十一人の賊軍のレビュー・感想・評価
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だんだんと映画になっていく
どんな映画とも知らずに飛び込んでみました。タイトルの「十一人の賊軍」を見れば、「七人の侍」「十三人の刺客」等々、個性的な少人数で大群と戦う、伝統の映画であることは明白なのですが、それを感じさせないほど、最初はどうなるのか、さっぱり判らなかった。
妻を手込めにされ、残された家紋から逆恨みの人情に及び、そこからいつ断罪に処されてもおかしくない変転振りで、主役に明日があるなんてまったく感じない。そこから十人の似たような罪人が集まり、無茶振りを言い付けられるあたりから、ああ、成る程。遂に「映画」に至ったかと得心がいきました。
他のなんとかの「侍」や「刺客」に比べ、なんと危うい戦いであることか。武士だというのに礼儀も誇りもへったくれも無い。ワザとでしょうか。後ろから斬りかかるアクションを何回みせられたことか。幕末・倒幕の時代で武士道など末期の時代、銃の集中砲火は当たり前だからそういうものなんだろうけど、かえって戦いのリアリズムが凄まじい。
どんどん犠牲者が増えていき、生き残りも仲間割れすれば、まず斬る撃つの脅しのない本気の喧嘩。何度も例に挙げますが、「侍」「刺客」からずいぶんと荒々しさ・リアリズムに磨きがかかっているように思う。ああ、もっと例えるなら、スピルバーグの「プライベート・ライアン」を忘れてはいけなかった。あれのリアリズムも凄かったけど、かくも映画監督はリアリズムを追い求めなければならないのか。
その戦い振りは、斬り合いのアクションから作戦の立て方、「焙烙玉?」といった爆薬のアイテムまで面白さ満載でした。賊軍の戦い振りに加えて、阿部サダヲさんの演ずる家老?の策術権謀も良いですね。斬り合うと見せて拳銃でケリを付けるあたり。そうです。あなたのキャラはそれで良いんです。卑怯で結構。そういう役だから。
舞台の隅から隅まで変転する情勢。勧善懲悪などと型にはまった対立関係では収まらず、結果の読めない展開にワクワクが収まらない。
物語の終焉、先にも挙げましたが、後ろから斬りかかるような斬り合いだったからこそ、槍の使い手の老人剣士の誇り高き武士の振るまいが素晴らしい。ざんぎり頭の官軍将校にちゃんと名乗りを上げるあたり、武士としての思いの丈を込めて戦いに死ぬつもりだったのでしょう。そして賊軍の十一人目を最後に名乗った剣士に、この映画での数少ない誠意ある姿を見た気がする。指一本を立てる独特の構え、前半で敷いた伏線だったのですね。
そして生き残るべき人はちゃんと生き残り、幸せになる人はちゃんと幸せに。なんか「弟君」が生き残ったのに「CUBE」に通じるものがあるなあ。これも映画の伝統なんでしょうか。
それと比べて、策術権謀の御家老と言えば、大切な物を失われたまま生きていかなければならない。生きてさえいれば人は幸せなのでしょうか。ちょっと考えさせられるところ。
他にもそれぞれの個性に生きて、そして散っていった、ちゃんと「侍」「刺客」「ライアン」に通じる伝統ある娯楽映画だったと思います。
迫力の「爆発」活劇で実感する仲野太賀の凄み
シビアなストーリーと爆発シーンの迫力、そして仲野太賀最高。たまたまドルビーシネマで観たがそれが大正解。そう思えるような、まさに活劇だった。
舞台は戊辰戦争さなかの新発田藩。城に押しかけた旧幕府軍の滞在中、彼らと鉢合わせしないよう砦で新政府軍を足止めする任務に駆り出された10人の罪人と数名の武士たち。歴史的にはダイナミックなシチュエーションだが、物語はこの砦を軸とした3日間の出来事というコンパクトな設定だ。
新政府軍も旧幕府軍も、あまりよい印象の描き方はされない。大きな対立軸の上での勝つ側の正義も、負ける側の悲哀も本作にはない。そこにあるのは、社会的ヒエラルキー上位の人間たちの思惑に命ごとひたすら翻弄され、それでも無罪放免を勝ち得るため、生きるために闘う賊軍たちの姿だ。
特に山田孝之の演じた政は、聾者の妻のもとに帰るために砦から逃亡してでも生き延びようとする(ただこれは、後でなつに指摘されたように独りよがりな判断ではあるのだが)。そんな彼が賊軍での共闘を経て、最後には一度放免されたのに、兵士郎を救うため砦に戻る。その心情の変化が、古典的な展開ではあるが心を打つ。
そんな政と対照的に描かれるのが、藩への誠を尽くそうとする兵士郎だ。任務を共にした入江たちと違い、溝口がはなから賊軍を放免にする気がないと知らされないまま、彼らと行動を共にする。そして溝口の真意を知り彼と対峙した時、11人目の賊軍になった。
仲野太賀はいわゆる二枚目に分類される俳優ではない(と私は思っていた)が、兵士郎になった彼は本当にかっこいい。まっすぐな人間である兵士郎としてのかっこよさはもちろん、俳優としても発声や滑舌、表情、殺陣などどこを取っても素晴らしく、あの適材適所のキャストたちの中で一際輝いていた。終盤のタイトル回収シーンでは鳥肌が立った。
(映画.comの作品紹介文では「11人の罪人たちが〜」と書かれていますが、違うんです罪人は10人なんです、罪人でない兵士郎が最後に賊軍を名乗って11人になるからアツいんです、ネタバレを避けたのかもしれないけどそこ大事)
彼ら賊軍のドラマを際立たせるのが、溝口という人間だ。
彼には家老として藩を守るために現実的な選択をするという彼なりの正義があるのだが、罪人たちには当然のように嘘の約束をするし、旧幕府軍を殿様に御目通りさせないために多数の民を切り捨てるなど、そのやり方はエグい。
しかし一方で彼は、一人娘を思う父親であり、殿様の扱いに苦労する管理職でもある。そんな、身近に感じる側面を持った人間が、一見理があるようにも思える信念のもとに顔色ひとつ変えず領民を殺し、刀で向かってくる兵士郎を銃殺する酷薄さを見せるから怖いのだ。
溝口は、阿部サダヲが演じるそんな多面性への、白石監督の信頼が伝わってくる役柄だった。薄寒い怖さを見せつけた後で、切腹し損ねる場面はちょっとコミカル。これぞ阿部サダヲ、という感じだ。
その他のキャストも、それぞれについて書けば切りがないほどよかった。
なつ役の鞘師里保のかっこよさにびっくり。ノロの佐久本宝、朝ドラ「エール」裕一の闇堕ちした弟! 印象変わりすぎ、俳優はすごい。爺っつぁんの本山力はすごい殺陣だと思ったら、東映剣会所属の方ということで納得。「侍タイムスリッパー」「碁盤斬り」「せかいのおきく」「仕掛人 藤枝梅安」などに出演歴あり。彼の殺陣で作品の雰囲気がかなり締まった。
松尾諭や駿河太郎、浅香航大など脇も贅沢。白石作品常連の音尾琢真を見つけた時の謎の安心感。玉木宏が演じたのは教科書的には山縣有朋だが、この頃は吉田松陰の「諸君、狂いたまえ」という教えに影響されて狂介と名乗っていたそうだ。ちょっと厨二……傾(かぶ)いてる感じでかっこいい。
演出面では、迫力の爆破シーンに圧倒された。映画館で見るべき臨場感ある音響。
官軍への痛快な一撃、仲間の劇的な死など、手に汗握るダイナミックな展開。犯罪者集団とはいえ、官軍の「投降すれば官軍に入れてやる」という言葉をあっさり信じてしまう素直さが悲しい。
溝口の不誠実さに怒った兵士郎は死に物狂いで数十人を斬り倒し彼と対峙するが、溝口は拳銃で勝負をつける。彼の冷酷さだけでなく、刀に刀で応える武士の倫理が重んじられる時代の終わりを象徴するようだ。
不誠実さの報いを娘の死という最もつらい形で受ける溝口だが、領民(ころりの病人以外)を守ったという事実は残った。ただしその平安の下には、無数の骸が転がっている。
ケレン味たっぷりのエンターテインメント活劇の骨格部分にある、ヒエラルキー上位のものに下位の人間の人生や命が翻弄され、足場にされる社会の構造。切羽詰まった状況でむきだしになる人間性。そこにはリアリティと普遍性がある。それが物語の深みを生み、私たちは賊軍に魅了されるのだ。
余談
白石監督のネトフリドラマ「極悪女王」で主役のダンプ松本を演じたゆりやんの演技は予想以上に(失礼)よかった。監督が本作で彼女をチラ見せしたかった気持ちもわかる。
おもしろかった。
けど中身は無かった。
役者も時間も、名作と云われる映画のための全てが揃っているのに役者さんが演じる役に個性がない。
魅力的な役者11人の無駄遣い。
湧き出す油について。仮に揮発性が高かったとしても密閉されてなかったら引火はしても爆発することはない。
星2.5かな?
慶応4(1868)年。 鳥羽・伏見の戦いからはじまった戊辰戦争。 ...
慶応4(1868)年。
鳥羽・伏見の戦いからはじまった戊辰戦争。
薩摩・長州を中心とした新政府軍と旧幕府軍は越後の地へと進んでいた。
奥羽越列藩同盟の中心・長岡は、日和見の新発田に「同盟に加わり、挙兵せねば攻め入る」と最後通牒を突きつけた。
新発田の家老・溝口(阿部サダヲ)は、同盟軍去りし後、無血開城して新政府軍に加わる謀略を立てた。
しかし、新発田の城内には旧幕府軍がい、このままでは到着する新政府軍と鉢合わせし、城下で戦乱は必至。
郷境の砦で新政府軍を足止めするしかないが、新発田の旗印で新政府軍と戦うわけにはいかない。
そこで、砦の守備は新発田の反乱分子・鷲尾(仲野太賀)を筆頭にして、部下に武家殺しの政(山田孝之)など十人の罪人を充てることにした・・・
といったところからはじまる物語。
笠原和夫による60年前のプロットに基づいて『孤狼の血』チームが映画化したわけだが、同チームは『孤狼の血』で東映ヤクザ映画を再構築・再生させ、今回は集団抗争時代劇を再構築・再生を試みた。
笠原和夫自身が書いた脚本は、当時の東映京都撮影所所長・岡田茂によって却下されたため、残っていない。
そのため、どこまでの精神が残っているかは不明だが、精神的な部分はかなり残されていると思料する。
真の主役は、謀略を尽くす新発田の家老・溝口だが、その謀略は新潟湊を中心にした民草を守るためであり、戦争回避である。
戦争回避のために、砦での戦いという小規模抗争の謀略絵図を引く。
このあたりは、かなりの恐ろしさなのだが、笑わない目をした阿部サダヲが演じることでリアリティを得た。
見かけ上の主役は、十人の罪人たちを率いる政なのだが、彼は彼で、新発田の武士に妻を手籠めにされた遺恨から新発田に手を貸す気など毛頭なく、生き延びて、妻のもとに帰ることだけを考えている(妻は耳が聞こえないというハンデを背負っており、民のなかでも一段下の立場だ)。
結果、戦闘がはじまると現場から逃げ出そう逃げ出そうとする。
いわば、「卑怯者」なのだ。
この「くにのため」ではない、自分自身のための逃げ回る行動がリアリティを生んでいる。
とにかく、政演じる山田孝之の逃げ足が速い。
そして、もうひとりは鷲尾だが、彼は「くにのため」と思って行動するが、結果的には、くにに裏切られてしまう。
矜持だけでは生きていけない。
ここにもリアリティがある。
この三者三様は、現代的なリアリティなのかもしれないが、60年の時を経ての再構築・再生なので、成功といえるでしょう。
アクションについての詳細は割愛するが、いやぁ、これも凄いです。
アクションファンにも楽しめると思います。
仲野大賀さん
戊辰戦争で新政府と奥羽越列藩同盟
の間で揺れ動く新発田藩を舞台とした作品。
官軍の進撃を止める為に11人の罪人が
集められ、生き残れば無罪放免に。
爆発シーン、刀や弓、鉄砲など
迫力満載。
仲野大賀さんが狂気過ぎて良かった。
剣術も素晴らしい。
人間模様に渦巻く怪しい悪者集団が団結して
自由と夢をかけた死闘。
面白い映画でした。
潔さは正義なのか?
権力者の利の為に正直者が死んだり損する展開は時代劇あるある。「十三人の刺客」の様に復讐が果たされれば痛快だが、「樅ノ木は残った」の様な不条理な終劇こそトラウマとして記憶に残る。本作も泥臭い殺陣に痛快さは無くはないが、入り組んだ状況設定が象徴する正義なき闘いと結末はやはりトラウマものでした。
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1. 正義なき闘い
主人公・政(山田孝之)の武士殺しは、罪は免れぬとも妻を手籠めにされた事情を慮ると切ない。ただ砦を護れれば無罪放免にするが、抜け駆けしたら皆殺しすると言われても、逃走や寝返りを試みる主人公に正義は感じにくい。新発田藩もそもそも新政府軍に寝返るつもりなので、砦の防衛も形だけで、藩ではなく列藩同盟の旗を掲げさせている時点で、最初から罪人は口止めに殺すつもり。最初に出食わした新政府軍も伝令にすぎず闘うつもりはなかったのだから、主人公が逃走しようとしていなかったら、お互い門の前で無防備に殺し合う必要はなかった。
ただ、新政府軍が大砲を持ち込んだ時点で橋の有無も関係なくなり、発破(花火?)と油田での抵抗で殺し合いはより派手に。爺っつぁん(本山力)の殺陣に醍醐味はあるが、新発田藩も新政府軍も上の方は闘うつもりが無いと分かっているど、何で殺し合いされているのか虚しい。
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2. 不条理過ぎる結末、
そして賊軍が砦を護り切った頃、新発田藩は新政府軍に平伏す。ただ決死隊が新発田藩だと主人公がバラしてしまったので、新政府軍に説明を求められ、新発田藩は自ら派遣した決死隊の首を差し出さざる得なくなる。家老の溝口(阿部サダヲ)は、罪人は最初から殺すつもりでも、部下の藩士は口止めで済ませたかもしれない。しかし、砦の防衛に死闘を繰り広げた罪人に仲間意識が芽生えていた鷲尾(仲野太賀)は、義憤に駆られ老中率いる静粛隊に斬りつける。多勢に善戦するも1人はやはり無勢、家老の銃弾も受け無惨に死ぬ。主人公も最期は逃げずにノロ( 佐久本宝)も逃がすが、発破の準備に手間取り、藩士を道連れに爆死。
主人公は罪人であるばかりか、決死隊を新政府軍に鉢合わせさせたり、新発田藩から派遣された事もバラした事から、無惨な爆死は自業自得かもしれない。ただ、家老の企みにも気づいていなかった鷲尾の運命は不条理。コロリ(コラレ)患者とは言え、領民の首を次々落とした鷲尾がほぼ無傷なのもやり切らない。
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3. 潔さは正義か?
ただ、鷲尾(太賀)は本当に潔く散るべきだったか? 義憤に駆られて彼が斬った藩士も、家老の命に従っただけ。恐らく皆顔見知りで、同じ釜の飯を食った同僚。本当に罰したいのは家老だけなら、反旗を翻すのはあの瞬間じゃない。家老が一人きりの時を狙って暗殺すべき。鷲尾がどんなに剣豪でも、多勢に命を賭すべきじゃない。
溝口の娘(木竜麻生)も自害すべきだったか? 父に復讐したいなら、利用された入江(野村周平)の子供を溝口家に育てさせるべきではなかったか。
何より2人とも、生きて賊軍が如何に闘ったか秘密裏にでも語り継ぐべきだったのでは。生き残ったなつ(鞘師里保)とノロが、砦の死闘を語り継いではくれるだろう。
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4. 夫の想いも、死に様すらも知り得ない妻
本作で一番可哀想なのが、主人公の妻・さだ(長井恵里)。藩士に手籠めにされ、それがキッカケで夫が罪人になり、女郎に身を売る。生き残った2人が文字を読み書きできる節がないので、聾者の彼女に夫がどんな想いで砦で闘い、如何に壮絶な最期を遂げたのか、伝わる事は無さそう。せめて、なつが渡した大金で、末永く生き延びてほしい。
なかなか良かったかなと
普段、時代劇を見ませんし歴史的なことなど全くわからないのですが山田孝之、太賀、天音くんが出てるということでこれは面白いんじゃないかと思い見てみました。有名な俳優さんたちはもちろん安定の素晴らしい演技力でしたが、主要キャストの中の見たことない俳優さんたちも個性的にとても良かったと思います。特にエンドロールを見るまで気づかなかったですが、元モー娘。の方がすごい良かった。この方が歌手としてすごいことは知っていたが演技もこんなに素晴らしいんだと初めて知りました。あとは個人的には三途役の俳優さんがめっちゃ良かったと思います、もうちょい長く三途が生きていてほしかったです(笑)
あとはナダルやせいじがいることに初めはどうなんだろ?とヒヤヒヤして見てましたがなかなか様になってて違和感なく作品に溶け込んでいたと思います。佐野岳と兄弟という設定も言われてみればたしかに似てますね!
あらすじ的には2時間半ほどあり、とても長い作品なのと、登場人物が多いので何がどうなってるのかよくわからないとこもあり、追うのが大変です。そのため仕事終わりで疲れてもいたので途中の終盤にせいじが撃たれた後に太賀さんが1人で戦い殺されるあたりまで寝てしまいました。なので、見終わってからあらすじのネタバレをまとめてくれてる方のブログを見ながら自分なりに整理しました。ちょっとそうでもしないとなぜにあそこがそうなったのかが所々自分には整理できなかったので。ただ、バトルシーンがかなり迫力あるのでそのあたりは単純に楽しめました。
こういった作品は普通は主人公が無敵でなんだかんだ悪をやっつけてしまう感じですが、この作品は主要キャストはほぼほぼ殺されてしまいます。そのあたりはありがちじゃなくよかったなと思いつつも、誰か阿部サダヲの首ぶった斬ってぶっ殺してくれないかなと思いました。それだけ阿部サダヲは憎たらしい役を演じ切っていたので。鶴瓶の息子も憎たらしさ全開でいい感じにクセの強さが出てましたね。鶴瓶の息子の上司的な侍のおじさんも渋くて良い演技でした。見たことない人でしたが。そんな感じで自分的にはなかなか楽しめた作品でした。
素晴らしい殺陣と悪党の生き様
予告がかっこよすぎてずっと楽しみにしていた作品。
悪党の決死隊的な設定の作品は大抵ハチャメチャで面白いと思っていて、この作品も例に漏れずとても面白かった。
特に殺陣のシーンの迫力は、音も相まってすごいものだった。それぞれのキャラを活かした戦い方で、悪党ながら必死の形相で戦う彼らに感動すら覚えた。
意外とあっさり死んでいくキャラも多く、11人じゃなくなるのがだいぶ序盤ではあったが。。
大悪党のデカい男がわりとすぐ退場したのが、期待値高かっただけに少し寂しかった。
年寄りが強キャラというのもありがちな設定ではあるが単純に楽しめた。
しかし阿部サダヲには腹立たしい。
時代が時代だからとは思うし、城下を守るためなんだろうとは思うので、彼も彼なりに仕事をまっとうしただけで完全に悪者とは言えないが、なんとも容易に納得のいく決断ではない。
千原せいじらがあっけなく死にすぎだろ!
それによって阿部サダヲの外道さが引き立てられてたと思いました。
ずっとミギーの声にしか聞こえないし笑
しかし、簡単にはいかない戦争や政治、そのために死にゆく末端の人間たちを映画的な救済を与えずに描き、無情さをひしひしと感じる作品でした。
最後に、オープニングで題名が出るところ、もうちょっとかっこいい演出できなかったの?!と思ってしまった😓
ゴシック体じゃなくて普通に筆文字で良かったんじゃない?!とか思っていたのも束の間、作品自体には夢中になれたので良かったです。
仲野太賀の殺陣が良い
出演者さんたちが、それぞれの役を上手く演じきっていた作品だと感じた。特に鷲尾兵士郞役の仲野太賀の殺陣は、とても良かったし迫真の演技だ。映像も音も迫力が有り、家庭での鑑賞(DVD等)より映画館で観るべき作品だと思う。残念なのは、賊軍の10人の人物像が深掘りされていない。家老(阿部サダヲ)が、お白州で首を斬っていくシーンがあったが、このシーンをもっと短くして賊軍の深掘りをしてほしかった。
とてもよかった
新発田の囚人が、長岡藩のふりをして官軍と戦うというのがややこしい。その頃新発田城を訪れていた人たちが奥羽同盟で、それもあれ?官軍だっけどっちだっけ?と混乱する。それから新潟弁が泥くさくてちょっと恥ずかしい。実際、現存している新発田城は何度か子どもを連れて行ったことがあるけど天守閣がなくてすごく小さい。映画の中では立派なお城のようなスケール感がある。
11人対軍隊が丁寧に違和感なく丁寧に、壮絶な戦いが描かれている。合戦場面は素晴らしかった。山田孝之は何度も逃げたり、誰も信用していなかったのに最後、戻るところは泣ける。
時代を超える人間の生き方講座
ここに出て来る人たちは、基本的に罪人です。その配置が、個人的にはある種の裏テーマにも繋がっているのかな、とも思っています。
キャラクターは、とても個性的でともすればキャラ的な表層感が出そうだと思いましたが、それぞれが持つ「罪状」がある種の人間的厚みとなって、彼らがどういう人生を生きてきたのか、何となくでも最初から感じさせてくれたと思いました。また、山田孝之さん演じる主人公が一番狡くて生きることに貪欲なのも人間らしくて表面的ではない好印象を持ちました。恐らく、主人公は何があっても必ず妻のところに帰りたいという、単純だけど純粋な欲求を果たしたいだけなのだと思いますが、ならば何故罪を犯すようなことをしてしまったのか…そこにこの主人公の矛盾と葛藤が垣間見えた気がしました。
一方で、仲野太賀さんが演じるもう一人の主人公は、一途な武士という感じで、まったくブレることがありません。最後まで自分が信じるものを信じ切れるだけの強さがあります。そのためには討ち死にも怖くないという感じなのですが、いつもは清く正しく冷静な紳士然とした生き方をしているところも、朝の道場シーンで垣間見え、青い炎という印象です。だからこそ、主人公はダブルであるべきで、この対照的な二人だからこそ、思っていることが違っていても、起こる事象は同じになっていく楽しさがあるのだなと思いました。
影の主役とも言えるのは、阿部サダヲさんが演じる新発田藩を真に取り仕切る家老で、この人は単に自分の目に映る家族や新発田で生きる人々を生かすためにのみ奔走しているように感じました。長岡藩にも新政府にも詰められ、身内であるはずの殿様はお子ちゃまで我が儘言い放題。現代社会ならブラックオブブラックな環境ですが、懸命にすべてを綺麗に収めようとする姿勢には、美しさすら感じました。そんなこの人は、目的遂行のためには、味方にも嘘を吐くし、農民の首を自分の手を汚してまで斬っていくという惨さを見せつける一方、策略がバレるとびっくりするほど潔く切腹の命令にも応じようとします。加えて、当たり前のように自分の娘を愛し、その意も受け取ろうとするなど、随所にただの悪者ではないことが強調されていたように感じました。
その他にも、元長州藩剣術指南なのに強盗殺人しちゃったお爺ちゃんとか(滅茶苦茶に強い)、エロ坊主とか、一家心中の生き残りとか(普通に不憫すぎる)、詐欺師とか、不義密通とか密航とか辻斬りとか、罪状からでも想像力が掻き立てられますが、その人たちが短い時間の中でも見せてくれる考え方や行動理念が、この厳しすぎる時代を生きるからこそ強さの源流のようにも感じられ、力強くも見えるのでした。
何より良いのは、山田孝之さんのキャラだけでなく、全員が何かしらずる賢くて、愚かな面を持ち合わせているのがとても複層的というか、人間的にリアルで面白く思いました。
物語自体は、「最初は我欲のためだけに砦を守っていたが、やがて共通の敵(新政府軍)を倒すという目的のもとで情が芽生えて結束し、そのために死力を尽くす」という単純な構造だと思うのですが、キャラクターが生き生きと動くだけで、これだけ物語そのものや当時の世情にも厚みが増して、考えが深まるというのが、本当に面白い物語だと個人的には感じた次第です。上述した「死力を尽くす」を山田孝之演じる主人公が最後に自爆攻撃という壮絶な死にざまで見せてくれること、また、その直前に一ノ瀬颯さん演じる「ノロ」(この人だけ仇名とキャラが合致し過ぎて覚えていました)に生きるようにお願いすることで、より一層重みが積み上がったようにも思いました。
この映画に限らず、すべての物語のテーマは、その構成側も含めて各々だと思いますし、そもそも物語とは、それぞれの想いを受け止めるだけの器があればあるだけ良い作品だと思うのですが、個人的にこの作品のテーマは2つかあります。
一つ目は「白黒ハッキリつけることとはどういうことか」、二つ目は「受け容れるとはどういうことか」ということです。
一つ目に関しては、仲野太賀さんの主人公が大変白黒ハッキリしている方で、上記のとおり曲がったことが大嫌いな本物の武士然としたキャラクターでした。しかし、結果はこれも壮絶に刺されまくって(その分だけ殺しまくりますが)死にます。しかも、味方だったはずの阿部サダヲさん演じる家老が放った、拳銃によって(これもこのキャラクターらしいグレーな処世術が垣間見えて好きです)。これに代表するように、この作品は「白黒ハッキリさせようとした者=死」であり、「グレーな半端者=生」という暗黙のルールが存在しています。その証拠に、腹を刺されたものの一度は生き残った武士も、騙していたことを打ち明け一度主人公側に言った途端に状態が悪化、最後は言い名付けに見守られて死にます。それに、その言い名付けである家老の娘本人も、そもそも賊軍側に秘密裡に侵入して共闘しようとするほどの覚悟を付けていたのですが、父親が「賊軍を生かす」という自分との約束を反故にして行った殺戮を知った結果、自決しました。
一方、阿部サダヲさん演じる家老は言うまでもなく、新政府軍とてそもそもは江戸幕府お抱えの藩だった訳ですが、それが徳川慶喜という「ザ・徳川」を神輿に担いで「旧徳川軍」と戦争をしていること自体、新政府軍が如何にグレーな存在かを感じさせます。また、生き残ったノロや鞘師さん演じる紅一点なども、一緒に死んだり復讐することを選ばず、謂わばグレーでいることを選びました。結果、最後まで生き残ったのです。何より、山田孝之さん演じる主人公の妻が、女郎になっても生きており、理不尽に犯されても夫が罪人になっても、必死に生きようとした結果、ある種のグレーを選んでいるからだと感じました。その後に呆気なく死んでいたという結末にしようと良かったはずだと思うので。
ここまでで感じることは、現代に通用する「白黒ハッキリさせることの困難さと、グレーを選ぶことの代償」ということだと感じます。簡単にいうと、「白黒つけるのはカッコいいし悩まずに済みそうだが、結果的に容易に排除される」ということであり、「グレーは生き永らえることはできるけど、その分だけ背負うものも大きくなり、場合によっては大きな代償を支払うことになる」ということです。事実、家老は娘という大きな代償を支払って新発田の平穏を保ちましたし、ノロたち生き残りや女郎となった妻も、一生涯、死んでいった者たちのなにがしかを背負っていかねばなりません。現代にも同じことがいえると、私は思いました。細かいことを言いだすと、コンプライアンスに抵触して、それ以外の言葉も消されてしまうように思うので言いませんが、色々なことを踏まえて、本当にそう思いました。
次に、二つ目の「受け容れること」についてですが、これは割と簡単で、この作品に出て来るすべてキャラクターには、結局のところ本当の悪意は感じられません。敢えて上げるとすれば、玉木宏さん演じる山縣狂介(有朋)のようにも思いますが、それも山縣の生き方を考えると、グレーになりつつも愚直に日本が生き残ることに命を懸けていたようにも思えます。罪人も含め、みんなが精いっぱい生きている。だからこそ、仲野太賀さん演じる藩士であった主人公は、それぞれが悪事を働いていても一人の人間であることを認めて受け容れ、結果として藩を見限り自分を「十一人目の賊軍」と称して死ぬことを選んだと思う訳です。これは作品をメタ的に見ても思うことで、阿部サダヲさん案じる家老が、賊軍を裏切った後で、町民に親しまれ、誇らしげに日が照る新発田の街を眺めるというシーンがあります。つまり、実際のところ、この家老のおかげで生きられた人々がいるし街があることが示されたと感じるのですが、これは観客である私たちに、人間の複雑性を感じさせるための演出であるように感じました(結局、この後でどん底に叩き落とされる訳ですが)。
他にも書きたいことはたくさんありますが、取り敢えず、簡単に言葉にしてみました。一つ難点を言うのなら、確かに他作品と相対的に見て時間が長い(個人的にはまったく思わなかったですが)ことくらいです。
長文失礼しました。ご配慮いただきありがとうございます。
少ない場面で最高の展開
役者が揃ってるからかもしれませんが、迫力が凄いですね。
大して場面展開がある訳ではないのです、各シーンが凄く上手に絡み合ってると思います。
場面展開の少ない映画ってこじんまりしてしまう事多いように思いますが、この映画そんな事はありません。
若干、あるキャラの裏切り方と最後の意気込みに違和感がありますが、全体的に違和感なく見れる感じです。
とにかくオススメの作品です。
郷土の歴史の一端を見た思いがしました。
新発田市は位置的に新潟県の下越の中心になります。この新発田市が、どうも周りの地域から少し疎まれていたのは何故なのか知らなかったのですが、この映画でその意味が良くわかりました。官軍と幕府軍との内戦(結局破壊と創造の歴史だと思います)は、悲惨であったことは周知の事実ですが、新発田藩は幕府軍につくと見せて、実はギリギリのところで官軍に協力します。故に幕府軍は致命的な壊滅を余儀なくされたのです。ただ、その裏切りのおかげで、新発田の民は戦争に巻き込まれなかったことは、大きな救いだったのでしょう。その歴史の中に11人の賊軍(10人は犯罪者)を絡めたあたりは、まさに真実の歴史を際立たせるドラマチックさに満ちていると言えるでしょう。この11人は新発田藩の家老(阿部サダヲ)の策略で、幕府軍を騙すために生贄になりました。ですから、最後には生きてハッピーエンドになることはできません。観ている方は悲しくて本当に辛かったです(2人だけは生き残れたのは幸いです)。たった11人では官軍に勝てるわけはないのですが、それでも何度も助かる道がありました。しかし、その道を閉ざしても義に生きようとする人たちの姿に滂沱の涙です。思うにやはり一人一人がこの世でなすべきことは決まっていて、それに抗うことはできなかったのでしょうか。彼らが生まれ変わった時、その時こそ幸せになることを祈らずにはおれませんでした。
追記 山田と仲野の演技は、リアルで本当に秀逸でした。また、アクションが見事でした。155分があっという間!新潟の訛りも懐かしい!!
そもそも脚本がなってない
1.砦に籠り、何を守るのかと思えば「人一人がやっと通れる吊り橋」。
馬は踏み外し、大砲なんか通れない。 幕軍も官軍もこんなトコ通るか!
2.砦の中に、大変都合良く花火玉あり。(これもそんなに破壊力あるのか)
これでかの吊り橋を威勢よくぶっ壊したと思ったら、
これまた都合のよい官軍陣地の後方洞窟に行く為に、なんと吊り橋の
片方が残っていて人が渡れる。
3.腕やら足やら、切り刻むリアリティ溢れる映像の技術スタッフには
頭が下がるが、官軍側はバッタバッタと死んでいくのに、賊軍側は
腹を刺されようが、指を切り落とされようが、快刀乱麻。
リアリティをはき違えている。
この映画の基本設定「吊り橋の攻防」が、矛盾に満ちている為、
テーマたる、戊辰戦争の東北小藩の苦悩がピンボケになってしまった。
「峠」も期待はずれだったけど、これはもっとひどい。
時代劇の夜明けは遠いぜよ
すいません、先に断っときます。
全然ノレませんでした。
以下、愚痴です。
山田孝之と仲野太賀で、監督が白石和彌の時代劇なら期待しますよね。
おまけに、題名からして活劇っぽい。
それで「侍タイムスリッパー」や「SHOGUN」の流れで期待しすぎたのか、なんだコレの連発の上に長い。
駐車代追加で取られたやんけ。
個人的な思い込みだが、白石監督は娯楽映画が好きと言いつつ日本ヌーベルバーグの流れにいる変な人って感じでリアルな作風な訳で、もしかしたら活劇に必須なウソをつくのが下手な人なのでは?と今回思いました。
火付けの罪の女の場面の火事なんて、ただ廃材焼いてるみたいで、屋敷燃やしてるなら元の形からどう崩れたかとかあるでしょ。
城下に入らんとする官軍を、峠の砦で足止めしようとする話なんだけど、
まず官軍の大砲がシルエットは臼砲や四斤山砲ぽくて、それなら前装式で砲弾を装填する際に砲口を上げる必要があるのに、後方から装填していたのでアームストロング砲らしいけど、そんな太くねぇーし、あの人数でよく峠まで運んだなあ。
大体あの地形で吊り橋がポイントとなってるのに、落とさずに待ち構えて、オマケに門まで開いてて妙だと思わないんですかねェ官軍さんは。何人潜んでるか分からないんだし、万が一橋落とされたら困るんだから、全ての家屋と門を砲撃してから突入でしょ?官軍さん。
賊軍は賊軍で、橋落とさないなら昼夜問わず見張れよ、仲良く飯食ったり博打してる場合か?橋渡ってきたらスナイプしろよー(だから砲撃で櫓壊さなきゃならんのに)
落とすなら落とすで、なんで橋の真ん中で爆薬仕掛けるの?自陣の端で良いじゃん。雨降ってんのに、わざわざ消えるかもしれん導火線そんなに長く用意するの?端だったら命かける必要なくない?黒い水染み込んだ火矢とか打てよー そんなに「恐怖の報酬」みたいな絵が欲しかった?最後残った片側の吊り切ってなかった?なら初めからそうしろよ。
一体どいつもこいつも何したいんだ〜と思いながらみてました。
そう言う粗も活劇のダイナミックな推進力のある展開がちゃんとあれば、感じないし、気がついてもワクワクが勝ってれば問題ない(インディがU-ボートにしがみついたままとか)のだが、全く勢いを感じなかった。
そもそも史実の新発田藩の裏切りを下敷にして集団抗争劇を描いた笠松和夫の脚本(本人が破り捨てたので無い)はこんな展開だったのか?プロットは借りたが、全く別ものだった気がしてならない。
奥羽越列藩同盟と官軍の登場人物が少なくて集団抗争劇になってないし、新発田藩の追い込まれ感が乏しい。
同盟と官軍の軍としての動きが映されないので切迫感がない。
山田孝之演じる政の嫁が辱めを受けるシーンがないので、政の復讐シーンで本当にその侍であってるの?とか思わせてしまう嫁の障害設定は必要なかったし、せめて顔見て指差すとことか入れないと。憎っくき新発田侍の中で野村周平のキャラが中途半端だし、身重の婚約者も微妙。それなら、仲野太賀以外の新発田侍は全員クソ野郎のままで、仲野太賀の身重の婚約者にした方がシンプルじゃない?矜持の違う阿部サダヲと仲野太賀の対立も浮き彫りになるし、仲野太賀を捨て石にするサダヲの邪悪さや娘の自害の意味も増す。戦火の被害を免れそうな新発田城下で人々に感謝される阿部サダヲのシーンは娘の自害の後の方が良くないか?とかそれぞれの登場人物に感情移入させる描写が圧倒的に少ないし効果も薄いと思う。
演者(吉本芸人以外の)はそれぞれ頑張ってるし、本山力と仲野太賀は特筆に値する熱演だった。
だから余計に残念感が覆う。
せっかくの時代劇復興に水を差すとさえ思った。
そんな展開で、おまけに上映時間は長い。
愚痴も長いので、この辺で。
いい感じ
仲野太賀、山田孝之、阿部サダヲら気鋭、中堅、ベテランの旬の俳優が揃った2時間半を超える大型時代劇。
長く感じさせることもなく、史実をモチーフにした良い作品だと思う。
特に、仲野と賊軍の1人である本山力(爺っちゃん)の殺陣はお見事。
金も時間もしっかりかけた演出も見応えがある。
しかし、だからといってメチャクチャ面白い!何度も観たい!ともならないのは、賊軍のメンバーが弱いなと思った。
活躍するメンバーとしないメンバーがはっきり分かれていて、三途、二枚目、引導、赤丹などは何もしない。いなくていいというか誰でもいい。
10人中4人が誰でもいいようなキャラだとタイトルに共感できない。
人足の山田が火縄銃を当てまくるのも苦笑いだし、激しい剣戟の中、傷も負わない農民町人風情もピンとこない。
こういう広い意味でのバディモノはそれぞれのバックグラウンドがあると感情移入がしやすく、没入できるもの。
できればNetflixあたりで、10話くらいで観れるとよかったような気もする。
千原せいじは特にダメだなぁ。ナダルは逆に良かった。
それにしても、仲野太賀はいいね。
出る作品にも恵まれているが、役の幅が広い。
お父さんはすでに超えたと思う。
優しい賊軍
笠松和夫氏の幻の脚本を令和の時代に甦らせた十一人の賊軍。
もしもボツにならず当時の俳優でキャスティングされるとしたら、やっぱ山田孝之は菅原文太かな。仲野太賀は松方弘樹だな。そして阿部サダヲは金子信雄だ。
と、想像しながら鑑賞しました!!
いきなり戊辰戦争の真っ最中から始まりますが、所々でちゃんと字幕とナレーション入りの解説有り。これは仁義なき戦いのオマージュなのかもしれないけど、令和向きではないかな。時代背景は観る前からだいたい分かってるからね。それより賊軍一人一人の背景をもっと描いて欲しかったな…。何の罪で捕まったかはざっくり分かったけど、せっかく強いのに名前がよく分からなかったりするのがもったいない。しっかりちゃんと名乗ったのは剣士の爺さんだけだったかな…?砦を守るミッションが与えられてからとにかく賊軍が頑張って頑張って頑張るんだけど、もっと一人一人掘り下げて欲しかったし、何より賊軍みんなイイ人過ぎなんだよね。何とか逃げようとしたり、官軍に寝返ろうとしたりするのは山田孝之だけだからね…。罪人なんだからもっと狂気なワルとか、殺人鬼みたいなのがいても良かった気がする。
そんな孝之も最後は弟分を逃がして儚く散っていくのがまた良き。
心残りなのは一番の悪人、阿部サダヲが討たれなかった事。これは仁義なき戦いの金子信雄のように、一番悪い奴が死なないのと一緒。せめて片腕か片足だけでも仲野太賀に切り落として欲しかったけど…これが笠松和夫の脚本通りだとしたら納得する。
けしてハッピーエンドではない。
婚約者との約束を果たせなかった阿部サダヲの娘も自害する。
ラストで生き残った弟分と放火女が聾唖の孝之の妻へ会いに行って孝之の死を悟らせるところは恐らく味付けされた脚本だと思う。だがこれも良き。
白石監督が描きたかった世界観を感じた。
最後までよく戦ったよ賊軍。みんな優しかったね。
菅原文太と松方弘樹ならもっと凄い事になっていたはず!当時ボツにした人間達を恨みます!
この仲野太賀も良かった
時間を感じさせないスピードで一気に観れた。
キャスティングも良かった。主役も脇役も、憎まれ役も。
新潟新発田藩の裏切りは、今まであまり表に出て来なかったが、、新潟では有名な話。
新政府軍が湊に上陸して、新潟町で最後の激戦地となった丘は、語り継がれ、訪れる人は少ないが、知る人ぞ知る公園になっており、今も掘れば銃や刀などの遺品が出てくる。
この丘が最後の焙烙玉のシーンの場所になったのかもしれない、と思いを馳せる。
新政府軍をもてなし金を渡して、町を戦場にしなかった大庄屋は、町では偉人として語り継がれているが、奥羽越列藩同盟からは現在もまだ裏切り者と言われている。
日本を二つに分けた戦争は、確かな形として、まだ近くに存在している。
個人としては、仲野太賀の新潟弁が聴けたのが良かった。
(新潟在住者)
役者さんは良いがあまりに冗長、2時間以内にまとめたら或いは面白かったかも
好きになれない映画はあるが、久し振りに金と時間を返せレベルでがっかりした。
良い役者と予算をふんだんに使った駄作。
仲野太賀さんのお芝居は好きだった。
兎に角冗長に過ぎる。
プロット自体は多分つまらないものではないのだと思う。
恐らく脚本段階の問題だ。
諸々の無駄なエピソードを切り捨てて
誰が主人公なのかはっきりさせて2時間弱にまとめたら
もしかしたら化けたかも知れない。
正義や信念がある人間が辛うじて鷲尾くらいで誰にも感情移入できず
気分良く見ることもできない。
鷲尾、加奈、なつは好きではあった。
山田孝之さん演じる政が主人公かと思いきや、
復讐までは良し、妻のさだの元に戻りたくて脱獄という訳でもなく
武士に従いたくないだけで、何度も脱走を試みるのが情けない。
なつがびしっと言ってくれて少し気分が良かったが、
その後も脱走を繰り返すしまともな台詞も大して無いのに
薩長軍に裏切られたと思ったら急にやる気になって戦う。
結局大事な妻はひとり残され幸せな生活を送れそうには見えない訳で、
独りよがりで何がしたかったのかわからない。
時間稼ぎに藩士を使いたくないから罪人まではわからなくもないが、
女を入れてたった10人、罪人に武器をもたせてたった3人の藩士で押さえられるわけもないだろうし
たった13人で短時間とは言え砦を守れる訳がない。
設定から効果音からなにもかもにリアリティが無さすぎる。
慶応四年の段階で尊王攘夷などと言っていた人間などいないだろうに、攘夷の言葉を言わせているのが鼻持ちならない。
双方見張りもまともに立てていないし、味方が死ぬシーンも
なぜ橋を落とすのに橋の真ん中で焙烙玉に直に火をつける必要があったのか
手の火傷で夢を諦める局面なのか、
味方を逃がすでもなく隠れ場所から這い出したのはなぜなのか、
疑問だらけ。
取り敢えず鷲尾が自分が十一人目と言い出すタイミングはもっと早くて良かっただろう。
言い出した時は既に半分ほど死んでいてもう十人もいないではないか。
せめて鷲尾と政の絆が深まるエピソードでも入れるなりできなかったのか。
史実上新発田藩は裏切者だと自分は思っている。
同盟に参加はしておいて出兵せず、裏で薩長と話し合って指示を仰いでいたら
裏切者の誹りは免れまい。
同盟に参加を迫られて困っているならまだわからなくもないが。
藩士が暗躍して領民を蜂起させるところも卑怯極まりない。
そんな中にも新発田藩にも事情があった、というような内容が描かれるのかと思った。
実際史実にあった、あちこちから金や米を貸せと言われて窮したり、
民たちが出兵を邪魔してどうか薩長軍と戦わないでくれと言ったとか
柵を作って竹槍まで作ったとか
田畑が今荒らされたら困るとか、尺を使うならそのエピソードを持ってきて
折角育っている稲を前に嘆願される溝口が
なんとか国内で戦が起こるのは防がねばならないと思うであるとか
そんな作りでは駄目だったのか。
この映画だと、結局やっぱり新発田はクズでしかなく、
家老が一番クズ、藩主もクソガキ、まともな藩士もいなくはなかったが
総じて全体的にクズ、でしかなかった。
地元の協力があってこの描かれ方というのは、
地元の方々はこれで納得しているのだろうか。
あまりに酷くて吃驚してしまった。
芸人さんの多いキャスティングも、芸人さん本人が悪い訳ではないが
画面に映る度現実に返ってしまいノイズになった。
私的、共感し辛い映画だと思われました
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと、私的共感し辛い映画だと思われました。
主人公・政(山田孝之さん)は、ろう者の妻・さだ(長井恵里さん)を寝取った新発田藩士・仙石善右エ門(音尾琢真さん)を妻の敵討ちとして殺害します。
その藩士の殺害の罪で主人公・政は死罪となるのですが、新政府軍(官軍)を同盟軍(旧幕府軍)が城を立ち去るまで砦で足止めするために、新発田藩が決死隊を編成し、主人公・政はその決死隊に選ばれ死罪を直前で免れます。
しかし主人公・政は、妻・さだを寝取った新発田藩士のいた新発田藩を許さず、新発田藩のために砦を守る気はありません。
と、ここまでは、主人公・政に1観客の私も共感出来ていたのですが、主人公・政は関係性が深まった花火師の息子・ノロ(佐久本宝さん)をも見捨てて官軍側に寝返ろうとしたりします。
また、主人公・政が、新発田藩のために砦を守る気はないのは理解出来るのですが、一方で、妻・さだの元に帰るために決死隊から逃げ出したいのか、それとも自暴自棄に無気力や死を受け入れるのか、それとも一旦は新発田藩の求めに応じて砦を守り代わりに無罪放免を勝ち取るのか、その方向性も作品を通じて一貫性なく判然としません。
さらに、映画の中では主人公・政の妻・さだへの想いは具体的シーンで描写されていないので、主人公・政の進む妻・さだへの想い含めた動機(≒映画の物語の推進目的)も強くは観客に迫って来ません。
他の登場人物にしても、決死隊のほとんどの罪人に対してもその罪状などからそこまで共感は出来ず、花火師の息子・ノロにしても自身の不注意からノロの家族を花火事故で死なせていると伝えられ共感はし辛くなっています。
決死隊に帯同している、新発田藩士・入江数馬(野村周平さん)、荒井万之助(田中俊介さん)、小暮総七(松尾諭さん)にしても、決死隊を騙したり足蹴にしたりしていて全く共感できません。
新発田藩の家老・溝口内匠(阿部サダヲさん)にしても、同盟軍を城から追い払うためにコレラ患者とはいえ何人も斬首していますし、ラストは決死隊を皆殺しにまでしていますので全く共感は出来ません。
決死隊の1人のなつ(鞘師里保さん)や家老の娘・溝口加奈(木竜麻生さん)などには共感は出来る側面はあるものの、時代背景もあり、女性の彼女らが映画の中心として共感を引っ張る存在としては、そう描かれてもおらず、難しさはあったと思われます。
唯一の例外は新発田藩士・鷲尾兵士郎(仲野太賀さん)で、鷲尾兵士郎だけは強い新発田藩への想いや、決死隊への約束を守ろうとする一貫性があり、観客としては映画の中心になり得る共感性ある人物だったと思われます。
ただしかしながら、共感と映画の中心になり得た新発田藩士・鷲尾兵士郎は、今作の描写の仕方としては中心になりそこなっていたと思われました。
一方で、映画のタイトルにもなっていた「十一人の賊軍」に関しては、新発田藩士・鷲尾兵士郎こそが十一人目の賊軍であることがラストで明かされます。
つまりこの映画は、新発田藩士・鷲尾兵士郎こそが『十一人の賊軍』のタイトルからも主人公として想定されていたと推察されるのです。
仮に、新発田藩士・鷲尾兵士郎が初めから主人公であれば、今作は共感度の高い傑作映画になっていた可能性が高いと思われました。
ところで、今作の映画『十一人の賊軍』は、悪人的に官軍を描写し、天皇家の菊花紋を印象的に悪の官軍と結び付けて映し出しています。
もちろん(本人は否定しているようですが)左翼的考えの印象もある若松孝二 監督の、弟子筋の今作の白石和彌 監督が、天皇制に対して否定的な印象を残したい想いは別に驚きはしません。
しかし一方で、幕末のこの時代に、天皇を推していた官軍側と、旧幕府軍とで、どちらが正しかったかは双方に功罪があり決められないと思われるのです。
つまり、映画において様々功罪ある人物を描く時に、一方の側を極端に善に描いたり悪に描いたりした場合に、本来の功罪あるそれぞれの人間の深みを描く映画作品から、一側面だけを際立たせる偏った(右派左派関わらずの)浅いプロパガンダに、今作が転落してしまっていると感じられたのです。
今作の映画『十一人の賊軍』は、理念的な主張にとりつかれていて、浅いプロパガンダの主張が(露骨ではないですが)見え隠れする作品になっていた印象を持ちました。
今作は新発田藩士・鷲尾兵士郎を主人公にした方が良かったのでは?との疑念は鑑賞後に自然に湧き上がってくると思われます。
そしてなぜ新発田藩士・鷲尾兵士郎を主人公にしなかったかというと、白石和彌 監督の表層の理念が先行することによって、映画の自然な設定描写が歪まされてしまった結果が理由ではと、1観客の私には思われました。
人間を描くのではなく、理念が先行しその主張を描こうとしてしまったのが、今作が共感し辛い作品に歪んでしまった深い要因だと、私には思われました。
(逆を言えば、悪の罪をもまとった共感し辛い決死隊の賊軍の人々を肯定したいのであれば、官軍や、賊軍を利用しようとした新発田藩の家老・溝口内匠をも、深い地点で同様に人間の深淵として肯定する必要があったと思われるのです。)
これまで数々の優れた作品を作って来た白石和彌 監督は、(右派的だろうが左派的だろうが)理念的な表層の考えはまず頭の中から蹴散らして、複雑矛盾重層に満ちた人間の深みを描く映画の本来の場所に、再び戻って来て欲しいと、今作を観て僭越ながら思われました。
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