ナミビアの砂漠のレビュー・感想・評価
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現代を砂漠にするのはまだ早い
カナの頭の中は分かった気がする。
頭の中ではランニングマシーンが稼働して、常に世界で動くことが求められる。部屋の中でも、横になっても休めない。精神の疲労を身体の疲労に同期することが求められる。ゆえに暴言を吐き、身体を暴れさせる。
カナと現況が似ている人や、それを現代の若者像と素描したい人には必要であり、求められる物語であるのは一定理解はできる。
しかし私は朝子のように「だから、謝らへん」。
本作を批判的に取り上げるには、3つの障壁がある。それは①河合優実のトップレスをみてしまったこと②男性クリエイター批判があること③精神疾患に物語が回収されていること、である。
この障壁はなかなかに手強い。河合優実の身体のあり様が凄かった。男性クリエイターの性加害やハラスメント問題は全く解決されていないから、それをトピックとして取り上げたのは素晴らしい。カナのような女性像は今まで捨象されてきたから、映画として現前させたことは一つの肯定の仕方でよい。そう言うことはできる。もちろんそれらに反論するつもりはない。しかしそれで全てを済ませていいのか?とも思ってしまう。
まず、カメラが酷いと思うのは私だけだろうか。
手ブレが酷い。冒頭のカフェのシーンのように、なぜ室内のシーンで固定カメラではなく、手持ちが採用されているのかがよく分からない。さらにカメラが移動する際、人物を追えていない。撮り逃しが生じている。その手ブレをカナの精神の不調、カメラワークの酷さをドキュメンタリーらしさということはできる(動物のドキュメンタリーを想起してほしい。カメラが追おうとしたり、ズームをしても何も起きなかったり、逃げてしまうことがある。そういった描写が本作にはある)。
けれどカメラのブレがカナの精神の不調を表現しようとも、それは「カメラが偽装しているカナの精神の不調らしさ」であって、当のカナの精神の不調と全く同期していない。それどころか不和が生じている。さらにカメラワークは例えば、肝心なカナと唐田えりか演じる隣人の女性の想像世界か現実なのか分からないあの幻想的な火の飛び越えを全く綺麗に撮れていないから、単に下手であるという感想しか持ち得ない。
このように本作は全体を通して、カメラが不調をきたしている。だからその不調さに私も気持ちが悪くなって、カナが精神疾患かもしれないと明かされるまで、苦痛な時間を強いられた。
物語それ自体に立ち入れば、本作が道徳とジェンダーロールの転倒をひとつのトピックにしていると解釈はできた。
冒頭のカフェのシーンで、カナの頭の中では知人の自殺と他人の話すノーパンしゃぶしゃぶが同等の話題でしかないことが音声イメージの巧みな表現で明らかになっている。さらにこの道徳の転倒が、カナには安定した彼氏がいるのに別の男がいる性の奔放さや、虚言癖であることのヤバさに結実していくのである。
しかしカナをヤバいと思うのは女性だからであって、上述のことを映画に登場する男たちに置換すれば、紋切り型の話でしかないことがわかってくる。だって、妻子を持った男が、魅惑的な女の虜になって、円満な家庭生活が崩壊していく物語なんて腐るほどあるじゃないですか。
だから男の領分とされた映画において、本作ではジェンダーロールを転倒させ、カナにかつての男を、ヒステリックさを元カレに演じさせる。そして無根拠な暴力に晒されたり、原罪を負わせることを今カレに配置し直す。その試みは面白いとは思う。
だが問題は社会が存在しないことである。彼らが生きている現状は理解した。カナをヤバいと思ってもいいが、それは男一般に言えることだとは分かった。しかしカナたちはどう生きるの?
社会が存在しない世界観はとても現代的だ。新自由主義思想に経済も政治も侵される現代は、市場原理によって全てが統治されて、社会保障は徹底的に削減される。国家も社会も守ってくれない。だから個人の能力と責任で自力に「生き延びるしかない」。
そんな現代に生きていたら、生活と世界が社会を飛び越えてダイレクトに接続される。その様は、カナがソファにくつろぎ、スマホでナミビアの砂漠のライブ映像をみている姿であろう。ダイレクトに繋がると私たちは引き裂かれる。生活と世界の問題は別個であるはずなのに、直接つながる。しかしそれぞれの次元はそれぞれの次元に何ら解決を与えない。それなら問題は解決はされないから生活の何もかもが詰んで、都会であっても砂漠同然となり、精神疾患になってしまうのも当たり前だ。
しかし現実にはやはり社会は存在するのである。だからあたかも社会が存在しないかに偽装する本作はカナらの問題を何ら解決させない/できないし、私たちに慰めを与えるしかできない。
カナと今カレの家賃はどうしているのだろう。東京の郊外であっても、十分な広さがあるファミリー向けの部屋は相当高いのではないだろうか。21歳の脱毛サロンの彼女と脚本を書いているクリエイターもどきの彼にそんな経済力があるのだろうか。彼の実家が裕福な描写はあるから、親の所有する不動産なのかもしれない。ただ仮に彼らが家賃を払っているのであれば、カナの経済状況から容易に辞める選択はできないだろうし、親が所有または家賃を払っているのなら、今カレがカナと別れない理由が分からない。このように彼らの置かれている社会背景が不明瞭であるならば、カナが精神疾患にならざるを得ない現状の訴えに説得力が欠けてしまう気がする。「で、カナは何に悩んでいるの?」で一蹴されてしまう。
「ティンプトン」でいいのだろうか。分からない、分からないと何度も繰り返し、病的で破綻した生活を送れば。でも私はそんなの嫌である。
上述の生活空間の描写のように、本作に登場する彼らー特にカナーはリキッドした学校の中を生きているように思えてしまう。全てが大人に所与されている。部屋も職場も食事も何もかも。まずは自分でご飯を作ってみなよ。バーベキューの準備をしてみなよ。後輩も働きやすい職場をつくってみなよ。全然一からじゃなくていい。上手くなくてもいい。けれどそんな社会への働きが、カナの体調を改善させるのではないか。というか精神疾患で、全ての問題を片付けるな。原因は個人ではなく、社会にもあるのだ。そしてもちろん不調を医学的に診断し、名前をつけ、治療することもまた当然に必要であるが。
そう思うのも、カナの現状を擁護するだけで終わりたくはないからだ。というかそれなら、あまりにも他人事過ぎませんか?カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞したのも、「現代の日本で生きる若者は大変やな。まぁ、私たちの社会には関係ないからあんま知らんけど」とか、本作を評価する親世代以上の人たちも「子どもたちは本当に大変やな。まぁ、自分の子どもはインターに通わせるからあんま知らんけど」であるなら最悪じゃないですか。もちろんこれは私の妄想ではある。しかしやはりカナが生きれる社会をどうつくれるか私は考えたい。
長くなってしまった。カナが脱毛サロンの店員から、「脱毛」を取り巻く社会の強迫観念がもっと主題にあがってくると思っていたしー介護脱毛ではない、広告や若年化、ルッキズムー、カナが仕事を辞めてからはどう脱毛するのか期待していたが、全く後景に退いて悲しかった。けれど「原罪」というのはひとつの主題のような気がした。生えてくるのが罪かのようなムダ毛。そしてムダ毛的な事態は、生きていることが罪かのように、消費活動に駆り出される現代に横滑りする。さらにそんな観念を内面化して、私たちは生まれなければよかったと思ってしまう。反出生主義だ。だが私はもう反・反出生主義者なので、未来を向きたい。
そして現代を砂漠にするにはまだ早い。
眺める人生、眺められる人生
ヒロイン・カナのつかみどころのなさに、前半かなり戸惑った。友人を軽くあしらい、二股をかけ、あっさりと堅実な恋人を裏切る。彼女の目的や志向がさっぱり分からず、物語もどこに向かっているのか予測がつかず…。彼女の暴力性も相まって、不穏な空気におののきながらも、なぜか目が離せなかった。
予告もちらしにも触れる機会がなく、タイトルとキャスト以外の前情報は一切なし、での鑑賞。そもそも、タイトル「ナミビアの砂漠」の意味さえも、よくわかっていなかった。時折カナがスマホで眺めている砂漠、エンドロールで延々と大写しになる風景がナミビアなんだろうな…と思いながら、帰宅後にネット検索。ナミビア共和国・ナビブ砂漠の人工池に集まる動物たちのライブカメラ映像が、気持ちが鎮まる、中毒性があるなどと支持されているらしい。では、彼女はなぜ、このサイトにハマっているのだろうか。
後半、スクリーンがぐーっと反転してスマホの画面に押し込められ,カナが自分を画面越しに眺めるシーンが印象的だった。心や体が自分から切り離される、離人症を思わせる描写。恋人との生活がいよいよままならなくなり、仕事からもドロップアウトした彼女は、よろよろとカウンセリングに通う。箱庭にやっと置いた木の下で、顔を合わせるだけの隣人(あの!唐田えりか。ハマり役!)と楽しく歌い踊る。本作の中で唯一、純度の高い幸福なシーンだった。
彼女は縛られたくない、解き放たれたい、と全身で叫ぶ。自分の自由のためならば,周りが傷つくことも厭わない。けれども、縛られず、解き放たれるためには、まずは自分を縛り付ける存在が必要になる。たとえば友人、恋人、仕事。そして、解き放たれるということは、拠り所を失うということでもある。やさしい元彼が作ったハンバーグを、もそもそと咀嚼して消滅させるカナ。滑稽なのか悲壮なのかわからない、ねっとりと残るシーンだった。
人工池に集まる野生の生き物に自然を感じるように、作りものの世の中でうごめく自分を外から眺める、拭いきれないウソっぽさ。自分は眺める側ではなく、眺められる側だった。ならば、値踏みが大好きな人たちに鑑賞される人生から、フレームアウトすればいい。そう気づいた彼女が辿り着く先にあるのは、安堵なのか、失望なのか。…100年経ったら、どちらも大差なし。
今年一番の日本映画
無軌道であぶなっかしく、しかし強かで強靭さもある主人公像が本当に素晴らしい。岡崎京子の作品の主人公のようだ。タフで大胆で人を食ったような強烈な個性とエネルギッシュに現代を闊歩するカッコいい女が存分に見られる作品だ。この作品の主人公にとって、心の傷もまた自分らしさで個性である。現代の消費社会は残酷で傷つけられることもあるが、その傷にひるまない強靭さが全身で体現した河合優実の佇まいがすごい。『あんのこと』ではむしろ、社会の理不尽さに傷つき敗れる繊細な女性像を体現したが、こっちは現代社会を食い破るような強靭さと繊細さも併せ持ったような驚くべき主人公像を構築している。今年はこの2本で完全に河合優実の年になった。そして、山中瑶子の脚本は大胆不敵で見事なキャラクター造形力を見せてくれた。今後、日本を代表する映画作家になるだろう。
戦いに疲れ、傷つき、怒るヒロインは大都会のヌーなのか?
友達からカフェに呼び出され、共通の友人が亡くなったことを聞かされてもどこか虚なヒロイン、カナは、同棲中の恋人に管理されているような生活を続けながら、別の男とラブホデートがやめられない。カナはいったい物事のどこに共感し、どこに自分の幸せを見出そうとしているのか?
途中で見えてくるものがある。友人も恋人たちもみんな自分勝手かつ本音と建前が乖離しまくりで、会話の途中で突然キレることが多いカナのストレスの原因は、どうやらそこにありそうだということが。だが、それさえ世間は躁鬱病という枠内に押し込もうとする。カナの頭の中の?は膨らむばかりだ。
他にも、カナの血族に関するあれこれとか、脚本も兼任する山中遥子監督はヒントになるカードをあちこちにばら撒いて、終始観客の集中力を途絶えさせない。こんな握力がある映画は珍しいと思う。
握力の一端は、カナを演じる河合優実の常に目と唇から力みを取り去った放心状態のような演技にもある。
題名は『ナミビアの砂漠』。劇中で、カナは携帯動画が映し出す砂漠のオアシスに群れるヌーに何を見ているのか?砂漠=現代社会、ヌー=自分と解釈するのは単純すぎる気がする。平日の新宿、劇場は若い女性観客で席の約9割は埋まっていた。
根深い男社会への不服を全身で表すカナに、ぐいぐい突かれる痛みと快感
男女平等や多様性尊重の理念が当たり前の語られるようになった昨今の日本でも、男女格差は厳として存在するし、そんな根深い男性優位社会に不満を抱きながらも「自分一人が声を上げたところで何も変わらない」と消極的に現状を容認している大勢(恥ずかしながら私もそう)にとって、カナ(河合優実)の恋人に対する暴れっぷりは、単に目の前の相手だけでなく、優しいふり理知的なふりで女性という存在をじわじわと押しつぶそうとするより大きな男社会そのものへの不服を体現しているように見える。それは自分でも気づいていなかった急所、あるいはツボをぐいぐい突かれるような痛さをもたらすが、その痛みを受け入れることで積年の凝りやこわばりがほぐれ、ほどなく快感に変わっていくのに似ている。
監督・脚本の山中瑶子は日本大学芸術学部の監督コースに通うも、馴染めずに中退。その後独学で初監督作品「あみこ」を制作したというが、型にはまらない作風、小器用にまとめようとせず粗削りでもいろいろ試してみようという意気が映像から伝わってくるのが実にいい。
この「ナミビアの砂漠」を観たことがきっかけで、身のまわりで不満に思いつつも受け流していたことを自分から変えていったり、理解しているつもりで実は勘違いだった言動を改めたりする人が増え、めぐりめぐって社会の古い体質が改善されるなら、それこそまさに“痛快”ではないか。山中瑶子監督にはこれからもその独創性を極める方向で突き進んでほしいと願う。
着地点がティンプトン
最後までちゃんと見れたのは河合優実の演技のおかげか?
パンフレット買わなかったが何が書いてあたのかな〜買って読んだら評価が変わるのか?
とってもえっちでした。
山中監督の作品はあみこしか観てないが
女の(というより人間の)恥部を曝け出すタイプの方だと思っていたので、
今回もとても良かった。
第一印象は、あら、山中監督、だいぶエロくなりましたねと、←
個人的に寛一郎さんのビジュアルがとても好きなので、彼のエロいシーンも見たかったです。
終盤、観客を納得させるかのように、躁鬱とか精神病に持っていってて蛇足だなと。
そんな診断ついてもつかなくても、女は結構ああいう感じだよなぁと反面教師的にみてました。
彼氏とは、ちょっと一緒に見れない。1人でみてよかった。
ラストシーン、中国のお母さんたちと電話してふと何かを取り戻したのかな。
そう考えると、引き金となったのは冒頭の友達(の友達?)の死なのか?なんだろう。
中絶しても人生は続いてく、仕事はしなきゃいけないし、
ご飯も食べなきゃいけない。
生存したいかは正直分からないけど、生きていく方に足が向いている。
他の方のレビューを見ればきっと答えがあるんだろうけど、
私は私なりの答えを見つけたいので、人のレビューは見ずに、何度かこの映画を反芻して、答えを探していこうと思いました。
なんで評判良いのかわからない…。
やたらイケメンでやたら性格の良い二人の好青年を手玉に取り二股かける今どき女子。
4:3の狭苦しい画面で淡々と起伏のないドラマを見せられて、たまに唐田えりかが脈略もなく現れたり、ランニングマシーンで走りながら自らの暴力を傍観する謎シークエンスが入る。
はっきり言って意味不明で退屈な映画。
と、なんども欠伸をして失神寸前になっていたら主人公の性格の破綻は精神疾患のせいだとヒューマニズムに訴えかけられる。
これはヤバい映画を見てしまった。
なんでこれが評判良いのか、わからない。
監督が新藤兼人賞候補に上がるのも不明。
河合優実は頑張ってた。
それだけが唯一の救い。
ストレス溜まる映画。
懐かしのATG映画
そういえば 若い頃ってこんなだったな…と。
主人公の女の子が映画中盤まで真面目に
勤務先であるエステに通っていたこと。
やたらお腹空いたと言ってたこと。
ちょっと年上の 面倒見の良いカレシがいたこと。
ハンバーグを美味しく作れる男なら
風俗行こうが全然構わない
昔は真珠のピアスだったけど、
産婦人科がくれた腹の子の画像。
映画見終わって、お腹空いて
豚カツ屋へ駆け込んだ。
若いころ
21歳の時は似たようなものだったな〜。懐かしい。今どきの若者ってわけでもなく、あんな感じだよ。
物語としてはまあまあかなあという感じだけど、若い女性の繊細なひりつきを描いたという点では面白かった。タイトル出る前までがよかったかな。
起きるときのぐだぐだした感じとか、無意味に走ったりとか、めんどくさいからズボンはかなかったりとか、女性からみたらあるあるなのでは。
脱毛サロンという、女性なら7割くらいの人が行ったことあるけど男性は知らない場所のリアルが書かれておもしろい。無表情でお互いやり過ごす場所。
彼氏がふたりとも絶妙にウザくてなぐりたくもなるわ〜。2人目の彼はケンカの後すら意識高くてマジうざっ。水飲めとか、服着ろとかうるさいな。
若い頃のなんかムカつく感じを思い出した。
でも何にむかついてるのかよくわかんなかったなあなころ。砂漠の水飲み場くらいなにもかも遠いんだもん。
河合優美のプロモーション映画?
河合優美の演技力は昭和末のスケバンだろうと宗教二世だろうと何でも演じられるくらいに起用で抜群なものがある。初の主演作「かぞかぞ」を経て題名が流行語大賞候補にもなった「ふてほど」で人気が出た河合優美の為に所属事務所が制作したプロモーション映画といったところ。河合優美の演技自体は引きつけられるのだが色々とシーンが目まぐるしく変わるので何を見ているのかが分からなくなってしまうのが多々あるのが難。精神科のクリニックでの診察費として額は忘れたが異様な金額が提示されていたのは全額自己負担なのか、それとも日本国内では未公認で合法的に購入出来ないような危ない薬でも処方されたのだろうか?河合優美がどきつい台詞回しをするのは「ふてほど」をイメージしているのだろうか?
単なるのドロドロ恋愛映画ではなく
8割苦しかったけど、見ていたかった。
カナが隣の部屋のお姉さんと出会えて、こちらが救われた。
最初の方のカフェのシーン、近くの席の人の声が耳に入ってきて、目の前の相手の話に集中できなくなるの、分かる。
散歩のシーン、道が二つに分かれているところで立ち止まってどっちに進むか考えて、進んだ先が行き止まりで引き返す。
決断はよく考えて下した方が後から他責にならず納得できるし、間違えてもやり直したら良い、それだけ。
一人目の彼氏が突然現れて、地面に四つん這いになって泣くシーン、笑ってしまった。君じゃないとだめなんだ!って感じで、熱いね〜笑
突然いなくなった、って言ってたから、冷蔵庫とか運び出してたのは彼氏の仕事中ってこと?
カナは何度も「拾えよ」と命じていた。優位に立ちたい、コントロールしたい、という感じ。
口論でさえ避けたいし、喧嘩はしたくない、取っ組み合いの喧嘩ができる仲はすごいなあ。
バーベキューで川辺の岩の影で吸ってたのは、大麻?だからカナはそのあと目が虚ろだったり、彼氏はぐっすり寝てたの?
カナは、会話が足りていないのかなと思った、誰かと話すことは自分を理解することに繋がっているし、カウンセラーと話すようなことを彼氏とも話せたら、カナも、カップルの仲も、安定するのかな。
君を理解できるのは僕だけ!君を一番よく理解しているのは僕だ!、僕が君を守るから!君には僕しかいないから!、だから一緒にいよう!戻ってきて!みたいな、よくあるよな〜
まず、他人を理解することはできないことを念頭に置いて、けれど少しでも相手をよく知りたいと思い、試みを止めないことが、健全なアプローチだと思う。
最初は『愛がなんだ』みたいな感じかと思ったけど、違った。カナが、嫌なことには嫌という反応を示しているから?単なるのドロドロ恋愛映画ではなく、ちゃんとカナの感情を中心に置いた生き様を描いた映画だったと思う。
髭の剃り忘れ、若いイケメンのファッション髭はやっぱり苦手。だらしないし、それがカッコいい良いと思っているから、苦手。
同じく河合優実主演の『あんのこと』が辛かった人にこそおすすめしたい一作
主人公カナ(河合優実)の視点で紡いでいく展開は、同じく河合優実の近作『あんのこと』をどうしても連想してしまいます。本作の主人公カナもまた、周囲の状況や関わりあう人々に翻弄され、苦しむ描写がある一方、その先の光明が見える部分もあり、『あんのこと』や、あるいは昨年公開の『市子』(2023・杉咲花主演)などの鑑賞体験が辛いものだった人にこそ、お勧めしたい作品です。
とはいえ、本作もまた気楽に観ることができる作品、というわけでは決してありません。山中瑶子監督の作劇は、何気ない情景や言葉の中に重要な要素をそっと差し込んでいくところがあり、油断していると次の展開の意図が分からなくなった……、という目にあうこともしばしば。見方を変えれば、繰り返し鑑賞することで、作品内容の理解をより深めていくことができる、奥行きのある作品、ということになります。
また山中監督の押しつけがましさほぼ皆無の演出だからこそ、登場人物の多様な人間性がにじみ出ています。例えば作品冒頭、友達の話を親身になって聞いているように見えるカナが実は別の会話に気を取られていて全く友達の言葉が耳に入っていない、というふるまいは思わず笑ってしまうし、独善的な言動が目立つハヤシが終盤にかけて見せる意外な一面にもある種の救いがありました。非常に解釈しがいのある作品なので、複数人での鑑賞もおすすめです!
無になって観る
共感できるとか、リアルだとか、どうでもいいよね。
カナはカナで、生きてる世界がある。
映画なんて見てどうなるの。ってセリフが好き。
だって自分も、どうにもならない映画を見て2時間使ってるからね。
ややこしいこと考えても解決しないので無になって観てました。
今のところ本年No.2、オススメ
登場人物がみんなキャラが立ってて、どのシーンも鮮烈に印象に残ってる。
ヘタレ彼氏の諸々、ランニングマシンとキャンプのシーンが特にお気に入り。
河合優実さんは、他の作品でも目立つ演技をしてたけど、この作品でとても好きになった。
久しぶりの超ハズレ映画
上映後30分くらいからしんどくなってきて、中盤からはゲンナリウンザリ。難行苦行のような映画鑑賞だった。
この程度の脚本で映画が出来るんだなぁ、と呆れるばかり。
ほんとうに時間のムダでした。
あー、しんど。
ボーダーの女性の話
他のコメントでも「自分が許されたような気持ちになった」という感想がありますが、自分も同様です。
映画そのものがセラピーのようでした。
主人公は家族を捨てた父親を恨みながら、無理矢理許していた。
父も人間だから仕方ない。親を憎みたくない。
抑圧した怒りの矛先は、恨んでもいい他の男たち。
男性に依存的な態度を見せる一方で激しい攻撃性を持っていました。
女性には攻撃性を見せないあたり、母親との関係は悪くないのだろう。
ちょい役の隣人女性もいい空気感を出しています。
自分が恋人と喧嘩する声を聞いているはずなのに何も知らないように微笑んで挨拶してくれる自然体な態度が、主人公にとっては母親的な包容力を感じたのだと思います。
「お腹すいた」
これは子供のように甘えているのだと気づきました。
「お父さん、お腹すいた」
父親には言えない。叶えてもらえない欲求。
安心感や甘えが生んだ食欲。
一人で食べることを嫌がるのは、恋人が不在の父親の代わりだからでしょう。
ここ、痛いほど共感できます。
共依存の元カレとは違い、「お互いに高めあえる対等な関係」を求めた新しい彼氏は、許しだけでなく厳しい叱咤もする。主人公にとっては理想的な関わり方だと思います。
境界性人格障害、双極性障害というワードが出てきたのには驚いた。
多分、主人公は境界性人格障害だと思います。
女性に対してはアンバランスにならないあたり。
同じ病気を抱えている人や、主人公と似た性質を持ったかたには気づきがある作品だと思います。
ま!!!!!
美人ならではの展開ですけどねっ!!!!!!
意味は分からないがエネルギーは感じる
きっとナミビアも砂漠も出てこないんだろうな、と思っていたら、やっぱりそうだった。一部、スマホで砂漠の映像見てる瞬間があるのと、エンドクレジットのところだけそれらしい映像が映るが、特にナミビアについて語られるシーンは無い。なんの意味があるのか、わからない。でもよく分からないエネルギーは感じる。
冒頭、駅近くのビルを歩いて喫茶店にたどり着いた河合優実が、友だちの話と男たちの風俗の話とを、同時に聞く場面から心を掴まれる。
目の前のことがまるで他人事のように思える。多分この頃から、もう病気が始まっている。
陰惨なストーリーのことを鬱展開と言ったりするが、文字通りのうつ病の物語になっていき、目が離せなくなる。
あと恋人との喧嘩がリアル。特に突然男が暴力的になったり直後に謝ったりとか、すごくよく分かる。自分にも心当たりがある。
男たちの方も病気ではないか。
ロリコン…
大昔ノーパンしゃぶしゃぶに行ったことを素直に白状するが(俺は寛一郎か)、そんな自分のようなおっさんにはハードル高そうな作品かと鑑賞前には身構えていたものの、河合優実をずっと観ているだけで137分が不思議と飽きなかった。いちいちリアルな彼女の演技はもちろんだが、ホン・サンス的ズームや脳内ワイプにえっ?となったり、ふたり組になって溶けていく…とかのポエムな(キモ)脚本とか、心療内科の葉山さんの話し方とか、唐突な唐田えりか力などなど、画面に惹きつけて離さない工夫がしっかりされていた。
お腹空いてないって言ってる…からのキレっぷりや、洗濯機など周囲の音が耳に障る不安定さ、葉山さんとのやりとりなどを通じ、カナが抱えているものを想像しつつ、しまいには自分がカナに同化していくような感じすらしたが、理解できていないところも多いので、気のせいだと思う。とりあえず、映画なんか観てなんになるんだよと言われても「あみこ」も観てみたくなった。キャンプだホイ!
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