「こけおどし」ナミビアの砂漠 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
こけおどし
日本映画には映画の品質より「俺様の才能を知らしめたい」気配を感じます。
自己顕示欲がみえてしまうのです。
海外の映画では監督の自己顕示欲がみえてくる映画がないので、これは日本特有だと思っています。
日本の映画監督全員がそうではありませんが、アート系映画のばあいはほとんどが品質の向上より自己顕示欲を満たそうとするタイプの監督だと感じます。
しかし自己顕示欲が旺盛でも能力があるならばいいわけです。たとえば大島渚は能力がともなった自己顕示型の監督でした。
転じて日本映画がだめなのは、ほとんどが自己顕示型なのに、能力がともなっていないからだと思います。
2025年3月17日にPFFが創設した大島渚賞(第6回)の授賞式があり、本作品によって山中瑤子監督が受賞しました。
山中氏は『大島渚監督は、すごく時代と社会を撹拌して転覆させるような映画を作られてきた方で尊敬しているので、身が引き締まる思いで、わたしもそういった映画をつくりたい。いま一つ企画があり、社会を転覆させる映画を作りたいと思っています!』と受賞の喜びを述べたそうです。
山中氏が表明した「社会を転覆させる映画を作りたい」は、海外の映画産業と日本のそれの違いを如実に表していると思います。おそらく、海外の作家は自身の作品世界を追求しようとしているのであって、社会を転覆させたいとは思っていないでしょう。むろん社会を転覆させたいとは衝撃的な映画をつくりたい──の比喩表現なのでしょうが、それにしても、海外の映像作家はそのような中二発言をすることより、具体的な作品のビジョンを述べるはずです。
日本映画では混沌や悪徳や反社会が、監督の自己顕示欲を満たすために使われるという状況があります。歪んでいる世界は、監督が「歪んでいる世界を描ける俺ってすげえだろ」と言いたいがために使われます。
この現象をわかりやすく例えるなら誰かを脅すときに「おれはやくざなんだからいうこときけ」という感じに似ています。
歪んで気持ち悪くていびつで悪辣で、そのような一般人にとって怖くて近寄りたくない世界を描いて観衆を威嚇することで自己顕示欲を満たすわけです。
たとえば北野武監督には自己顕示欲があり映画にもそれが見えます。暴力的な映画をつくってひたすら萎縮させ、菊次郎みたいな映画を望んでいた観衆に対して「ざまあみろ」とうそぶいてみせるのは、作品と自我が一体化した日本の映画監督らしい姿勢です。しかし北野武監督の映画はわりと面白いから大丈夫なわけです。
バイオレンスを通じて観衆を威嚇する代表的監督は園子温です。園子温の映画には前述の例え「おれはやくざなんだからいうこときけ」という感じが顕れています。「おれ」がはげしく絵に顕れる映画であり、バイオレンスや人間の狂った行動は自己顕示欲を満たすためのパラメータに過ぎません。映画を通じて園子温が言いたいのは「歪んでいる世界を描ける俺ってすげえだろ」ということであり、ほかの目的はありません。自己顕示の手段として映画監督をやっているわけです。
これは日本において映画監督という職業があたかも全知全能の才人のように扱われ見られるから──でもあります。映画監督は測ることの難しい能力にもかかわらず、また、人それぞれ評価が異なる能力にもかかわらず、巨匠や鬼才などといった安易なレッテルと相乗しながらメディアの中で常にすごい才人として扱われます。だからこそ映画と自己顕示欲が結びつくという日本特有の状況が生成されてきたのだと思います。
園子温と似たような姿勢・態度が自己顕示欲型の映画監督にはあります。
その結果、日本映画は海外にくらべ、歪んだ世界やバイオレンス映画が多い傾向にあると思います。この惑星でトップを競えるほど平和で安全な国にもかかわらず、歪んだ世界やバイオレンス映画の比率が高いことは、日本の映画監督がいかに自己顕示型の監督で占められているかの証左にもなっていると思います。
無気力なカナ(河合優美)は、最終的には何かにまとめられる人物なのだろうと思って見始めましたが、結局まとめられることはなく、映画も結論を持っていません。
ナミビアの砂漠は、園子温がバイオレンスで観衆を威嚇するのと同様に、エキセントリックな人物像と男女の救いのない取っ組み合いを見せて観衆を威嚇している映画だと思いました。
日本の映画監督には、観衆に嫌悪感を覚えさせ、神経を逆なでさせることがクリエイティブスタンスであるという誤解があります。かれらは、目を覆いたくなるような修羅場をあえて見せることが「鬼才」だと信じています。
この戦略のことを「こけおどし」といいます。
おそらく山中瑤子監督の目的は、エキセントリックかつ胸糞悪い人物や状況を描いて、観衆を苛立たせることです。映画に結論はなく、カナはよくわからない原因とよくわからない結果の間をさまよっているに過ぎません。なぜならナミビアの砂漠はこけおどしによって鬼才感を出すという山中氏の目的のためにつくられているからです。山中瑤子監督は要するに「こんな胸糞人間を描けちゃうわたしってスゴくね」と言いたいのであり、そのためにこれを書いてつくったわけです。
アリアスターが本作をほめたのは中途でボーはおそれているそっくりの客観視点がでてくるからです。ボーはおそれているは、なかばまでボーの主観で描かれていますが、どこかでボーが劇中劇人物になり映画がメタフィクションに昇華されます。
ナミビアの砂漠も中途でスクリーンに小窓が開き、あたかもカナが劇中劇人物であるかのようなメタ表現がありました。アリアスターはボーはおそれているに酷似した展開に反応したのだと思われます。ただし、カナが自分のメンヘラ気質を客観視する描写はそこからどこへもつながることなく、映画は尻切れトンボでおわります。むろんアートハウスは尻切れトンボな映画だらけですが、ナミビアの砂漠は鬼才感のある尻切れトンボな終わり方をします。なんていうか「こういう尻切れトンボな終わり方が鬼才っぽいんだせ」と言いたい感じの超あざとい尻切れトンボな終わり方をします。
俗にそれも「こけおどし」といいます。
もっとも原始的な鬼才感の出し方は、悪い人間に寄せることで、近寄りがたい雰囲気を醸成することです。北野武や園子温のようにバイオレンスを描くと「怖そう」という雰囲気が醸成され、人々は畏怖しつつ、すげえ監督なんだ──という鬼才値を彼/彼女に置きます。
山中瑤子監督は、嫌悪を感じるメンヘラ女を描くことで、バイオレンス描写と同じような効果を狙っています。そこに流行のメタフィクション細工を足して、理解の上つくっている雰囲気を織り込ませています。利口な人ではあるのでしょうが毎度の日本映画でした。
日本映画界が自己顕示型だらけなのは、日本が左翼に席巻されているからだと思います。全メディア、政界、財界、芸能界、映画界、操觚界、学会、左翼だらけです。左翼という言い方が強すぎるならばリベラルでもいいです。
どこかの映画評価機関が2023年のベスト&ワーストとして花腐しがベストでゴジラ-1.0がワーストだと公表していました。信じられますか。ゴジラ-1.0がワーストだとほざいていたんですよ。どう考えても人気作を貶めることで「おれたちは孤高なんだぜ」と気どっている中二でしかありません。個人的にはそんな評価をする人間と同じ空気を吸いたくありません。
左翼やリベラルが目指すのは日本を憎むように仕向けること──からの社会の壊乱です。人間が怠惰になり生産性を欠いた結果、国家が破滅することを望んでいるのが左翼やリベラルです。
こうした目的をもっているがゆえに日本では映画も、反社会やバイオレンスやいびつや悪辣やゆがんだ世界や反日が主流になっているわけです。わたしはなにもカウンターカルチャーがだめだとか悪い世界がだめだとか言いたいわけではありません。しかしいまの日本映画にはカウンターカルチャーのようなアートハウスしかありません。日本はひどい国で、変な人間ばかりで、クソな日常生活しかない──というような日本映画しかありません。
普通の人は映画で悪を打ち負かす勇気や苦境でも何かをまっとうする気骨とかを見たいと思いますが、今の日本映画にはそういった正義や秩序がことごとくありません。
映画監督ならば、なぜゆがんだ人物を描きたいのか考える必要があると思います。監督自身が、苛酷な体験をしたのでないのなら、恐ろしい話はホラーにすべきだと思います。
海外の映画において、ホラー仕立てではなく、現実ドラマで胸糞系がない理由は「こけおどし」になってしまうことを避けるためです。アスターもこれをホラーとみたはずであり、でなければ褒めなかったでしょう。
結局のところ、わざと不愉快な映画をめざしたのでしょうが、普通の人のわたしにとっては、不愉快な映画だった──としか言いようがありません。