ボレロ 永遠の旋律のレビュー・感想・評価
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流行歌バレンシア?オレンジジュースの曲?
オープニング。様々な音楽ジャンルの「ボレロ」が流れ、ちょっと感動!個人的にはクラシックは無知のほうなので多くを語れないけど、このアレンジしたボレロだけで満足し、後はオマケのようなものに感じた。
17分間で1分のモチーフを17回繰り返すという飽きてしまいそうな曲作り。工場で機械世界へのメタファーとして作ると依頼者のイダに説明するラベルだったけど、仕上がってみるとバレエの方はエロティックな踊りになっていた・・・スポンサーと作曲者の心の内がぶつかり合う瞬間。しかし、公演時の観客の評判がすこぶる良かった。たしかにエロティックな曲だよね。と自分を納得させるラベル。
最初のモチーフですら単にドレミファソラシドを使ったメロディーであり、F音がそのまま使われるという不思議な音階(途中でコードCsus4がFやG7になってると解釈できます)。バックのコードがドミナントモーションしてると思えばそれまでだが、展開部分はさらに凄い。知らない人でも不安定な緊張感を得られるミステリアスな部分。調性は同じCなのに、マイナー風、フラメンコ風なスケールだったり、メロディックマイナー、オルタードスケールだったりする。ソロ楽器がころころ変わることも考えれば、これはもうジャズですね♪旋律の変化は、そのまま女性に対しては奥手なラベルの心境そのものだったんじゃないでしょうか。そんなこんなでボレロ楽しめました。
旋律誕生の瞬間
1928年、狂乱のパリ。ダンサーのイダの依頼で、ラヴェルはバレエ音楽を作曲するが、スランプで苦しんでいた。しかし、戦争や母など自らの過去に思いを巡らせ、名曲「ボレロ」を完成させる。作曲家として名声を得た彼だったが。
「ボレロ」が好きです。きっかけは映画「テン」のサントラを聴いたこと。その後、曲が15分くらいあり、作曲がラヴェルと知りました。ちなみに「テン」はまだ観ていませんが、様々な映画で使用されてきました。映画のオープニングでは、ダンスミュージックやレゲエなど多ジャンルの音楽でカバーされています。意外とどのバージョンも違和感ないです。今も世界で15分に一回演奏されているそう。
あの旋律が生まれる瞬間は感動的、「ボヘミアン・ラプソディ」の曲が生まれる瞬間に似ていると思いました。しかし、ラヴェルの晩年は認知症のようになり、自分の傑作もわからなくなってしまったことが悲しい。62歳で没、残念です。
そのアート作品は「新たな解釈を提示している」か?
アート作品にとっての生命線は「新たな解釈を提示しているか」
映画に限らず、個人的なアート作品を鑑賞する際の評価基準として、「新たな解釈を提示しているか?」を重要視している。
特に、誰もが知る著名なアーティストやアート作品をテーマにした映画の場合、単なる伝記や解説ではなく、映画監督や脚本家による「『新たな解釈を提示する』ことがメインテーマーとなっているか?」が、非常に大事な要素だと考えている。
例えば、2023製作/2024年公開の映画「ナポレオン」は、過去にも多くの同じテーマの作品が存在し、世界中の誰もが知る歴史的偉人をテーマにした映画だ。
巨匠リドリー・スコット監督はこの映画の中で、戦場では即断即決の英雄としての姿の裏で、妻に振り回され続ける夫としてのナポレオンを描いた。
そこには、どんな偉人も家庭では判断に迷い続ける人間味あふれる普通の男だという新たな解釈を提示していたように感じた。
そして、映画「ボレロ」。
この映画も、作曲家ラヴェルがどのようにしてこの誰もが知る名曲を生み出していったのかについて、監督独自の視点で新たな解釈を提示している点、そしてその新たな解釈の表現としての映像が非常に興味深い作品に昇華していた。
「好きな作曲家」には2種類ある。
楽曲作品が好きな作曲家と、その人の生き様や考え方が愛すべき作曲家だ。
自分にとってのラヴェルは、どちらにも該当するが、それでも最も歩んだ人生に惹かれる作曲家の筆頭だ。
例えば、ラヴェルのピアノ協奏曲は、数多あるクラシック音楽の中で一番に思い出す「最も心揺さぶられる」作品だ。
しかし、ラヴェル自身の生き様は、彼のどんな素晴らしい楽曲よりも強く激しく心を揺さぶられてしまう。
常に半歩先を進む天才だったジョゼフ・モーリス・ラヴェル
若い頃からピアノ演奏の実力は突出していた。
しかし、「半歩先」を行く男が生み出す作品は、伝統主義一辺倒のパリ音楽院では全く評価されず、若き天才はなかなか作曲家として正当な評価を得られなかった。
自分の描く未来の音楽に揺るぎない自信を持つラヴェルは、そんな保守的な権威と決別し、自ら音楽協会を立ち上げ、新たな音楽の可能性を追求し続けた。
そんなラヴェルの最高傑作と言えるのが「ボレロ」だ。
・最初から最後まで同じリズムの繰り返し
・最初から最後まで1つのクレッシェンドのみ
・メロディはたった2つのパターンのみ
新たな楽器も次々と生まれた時代、どんどん複雑化していくばかりのクラシック音楽の潮流から離れ、音楽の本質を追求するかのような単純明快なルールで構成された「ボレロ」は、誕生から現代まで最も演奏される作品のひとつとして時代を超えた名作として君臨する。
時代の半歩先を行く天才が生み出した名作は、流行に押し流されることなく時代性を超越し、常に先を走り続けることができるという見本のようなアート作品が「ボレロ」という曲だ。
工業化という加速し続ける荒波に乗って
時代は大戦間の束の間の平和な時。
「戦争に勝つ」ために工業化を推し進めた各国は、その技術を応用することで製品の生産性を飛躍的に伸ばし、急激な発展を遂げていた。
それまで手作業で作っていた製品がどんどん機械化された。
工場はどんどん大型化し、そこに巨大な最新鋭の機械が次々と導入されていった。
24時間体制で動き続ける機械は明るい未来の象徴であり、そこで奏でられる機械音は豊かな社会を連想させるリズムとなった。
ラヴェルは、そんな最新鋭の工場で稼働する機械が放つ半永久的なリズム音から「ボレロ」を着想した。
つまり「ボレロ」は、発展し続ける1920年代を音で表現したアートであり、人間を幸せにするであろう工業化を賞賛した音楽だ — というのがこの映画の解釈だと捉えることができる。
しかし、工業化を推し進めるだけでは、人間は幸せになれなかった。
ラヴェルの期待を裏切るように、人は工業化の発展によって更なる殺戮兵器を製造し、そこで生み出された戦闘機や原子爆弾が多くの命を奪っていった。
今、私たちは機械音を聞いても幸福感は感じない。
それは、工業化するだけでは、人は幸せにはならないことを歴史的に知っているからだ。
ラヴェルはすでに人気作曲家だったにも関わらず、自ら志願し、第一次世界大戦に臨もうとした。
当時の規定に満たず、従軍することができなかったラヴェルは、それでもトラック輸送兵として前線に向かい、自国のために戦う意志を見せた。
それは何よりラヴェルがフランスを愛し、何より平和を愛する男だったからだと考える。
終戦後、作曲家として「ボレロ」を世に送ったのも、工業化が音楽を楽しむ平和な世の中を作ってくれると信じていたからだろう。
しかし、そんなラヴェルの願いも叶わず、ラヴェルの死の2年後、再び世界は大きな戦争に突入し、第一次世界大戦以上の戦闘機が戦線に注ぎ込まれ、甚大な被害をもたらした。
「ボレロ」を聴く私たちはラヴェルの幻想の世界を生きている
そんな愚かな戦争から80年。
「ボレロ」は映画となって、私たちにラヴェルが生きた時代の人たちが夢見た豊かな社会への心からの願いを思い起こさせる。
私たちはスマホひとつで、いつでも「ボレロ」の世界に没入することができる。
「ボレロ」が奏でるリズムを聴きながら目を閉じると、ラヴェルが思い描いた豊かな音楽で満たされた平和な世界が目に浮かぶ。
しかし、音楽を聴き終わって目を開いて見える現実の世界は、ラヴェルの時代よりもさらに高度に機械化された兵器による殺戮が、今なお世界のあちこちで起こり続けている。
理想的な未来は、いまだ「ボレロ」の中の世界だけの幻想でしかない。
愛と哀しみ
ラヴェルと5人の女たち。ハンサムなのにちょっと残念な奥手男の「ボレロ」作曲奮闘記。
マルグリット、マルグリットって、ずっと妹かなんかだと思って観てたら、途中でピアノ協奏曲ト長調の2楽章のソロを流暢に弾いてるシーンが出てきて、ああ、これあの曲の初演者で、サンソン・フランソワの師匠だった超大物ピアニストのマルグリット・ロン女史だったのか!!と今更ながら気づいた(笑)。
ごめん! この菅義偉かゲルギエフみたいな顔のおばちゃん(あき竹城っぽくもある)、なんでしょっちゅう訪ねてくるんだろうとかいぶかってて。たぶん登場したあたりの紹介シーンでうとうとしててきき逃したんでしょう……。
ラヴェルの後半生を描きつつ、名曲「ボレロ」の誕生秘話を紹介する音楽映画。
ずっと観よう観ようとは思いながら、観るタイミングを逸していたが、下北沢で再映していることに気づき、N響の第九を聴きに行く前に朝から鑑賞した。
ラヴェルが主人公と聞いて、また最近の映画によくある、やれ隠れゲイだったんじゃないかとか、児童性愛者だったんじゃないかとか、性的不能者だったんじゃないかとか、マザコンだったんじゃないかとか、そういう「生臭い」要素が多かったらホントに嫌だなあと思っていたのだが、そこまでラヴェルの性癖には立ち入らずにきれいにまとめてて、本当に良かった。一応、監督の解釈としてはヘテロだけど無性愛者(アセクシュアル)って設定なのかな?
とはいえ、ラヴェル本人が、あなたの伝記映画つくりましたよって本作のプレミアに呼ばれて、娼館で手袋の衣擦れの音を聴きながら白目剥いてふんふんトリップしてる自分の様子を見せられたら、それこそ「ボレロ」のバレエ初演の百倍くらい激昂したんじゃないかとは思うけどね(笑)。
もう死んじゃってるから、なんでもありですね。
超奥手で、潔癖症で、機械オタクで、鳥好きで、音フェチで、不器用だけど、特定の才能にあふれているタイプとか、今の日本でなら秋葉原界隈や鉄オタやバーダーあたりにいても一向におかしくない手合いだと思うし、こういうハンサムで優秀なのにチー牛くさいインテリは個人的に大好き。
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中学、高校のころから、ラヴェルはお気に入りの作曲家だった。
大学のときやっていた学生マジックのステージショーで、前述したラヴェルのピアノ協奏曲ト長調の第二楽章をBGMに使ったくらいに愛聴していた。
いまはもっぱら、マーラーとかブルックナーばかりを好んで聴くような暑苦しい初老のクラオタだが、高校生のころは本当にラヴェルが好きだった。
当時はお小遣いが月2000円だったので、月1枚CDを買って、残りの金額で100円の本格ミステリを古本屋のゾッキ本で買いあさるのが一番の娯楽だった。
ラヴェルについては、当時定番だった、エンジェル(EMI)のアンドレ・クリュイタンス指揮の管弦楽曲集と、サンソン・フランソワのピアノ曲集&協奏曲集、あとはBMGのシャルル・ミュンシュ指揮盤が愛聴盤だった。
今でも、アレクサンドル・タローのラヴェル・アルバムはよく聴くし、彼が来日したらなるべく演奏会にも足を運ぶようにしているが、サントラのリスト見てたら、今回のピアノの手の吹き替えってやっぱりタローちゃんだったのね!! しかも、何かとラヴェルに食って掛かる若い音楽批評家のラロの役まで演じていたといわれてびっくり。全く気付かなかった!!
口ひげとかまで付けて、めっちゃ演技してるじゃん! タローちゃんふつーにうまいし。
選曲とかにもかかわってるのかしらん?
あと、サントラには前述したフランソワとかクリュイタンスあたりのEMI音源をそのまんま使ってて、映画のなかで流れてた演奏の大半が、自分の持ってるCDから採ったものばっかりだったことを後から知る。まるで気づかない自分の耳の悪さにがっかり(笑)。
でも、演奏シーンの8割がたでは、ラヴェルを演じたラファエル・ペルソナ本人が5か月くらい特訓して実際に弾いているらしい。それはそれですごいな。
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「ボレロ」の曲自体には実はほとんど思い入れがないが(正直、ラヴェルなら他の曲のほうが好き)、作曲の経緯などはよく知らなかったので、とても興味深く観ることができた。
ああいう奥手の天才にとっては、イダ・ルビンシュタインみたいなド厚かましいクライアントが押せ押せで攻め寄せてきて、「無理やり書かせてくれる」シチュエーションが、作曲には必要だったんだろうなあ。
終盤に、自分は「何を書いてほしい」の繰り返しで曲を書いてきたけど、独自のものなんてない、自分は空っぽだ、みたいなセリフがあって、どきっとした。たしかに依頼や強制といった外圧がないと、なかなか仕事ってやる気にならないからね。結局、人に評価されるほどに「周りの期待に応える」形での仕事が増えてゆくことになる。
イダ役のジャンヌ・バリバールが『サンセット大通り』のグロリア・スワンソンみたいなクセの強い演技付けでやっていて、実に楽しそうだった。
あのダンスシーンは、リアルな当時の舞踏を再現しようという意識が高いのかな? 今の感覚からすると動きとかかなりダサいというか、古めかしい感じもしたけど。
「ボレロ」の楽曲の発想源として、工場の機械の規則正しい機動音や、お手伝いさんの歌う流行歌の「バレンシア」が挙げられていたり、そもそも17回の反復というアイディア自体が、編曲用に当てにしていた他人の楽曲の著作権が押さえられていてダメになり、切羽詰まってひねり出した苦し紛れの案だったことなど、いろいろ初めて知る話が多くて面白かった。
ラヴェルの周囲で鳴っているいろんな自然音や人工音、旅先で聴いたジャズやパリの街のシャンソン、それらすべてが「ボレロ」の作曲に悩む作曲家のなかにしみ込んで、「素材」となっていることを示す「音の演出」も巧みだった。
楽曲の使い方は、本当によく考えられていると思った。
たとえば、ふつうなら伸縮自在のテンポで煽り気味に演奏する指揮者の多い「ラ・ヴァルス」の自作自演で、オケにイン・テンポ(一定のテンポ)を維持して最後まで押し切るよう明快に指示していて、へえと思った。そのほうが官能的だみたいなこと言ってなかったっけ?
これは、中盤の「ボレロ」の話で、同じ旋律を同じテンポで17回繰り返す試みの、明らかな前振りになっている。
あと、「マ・メール・ロア」のピアノ連弾版(10歳くらいの子供たちのために作った曲なので簡単なつくりになっている)の「眠れる森の美女」を最初のほうのパーティーでミシアと連弾させて(ミシアの旦那にめちゃくちゃディスられるあのシーンの曲)、そのあと管弦楽編曲版の「マ・メール・ロア」を全体のテーマ曲のように使うやり方もうまい。
「逝ける王女のためのパヴァーヌ」「道化師の朝の歌」(いずれもピアノ版)、「グロテスクなセレナード」、「夜のガスパール」の「絞首台」、ピアノ協奏曲ト長調(両手で弾くほう)、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲、「ラ・ヴァルス」などをちりばめつつ、有名な「スペイン狂詩曲」や「ダフニスとクロエ」あたりは使用しないという、こだわりのきいた楽曲採用になっているのも気になるところ。
とくに、オペラ「子供と魔法」と「左手のためのピアノ協奏曲」は、作中でわざわざラヴェルの口から楽曲について言及があるのに、なぜかなかでは流れない。
このへん、どういう意図で誰の意向が働いた選曲なのか、若干興味がある。
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全体としては、落ち着いたフランス映画らしいつくり。
とにかくモーリス・ラヴェル役のラファエル・ペルソナを「綺麗に」撮っていて、それだけで作品は成功している気がする。カメラワークは流麗で、とくに海辺の別荘に作曲のためにおこもりに行くシーンで、建物の前を走る坂を下から仰ぎ見るショットにつなげて、背後の海側を鳥瞰で撮るショットには、たいへん感心した。
一方、淡々としたつくりなので、多少眠たくなる部分もある。
話の時系列がかなりわかりにくいのも、好き嫌いの分かれるところだろう。わざと回想シーンをあちこちシームレスに挟みこんで、単調な展開にならないよう調子をつけているのだが、そのせいで、漫然と観ていると結局いつラヴェルが戦地に行って、その後母親が亡くなったのかがよくわからなくなる。Wikiによれば、
1915年 兵役に就く
1917年 母親逝去、スランプに
1920年 「ラ・ヴァルス」作曲
1928年 アメリカ演奏旅行大成功、同年「ボレロ」作曲
1930年 左手のためのピアノ協奏曲作曲
1931年 ピアノ協奏曲ト長調作曲
1932年 失語症悪化、引退
1937年 脳手術後、予後悪く逝去
ということなので、かなり話の順番がシャッフルされている。
あと、マルグリットがマルグリット・ロンだとわかりにくいのと同様、ラヴェルのミューズとして全編にわたって登場するミシア・セールの扱いも、ちょっとわかりにくい気がする。
なんで人妻でありながら、四六時中ラヴェルの家を訪れてはイチャコラしてるのか根拠がよくわからないのだが、ミシアはそもそもガブリエル・フォーレの弟子で、リストもほめたたえたバリバリの技量をもつ「ピアニスト」としてラヴェルと交流し、さらには、ラヴェルを常に支援しつづけたシパの「実の姉」という立場でラヴェルと付き合っていたのである。
このあたり、もう少しドラマのなかでわかりやすく整理してくれてもいいのにな、とは思った。
なお、ミシアは文学者・画家・音楽家のパトロンとして、パリの芸術サロンの中核にいた超有名人であり、ルノワールやロートレック、ボナールあたりもこぞって絵にしているような「みんなの女神」だった。映画に出てくる嫌味な旦那さんは、彼女の三人目の夫で、スペイン人の画家である。この旦那の愛人とも性的関係を結び、三人で生活していたこともあるというエピソードがWikiに載っていた。ココ・シャネルが唯一心をひらいた親友でもあるという。なかなかに興味深い人物だ。
なんにせよ、ミシアとラヴェルのプラトニックな関係は、観ていて興味深い。
むしろ、ミシアのほうが積極的にラヴェルを誘惑するのだが、ラヴェルが乗ってこないとあえて深追いはしない。結局つかず離れず、長い年月にわたって、ふたりには友人以上恋人未満の関係が持続していたように、作中では描かれている。
ふたりのやりとりは、つねにほのめかしと機知にとんだもので、聞いていていかにもフランス知識人階級の香りがして楽しい。
一見気づきにくいが、映画のつくりとしては、超奥手男のモーリス・ラヴェルと、それを取り巻く5人の女たち――イダ・ルビンシュタイン、ミシア・セール、マルグリット・ロン、お手伝いさん、娼館のお気に入り――のやりとりを描く、ちょっとラノベかギャルゲーみたいな構造になっている(あとは死んだお母さんも)。モテモテなんだけど、絶対手は出さないよ! みたいな(笑)。
通例こういう映画では、カサノヴァみたいな男が何股もかけて罰を受ける『黒い十人の女』とか『女の都』みたいな展開になりがちなのだが、本作の場合は逆に、徹底的に受け身で「手を出さない」安心君が、何かとかいがいしく世話を焼いてくれる女性たちに助けられてなんとかがんばれるという、謎のハーレム状態が維持されている。
似ても似つかない話ではあるが、ちょっと『ダンまち』のベル・クラネルを彷彿させる設定。
女性監督がこれを撮っていることを考えると、こういう性的には無味無臭だけど気障なセリフはいえて、でも母性本能をくすぐるような繊細さを併せ持つ細面の美男子こそが、一番主人公としてはモテるんですよって女性目線でいわれているようで、妙な感じがします(笑)。
ちなみに世間ではラファエル・ペルソナは「アラン・ドロンの再来」と呼ばれているらしい。たしかにクールな美貌の持ち主で、アメリカにはいないタイプ。ぜひ今後とも活躍してほしいところだ。
ラヴェルの鼓動
遠い日の僕の思い出。
あれは冬の夜だったけれど、
ポケットに手を入れて、
夜ふけの、道路工事を傍らで立って見ていたら
あの「アスファルトを砕く削岩機の音」の中からひとつの音楽が聴こえてきたので・・
僕はあの「リズム」につられて 誘われるままに ふらりと西国行きのブルトレに乗ったのでした。
すべてが嫌になり、生きることの限界に耐えられず、学生寮を出て夜道をさまよっていた時です。
機械の発する無機質、かつどこまでも単調な騒音から新しい拍動が。
そう、誰も知らなかったリズムとメロディーが生まれる瞬間。
若き日の家出少年?の思い出です。
・・・・・・・・・・・・
モーリス・ラヴェルの「ボレロ」の本領は
「ステージ上の演奏はあくまでも冷静なのに」
「客席はアクメのパニックになる」という=作曲者も意図しなかった反応。二律背反の現象です。
《リズムの反復が生むこのトランス状態》は
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のセルマや
「モダンタイムス」のチャップリンも、発端は同じでした。
そのアイデア斬新にして、奔放な、この世紀の傑作「ボレロ」が、
①実は頑なにメトロノームを見つめ、ひとつのリズムマシーンの“タガ"に自らを終始縛り付けた代物だったのであり、
②遊びや脱線を恐れる自らへの防御作品でもあり、
③時計と規則大好き、
という四角四面な構造であること。
その事が、
モーリス・ラヴェル自身のガードの固い精神とクソ神経質な生き様を、実はよく表している。
⇔ かたや観衆の側に沸き起こる熱狂とアドレナリンの爆発は
作曲者の預かり知らぬところだ ー
という この主客の「ズレ」がたいへんに面白いのです。
長すぎず、短すぎることもなく、
1分間の主題フレーズを17回。
聴衆は結末を当然知っていつつも、何度でもこの管弦楽の渦を、我が身に求めたくなる。興奮の昂まりに身を委ねて、もみくちゃにされたくなる。
結果を知っていても“中毒”のように惹き込まれてしまう。これは古典落語のオチに酔いしれる「名演」と同じですね。
太鼓の拍動や手拍子は、人間の原始の記憶の想起。
あるいは原生動物時代のクラゲやクリオネに始まる赤い心臓の点滅。
野生に戻り、自分の鼓動を感じること。
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作曲家の伝記物語として、その中でも「ボレロ」という一曲に集中して作られたコアな作品でした。
モーリス・ラヴェルが、スランプに苦しみながらも委嘱に応えなければならない、締め切り前の七転八倒の姿です。
機械工場、
無機質な繰り返し、
5回も繰り返して落選したコンクール、
半音を撤廃し四つの音を基本に、
20分では長いから15分にしようかとおもったが 間を取って17分、
アメリカで聴いたJAZZのテナー・サックスのあの気だるいフレーズ、
気分転換に歩く浜辺の、波の寄せ引き、
家政婦が愛唱するスペインの歌謡曲「ヴァレンシア」の、独特のダンスリズム、
娼館での赤いサテンの手袋のフェティシズム、
ラヴェル自身は一貫して女の前でも服を脱ぐこと、裸になることから逃げている。
しかし、
最後は火山の噴火で終息に。
こういう劇中に去来し 交わされる「キーワード」の積み重ねが、鑑賞する我々にも、波のように繰り返し繰り返し 提示されていて
「我々の知るあのボレロ」の完成に向けての「プロセス」を共に感じることが出来るのです。
そこがこの映画を退屈させない実に上手い作りですね。
つまり、誰もが答えを知っている有名な楽曲であるからこそ、観ている側がそのヒントを拾いながら壮絶なコーダを迎えられるように出来ている。
(逆に言えば「ボレロ」を知らない人間はこの映画の作りの面白さが分からずに全然乗ってこれないということになりますね) 。
それにしても、
無から有を呼び起こす作曲家たちこの産みの苦しみの、なんと辛いことよ!
曲の完成を待ちわびる何人もの女たち=
モーリスの母親、
ロシア人舞踏家のイダ、
モーリスを愛するサポーターのミシャ、
いつも靴の忘れ物を届けてくれる陽気な家政婦のルヴロさん、
そして影にひなたにモーリスの面倒をみたマルグリード。
・・この全員が、ボレロの完成を諦めずに待った訳です。
モーリスの弱さと脆さが、女性たちの母性本能と愛玩行動を引きだすのかも知れません。みんな年上タイプ。
監督も女性=アンヌ・フォンテーヌでした。
こうしてたくさんの女性が登場しますが、全員が独特の風貌と身長と性格でキャスティングされているため、混乱は皆無です。お見事。
絶体絶命で、口からでまかせで、半ば破れかぶれで生まれた「名曲の誕生秘話」。
ひょうたんから駒でした。
・・・・・・・・・・・・
ラストは
本人の指揮風景で終わります。
若年性認知症なのでしょうか?
燃え尽き症候群なのでしょうか?
脳腫瘍の手術あとにも見えます。
頭真っ白の状態になっての、ハレーショ゙ンのモノクロ映像です。
娼館での性行為を思わせる熱情のリズムは、まんまベッドシーン。
イダが評した通りの、ラヴェルの音楽の「官能」「陶酔」「エロチシズム」の極致でした。
誰にも気付かれずに微かな小太鼓で「抑制的」に「理知的」に開始され、繰り返す拍動。
重ねられ、徐々にクレッシェンドされ、昂まる緊張と興奮。
そしてつまりラストは頭真っ白で、怒涛のオルガスムス。
まさしく!フランス人はラテン民族だったのでした。
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【 おまけ情報 ①②】
①5人のダンサーによる「ボレロ」の見比べ動画と解説
[ バレエ「ボレロ」はダンサーによって全く違う作品に!?|NOAバレエスクール ]
◆シルヴィ・ギエム、
◆上野水香、
◆マヤ・プリセツカヤ、
◆首藤康之、
◆ジョルジュ・ドン
②「ボレロ」の演奏会形式録音の変り種としては
楽団員たちが、練習演奏で、フィナーレで叫んだ録音ですね。指揮者をびっくりさせて。
結局面白いからと、そのままでCD発売に相なったというお遊びの一枚でもあります。
⇒クラウディオ・アバドのボレロで動画検索して下さい。
( ※ コメント欄 )
今年一番
私的には
最近見た映画の中で
というより
今年見た映画の中で
一番でした
(なんでだろ?)
ボレロは知ってる程度で
特に好きというわけではないのですが
冒頭の
ボレロのいろいろバージョンの演奏から
心を掴まれてしまいました
工場で
楽譜を渡すシーンから
ボレロの
あの耳に残るリズムも
近代への賛歌だったのだと
腑におちて
ボレロに妙に親近感を感じました
ラヴェルは
嫌な人ではないけれど
繊細で
常人ではないところのある人だなと思いました。
ラヴェルがどんな人で
どのようにしてボレロを作ったか
ボレロが現代でも
いかに人々に愛される曲なのか
ボレロ賛歌を
描きたかった作品かなと思います
私的には
イダの官能的な踊りよりも
エンドの男性の
躍動感あふれる踊りの方が
ボレロに
しっくりきて
そうこれこれ
と思って終われました
ラヴェルの美しさは堪能
ラヴェルの音楽好きなので観賞。
ラヴェル役の俳優の憂いに満ちた美しい顔は実に目の保養。
ボレロが生まれるまでの過程を覗くことができて面白かったのだが
思ったほどボレロボレロしておらず。
最後、ラヴェルが手術に向かう場面、結果的にそれがが原因で亡くなったようなものだが、
少々説明不足だったのでは。よく分からなかった。
その後エンディングの折角のボレロ演奏のシーンもなんだか唐突で浮いていていまいちだった。
誰でも知っている、モーリス・ラベルのバレエ曲について。 作る際の苦...
15分毎に世界の何処かで
フランス南西部、スペイン国境近くのシブールで生まれた作曲家モーリス・ラヴェルを、端正な顔立ちのラファエル・ペルソナが演じる。
ラヴェルの理解者の1人、人妻ミシア( ドリア・ティリエ )とのプラトニックな関係も描かれる。
ピアニストのマルグリットをエマニュエル・ドゥヴォスが演じる。
ダンサーのイダ( ジャンヌ・バリバール )が、ステージで情熱的に踊るシーンが印象深い。
印象的なリズムを刻む名曲「 ボレロ 」を作曲したラヴェルの、詩人のように繊細な心の揺れが何処か切ない。
ラファエル・ペルソナの憂のある整った顔立ちが、尚更そう感じさせたのかも知れない。
映画館での鑑賞
ボレロ
ベジャール振り付けボレロに魅せられた一人です。
ラヴェルの曲は水の戯れやパヴァーヌなどピアノで演奏したこともあり、作曲家としても深掘りしたい特別な存在。その一生も知りたかったけど、本作は完全ボレロストーリー。
あの名曲誕生の裏に、そこまでの苦悩があったとは。
完全にバレエ曲の依頼として誕生したことも、限られたコードや繰り返しがその場しのぎのアイデアだったことも、1分x17回といった構造も知らなかった。
そして工場の機械的で無機質な繰り返し音、力強い男性的なイメージで作ったのにエロティックにバレエで表現されて憤怒したことも。
私が見たベジャールは男性ダンサーズだったので、確かに印象は少し違ったけど、それに近いラスト妄想の力強い男性の踊りより、劇中舞台の女性の官能的な踊りの方がなんか心にささって、感動した。新しい解釈だったからか?あの曲のラストの絶頂はいつもうるっとくる。
映画としては淡々と、眠気を誘う感じ。でも当時のフランスの暮らしや風景、ラヴェルの落ち着いていながらもどこか狂気に誘われそうな闇にゾクッとくるところ、好きでした。
それにしてもこの曲のドラム叩く人、大変そう。。
大島優子じゃないが、
“頭の中ガンガン鳴ってる”のはボレロしかないですね。オープニングと本編エンドはこれしかない!
展開が大分タルいのはラヴェルの伝記だったので仕方ないか。時系列もよく飛んでちょっとつらい。
ネコが居た! カナリヤも。別荘のロケーションが絶景。
ラファエル・ペルソナが魅力的でうっとり
「ボレロ」は、ポピュラー音楽繁栄のきっかけになった。
モーリス・ラヴェルが作曲し誰もが耳にしたことのある名曲「ボレロ」が、どのようにできたのか解き明かす作品。
「レ・ザネ・フォル(狂乱の時代)」と呼ばれるパリが世界文化の中心であった1928年。
ボレロと言えば、スネアドラム(小太鼓)によって全編を貫くリズムと、繰り返し出てくる二つのメロディーが注目されるが、一番最初、ppで小太鼓のリズムを強調するようにでてくるのが、ビオラとチェロによる3拍子のスタッカート。これには、自然界の音の影響がある。雨粒の音、風を切る音など、映画で出てくる音が、だんだん、あの最初のスタッカートに近づいてゆくように感じられた。
小太鼓のリズムには、その2年前にヨーロッパで流行った「ヴァレンシア」を家政婦のルヴロ夫人と二人で歌った映画の場面がそのまま反映する。ラヴェルは、やがて指先で、あのリズムを刻むようになる。
様々な楽器のソロあるいは組み合わせにより、交互に繰り返される二つのメロディーには、ラヴェルがまだ小さい頃、バスク出身の母親が歌ってくれた子守唄が反映しているのだろう。ラヴェルには、よく似たメロディーを持つ「逝き王女のためのパヴァーヌ」や「ピアノ協奏曲」の第2楽章などがあり、映画の中で出てくる。
ボレロで旋律が延々と繰り返されることは、映画の冒頭で出てくる工場のオートメーションの影響に違いない。しかし、スイス出身の彼の父親が工場の技師であったことが関係する。彼がオートメーションの影響を認めつつも、「でもこれではない」と言うが、彼が思い出していたのは父親の工場のことだろう。ラヴェルが、きっと飽くことなく眺めていた。
そうなのだ!このボレロには、彼の生い立ちや、どのような経験を積んできたのか、それから出会った女性たちが、背景として大きく関わっている。そこで、この映画でも、音楽と女性を中心として、彼の生涯が語られることになる。
彼は、きっと一生、母親といたかったのだろう。ラヴェルは、保守的なアカデミーばかりでなく、ピアニストであるアレクサンドル・タローが扮したピエール・ラロのような先鋭的な批評家たちからも、ドビュシーとの違いを指摘されている。その時、心の拠り所は、母親だけだったと思う。母親を喪った後、ルヴロ夫人や、同志でもあったピアニスト、マルグリット・ロンはその代わりかも。
「ボレロ」の後、ラヴェルはジャズの影響の強い、二つのピアノ協奏曲を作曲するが、それには、「ボレロ」を作曲する直前に行った(映画に出てきた)アメリカへの演奏旅行が強く関係しているのだろう。ガーシュインから慕われたことで明らかなように。ラヴェルは、きっとクラシック音楽とジャズを含むポピュラー音楽の間に橋を架け、その繁栄を招いたのだと思う。そのきっかけの一つが「ボレロ」であったに相違ない。
ラヴェル=めんどくさいヤツ
ラヴェルはめんどくさいヤツだなぁ〜というのが作品全体を通して感じた所感です。
性癖が独特ですし、芸術家というのは一筋縄じゃないと言いますか
単純ではないですね。
劇中ラヴェルがジャズを単純ではないと言っていますが、
まさにラヴェルも単純ではない人物ですよね。
正直、観る前は途中で寝ちゃうんじゃないかと危惧していたんです。
しかもレイトショーを選択しちゃったんで、意識が何回か飛ぶなぁと思っていたら
全然そんなことはなくて、私はグイグイ物語に引き込まれましたね。
ただ、登場人物はわかりづらかったです。
ミシア、イダ、マルグリットなど、関係性がわかりづらかったですね。
お母さんがラヴェルにとって大きな存在というのはとてもわかりやすかったです。
ボレロがラヴェルを侵食していく・・・というのは、わかる気がします。
現代においても、ミュージシャンのヒット曲がそのミュージシャンの代名詞になることは
多々あろうかと思いますし、であるがゆえ、一般的にはその代表曲で認知されてしまうという
ジレンマを抱えると思うんですよね。
その最たるものがラヴェルのボレロであったのだろうと思います。
本作、実に音楽が豊潤でそれだけでも楽しめるというか没頭できるのですが、
特に冒頭のボレロを様々なアレンジで聴けるというのが、至福の時間でした。
ラヴェル、モテるんだけど、奥手にもほどがあるんですよねー。
実際そうだったんでしょうかね。
見ていてイライラしましたね(笑)
ラストのボレロの指揮シーンは素晴らしかったですね。
動きがめちゃめちゃかっこいいです。絵になります。
ファイナルカットも秀逸でした。
全然期待していなかったけれど、面白かったです。
帰宅してボレロを聴きました♪
曲とダンスで一対
映画館に着いたら目当ての映画は上映なく、この映画が入っていました。
違う週のタイムテーブルをみていたらしい。。でもせっかくなので、コレを観ました。
ラベルはモテる男だったんですね、まあ二枚目で芸術家にしてはそこそこ常識的、暴君でも暴力的でも目立った奇行があるわけでもなく(あくまでも映画では)円熟した女性に好まれるタイプだと思いました。
スランプからのボレロを生み出すまでの苦悩と、生んだあとの苦悩がたっぷり描かれて長かったです。
「ボレロ」は機械の音や、流行歌を取り入れたものだったのか。
モーリスの新曲を酷評した批評家が、「君の音楽には情感がない(それがプッチーニとの違い)」と言っていたが、ボレロはそれを逆手に取ったような楽曲だと思う。同じテンポで粛々と曲が流れる。同じテンポの同じ曲が繰り返され後半に向かって盛り上がり最後に大爆発するのにゾクゾクする。無機質なのになぜかエロい。無機質はおそらく意識したんでしょうが、エロいのは作曲した御本人は気づいてなかったんですね。
自分、音楽に(バレエにも)詳しくないのでシロウトが感じた思った、というだけのことですが。
ダンス用に作曲されたものなので、ダンスと一対になったところで本領を発揮するのだと痛感した。イダのダンスの振付師は曲のエロいところだけ汲み取ったよう、あれは下品すぎる。優雅さよりキレの良さが曲に合う気がするが、動作が緩くて歯がゆい。苦しんで生み出したモーリスにすれば曲への冒涜以外のなにものでもないだろうし、演奏自体も彼の意図するものと違っている、それなのに大ヒットとは作曲家としては複雑な思い、というかやりきれないと思う。モーリスのその後は、自分が生んだ「ボレロ」に食われてしまったよう。
私の「ボレロ」は、「愛と悲しみのボレロ」でジョルジュ・ドンが踊っていたモーリス・ベジャール振り付けの、力強く気高く、肉体の美しさを最大に引き出し見せたダンスとの一対。感動しました。胸が一杯だったです。
ラストの10分、オーケストラが奏でるボレロと、その中を、力強くキレよく、躍動と肉体の美しさを極めて見せる男性ダンサーの姿を堪能できて満足しました。指揮する彼自身の脳内モーリスも満足げに見えた。
マルグリットの顔があき竹城に似ていると思っていたら、前田敦子にも似ているようで、そうすると、あき竹城と前田敦子は似ているってことかと、彼女の顔がアップになるたびに検証を試み、まじまじ見つめてしまいました。
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