「この映画の意味とは?」雨の中の慾情 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
この映画の意味とは?
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと、今作を面白く観ました。
この映画『雨の中の慾情』は、映画の冒頭から、主人公・義男(成田凌さん)がバス停で雨宿りをしている女(夢子(中西柚貴さん))を、雷が来るからと金属の付いた服を脱がせ、最後は逃げる女を追いかけて田んぼの中で下着をはぎ取り犯してしまう、白黒映像から始まります。
女は行為の後、主人公・義男と虹が出ている中で和やかな雰囲気を出しているのですが、観客の1人としては、この時代錯誤の冒頭からの描写は何なのだ?‥とあっけに取らされました。
その後、映画の最終番になって、この映画は、日中戦争の戦闘での大きな負傷を負った主人公・義男が見ていた、戦争の中の現実の出来事を材料にした、夢(または悪夢)を描いていたことが明らかになります。
つまり、映画の冒頭の主人公・義男が女を雨の中で犯す場面は、日本兵だった主人公・義男が(あるいは他の日本兵が)日中戦争下で中国人の女性を犯した現実のメタファーだったと解釈することが出来ると思われます。
この映画は、映画の終盤で明かされる、日中戦争の日本兵である主人公・義男が負傷の中での見た夢(悪夢)の世界であり、根底に兵士の現実と戦争の愚かさへの眼差しが入り混じり流れていて、欲望の肯定と否定が入り混じって描かれていると思われました。
離婚しカフェで働く福子(中村映里子さん)は日本軍の中国現地の慰安婦であり、自称小説家の伊守(森田剛さん)は主人公・義男と同じ部隊の先輩日本兵であり、大家の尾弥次(竹中直人さん)は731部隊の人体実験のイメージをもまとった軍医であり、街中で主人公・義男を糾弾する靴屋(松浦祐也さん)は義男と同じ部隊の戦闘前に興奮している日本兵であり、片言の日本語をしゃべる少女は義男が戦地で出会った現地のゲリラ兵であるといった、夢と戦争の現実が交錯する映画になっていたと思われます。
ところで、このような日中戦争などの当時の日本軍の蛮行が題材になった表現によくあるのが、日本人の監督や制作側が正義の側に立ってその蛮行を糾弾する表現内容に陥ることです。
もちろん、当時の日本軍が日中戦争や東南アジアなどの戦闘で現地の民衆に行った蛮行は、同じ日本人として私も沈痛な重い反省の感情を持つ他ないと、いつも痛感させられます。
しかしながら同時に、正義の側に立って当時の日本軍や日本兵の蛮行を糾弾している日本人の監督や制作者に対しては、その自分たち自身は己を棚に上げて(自己への問い掛けでなく)他者を糾弾している姿勢には、その欺瞞性と合わせて、【とはいえ、あなた達も同じように糾弾されなければならない同じ日本人なんだよ】と、大きな疑問を持っては来ました。
ただ、この映画『雨の中の慾情』は、根底の基調に日中戦争での日本軍の蛮行への否定の感情を感じさせながら、決して日本人として己自身を棚に上げない姿勢を、あくまで夢と現実を行き来する中で現実からは遊離しない主人公・義男を通して、描いていたと感じました。
その意味で、人間の矛盾から目を逸らさない描写の姿勢と内容から、今作を沈痛を感じながらも面白く観ました。
ただ、であるので採点としては3.5点以上つけられるはずの作品だと思われたのですが、この映画が主人公・義男による戦闘での負傷の中での夢(悪夢)の描写であると分かってから、さすがにそこからさらに夢と現実の行き来の反復がいくらなんでも長すぎるとは思われました。
それで-0.5点と、僭越ながら今回の点数となりました。
しかしながら、台湾での撮影もあってか、描かれている世界は当時の空気感がリアリティを持って表現されていて、表現の分厚さも含めて、好みはあるでしょうが、内容ある作品になっていたと、僭越ながら思われました。