「「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸である。」 英雄が消えた島」宝島 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸である。」 英雄が消えた島
本レビューは原作のレビューも兼ねてますので原作のネタバレを含みます。
戦後の米軍統治下で苦しい生活を強いられていた沖縄の人々にとって米軍施設から医薬品や食料、はては学校建設に使える資材までを奪い取り人々に分け与えた義賊集団「戦果アギャー」のリーダー格オンは間違いなく人々が待ち望んだ英雄だった。
先の大戦で唯一の地上戦を経験し、県民の四人に一人が犠牲になった沖縄。沖縄県民に遺族でない者は存在しないとまで言われた。生き延びたすべての沖縄県民がその家族を失った。
そんな戦争の傷が癒えない中で米軍統治下においてもさらなる仕打ちを受け続けた沖縄の人々、そんな打ちひしがれた彼らが英雄を欲したのも致し方なかった。
オンは沖縄の人々が背負わされてきた重荷を帳消しにするほどのでっかい戦果を挙げてこそ真の英雄になれると言っていた。そんな彼が極東一の規模を誇る米軍基地を襲撃した嘉手納アギャーで行方知れずとなる。彼はそこで「予定にない戦果」を手に入れていた。彼が手にした思いがけない戦果とは。それこそ彼が言っていた「人々の重荷を帳消しにするでっかい戦果」だったのだろうか。
彼が手に入れた予定にない戦果、それは島の娘と米軍の将校クラスの人間との間に生まれた一人の赤ん坊だった。オンはこの赤ん坊の命と引き換えに密輸組織クブラのもとで強制労働を強いられる。英雄と呼ばれた男が命を賭して守り抜いた赤ん坊ウタは成長し、オンの仲間たちの前に忽然と姿を現す。
オンの仲間たち、グスクはガマでの集団自決のトラウマに苦しめられ、今もガマの亡霊の呪縛から逃れられない。それを振り払うかのように彼は走り続けた。彼の眼前には常に先に走るオンの背中があった。グスクはその背中を追い続けていた。
ヤマコは「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の艦砲射撃の集中砲火の中で目の前で両親を失い茫然自失の状態の中、自分の手を握り締めて助けてくれたその手の感触を忘れていなかった。最後に嘉手納基地のフェンスの金網越しに握りしめた手の感触を彼女も追い続けた。
海で溺れかけた自分の命の恩人であり英雄と周りから称えられた兄の存在を追い続けた弟のレイも同じく。彼らは各々が心の中に住む英雄の姿を追い求め続けた。
しかしオンは一向に見つからない。すでにこの世にはいないのではないか、そんな諦念に包まれる中で三人は己の中に存在する英雄像を模索し始める。
ヤマコは米軍機墜落事故により目の前で自分の教え子を失ったことから本土復帰を目指してその活動に身を投じていく。
レイは刑務所の中で活動家たちに感化されて次第に過激化してゆく。かたや民主的な運動家になったヤマコ、かたやテロリストとなったレイ。二人はその手段は違えど共に真の沖縄の平和を目指した。そのはざまで揺れ動くグスク。彼もオンを探し出すためとはいえ刑事と米軍諜報部の手先という二足の草鞋を履き、オンを探しつつ米兵の犯罪捜査に明け暮れた。
そんな三人の前に現れたウタの存在。彼こそかつての英雄が命を賭して守り抜いた「戦果」だった。しかしオンが命を賭して守り抜いた基地の子は米軍基地で銃撃を受け命を落とす。基地で生まれた基地の子は基地によってその命を奪われてしまう。
かつての人々の希望を託された英雄と呼ばれた男が命を賭して守り抜いた命は無残にも奪われてしまうのだった。英雄と呼ばれた男の命がけの行動はすべて無駄だったのだろうか。
あまりにも理不尽なこの結末。それはまるで沖縄のたどってきた歴史を思わせた。幾度となく苦難を強いられては本土に訴えてきた沖縄の人々。
米軍統治下で米兵による犯罪被害を幾度となく受けて不満が爆発しコザ暴動にまで発展、本土復帰への運動も大きくなった。しかし本土に復帰しても基地負担は変わらずその後も米軍機墜落事故や米兵による犯罪被害はなくならなかった。
無残な事件が起きるたびに県民の人々は決起して声を上げてきた。しかしいくら声を上げようともその声は本土には響かない。
沖縄の思いはけしてかなえられないのだろうか、沖縄に真の平和は訪れないのだろうか。かつての英雄が命を賭して守り抜いたウタはその命を奪われた。
どんなに人々が必死になって声を上げても何も変わらないようにオンの命がけの行動もただの徒労に終わってしまったのだろうか。
しかしウタは常に三人のそばにいた。まるで三人を陰で支えるかのように。彼はオンの遺志を引き継いでいたのかもしれない。オンの代わりになって彼ら仲間を見守るようにと。
米軍機墜落事故で教師を続ける自信を亡くしたヤマコを立ち直らせたのはウタであった。言葉も話せなかった彼がヤマコの放課後の読み聞かせで話すことができるようになった。その姿を見たヤマコは再び教師としての自信を取り戻すのだった。
グスクが追う女給殺人事件の目撃者もウタであり、そのおかげでグスクは犯人にたどり着けた。レイにも何かとまとわりついたウタ。彼こそオンの代わりに三人を見守っていたのかもしれない。けしてオンが命を懸けた行為は無駄ではなかったのだろう。
人々が英雄を必要とする時代は不幸な時代である。何の不安もない平和な時代には英雄は必要ないだろう。そして人々が他者に英雄を望む社会もまた不幸である。英雄を他者に求めればそれは時として独裁を生む。誰もが時代の英雄を待ち望めばそこに独裁者が生まれる危険性が生じる。かつてのナポレオンしかり、ヒトラーしかり、そしてトランプしかりだ。
グスクたちはオンを探し求めながら、次第に自分たちの手でこの島の状況を打開しなければという考えになる。英雄を追い求めるのではなくて自分自身が英雄にならざるを得ないのだと覚悟する。そうしてヤマコは本土復帰運動に身を投じ、レイも同じくテロリストとして過激な行動に出た。
苦難の時代においては皆が英雄にならざるを得ない。英雄とは特別な存在ではなく自分たちの取り巻く環境を改善するために行動に移せる者をいうのだろう。今も沖縄の人々は声を上げ続けている。彼らは皆一人一人が英雄に違いない。
そして本土に生きる我々ももはや沖縄の犠牲のもとで暮らしていることにいい加減目を向けるべきなんだろう。
本作は原作者が相当の覚悟に臨んで執筆した沖縄の一大叙事詩であり、当時の沖縄の現状を事細かく描いていてとても読み応えのある作品だった。
そして今回の映画化だが、700ページに及ぶ長編だけに省略化は致し方ないとしても、沖縄のリアル英雄である瀬長亀次郎の登場シーンがすべてカットされたのが残念なのと、あとこれは改変というより改悪に近いのだが、グスクとアーヴィンの関係性である。原作ではアーヴィンは人格者でグスクと良好な関係を持ちながらもやはり二人の関係は利害関係の上に成り立つもので日米安保条約下での日米関係に類似している。彼らはけして利害なしの友達関係にはなれないのである。しかし映画では終盤アーヴィンがグスクから友達だとして説得されるシーンを入れている。これは現実の日米関係としても原作の意図としても受け入れられない改変ではないだろうか。このせいで作品全体が甘ったるくなった印象を否めない。原作ではアーヴィンこそウタを死なせた銃撃命令を下した人物なのだから。
あと本作は日本映画では大作の部類に入るらしいが、前半に関しては絵的にスケール感が感じられずこじんまりとした印象を受けた。後半になりコザ暴動のあたりからコザの街の全景が映し出される画角の広いカットがようやく目立つようになりスケール感が感じられて何とか盛り返した感じだった。正直前半まではこれは失敗作かなと思いながら鑑賞していた。
映画自体も三時間越えの大作だが、総じて原作の持つ熱量には及ばなかった。脚本が弱いのとやはり絵作りが弱かったのが残念。映画の賛否が分かれるのも致し方ないと感じた。
ただ映画「雪風」同様沖縄の歴史を知らない世代にはそれを知らしめたという点で意義のある作品だったと思う。
本作を鑑賞して物足りないと感じた方には原作を読まれることをお勧めしたい。役者陣に関しては原作のイメージ通りでとても良かった。
レントさん
コメントへの返信を頂き有難うございます。
読み込んでいらっしゃいますね 📙
グスクの思いの強さの伝わり方が違ってきそうですね。
「 涙そうそう 」( も )観ていません。
何かしらの監督の意図があるのかも知れませんが、( メインキャストが沖縄出身ではない点について )、本作鑑賞後、ヤマコが満島ひかりさんだったら( ? )と頭に彼女の顔を思い浮かべていました。
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