挿入されるという展開。なので、急に話が前後して、ちょっと展開を追うのが面倒な人もいるかもしれない。
ラヴェルのアメリカ演奏旅行では、『亡き王女のためのパヴァーヌ』なども流れて、有名どころはやっぱりやるんだ、という感じ。
アメリカ演奏旅行中にジャズを聴きに行っていたが、ある雑誌か何かで読んだエピソードに、ガーシュウィンが、オーケストレーション(オーケストラ用に編曲すること)を教わりたいと、ラヴェルを訪ねたところ、「あなたは一流のガーシュウィンです。私に学んで二流のラヴェルにならなくてもいいでしょう」と、断られた、という話があった。
てっきり、そういった、少々皮肉屋な感じの、フランスでいうところのエスプリの効いた人物かと思ったが、映画では、どこか、生真面目なエンジニアみたいな雰囲気だった(劇中、私は”スイスの時計職人”と呼ばれている、というセリフがある。ラヴェルの父はスイス人)。
晩年は、記憶障害などに苦しみ、手術を行うも、術後間もなく亡くなってしまう。いまでいうところのアルツハイマー認知症みたいな病気だったんだろうか。
最後の締めは、やっぱり『ボレロ』できたが、ダンスはいらなかったかな。フルでやるかも、と思ったが途中からだった。この映画では『ボレロ』の作曲に一番貢献したのは、家政婦の女性っだったみたいに見えるくらい、家政婦の登場シーンが多いのだが、パンフレットには、ルブロ婦人:ソフィー・ギルマン、とそれだけ。
あと、どうでもいいことかもしれないが、もしかすると、(唇への)キスシーンのないフランス映画を見たのは初めてかもしれない。
「地味」とラベル貼り
私の好きな本で古今のクラシック作曲家を大胆不敵にも、かつ音楽理論的に彼等を天才か秀才かに分類•分析したものがある。しかしそこにラベルの名は一行の批評すらない。そして今まで映画史上、彼の生涯がテーマとして取り上げられたことはなかった。彼をディスっているわけではない。「ボレロ」は実際名曲だしM.ベジャールが振り付けJ.ドンの舞ったバレエは圧巻であった。上記の原因はラベルの性格と衰弱していった精神にあったのではないか。日常生活において万事、地味、抑圧的、秘密主義あるいは禁欲的でヒーローとしてのエピソードに乏しいのである。だから「ボレロ」完成以後ストーリーはスカスカで正に「印象」だけの役者(彼は良い)の力量のみで持たせていた。ラベルに関わった女性は何人か登場するが性的な匂いは殆ど無い。手袋フェチも中途半端。マザコンから生じたゲイ(母と同じ性に手が出せない)なのか。今は亡きケン•ラッセルに監督させたら面白い怪作が出来上がったろう。何しろあの学者然としたマーラーをバスターキートンのように走り回らせたのだから。
少々盛りすぎ?
当時の美術や衣装の再現と、カメラのフレームワークが美しすぎるくらい美しく、「光」を堪能できました。
そこがよかった。
NHKの大河ドラマや司馬遼太郎の「司馬史観」あたりに顕著だが、小説、TVドラマ、映画などで"「史実」「真実」をベース"などと謳われた作品の大半は、想像力で盛られることが多い。
特に、現代人に通じる「価値観」や、作者の「正義」「倫理観」などのフィルターを通し、かつ本やフィルムなどにする上での「【物語】としての緩急強調演出」を加えられ、作り事「創作」になるのが普通とはいえ。
『ボレロ』は名曲だし、たしかに世界中どこかで流れない日はないと思うくらい有名とはいえ……
ラヴェルは他の曲も素晴らしい。
若い頃から 『ソナチネ』『スペイン狂詩曲』『マ・メール・ロワ』『夜のガスパール』といった大ヒット曲を飛ばして世間から注目されたのに、『ボレロ』でしか評価されないという作中の扱いは少々寂しかった。
それに、たくさんの恋人たちの力で『ボレロ』ができたように描くのは、少々盛りすぎじゃないの?とは思った。
TuかVousか、とにかく気になる〜ゎっ♪
フランス語には2種類の二人称があり、親しい人にはTu、敬称ではVous(Tuの複数形を単数に使う)と習った人も多いのではないかと思います。
※ふたりの関係で、どちらからがTu、もう片方からがVousということはないらしい。
という切り口でフランス映画を見ると字幕のあちら側を知ることができてお得だと思います。
史実でどうだったかは存じませんが、この映画におけるモーリスの一面が表されてるとも言えるでしょう。
というわけで、ここの感想を読んでいてもいろいろ勘違いなさってる方々がいらっしゃるので、字幕では描ききれないエピソードがストーリーに存在しているのかもしれません。
米企業Netflixとしてはどうだったんでしょうね。
ちなみに当方にとってはパトリス・ルコントのボレロこそがボレロの真髄です。
また、以前とある管楽器の音大生がとても得意満面に現れたので「じゃあボレロ吹いてみて」と言ったら一瞬怯みながらも挑戦してくれたのがいい思い出です。
天才ラン・ランの左手をぶっ壊したのはラヴェルの「左手」と言われています。ヴァルスも難曲。それを作曲して弾いていた人の技術がもう少し描かれてると良かったのに、オケの奏者たちにとっても簡単なものではないと説明があってもよかったかも、と思いました。
全体的にサウンドが誠実です。雨音まで聴ける映画です。なんでも盛っちゃう米国企業がよく我慢したな、とも思います。
Netflixに欧州作品がじゃんじゃん増えるといいですね。
エナメルの靴と赤い手袋。小道具の使い方も印象的。
天才って生きるのが大変そう。草食系、マザコン系、絶対音感敏感系、そして端正な容姿。女性たちがほっとけないオーラに満ちた人だったのだろうなあと想像させられた。
本人の記憶障害ワールドに寄り添うように時系列もランダムに切り取られながら編集された脚本の中、エナメルの靴と赤い手袋の演出が、彼と周囲の女性たちをつなぐモチーフとして効果的に使われていたと思う。キレがあって切なくて。他にももちろん印象的な映像カットがありましたが。
ニューヨークのジャズマンの出す音色や、女中さんが口ずさむ流行歌にインスピレーションを得るくだりなど、天才というのは俗世間の序列など関係なくいいと思った周囲の音をどんどん吸収していく大きな器の持ち主なのだろうなあと素直に感心した。
手術後、コンテンポラリーなバレエと交錯する脳内ボレロ。ラヴェルのボレロ。最後はカタストロフ!彼は自身の人生をもってして証明した。出来過ぎのラストだった。
亡き作曲家のためのパヴァーヌ
この映画を見る限りラヴェルがあまりドラマチックな生涯を送った人とは思えず、そうなると当然のことながら映画もあまり感動的なドラマにはならない。ローマ大賞に落ちた話やアメリカ演奏旅行、バレエ音楽の作曲依頼などが断片的に配置されるので(しかもあまり説明がない)、物語や時間の流れがわかりづらい。
私にとって「ボレロ」と言えば、モーリス・ベジャールであり、シルヴィ・ギエムであり、上野水香なので、(フィギュアスケート番組のテーマでもある)、ニジンスカの振付による初演のステージは違和感があった。
主演のラファエル・ペルソナは時々マユリカの阪本みたいな表情を浮かべる。
冗長的、特に前半は要らない
音楽家の生涯は音楽作品がメインで、プライベートな女性関係は参考程度で良いと思うが、登場人物は女性ばかりでダラダラ長々と描かれ、前半で席を立っていく人もいた。
フォーレやドビュッシーやサティやガーシュインや、作品に影響し合った音楽家は出てこない。
ボレロは傑作だが、ピアノ協奏曲第2楽章も聴きたかったので、最後のエンドロールで流れたので良かった。
精確さのボレロとは反対の、あの不思議な魅力の不協和音は彼が精神的に病んでいく(認知症?)影響なのか、2つの曲の対比で彼の頭の中を感じる事が出来たので、我慢して前半で席を立たなくて良かった。
手袋フェチ
イダの「肉体の音楽だ」という発言や不本意な褒められ方にラヴェルは反発するのだが、例えばベジャール振り付けによるドンやギエムの演技を知ってしまうとその通りだとしか言い様がない。いちばんの有名作が必ずしも本人のお気に入りとは限らないのはよくある話で(手塚治虫は「鉄腕アトム」があまり好きじゃなかったらしい)、それを乗り越えるようとする事が新たなモチベーションになるのもまた然り。
それにしても、それこそドンやギエムと比較しても仕方ないけど、バリバールの演技にケチつける気は無いが、踊りのキレの無さは…
レスター・ヤングとビリー・ホリデーは彼の同時代人だったんだなぁ。
ラベルの「ボレロ」ではなく
2024年。アンヌ・フォンテーヌ監督。音楽家ラベルが「ボレロ」作曲に至るまでを描いた映画。「ボレロ」作曲に至るまでの、また「ボレロ」作曲後のいくつかのエピソードが「ボレロ」を焦点にしてつなぎ合わされている。「ラベルの「ボレロ」」についての映画。
ラベル自身がそういう経験を苦々しく思っていたらしいこともセリフとして出てくるが、エピソードとして、ラベル=「ボレロ」に収まっていないのは、結婚しなかったラベルの終生のミューズだった女性との関係、靴探し、逆説的だが「ボレロ」初演時のダンスシーンといったところか。とくに、初演時のダンスはジャンヌ・バリバールの過剰な演技(わざとか?)もあいまって、ダンス自体の「ボレロ」との不協和音が強調されており、ラベルから「ボレロ」が奪われていくようにみえる。直後にラベル自身が「自分にはわかっていなかった「ボレロ」の性的な側面」として認めてしまうのだが。
そもあれ、映画自体が「ラベルの「ボレロ」」を表象しているのは間違いなく、工場や近代化の隠喩、時計の音の換喩などはこれまでの「ボレロ」解釈を多用にしたかもしれないが、ラベルといえば「ボレロ」という構図は不変であり、ラベル=「ボレロ」という等号の線をいくらか太くしたり複雑にしたりしたにすぎない。
いや、ラベルが精神を病んでいくことを思えば(ただの認知症にも見えるが)、むしろ、主役はラベルではなく「ボレロ」という近代的な音楽(厳格に均質的なリズム、テーマの繰り返しと微妙な差異、徐々にもりあがって最後に爆発)であり、ラベルという特定の人をある日突然襲ってきた近代社会の音の魔力、その犠牲となった音楽家の悲劇、の映画なのかもしれない。=は等号ではなく、「ボレロ」に飲み込まれたラベル(記号で言えば、ラベル<「ボレロ」)ということかも。
ボレロが流れたとこしか覚えてないや。
映画冒頭でボレロが世界各国で色んなヴァージョンで流れていて本当に愛されている曲なのだと分かる。
映画のEDクレジットで
「 世界のどこかで15分に一回、ボレロが流れている 」
と出るから相当なもんです。
これだけ有名な曲なので、さぞかし儲かってウハウハなんでしょ?と思いきや、そんな事はなく作曲のコンクールに6回連続で落ちて友人達に慰められていたり、
贅沢もせず一穴主義なのか、乱行に溺れる事もなく脳の病気で入院したりとか、お母さんが亡くなったりとか幸薄い人生だったようです。
何といっても見どころは「 ボレロ」 のお披露目シーンと、映画の最後に出てくる「ボレロ」 を脳内で指揮するシーンは劇場の音響も良かったので、良いパフォーマンスを見れました。クラシック好きな人はこれだけでも、映画館で見る価値はあります。
劇中に流れる音楽や、ピアノの独奏も良くて耳は満足しました。映画本編は...、
「 ピアノ・レッスン」 「 シャイン」 「 海の上のピアニスト」 「 戦場のピアニスト」
を見た時のような感動がいまいち感じられないんだよなぁ。
やっぱ俺、ボレロしか覚えてないや。
ラヴェルの人生を知ってたらもう少し違ってたかな と思える内容でした...
ラヴェルの人生を知ってたらもう少し違ってたかな
と思える内容でした
時間が行き来するのと、大きな盛り上がりや起承転結のような流れがなく、観終わったあと、久々に、フランス映画ってこうだよね、という思いに駆られる
ただ、ボレロは心地よく、音楽に癒される映画だった
音楽好きな方には良い映画
音楽好きな方には良い映画かも知れませんが、物語としては特に面白みもなく、パトロンとの関係等で淡々と進みます
タバコ嫌いの私には、ラベルのタバコを吸うシーンばかりが目につき、鬱陶しく感じました
そんなにタバコばかり吸ってたら、死んでしまうで!と思いながら見ていたら、62歳という若さで亡くなりました
ラベルを演じた役者は、ラベルに似た人だったんですね!
ボレロ
誰もが聞いたことのあるボレロは、こんな状況で生まれたのですね。でも、最後のキッカケは意外と単純な感じでしたね。出来上がっても、それが意外に大きくなってしまい最後は自分の精神も蝕むなんて。
自分は音楽無知なので
ラベルの曲だと思っていたタイトルがほとんど他の作曲家のものでびっくりしました。それだけボレロが大きいのですね。主人公を取り巻く女性俳優は魅力的ではあるものの自分の好みではないので星が辛めですが、面白い映画だと思います
ボレロを聴きたいがために
バレエもたまに鑑賞しますが、ボレロが聴けるし、もしかしたらバレエも観られる?!と期待しての鑑賞。ちょっと違いました。
私としたことが前半はほとんど寝てしまって記憶が飛び飛び。
個人的には最後のシーンのダンスはあまり好みでなく。それでも音楽は聴けたので頑張ってこの評価です。
ボレロが完成するまではそれなりに面白い展開でしたが、完成後のラベェルが病気になっていく展開では、フランス映画ならではの「ヤマナシ・オチナシ」展開に
本作は、フランスの作曲家ラヴェルによる不朽の名曲「ボレロ」の誕生秘話を描いた音楽映画です。
●ストーリー
1928年のパリ。スランプに陥っている作曲家のモーリス・ラベル(ラファエル・ペルソナ)は、ダンサーのイダ・ルビンシュタイン(ジャンヌ・バリバール)から、新作バレエの音楽を依頼されます。しかし一音も書けずにいたのです。
彼は失った閃きを追い求めるかのように、過ぎ去った人生のページをめくっていきます。戦争の痛み、叶わない美しい愛、最愛の母との別れ。引き裂かれた魂に深く潜り、試行錯誤の日々を経て、傑作「ボレロ」を作り上げます。しかし自身のすべてを注ぎ込んで作り上げたこの曲に、彼の人生は侵食されていくのでした。
●解説
来年で生誕150周年を迎えるフランスの作曲家、モーリス・ラヴェル。彼の音楽には、たとえば同じフランスで1800年代後半から1900年代初頭の日々を先輩格として活躍したクロード・ドビュッシーと比較しても、どこか機械的な性格がきわだちます。曲が機械的なだけではありません。演奏者もまた、下手に個人的情感を込めるより、譜面通り機械的に演奏することで、立派なラヴェル・サウンドを奏でることができるのです。劇中のラベェルも、自身の作品を演奏するオーケストラに対して、ピッチの正確さを神経質に求めていたのが印象的でした。
このラヴェルの音楽の機械的性格に着目して作られたのが、「ココ・アヴアン・シャネル」など実話を基にした作品を手がけてきたアンヌ・フォンテーヌ監督による本作です。ジャンルとしては伝記映画。しかしラヴェルの生い立ちを順序だてて史実に忠実に語ることには、ほとんど関心を示していません。時系列をパズルのように組み替えながら、ラベルの人生と苦しみのもとともなった創作の秘密に迫っていくのです。
映画が始まるやすぐ、映し出されるのは機械音が反復して鳴り響く大きな工場。既に人気作曲家の地位を確立したラヴェルが、そこで工場が奏でる「音楽」の解釈について語るのです。そして本作がラヴェル作品のなかでも特に光を当てる「ボレロ」こそ、そのリズムやメロディーの反復性において、機械的な性格を最も露わにしたものといえます。
工場の規則的な機械音が、反復するリズムのインスピレーションの源になったエピソードばかりではなく、当時の反復リズムの流行歌を、家政婦に歌わせたり、ラベェルのアメリカ公演でニューヨークで演奏が終わった後、ファンの誘いでジャズライブを聴きに行ったとき、「ボレロ」を連想させるジャズの曲にラベェルが聞き惚れるという意外だが納得の誕生秘話を伏線として描いています。
監督はラベルを禁欲的な人としてではなく、性的に他者にひかれないアンセクシュアルと捉え、エロチックな振り付けで踊ったイダとの衝突と和解も描き出しました。イダの振付は完成した曲に合わせて艶めかしく人間的な振り付けでした。イダに機械工場を連想させる演出を厳命していた、ラヴェルは失望を隠せません。
その後世界中でボレロの人気が高まるほど、その成功がラベェルを苦しめ、やがては脳の病気である失語症を引き起こす要因となっていったのでした。
繰り返されるドラムのリズムと二つの旋律がもたらす陶酔感は、モーリス・ベジャールら多くの振付家にインスピレーションを与えてきましたが、曲や踊りのイメージが強すぎた側面も。但し最愛の母やピアノ奏者、それに終生結ばれることなく愛した女性の存在など情感たっぷりなエピソードがこの物語をより豊かなものにしています。
それに加えて、フォンテーヌ監督はラベルの人物像とともに、「亡き王女のためのパヴァーヌ」「ピアノ協奏曲ト長調」など、ボレロ以外の作品の美しさにも光を当てています。
ちなみに演奏は「ボレロ」がブリュッセル・フィルハーモニー管弦楽団によるものに加え、ピアノ曲では、ヨーロッパを代表するピアニストの1人であるアレクサンドル・タローがラベルの名曲の数々を演奏しています。
ラヴェルを演じるのは、ラファエル・ペルソナ。終始抑制されたその演技は、監督のコンセプトの具現化であると共に、終生音楽にのめり込み、音楽と結婚していたといわれたラヴェル自身の思想の具現化であるようにも見えます。
また監督の熱意で、モンフォール・ラモーリーにあるラヴェルの実家、ル・ベルヴェデールでの撮影が許可されたことも特筆すべき点です。
●感想
イダのボレロの振付けは、まるで娼館にいる娼婦のようなエロチックなものでした。曲想とは似ても似つかない踊りに、ラベェルが卒倒し、やがては脳の病気にまでなってしまうというくらいの強い心労を負ってしまったのも頷けます。
なのに終盤唐突にラベェル自身にボレロには官能的表現が含まれていた、イダには曲の側面を教えられたと感謝してしまうのです。もう少し丁寧に説明してくれないと、本作の言うボレロの官能的側面がよく分かりませんでした。
そしてボレロが完成するまではそれなりに面白い展開でしたが、完成後のラベェルが病気になっていく展開では、フランス映画ならではの「ヤマナシ・オチナシ」展開となり、母の死や戦争体験などの過去の時系列をアットランダムに描いて行くだけの盛り上がりに欠けるラストになってしまいました。
●《参考までに》『ボレロ』Wikiより抜粋
この曲は、バレエ演者のイダ・ルビンシュタインの依頼により、スペイン人役のためのバレエ曲として制作された。当初、ラヴェルはイサーク・アルベニスのピアノ曲集『イベリア』から6曲をオーケストラ編曲することでルビンシュタインと合意していたが、『イベリア』には既にアルベニスの友人であるエンリケ・フェルナンデス・アルボスの編曲が存在した。ラヴェルの意図を知ったアルボスは「望むなら権利を譲りましょう」と打診したが、ラヴェルはそれを断って一から書き起こすこととした。(映画では権利を拒否されたことになっていました。)
作曲は1928年の7月から10月頃にかけて行われた。同年の夏、アメリカへの演奏旅行から帰ってきたラヴェルは、海水浴に訪れていたサン=ジャン=ド=リュズの別荘で友人ギュスターヴ・サマズイユにこの曲の主題をピアノで弾いてみせ、単一の主題をオーケストレーションを変更しながら何度も繰り返す着想を披露した。当初は『ファンダンゴ』という題名が予定されていたが、まもなく『ボレロ』に変更した。
初演は1928年11月22日にパリ・オペラ座において、ヴァルテール・ストララム(フランス語版)の指揮、イダ・ルビンシュタインのバレエ団(振付: ブロニスラヴァ・ニジンスカ)によって行われた。翌年、イダ・ルビンシュタインが持っていた演奏会場における1年間の独占権がなくなると、『ボレロ』は各地のオーケストラによって取り上げられる人気曲となり、世界の一流オーケストラが『ボレロ』の演奏を拒否するだろうと考えていたラヴェルをおおいに驚かせた。1930年1月にラヴェルはコンセール・ラムルー管弦楽団を指揮し、同曲の録音を行った。(映画ではラヴェル自身がボレロのレコードを聴くシーンがあります。きっと自身の収録を聞いていたのでしょう。)
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