ナミビアの砂漠のレビュー・感想・評価
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タイトルなし(ネタバレ)
東京で暮らすカナ(河合優実)は21歳。
脱毛エステで働き、不動産会社に勤めるホンダ(寛一郎)と同棲中。
ホンダは家賃も払い、料理もして優しい。
今日は高校時代の同級生の女友だちに呼び出されたが、彼女が語るクラスメイトの自殺話には、カナには興味がない。
後ろから聞こえてくる「ノーパンしゃぶしゃぶ」という単語の方がよっぽど刺激的で関心を惹く。
女友だちとともにホストクラブに行ったが満たされず、結局は二股交際相手の自信家ハヤシ(金子大地)を呼び出して肉体関係で渇きを癒す・・・
といったところからはじます物語で、前半は「いまのわたしの体も心もこの映画を欲していないなぁ」と思っていました。
ホンダと別れて、鼻にピアスをしてハヤシと暮らすようになるまで(ここでタイトルが出るのだけれど、50分ほど掛かっている)までのカナの行動は「それって、オッサンとか、オレってイケてると思っている勘違い男のソレと変わりないやん!」と思ったわけで。は、本当に「この映画、自分には合わないなぁ」と感じていました。
そんなカナが「少子化と貧困で日本は終わり。目標は生きていくこと」と真実に気づいていて、そんななか、自由とか平等とか女性の社会進出とかいわれているのかで生きていくのはシンドイ。
さらに、旧来の「女性はこうあるべき(かわいいとか、従順とか)とか、家族はこうあるべき(お互い助け合ってとか、絆とか)」といった思考にがんじがらめ。
「そりゃ生きづらいはずだね、なるほど!」と納得できるようになってくる。
物語において「少子化」は、カナの中絶経験、ハヤシの元カノの中絶経験が結びつき、女性の弱い立場を強調する。
同じく「貧困」は、持つ側のハヤシの家族や友人全般と、持たざる側のカナの関係を強調する。
生きづらくて仕方がない彼女の唯一のオアシスは、砂漠の水飲み場にやって来る動物を捉えた定点観測カメラの動画。
砂漠の水飲み場で水を飲むだけで生き残っていきたい・・・
で、結果、壊れていってしまう。
後半はカサヴェテス『こわれゆく女』を思い出すが、より以上に想起したのは篠崎誠『おかえり』。
ハヤシとの恋愛関係はベネックス『ベティ・ブルー』を思い出したが、あちらは男女対等だけれど、本作では対等でない。
カナの心の底に「女性は庇護されてしかるべき」みたいなものがあるからだろうなぁ。
本作、自縄自縛の社会構造の下での自縄自縛の女性を等身大で描いた映画といえ、まさしく「いま」の映画。
「傑作」というには届かないが、力作、注目作であることは確か。
つまり、「つまらない」も「退屈・理解不能」もあるけれど、「関心」も「感心」も同居した作品。
2度観たい映画か? と問われると、「観たい気もする。でも、タイトル前は辟易、お断り」なんだよなぁ。
監督・脚本は、山中瑶子。
「わからない」フィロソフィー
冒頭カナが友達とカフェで話している様子や男とデートして家に帰ると同棲している男が持っている。仕事もなにか惰性で働いている、これらの言動からカナのことが「わからい」と迷いながら見進めていた。
ただ、徐々にカナの心の奥底にある想いは、誰にも「わからい」でカナ自身も「わからない」のではないかと感じた。まるで砂漠に一人たたずんでいるように。考えてみると人生どのようになるか正直「わからない」。カナは、「自分の頭で考え」自分の「好き」にしたがい行動し、好きな男と一緒に暮らしても自分が「いや」なことはストレートに相手にぶちまける、感情をあらわにして。。
しかしカナは感情だけでなくカナの心の奥底にしまってある「自分の頭で考え実行」したことに生きる負い目を感じているから一層今後の生き方が「わからない」のだ。カナは「好き」「嫌い」、素直に生きるしかてだてがない。「自分の頭で考え実行」したことを一緒に暮らしている男が別の女性にさせたことが許せない。この男がなんの負い目をまとわず平気で生きているからだ。
二人で生活しても、今後の関係性が二人にも「わからい」。特にカナの感情の変化はいちじるしくカナ自身も自分のことを「わからい」奇妙なワンショットがとても印象的だ。隣に住んでいる女性と焚火を囲んで「わかってほしくないけで、わかるよと言われるとうれしいでしょう」と言われ微笑むカナが、この砂漠で見つけた光だ。
終幕近くカナはスマートフォンで中国に住む母親と話をする。男が「その中国語なんて意味」と聞いたときカナは「わからいという意味」とこたえ二人の微笑で映画は終わる。
「わからない」、なんと深淵な言葉か。「自分の頭で考えない」で「わかったふり」をしてあくせく生きている人達に、素直に「わからない」ことを「わかり」、「自分の頭で考え実行」すれば、もっと生きやすくなると山中監督は、河合優実の身体からあふれでる感情とアクションをとおして、作り手達のフィロソフィーが伝わってきた映画であった。
われわれはカナという野生の人物をライブカメラで見ているのか
ぐわー、これは評価が分かれそうな映画だな。
つまり、それは余白のある映画だということだ。ダメな映画はそもそも評価は分かれない。ダメ、の一言で片付く。
この映画は、クセが強すぎる。
そのトーンや、脚本や、編集に、山中瑶子監督のマニアックな匂いがぷんぷんする。
素人めいたぎこちないズームなんか、ゴダールっぽいとさえ思える。
河合優実自身が「ぜひ撮られたい」と売り込みに行ったらしいから、どうやら変人同士で監督と水が合ったのだろう。
これが「国際映画批評家連盟賞」を獲った、という。よほど世界の批評家は最近の口当たりの良いエンタメに慣れきってしまって、眼の前で無作法の限りを尽くすような映画の刺激に飢えていたのだろうか。
河合優実に関しては、もちろん『不適切にもほどがある』でブレークしたのもあるけれど、目が離せない。
ちょっと、超弩級のポテンシャルを感じさせる。
同時代に生きる者として、代表的な出演作は観ておきたい、と思って映画館に足を運んだ。
『ぼくのお日さま』からの『エイリアン ロムルス』からの3本目だ。
1日の最後にこれは、さすがにぐったりした。
ここであらすじを語っても何の意味もないし、そもそも河合優実に興味がない人はまったくつまらないだろう。
「ナミビアの砂漠」というタイトルと、映画で描かれる現代の日本の若い女性の日常はまったくカブらないが、そもそもナミビアの砂漠というのは実在する。
正確に言うと、南アフリカに隣接する南西アフリカのナミビア共和国に存在するナミブ砂漠のことだ。
そこに、そう言えば3年前くらいにネットで話題になっていたライブカメラがあるのだ。
https://www.youtube.com/live/ydYDqZQpim8?si=yLpxU1i6FVnCSAau
砂漠に人工的に作られた水場があって、24時間、水を求めて集まってくる動物が見られる。ただそれだけなのだが、異様に人を惹きつけるらしい。
映画の中でも、河合優実が演じるカナが時々スマホでぼーっと見ている。
すると、われわれはカナやカナを巡る男たちの日常をライブカメラで観察している、というのがこの映画の含意なのだろうか?
南西アフリカの砂漠の野生動物と、天衣無縫に生きる日本人女性と、どこが重なるというのだろうか?
若い人も大変。うまくコミュニケーションできないんだな。
私の友人のタンゴダンサーのナツコさんの兄弟:前信介さん(広島出身)が、制作スタッフの一人としてクレジットされているというので見てきた。
山中瑶子監督と主役の河合優実のタッグがとても話題になっているという。ドラマ「不適切にもほどがある」を見ていたので河合優実は知っていた。
「カンヌ国際映画祭でも「若き才能が爆発した傑作」と絶賛され、女性監督として史上最年少となる国際映画批評家連盟賞を受賞する快挙を成し遂げた。」とある。
21歳の主人公(河合優実)は、男性と同棲している。彼は料理も掃除もし控えめですぐに「ゴメン」と謝る。でも、それに物足りず、いきなり別のクリエイター男性との生活を始める。
彼女は、生きがいらしきものもなく、言葉数も少なく、すぐに切れる、暴力を振るう。料理、掃除などは普段しない。
高齢のおじいさんからすると、若い人も大変だな、うまくコミュニケーションできないんだな。そこのところ察しろよなで暴力を振るうか。など、ネガティブな印象を持った。
終わり方も特にこれといったことはなく。ただ、主人公のこれからの生き方が変わりそうな気配はあった。
★ナミビアの砂漠をネットで調べてみた。
ナミブ砂漠の「ナミブ」は、先住民族の言葉で「広大な」や「何もない」という意味。
アフリカ南西部のナミビアにある砂漠で、約8,000万年前に形成された世界最古の砂漠といわれている。
砂浜の絶景や動植物、夜の満天の星空など魅力が豊富で、2013年に世界遺産に登録された。
自主映画の雰囲気
河合優実を目当てに観た。物語らしいものはなく、一言で言えば、やり場のない怒りや苛立ちを抱えた主人公の姿を追ったもの。
作り手が「こんなシーンを撮りたい」と思ったものをつなぎ合わせたようで、まさしく自主映画の雰囲気。主人公と同じように、作り手も自ら抱える感情をうまく表現する術がないというか…
ルームランナーのシーンとか、焚き火のシーンとか、へたに予算が付いたからやってみた感じで、作劇上効果的とは思えなかった。
役柄として共感はできないが、相変わらず河合優実の実在感は際立っている。対して、作り手の狙いどおりと言えばそれまでだが、男二人の存在感があまりにも薄い。
ところで、「ナミビアの砂漠」というタイトルは印象的で面白い。残念ながら、そこに込められた想いを感じることはできなかったが。
哀愁漂う肩周りの肉付き
まったくイライラする女だよ。河合優実の演技がそれだけ良かったということなんだろうが、あんな女、手に負えんわ。男の方は切れずによく面倒見てたわ。コルセットで大人しくなってる間が癒しの時間だったようにすら思えた。
新しいヒロイン像かって言ったらそんなことない。昔からこういう女性描いてる映画ってあるよね。
もう少し主人公の魅力を描けてたら共感できたのかもしれない。でも共感できない人物にリアルがあるのかもしれない。
しかしまあ自分がこんな人物になってしまったら生きにくいだろうねえ。そういう生きづらさももっと上手く描けたんじゃないかなあ。
世の中も多様性を受け入れる時代に移り変わって来ているからねえ、マイノリティを描いた映画もなんだか相対的に存在感が薄まるようで、なんだかだねえ。
なんだかんだやはり、河合優実の肩幅に象徴される肉体から感じる生々しさが一番印象に残ったかな。
55点ぐらい。どうでもいい下らない日常。
生き辛さに抗う若者を野生動物の観察めいたドキュメンタリー調に撮っ...
生き辛さに抗う若者を野生動物の観察めいたドキュメンタリー調に撮った話とも、女性版「ジョーカー」(ヒース・レジャー版に近いキャラクターかも)みたいなつきあう男どもを魅きつけ蹂躙する魔性の女のサイコスリラーなのか、最後まで見ても判断がつかない。謎めいた出自(中国にルーツを持つらしいが「ニーハオ」しか喋れない?)に、徹底的に秘められた内面(抱えているらしきトラウマさえ、その場その場で相手にマウントを取るために装っている感もある)…最終盤に、それまでの路線から逸脱するマジカルな演出で一瞬、「本性」がさらけ出されるかに思えたが、それも二度繰り返される(ふつうは一度目でEDに入ってなんとなく綺麗に終わるところでしょ!?)ことで互いに打ち消し合うかのようだ。絶対近づきたくない女、でありながら同時に終盤の二人のようにぐちゃぐちゃに傷つけあってみたい欲も感じる。映画自体と同じに、嫌悪と魅了が相克し、ずるずると後者に寄って、否、寄せられていく。捉えどころの難しい映画だが、案外冒頭の印象的なシーン、「喫茶店で知人が自殺した話を聞き流しながら、隣の卓がノーパンしゃぶしゃぶのバカ話をしているのが耳に入ってくる」が全体を通しての鍵なのかも。あそこの「げ、紙ストローだ」の言い方で引っ張り込まれた感もある。
河合優実は熱演だが…
「あんのこと」の河合優実が、今度はどんな演技をするのか?と思い鑑賞しました。優美さんは、情緒不安定な役を熱演していた。だか、映画としては、?かな。前半(優実さんが階段から落ちるまで と定義します。)は、シーンの連続性が無く、「なんで今のシーンの次にこのシーンが出てくるの?関連性は?」といったことが多々あり、一連の時間軸でみた場合、意味不明。(後半は少しはマシだったが…)脚本がダメなのか?「鑑賞した皆さん、考えて下さい」ということなのか?そのあたりをもう少し練って作品をつくって欲しかった。私にとっては、退屈な130分だった。
ちょっと前のフランス映画、風
本当は誰にも感心が無く、何となく今を生きてる風の主人公を中心に、都会の片隅の今どきの若者の危うさの例を描く…?と思いきや、意外と他に普通の人達が出てくる。思い遣りがあって心が広いと思った彼氏はただの独りよがり、ちょっと尖った感じの遊び人風彼氏は、実は高学歴で普通に仕事で成功したい人だった。主人公は生きてる環境が合わなくて苦しんでるように見えるが、それがナミビアの砂漠ってことなのか、不明。ぶつかり合う熱量や緩んだ空気感の変化の表現はスクリーンから感じられた良いところ。ただ、カメラワークが首を傾げたくなるシーン多数、敢えて手振れを多用してるのかもしれないが、特にセンスを感じず、単に下手だな、と思ってしまった。狙ったセンスは感じるが、観客を納得させる作品には纏まっていないようで、残念。
何も表現できていない
河合優美さんの演技は素晴らしかったですが、映画そのものはなにも表現できていない。観客に頼りすぎ、監督の自己満足。
脚本クソ。こんなんで賞をとっていると、監督は勘違いし、この先成長できないだろうな。あとから「あみこ」の監督と知り納得。「あみこ」も原作クラッシャーだったから。しかし、河合優美さんがあのシーンでヌードを披露する必要があったのか。
河合優実が好きなので観る価値あった
見終わるころに無性に食べたくなるのはハンバーグ
あと水も飲まなきゃ
人間って何で生きてんだろね
意味なんて無いのに
英語が話せたら、もっといい人生だっただろうなー
この前電話で話した子が死んだなんて話しを聞いても、実感が無さすぎる
生と死の境い目が希薄なのかも
でも、中絶には敏感
これはリアルな感情が湧いた?
男は中絶"させた"側で
嫌な記憶は忘れちゃう(忘れた事にする)生き物
何が本当で誰の事を言っているのか
ときどき分からないこともあったけど、まあいいか
彼のお母さんも言っていたが
河合優実のスタイルはとても良かった
そりゃ、突然いなくなったら男は泣き崩れるって
変な人、、、あんたも大概だぞ
感想というか、雑感メモ
なんか目が離せない
推しの河合優実ちゃん
推しの金子大地君
2人はサマーフィルムにのって以来の共演か?
なんでこんな女がモテるのか
というのが第一印象
若いから?美人だから?
寛一郎君の尽くす彼氏が不憫に思えた
主人公の事を理解していると言っていたが
あんた全く彼女のこと分かってないよ笑
金子君との喧嘩シーンは凄い
この後の2人はどうなっていくのか、、、
パンフレットはこれから読む
20代で見たかった!
なぜ、ナミビアの砂漠
最後まで、ナミビアの砂漠との関連性がわからなかった。
砂漠はスマホの画面とエンディング。
心が乾いているようには見えないし、むしろどんより曇って湿っていく感じ。
ナミビアの砂漠より、初夏の釧路湿原みたいなものか。
さすがに演技は自然で、本人そのものだろうが、河合優実の裸は必要だったのかは疑問。
「ふてほど」の前でまだブレイクする前のギャラが安い時期に光る女優を主演にできて、公開時にはブレイクしてヒットしたラッキーな映画だが、内容はありふれた女性が精神疾患に落ちていく映画としか言いようがない。
良かったが面白いとは言えない映画だった。
大変面白く観ました!
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと、今作を大変面白く観ました!
この映画『ナミビアの砂漠』は、21歳の主人公・カナ(河合優実さん)の東京でのひりついた男女にまつわる物語です。
特に私が感心好感したのが、(女性監督で女性が主人公なので、女性の描かれ方が的確なのはそうだろうと思われる中)男性の登場人物の理解の深さと描写の解像度の高さが優れていた点です。
主人公・カナは、映画の初め、ホンダ(寛一郎さん)とハヤシ(金子大地さん)と同時並行的に男女の関係になって付き合っています。
主人公・カナと同棲している不動産会社勤務のホンダは、カナに対して優しさがありいつもカナをいたわっている感じが伝わって来ます。
しかしある時、ホンダが北海道に出張に行って、出張前にカナに誓っていた話に反して、上司に連れられて風俗に行った話をして、カナに謝罪する場面があります。
ホンダは、しかし風俗に行ったその時に勃たなかった話もします。
この場面はもちろんホンダは風俗に行った話をわざわざ言う必要はなかったと、一般的にはなると思われます。
もちろんホンダは、カナに対する誠実さで全て隠さずカナに話していたのだと思われますが、一方で、隠し事を無くすことで自分の罪悪感を軽くしたいという、無意識での自分本位的な考えがあったとも言えます。
この、一見思いやりや誠実さを見せているようで、本質は無意識に自分の精神的負担を軽くしたいと相手に重しをゆだねてしまう自分本位さは、ある一定の男性にはありがちで、そこを見事に的確に描いていたと思われます。
ホンダはその後、部屋を出て行ったカナと路上で再会し、カナに声を張り上げたり、(私はその真偽は分かりませんでしたが)ホンダが出張している間にカナが中絶したとの話に対して、ホンダがカナの心情を思いやって嘆く場面があります。
このカナとの路上と車内での再会場面でも、一見ホンダはカナのことを思いやっているように見えて、実は自身の思い込み中心で感情的になっています。
この場面の描写は、いやはや本当によく男性の本質を捉えているなと、個人的には感心しました。
カナは、そんな(男性の私から見れば全く優しくていいい奴なのですが)一見優しくみえる背後にある自分本位さの二重基準のホンダから距離を取り、どこか一貫性ある動物的なハヤシ(金子大地さん)と寄りを戻すことにします。
動物的なハヤシを象徴するシーンとして、映画の初めの辺りで、ハヤシが広場で立ちションする場面と、カナがホテルのトイレで用を足しているとハヤシがそこに割り込んで一緒に用を足そうとする場面があります。
私達人間は、例えば大小便やゲロ吐きなどの排せつや、男女の性的な行為、あるいは生誕や死といった生死に関わることは、プライベートの話として極力その露骨な描写は公では避けています。
しかし今作の映画『ナミビアの砂漠』では、その題名が現わしているように、排せつや男女の性行為や生老病死といった、(一般ではあまり公では露骨に語られない)動物的な振る舞いの方が大切なのではないか、と表現されているように感じました。
とはいえ、どこか一貫性ある動物的な雰囲気あるハヤシも、こと(男女の性的な行為の先にある)生命の誕生に対する態度に関しては、男女の性差としてカナとズレが生じます。
なぜなら、オスとしての男性は精子を女性に対して注入する無責任さの度合いで中絶(生命の誕生の断念)を提案出来るのに対して、女性の側は自分の子宮に出来た生命を殺してしまうという罪悪感で中絶に挑む必要があるからです。
カナがホンダと路上で再会した時に車中で「中絶をした」との告白は、カナの中絶の描写がなかったので、私には車中の告白の真偽については分かりませんでした。
もしかしたらカナは本当にその時中絶をしたのかもしれませんし、過去に中絶の経験があったのかもしれません。
しかし、ホンダに対して車中で語った中絶の話は方便の嘘であってかつカナに中絶の経験が無かったとしても、中絶に対する女性側の精神的な傷に対し、男性側の傷の程度の軽さについて、動物的本能的にカナも嗅ぎ分けていたと思われます。
だからこその、ハヤシが過去に相手の女性に対して(互いに同意があっても)強いた中絶に対してのハナの怒りであり、この動物的な生誕と(中絶による)死に関する描写は、映画として深さある表現になっていると思われました。
しかしこの映画がさらに優れていると思われたのは、ハヤシが単純に(中絶を行ったことも含めて)”悪”に描かれていない所にあると思われました。
ハヤシは、(車椅子のカナと共に都庁前で出会った)同窓生の官僚の友人よりかは遥かに動物的です。
しかし、男女の性差で言えば、ハヤシはカナよりかは動物的な価値観では遊離しています。
ハヤシが音楽PV?の編集をしている時に、カナは錯綜した感情のまま食事を一緒に取ろうとしないハヤシに物を投げたりして怒りを次第に爆発させます。
男性は、(生理の有無も含めて)女性より錯綜的になり難く、感情も直線的で合理性とも親和性があります。
いわば、合理的直線的な男性と、錯綜的な女性との差異と対立が、この場面で根底の動物的な場所から表現されていたと思われます。
この男女の経験上の差異のあるあるを的確に表現して見せているのも、今作のさすがだと思わされる描写の1つだと思われました。
ハヤシはこの時に(ホンダが車中で声を一瞬荒げたように)カナに対して一瞬声を荒げます。
この声の荒げ方は、(カナによる女性的な錯綜した怒りの感情の発露とは違って)暴力的で直線的でいわば男性的な感情の発露だと思われます。
しかし(ホンダの車中でもそうでしたが)ハヤシの暴力的直線的な感情の発露は一瞬で抑制され、一方でカナの錯綜する感情をそれにまとわりつき並走する形で抑えようとします。
なぜなら、男性的な暴力的直線的な感情の発露は、女性に対して支配か破壊にしかつながらないことを、経験的にも本能的にもハヤシは(あるいは車中でのホンダも)男性として理解しているからです。
このハヤシの描写も(一方的に”悪”に描かず)男性の本質を見事に捉えて描写されていて、女性監督なのになぜ山中瑶子 監督は男性に対してこんなにも的確な表現が出来るのだろうかと、僭越、感心しながらこの映画を観ていました。
今作は、以上のように男性の描写だけでも素晴らしく本質を射抜いていて的確ですが、他の美容エステでの会話などの描写も含めて、見事な本質的な深さある映画になっていると思われました。
1点だけもう少しダイナミックな展開があればと今回の点数になりましたが、作風的にそれが良いわけではなく、今回の表現で十分優れた映画になっていると、僭越思われました。
映画の終盤で、カナは精神科医・東高明(中島歩さん)やカウンセラー・葉山依(渋谷采郁さん)に診てもらって、自分はおかしいのではないか?と考えてる節を見せます。
また、隣人の遠山ひかり(唐田えりかさん)との出会いで精神的な出口を模索して映画は終わりを迎えます。
ただ1観客の私から見れば、それは排せつや男女の性行為や生老病死といった動物的な錯綜した場面を現在の社会が見ないようにしていたり、男女の性差の本質が理解されないまま放置されているのが理由であって、カナ自身は全く正常だよと、映画を観ていて私には静かに強く思われました。
この映画『ナミビアの砂漠』は、冒頭の喫茶店のシーンで、主人公・カナの紙ストローへの違和感から始まります。
そして、カナの友人のイチカ(新谷ゆづみさん)が、イチカの友人が亡くなったとの話をするのですが、席近くの男性客の「ノーパンしゃぶしゃぶ」の話題の声で、その死に関する話はかき消されて行きます。
この場面で表現されているのは、(環境問題への効果の薄さも言われている)紙ストローへの主人公・カナの違和感と、それを強いている(時代は違いますが)裏で「ノーパンしゃぶしゃぶ」の歪んだ動物的な行為をしていた官僚と、それによって本来(紙ストローなどよりも)もっと深く考えなければならない「死」(など)についての動物的な人間の根底本質の話が、かき消され無視されている、という映画冒頭から優れて象徴的な描写場面であったと思われました。
この映画『ナミビアの砂漠』は、そんな社会構造に、例えば美容エステと医療エステの違いすら自分で調べて考えられないまま疑問も思わず従ってしまっている私達への、動物的な観点からの違和感を表現した、映画として冒頭から最後まで貫かれて表現されている、優れていると言わざるを得ない作品だと、鑑賞後にも強く思われました。
(p.s. 映画の中心の話ではないのですが、カウンセラー・葉山依を演じた渋谷采郁さんは、(『悪は存在しない』の芸能事務所の女性社員役(黛 役)でも感じたのですが)その内面の(ともすれば俳優としてはマイナスにもなりかねない)空虚感というか感情の揺れ動かなさは、ちょっと他に思い当たらない特異さで、相手の感情を飲み込む得体のしれない存在感があると、僭越思われました。
今後、他作品でも存在感が光る役者になるのではと、僭越ながら思われました。)
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