「私的、共感し辛い映画だと思われました」十一人の賊軍 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
私的、共感し辛い映画だと思われました
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと、私的共感し辛い映画だと思われました。
主人公・政(山田孝之さん)は、ろう者の妻・さだ(長井恵里さん)を寝取った新発田藩士・仙石善右エ門(音尾琢真さん)を妻の敵討ちとして殺害します。
その藩士の殺害の罪で主人公・政は死罪となるのですが、新政府軍(官軍)を同盟軍(旧幕府軍)が城を立ち去るまで砦で足止めするために、新発田藩が決死隊を編成し、主人公・政はその決死隊に選ばれ死罪を直前で免れます。
しかし主人公・政は、妻・さだを寝取った新発田藩士のいた新発田藩を許さず、新発田藩のために砦を守る気はありません。
と、ここまでは、主人公・政に1観客の私も共感出来ていたのですが、主人公・政は関係性が深まった花火師の息子・ノロ(佐久本宝さん)をも見捨てて官軍側に寝返ろうとしたりします。
また、主人公・政が、新発田藩のために砦を守る気はないのは理解出来るのですが、一方で、妻・さだの元に帰るために決死隊から逃げ出したいのか、それとも自暴自棄に無気力や死を受け入れるのか、それとも一旦は新発田藩の求めに応じて砦を守り代わりに無罪放免を勝ち取るのか、その方向性も作品を通じて一貫性なく判然としません。
さらに、映画の中では主人公・政の妻・さだへの想いは具体的シーンで描写されていないので、主人公・政の進む妻・さだへの想い含めた動機(≒映画の物語の推進目的)も強くは観客に迫って来ません。
他の登場人物にしても、決死隊のほとんどの罪人に対してもその罪状などからそこまで共感は出来ず、花火師の息子・ノロにしても自身の不注意からノロの家族を花火事故で死なせていると伝えられ共感はし辛くなっています。
決死隊に帯同している、新発田藩士・入江数馬(野村周平さん)、荒井万之助(田中俊介さん)、小暮総七(松尾諭さん)にしても、決死隊を騙したり足蹴にしたりしていて全く共感できません。
新発田藩の家老・溝口内匠(阿部サダヲさん)にしても、同盟軍を城から追い払うためにコレラ患者とはいえ何人も斬首していますし、ラストは決死隊を皆殺しにまでしていますので全く共感は出来ません。
決死隊の1人のなつ(鞘師里保さん)や家老の娘・溝口加奈(木竜麻生さん)などには共感は出来る側面はあるものの、時代背景もあり、女性の彼女らが映画の中心として共感を引っ張る存在としては、そう描かれてもおらず、難しさはあったと思われます。
唯一の例外は新発田藩士・鷲尾兵士郎(仲野太賀さん)で、鷲尾兵士郎だけは強い新発田藩への想いや、決死隊への約束を守ろうとする一貫性があり、観客としては映画の中心になり得る共感性ある人物だったと思われます。
ただしかしながら、共感と映画の中心になり得た新発田藩士・鷲尾兵士郎は、今作の描写の仕方としては中心になりそこなっていたと思われました。
一方で、映画のタイトルにもなっていた「十一人の賊軍」に関しては、新発田藩士・鷲尾兵士郎こそが十一人目の賊軍であることがラストで明かされます。
つまりこの映画は、新発田藩士・鷲尾兵士郎こそが『十一人の賊軍』のタイトルからも主人公として想定されていたと推察されるのです。
仮に、新発田藩士・鷲尾兵士郎が初めから主人公であれば、今作は共感度の高い傑作映画になっていた可能性が高いと思われました。
ところで、今作の映画『十一人の賊軍』は、悪人的に官軍を描写し、天皇家の菊花紋を印象的に悪の官軍と結び付けて映し出しています。
もちろん(本人は否定しているようですが)左翼的考えの印象もある若松孝二 監督の、弟子筋の今作の白石和彌 監督が、天皇制に対して否定的な印象を残したい想いは別に驚きはしません。
しかし一方で、幕末のこの時代に、天皇を推していた官軍側と、旧幕府軍とで、どちらが正しかったかは双方に功罪があり決められないと思われるのです。
つまり、映画において様々功罪ある人物を描く時に、一方の側を極端に善に描いたり悪に描いたりした場合に、本来の功罪あるそれぞれの人間の深みを描く映画作品から、一側面だけを際立たせる偏った(右派左派関わらずの)浅いプロパガンダに、今作が転落してしまっていると感じられたのです。
今作の映画『十一人の賊軍』は、理念的な主張にとりつかれていて、浅いプロパガンダの主張が(露骨ではないですが)見え隠れする作品になっていた印象を持ちました。
今作は新発田藩士・鷲尾兵士郎を主人公にした方が良かったのでは?との疑念は鑑賞後に自然に湧き上がってくると思われます。
そしてなぜ新発田藩士・鷲尾兵士郎を主人公にしなかったかというと、白石和彌 監督の表層の理念が先行することによって、映画の自然な設定描写が歪まされてしまった結果が理由ではと、1観客の私には思われました。
人間を描くのではなく、理念が先行しその主張を描こうとしてしまったのが、今作が共感し辛い作品に歪んでしまった深い要因だと、私には思われました。
(逆を言えば、悪の罪をもまとった共感し辛い決死隊の賊軍の人々を肯定したいのであれば、官軍や、賊軍を利用しようとした新発田藩の家老・溝口内匠をも、深い地点で同様に人間の深淵として肯定する必要があったと思われるのです。)
これまで数々の優れた作品を作って来た白石和彌 監督は、(右派的だろうが左派的だろうが)理念的な表層の考えはまず頭の中から蹴散らして、複雑矛盾重層に満ちた人間の深みを描く映画の本来の場所に、再び戻って来て欲しいと、今作を観て僭越ながら思われました。