「太極旗にかける思い 国家と民族の狭間で翻弄されたマラソンランナー」ボストン1947 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
太極旗にかける思い 国家と民族の狭間で翻弄されたマラソンランナー
日本人唯一の男子マラソン金メダリストとして知られる孫基禎。このベルリン五輪での記録は公式のもので朝鮮半島が独立した後も覆ることはなかった。
本作はかつて植民地支配のもとで祖国を奪われ、名を奪われ、記録を奪われた人間たちの熱きリベンジストーリーである。
日々の生活で国から格別愛されてるという自覚のない人間にとっては自国の国旗に対してさほど思い入れもないだろうが、植民地支配のもと民族的弾圧を受けてきた朝鮮の人々などは自国の国旗にエスニックアイデンティティーを見出すので特に思い入れがあるのだろう。本作はその国旗そのものがテーマになっている。
ベルリン五輪の表彰台での孫基禎と南昇竜が日章旗掲揚の際にうつむいてけして見上げることのなかった当時の写真は有名である。孫たち朝鮮人はご多分に漏れず当時酷い差別を受けていた。選考会で驚異的な記録をたたき出した彼らを選手から外したい日本人コーチはベルリン入りした後の貴重な調整期間にもかかわらず無茶な選考レースを無理矢理行いふるいにかけようとしたくらいだ。それは逆にほかの日本人選手をつぶしてしまうことになるのだが。
孫はこの表彰台では自分たちを差別してきた国の国旗を見上げることはできなかったと自伝には書いている。
彼が生まれたのは日韓併合後であり、この大会後に招かれたドイツ在中の朝鮮人実業家の家に掲げてあった太極旗を生まれて初めて目にしたという。
彼は自分の国の旗はわが民族とともにこうして今も生き続けていることを実感したという。
この偉業達成ののちに彼のあずかり知らぬところで日章旗抹消事件が起きた。民族系新聞の東亜日報が表彰台の孫の胸の日章旗を消した写真を新聞に掲載したのだ。
彼はその快挙により統治下の朝鮮ではいまや民族的英雄として祭り上げられていた。それは彼には青天の霹靂であった。しかし同じ英雄として内鮮一体のプロパガンダに利用しようとしていた日本にしてみれば彼を民族的英雄とした独立運動が再燃することを恐れた。
彼の身は当時の日本にとって英雄から危険人物へと変化し、彼への扱いはとても五輪初の偉業を成し遂げたオリンピアに対するものではなく、政治犯のごとく厳しい取り調べを受け常に監視がつきまとった。
ただ、彼はこのような仕打ちを受けながら恨をつのらせるよりも朝鮮独立後は後進の育成に力を注ぎ、スポーツを通して世界平和を訴える活動に尽力した。
彼を支えた同胞のみならず、支援してくれた数少ない日本人、そして国際大会の場での他国の選手たちとの熱い交流が彼をそうさせたのであろう。特に同じベルリン五輪に出場してメダルを獲得したジェーシー・オーエンスとは生涯にわたり交流があったという。彼も黒人でアメリカでは冷遇され大統領が彼と面会したのは五輪後10年を経過した後だったという。
本作では国旗への思いというテーマを強調するために、後進であるソ・ユンボクのボストンマラソンでのユニホーム問題が描かれている。これは日本から独立を果たしたにもかかわらず朝鮮半島がいまだアメリカの占領下にあり独立を果たせていないことへの無念さを象徴するシーンとして作り手が創作したものだ。実際のユニホームは太極旗と星条旗が二つプリントされたものであり問題はなかった。このあたりの創作は本国公開当時物議をかもしたようである。
史実物はどこまで史実に忠実に描くべきか、作り手の創作はどこまで許されるのか線引きは難しいが、個人的には本作のテーマを強調させるために許容される範囲だと思った。
むしろコースに犬が飛び出して転倒したくだり、あれは創作らしいという記事を目にしたが、孫氏のお孫さんが伝え聞いていたことや「孫基禎 帝国日本の朝鮮人メダリスト」という書籍にも記述があることから事実と思われる。正直こちらの方が創作ならがっかりしただろう。
ちなみにソ・ユンボクがホテルの便器で顔を洗うのは創作だと睨んでいる。
植民地支配によって奪われた民族の誇りを取り戻すために闘った三人のランナーたち。本作はカン監督の熟練の技が光るエンタメ作品であり、テンポがよくてダレ場も一切なく大いに楽しませてもらった。マラソン映画としてはけして外せないクライマックスのマラソンシーンの迫力も圧巻だった。
偉人である孫基禎自身の伝記映画は意外にもまだ作られていないのでこちらの方はシリアスな作品として見てみたい。
ところで前述の有名な表彰台でのうつむき写真はその後大きな影響をもたらした。アメリカが公民権運動に揺れるさなか、メキシコ五輪で表彰台に上がった黒人選手もこれに倣い星条旗を見上げることをしなかった。彼らはキング牧師を支持していた。同じような出来事はそれ以降の世界大会でも続いた。
よくスポーツの大会で物議をかもすのがいわゆるスポーツに政治を持ち込むなという言説である。スポーツ選手はスポーツだけしていればいいんだ、スポーツ以外何も考えるなとでも言いたいようである。
人が政治的意見を述べることは民主主義においては当然表現の自由として保障される権利である。スポーツ選手だから、芸能人だからという理由で制限されるいわれはない。ましてや彼らの主張はある特定の政党を支持するというのではなく、差別などによる人権問題に対して抗議の声を上げているのであってそもそも政治的意見ではないのである。
スポーツマンシップとはスポーツを通して健全な精神を養うことを言うのなら、差別などの不健全なことに異議を唱えることはスポーツマンシップに則った行為といえるのではないだろうか。
むしろアーリア人の民族的優位性を知らしめるためのプロパガンダとして利用されたベルリン五輪をはじめとしていままで散々スポーツを政治利用してきたのが国家であることはいうまでもない。