「仲野太賀の目がヤバい!」十一人の賊軍 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
仲野太賀の目がヤバい!
前作「碁盤斬り」のレビューで「白石和彌史上最もマイルドな映画」と書いた。が、最新作でもある本作「十一人の賊軍」は白石作品のイメージ通りとでも言いますか、エグみとグロさ全開バイオレンスのアクション時代劇。苦手な人はとことん苦手だろう。振り幅がヤバい。
ただバイオレンスなだけではなく、立場や考え方を異にする者たちが「やむを得ず」共闘し、必死になってわずかな希望を求める物語でもある。
誰のどんな立場に思いを馳せるかで、見えてくるものが変わる。新発田藩の侍3人は、家老・溝口(阿部サダヲ)の考える足止め作戦を成功させたい。道場を構える鷲尾(仲野太賀)は旧幕府軍として官軍を迎え討つ任務を全うしたい。罪人たちは「勝てば無罪」の約束を信じ生き延びたい。新発田藩士に女房を襲われた駕籠屋の政(山田孝之)は死んでも作戦に協力したくない。
砦の攻防に参加する面々だけでも、大まかに分けてこれだけ差があるのだ。さらに外側では進撃してくる官軍、新発田藩に出陣を迫る旧幕府軍、まだ若年の藩主などの思惑も錯綜する。
それが映画の中であらわになっていき、それぞれの感情や考えが絡み合って物語を推し進めていく。
その視点の切り替えは登場人物の目線で捉えた映像によって、スムーズに行われているのだ。
例えば、火付けで捉えられた女のなつ(鞘師里保)が、脱走しようとして手枷を嵌められた政に握り飯を渡すシーン。なつが政を見下ろす目線で、歩くリズムにあわせてカメラも揺れる。我々の視点がなつの視点になり、その後のシーンは彼女の気持ちの方に引っ張られるのだ。
ただでさえ苦しい生活の上、亭主はお縄。女郎か乞食しか選択肢のない人生。復讐なんてしなくて良い、ただ二人で支え合って生きていけたなら…、そんな政の女房の気持ちを彼女が代弁する。
だから「残してきた女房を助けられるのはお前さんだけ」というセリフが、上っ面ではない説得力を生む。
興味深いと思ったのはノロ(佐久本宝)の存在である。
ノロは白痴でそれが故に巡り巡って賊軍の一人となるのだが、罪人の間でも、罪人を率いる侍の間でも、いわゆる「おまめ」のような扱いをされている。「ノロはノロだから仕方ない」というような。
かと言って、「足手まといだから早々に始末しよう」ともならず、ふらふらしていても必ず誰かが面倒をみてくれているのだ。
ラスト近くでは政に「オメェは呆けだから大丈夫だ、殺されたりなんかしねえ」とも言われている。
無害だから狙われない、と。
罪人だから使い捨てにしても構わんだろう、からスタートする物語の中で、ノロは見捨てられない。
対比のように、少数の「役立たず」を見捨てることで藩と領民を守ろうとした溝口は、最も守りたかったものを失うことになる。それはむしろ溝口自身が彼の大切なものから「見捨てられた」結果であるとも言えるだろう。
勝ち負けだけが「正義」を決める時代の中で、官軍も旧幕府軍も罪人も、全員が「勝利」という名の希望をもぎ取ろうとしていた。手段を選ばずに邁進するもの、勢いと人数に任せるもの、理想と忠義に身命を賭すもの、目先の条件に釣られるもの。
だが、最後の最後に、勝利することよりもっと大事なものが出来てしまったのが政と鷲尾だったのかもしれない。
二人が最後に選択した行動だけは勝利とは程遠く、勝てないのであればそれは「賊軍」と見做されるものだからだ。そして二人とも「それで構わない」という覚悟だった。
「孤狼の血」のレビューにも書いたが、相変わらずアップの迫力が凄い。ゴア表現やバイオレンスを特徴のように言われる白石作品だが、本当に特徴的なのは毛穴まで見えそうなアップの使い方だ。感情にフォーカスする時、そのキャラクターの息遣いや鼓動が聞こえそうな気さえしてくる。
今回は山田孝之と仲野太賀のW主演で、当然二人のアップはかなり多かったのだが、物語の中で最も翻弄された鷲尾を演じた仲野太賀の目や表情には、鬼気迫るものを感じた。
実直で、一本気な鷲尾のキャラクターを支えたのは間違いなく仲野太賀の演技力だろう。
バイオレンス表現が炸裂する今作だが、キャラクターの心情が入り乱れる人情味あふれるヒューマンドラマでもあり、胸が締め付けられて思わず落涙してしまったシーンもある。
個人的に白石和彌のファンでもあり、今最も新作を心待ちにしている監督がコンスタントに重厚な映画を撮ってくれるのは嬉しい限り。
次回作も超超期待してます!