ナミビアの砂漠のレビュー・感想・評価
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現代を砂漠にするのはまだ早い
カナの頭の中は分かった気がする。
頭の中ではランニングマシーンが稼働して、常に世界で動くことが求められる。部屋の中でも、横になっても休めない。精神の疲労を身体の疲労に同期することが求められる。ゆえに暴言を吐き、身体を暴れさせる。
カナと現況が似ている人や、それを現代の若者像と素描したい人には必要であり、求められる物語であるのは一定理解はできる。
しかし私は朝子のように「だから、謝らへん」。
本作を批判的に取り上げるには、3つの障壁がある。それは①河合優実のトップレスをみてしまったこと②男性クリエイター批判があること③精神疾患に物語が回収されていること、である。
この障壁はなかなかに手強い。河合優実の身体のあり様が凄かった。男性クリエイターの性加害やハラスメント問題は全く解決されていないから、それをトピックとして取り上げたのは素晴らしい。カナのような女性像は今まで捨象されてきたから、映画として現前させたことは一つの肯定の仕方でよい。そう言うことはできる。もちろんそれらに反論するつもりはない。しかしそれで全てを済ませていいのか?とも思ってしまう。
まず、カメラが酷いと思うのは私だけだろうか。
手ブレが酷い。冒頭のカフェのシーンのように、なぜ室内のシーンで固定カメラではなく、手持ちが採用されているのかがよく分からない。さらにカメラが移動する際、人物を追えていない。撮り逃しが生じている。その手ブレをカナの精神の不調、カメラワークの酷さをドキュメンタリーらしさということはできる(動物のドキュメンタリーを想起してほしい。カメラが追おうとしたり、ズームをしても何も起きなかったり、逃げてしまうことがある。そういった描写が本作にはある)。
けれどカメラのブレがカナの精神の不調を表現しようとも、それは「カメラが偽装しているカナの精神の不調らしさ」であって、当のカナの精神の不調と全く同期していない。それどころか不和が生じている。さらにカメラワークは例えば、肝心なカナと唐田えりか演じる隣人の女性の想像世界か現実なのか分からないあの幻想的な火の飛び越えを全く綺麗に撮れていないから、単に下手であるという感想しか持ち得ない。
このように本作は全体を通して、カメラが不調をきたしている。だからその不調さに私も気持ちが悪くなって、カナが精神疾患かもしれないと明かされるまで、苦痛な時間を強いられた。
物語それ自体に立ち入れば、本作が道徳とジェンダーロールの転倒をひとつのトピックにしていると解釈はできた。
冒頭のカフェのシーンで、カナの頭の中では知人の自殺と他人の話すノーパンしゃぶしゃぶが同等の話題でしかないことが音声イメージの巧みな表現で明らかになっている。さらにこの道徳の転倒が、カナには安定した彼氏がいるのに別の男がいる性の奔放さや、虚言癖であることのヤバさに結実していくのである。
しかしカナをヤバいと思うのは女性だからであって、上述のことを映画に登場する男たちに置換すれば、紋切り型の話でしかないことがわかってくる。だって、妻子を持った男が、魅惑的な女の虜になって、円満な家庭生活が崩壊していく物語なんて腐るほどあるじゃないですか。
だから男の領分とされた映画において、本作ではジェンダーロールを転倒させ、カナにかつての男を、ヒステリックさを元カレに演じさせる。そして無根拠な暴力に晒されたり、原罪を負わせることを今カレに配置し直す。その試みは面白いとは思う。
だが問題は社会が存在しないことである。彼らが生きている現状は理解した。カナをヤバいと思ってもいいが、それは男一般に言えることだとは分かった。しかしカナたちはどう生きるの?
社会が存在しない世界観はとても現代的だ。新自由主義思想に経済も政治も侵される現代は、市場原理によって全てが統治されて、社会保障は徹底的に削減される。国家も社会も守ってくれない。だから個人の能力と責任で自力に「生き延びるしかない」。
そんな現代に生きていたら、生活と世界が社会を飛び越えてダイレクトに接続される。その様は、カナがソファにくつろぎ、スマホでナミビアの砂漠のライブ映像をみている姿であろう。ダイレクトに繋がると私たちは引き裂かれる。生活と世界の問題は別個であるはずなのに、直接つながる。しかしそれぞれの次元はそれぞれの次元に何ら解決を与えない。それなら問題は解決はされないから生活の何もかもが詰んで、都会であっても砂漠同然となり、精神疾患になってしまうのも当たり前だ。
しかし現実にはやはり社会は存在するのである。だからあたかも社会が存在しないかに偽装する本作はカナらの問題を何ら解決させない/できないし、私たちに慰めを与えるしかできない。
カナと今カレの家賃はどうしているのだろう。東京の郊外であっても、十分な広さがあるファミリー向けの部屋は相当高いのではないだろうか。21歳の脱毛サロンの彼女と脚本を書いているクリエイターもどきの彼にそんな経済力があるのだろうか。彼の実家が裕福な描写はあるから、親の所有する不動産なのかもしれない。ただ仮に彼らが家賃を払っているのであれば、カナの経済状況から容易に辞める選択はできないだろうし、親が所有または家賃を払っているのなら、今カレがカナと別れない理由が分からない。このように彼らの置かれている社会背景が不明瞭であるならば、カナが精神疾患にならざるを得ない現状の訴えに説得力が欠けてしまう気がする。「で、カナは何に悩んでいるの?」で一蹴されてしまう。
「ティンプトン」でいいのだろうか。分からない、分からないと何度も繰り返し、病的で破綻した生活を送れば。でも私はそんなの嫌である。
上述の生活空間の描写のように、本作に登場する彼らー特にカナーはリキッドした学校の中を生きているように思えてしまう。全てが大人に所与されている。部屋も職場も食事も何もかも。まずは自分でご飯を作ってみなよ。バーベキューの準備をしてみなよ。後輩も働きやすい職場をつくってみなよ。全然一からじゃなくていい。上手くなくてもいい。けれどそんな社会への働きが、カナの体調を改善させるのではないか。というか精神疾患で、全ての問題を片付けるな。原因は個人ではなく、社会にもあるのだ。そしてもちろん不調を医学的に診断し、名前をつけ、治療することもまた当然に必要であるが。
そう思うのも、カナの現状を擁護するだけで終わりたくはないからだ。というかそれなら、あまりにも他人事過ぎませんか?カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞したのも、「現代の日本で生きる若者は大変やな。まぁ、私たちの社会には関係ないからあんま知らんけど」とか、本作を評価する親世代以上の人たちも「子どもたちは本当に大変やな。まぁ、自分の子どもはインターに通わせるからあんま知らんけど」であるなら最悪じゃないですか。もちろんこれは私の妄想ではある。しかしやはりカナが生きれる社会をどうつくれるか私は考えたい。
長くなってしまった。カナが脱毛サロンの店員から、「脱毛」を取り巻く社会の強迫観念がもっと主題にあがってくると思っていたしー介護脱毛ではない、広告や若年化、ルッキズムー、カナが仕事を辞めてからはどう脱毛するのか期待していたが、全く後景に退いて悲しかった。けれど「原罪」というのはひとつの主題のような気がした。生えてくるのが罪かのようなムダ毛。そしてムダ毛的な事態は、生きていることが罪かのように、消費活動に駆り出される現代に横滑りする。さらにそんな観念を内面化して、私たちは生まれなければよかったと思ってしまう。反出生主義だ。だが私はもう反・反出生主義者なので、未来を向きたい。
そして現代を砂漠にするにはまだ早い。
眺める人生、眺められる人生
ヒロイン・カナのつかみどころのなさに、前半かなり戸惑った。友人を軽くあしらい、二股をかけ、あっさりと堅実な恋人を裏切る。彼女の目的や志向がさっぱり分からず、物語もどこに向かっているのか予測がつかず…。彼女の暴力性も相まって、不穏な空気におののきながらも、なぜか目が離せなかった。
予告もちらしにも触れる機会がなく、タイトルとキャスト以外の前情報は一切なし、での鑑賞。そもそも、タイトル「ナミビアの砂漠」の意味さえも、よくわかっていなかった。時折カナがスマホで眺めている砂漠、エンドロールで延々と大写しになる風景がナミビアなんだろうな…と思いながら、帰宅後にネット検索。ナミビア共和国・ナビブ砂漠の人工池に集まる動物たちのライブカメラ映像が、気持ちが鎮まる、中毒性があるなどと支持されているらしい。では、彼女はなぜ、このサイトにハマっているのだろうか。
後半、スクリーンがぐーっと反転してスマホの画面に押し込められ,カナが自分を画面越しに眺めるシーンが印象的だった。心や体が自分から切り離される、離人症を思わせる描写。恋人との生活がいよいよままならなくなり、仕事からもドロップアウトした彼女は、よろよろとカウンセリングに通う。箱庭にやっと置いた木の下で、顔を合わせるだけの隣人(あの!唐田えりか。ハマり役!)と楽しく歌い踊る。本作の中で唯一、純度の高い幸福なシーンだった。
彼女は縛られたくない、解き放たれたい、と全身で叫ぶ。自分の自由のためならば,周りが傷つくことも厭わない。けれども、縛られず、解き放たれるためには、まずは自分を縛り付ける存在が必要になる。たとえば友人、恋人、仕事。そして、解き放たれるということは、拠り所を失うということでもある。やさしい元彼が作ったハンバーグを、もそもそと咀嚼して消滅させるカナ。滑稽なのか悲壮なのかわからない、ねっとりと残るシーンだった。
人工池に集まる野生の生き物に自然を感じるように、作りものの世の中でうごめく自分を外から眺める、拭いきれないウソっぽさ。自分は眺める側ではなく、眺められる側だった。ならば、値踏みが大好きな人たちに鑑賞される人生から、フレームアウトすればいい。そう気づいた彼女が辿り着く先にあるのは、安堵なのか、失望なのか。…100年経ったら、どちらも大差なし。
今年一番の日本映画
無軌道であぶなっかしく、しかし強かで強靭さもある主人公像が本当に素晴らしい。岡崎京子の作品の主人公のようだ。タフで大胆で人を食ったような強烈な個性とエネルギッシュに現代を闊歩するカッコいい女が存分に見られる作品だ。この作品の主人公にとって、心の傷もまた自分らしさで個性である。現代の消費社会は残酷で傷つけられることもあるが、その傷にひるまない強靭さが全身で体現した河合優実の佇まいがすごい。『あんのこと』ではむしろ、社会の理不尽さに傷つき敗れる繊細な女性像を体現したが、こっちは現代社会を食い破るような強靭さと繊細さも併せ持ったような驚くべき主人公像を構築している。今年はこの2本で完全に河合優実の年になった。そして、山中瑶子の脚本は大胆不敵で見事なキャラクター造形力を見せてくれた。今後、日本を代表する映画作家になるだろう。
戦いに疲れ、傷つき、怒るヒロインは大都会のヌーなのか?
友達からカフェに呼び出され、共通の友人が亡くなったことを聞かされてもどこか虚なヒロイン、カナは、同棲中の恋人に管理されているような生活を続けながら、別の男とラブホデートがやめられない。カナはいったい物事のどこに共感し、どこに自分の幸せを見出そうとしているのか?
途中で見えてくるものがある。友人も恋人たちもみんな自分勝手かつ本音と建前が乖離しまくりで、会話の途中で突然キレることが多いカナのストレスの原因は、どうやらそこにありそうだということが。だが、それさえ世間は躁鬱病という枠内に押し込もうとする。カナの頭の中の?は膨らむばかりだ。
他にも、カナの血族に関するあれこれとか、脚本も兼任する山中遥子監督はヒントになるカードをあちこちにばら撒いて、終始観客の集中力を途絶えさせない。こんな握力がある映画は珍しいと思う。
握力の一端は、カナを演じる河合優実の常に目と唇から力みを取り去った放心状態のような演技にもある。
題名は『ナミビアの砂漠』。劇中で、カナは携帯動画が映し出す砂漠のオアシスに群れるヌーに何を見ているのか?砂漠=現代社会、ヌー=自分と解釈するのは単純すぎる気がする。平日の新宿、劇場は若い女性観客で席の約9割は埋まっていた。
根深い男社会への不服を全身で表すカナに、ぐいぐい突かれる痛みと快感
男女平等や多様性尊重の理念が当たり前の語られるようになった昨今の日本でも、男女格差は厳として存在するし、そんな根深い男性優位社会に不満を抱きながらも「自分一人が声を上げたところで何も変わらない」と消極的に現状を容認している大勢(恥ずかしながら私もそう)にとって、カナ(河合優実)の恋人に対する暴れっぷりは、単に目の前の相手だけでなく、優しいふり理知的なふりで女性という存在をじわじわと押しつぶそうとするより大きな男社会そのものへの不服を体現しているように見える。それは自分でも気づいていなかった急所、あるいはツボをぐいぐい突かれるような痛さをもたらすが、その痛みを受け入れることで積年の凝りやこわばりがほぐれ、ほどなく快感に変わっていくのに似ている。
監督・脚本の山中瑶子は日本大学芸術学部の監督コースに通うも、馴染めずに中退。その後独学で初監督作品「あみこ」を制作したというが、型にはまらない作風、小器用にまとめようとせず粗削りでもいろいろ試してみようという意気が映像から伝わってくるのが実にいい。
この「ナミビアの砂漠」を観たことがきっかけで、身のまわりで不満に思いつつも受け流していたことを自分から変えていったり、理解しているつもりで実は勘違いだった言動を改めたりする人が増え、めぐりめぐって社会の古い体質が改善されるなら、それこそまさに“痛快”ではないか。山中瑶子監督にはこれからもその独創性を極める方向で突き進んでほしいと願う。
今のところ本年No.2、オススメ
登場人物がみんなキャラが立ってて、どのシーンも鮮烈に印象に残ってる。
ヘタレ彼氏の諸々、ランニングマシンとキャンプのシーンが特にお気に入り。
河合優実さんは、他の作品でも目立つ演技をしてたけど、この作品でとても好きになった。
久しぶりの超ハズレ映画
上映後30分くらいからしんどくなってきて、中盤からはゲンナリウンザリ。難行苦行のような映画鑑賞だった。
この程度の脚本で映画が出来るんだなぁ、と呆れるばかり。
ほんとうに時間のムダでした。
あー、しんど。
ボーダーの女性の話
他のコメントでも「自分が許されたような気持ちになった」という感想がありますが、自分も同様です。
映画そのものがセラピーのようでした。
主人公は家族を捨てた父親を恨みながら、無理矢理許していた。
父も人間だから仕方ない。親を憎みたくない。
抑圧した怒りの矛先は、恨んでもいい他の男たち。
男性に依存的な態度を見せる一方で激しい攻撃性を持っていました。
女性には攻撃性を見せないあたり、母親との関係は悪くないのだろう。
ちょい役の隣人女性もいい空気感を出しています。
自分が恋人と喧嘩する声を聞いているはずなのに何も知らないように微笑んで挨拶してくれる自然体な態度が、主人公にとっては母親的な包容力を感じたのだと思います。
「お腹すいた」
これは子供のように甘えているのだと気づきました。
「お父さん、お腹すいた」
父親には言えない。叶えてもらえない欲求。
安心感や甘えが生んだ食欲。
一人で食べることを嫌がるのは、恋人が不在の父親の代わりだからでしょう。
ここ、痛いほど共感できます。
共依存の元カレとは違い、「お互いに高めあえる対等な関係」を求めた新しい彼氏は、許しだけでなく厳しい叱咤もする。主人公にとっては理想的な関わり方だと思います。
境界性人格障害、双極性障害というワードが出てきたのには驚いた。
多分、主人公は境界性人格障害だと思います。
女性に対してはアンバランスにならないあたり。
同じ病気を抱えている人や、主人公と似た性質を持ったかたには気づきがある作品だと思います。
ま!!!!!
美人ならではの展開ですけどねっ!!!!!!
ロリコン…
大昔ノーパンしゃぶしゃぶに行ったことを素直に白状するが(俺は寛一郎か)、そんな自分のようなおっさんにはハードル高そうな作品かと鑑賞前には身構えていたものの、河合優実をずっと観ているだけで137分が不思議と飽きなかった。いちいちリアルな彼女の演技はもちろんだが、ホン・サンス的ズームや脳内ワイプにえっ?となったり、ふたり組になって溶けていく…とかのポエムな(キモ)脚本とか、心療内科の葉山さんの話し方とか、唐突な唐田えりか力などなど、画面に惹きつけて離さない工夫がしっかりされていた。
お腹空いてないって言ってる…からのキレっぷりや、洗濯機など周囲の音が耳に障る不安定さ、葉山さんとのやりとりなどを通じ、カナが抱えているものを想像しつつ、しまいには自分がカナに同化していくような感じすらしたが、理解できていないところも多いので、気のせいだと思う。とりあえず、映画なんか観てなんになるんだよと言われても「あみこ」も観てみたくなった。キャンプだホイ!
BGMとして観る作品
馬鹿な俺には監督がこの映画を撮った意味、何を伝えたいのか全く理解出来なかった(T_T)
BGM的に観る作品なのかなぁ…
今年観た作品で時計を見た回数1番多かった 残り15分で「これでエンディングロールかなぁ」と思って時計を見たら五分しか経過してなかったのが衝撃を受けた
東京砂漠
将来の夢もなく何に対しても情熱を持てないカナ。一応恋人はいるが、彼との生活に退屈さを感じるようになっていたカナは、ハヤシという男と生活するようになる。
しかし、新生活を始めた2人は互いに心が通じ合わなくなっていき……
面白い映画を観た。
好きか嫌いかで言われれば嫌いかもしれない。
なんでかって言われたらなんでかって言えないので、嫌いじゃないかもしれないけど、好きではない。ただ、独特で唯一無二、面白い。
鑑賞前、鑑賞中、鑑賞後と、この映画に対する印象がコロコロと変わった。
鑑賞前は今泉力哉的な良質な邦画かと思っていた。
しかし観始めると全く違う。
酒タバコセックスみたいな、どっかのバンドがやってそうな痛大学生的世界観。
中身の無いいわゆるエモ映像集みたいで少しガッカリだった。
しかし、それもまた違うことに気付かされる。
カナが抱えている精神的な部分はもっと深く重く苦しい。
彼女は何も悪くないと言いたいけれど、結局彼女が全部悪い。
あの2人の空間がキツくてキツくてしんどい。
もう観ていられないそう思ったとき、不思議なことにそんなこの映画のイメージもまた大きく変わった。
隣のお姉さんが出てくるあたりから終盤にかけて少しずつカナの世界が浄化されていく。
日常化した取っ組み合いはもはや愛おしいし、母親の親戚たちとのビデオ通話からラストカットまでで、ようやく彼女がこの世界に生きることができたように思えるのだ。
河合優実は改めて凄い女優だな。
良い女優だとは思っていたけど、正直今まで特別上手いと感じたことはなかった。
この難役をあそこまで自然体で演じられるのは才能でしかない。
今後の活躍も期待していきたい。
自分が女だったら金子大地が演じるような男を好きになっているかもしれない。それ以前にやっぱり金子大地が好きなのよ。
筧一郎は藤井風にしか見えなかったし、中島歩が出てくるとニヤニヤしてしまう。
好きな役者がイマイチ好きになれない役を演っていて最高だった。
あと全然関係ないけど、伊島空さんご結婚おめでとうございます!!
私はカナという1人の女性が開始1分からずっと好きになれなかったが、同時に無性に生きていて欲しいとも思った。
私にはあまり映画的な解釈はできないけれど、ナミビアの砂漠のようにこの一辺倒で生きにくいこの世の中にオアシスを見つけるのはなかなか難しい。
自分も自分のことで精一杯だが、1人でも多くの同年代の人がオアシスに辿り着ければと願うばかり。
よくわかんないけど確かにナミビアの砂漠。
好きな映画ではなかった。
でも悪い映画ではないと思う。
まず絵がいい。
正直あまり共感できるところのない登場人物たちなんだけど、なんか見入ってしまう。
河合優実はもちろん魅力あるんたけど、だからって誰が撮ってもこうなるわけじゃないだろうし。
やっぱりこの監督才能あるんでしょう。
なんかこう、わかってないなーと思うとこが一つもなかったので、きっと頭もすごくいいんだと思う。
しかしなー、残念ながらキャラクターや描いてる世界が好きじゃなかった。
自分と重なるところがなくて、興味も向かない方面という気がした。
唐田えりかだけ良かったかな。
とりあえずあの男のチョビ髭は嫌だった。
あーこの髭剃っちまいてー!とずっと思ってたわ(笑)。
もう一人の男は髪切れよって。ウザいし。
どうもその男どもの、あの辺が悪い(髭とか髪とかではなくて笑)、ていうのが観賞後の盛り上がりポイントの一つっぽいんだけど、自分はそんないいとも悪いとも思わなかった。
その辺にいる普通の男なんてこんなもんでしょ。
まあその、こんなもん、が時に我慢できないというのもわからんではないが。
でもその辺の普通の女だって、そういうこんなもん的なとこあると思うしね。
ていうかこういう人たちと接触ないので正直よく知らない(汗)。
結局言いたいことはわかるようなわからないようなだったけど、エンドロールの後に映る、インパラみたいなのが水飲んでるシーンは妙に説得力があった。
うまく説明はできないんだけど、この映画を絶妙に総括してるようなとこがあって、その辺のセンスも只者じゃないなーという気がした。
あとなんか精神科の治療が微妙に絡んでくるんだけど、色んな人のレビュー読んでて、それに割とみんな肯定的なのが不思議。
かなりリアルにインチキ臭くない?
あの男性医師のいい加減な感じはもちろんだけど、女性カウンセラーの、質問に答えず全部患者への問いかけにもどしてしまう、いかにもな感じとか、イライラしたけどね。
「どうしてロリコンを例に出したのですか?」ていう逆問いに「アンタそれこっちの質問に答えてねえだろ」とか言ってやって欲しかったけどなー!
ただこれもやっぱり、その辺の普通の精神科なんてそんなもんだろ、という気がする。
てな感じで、書いてるとなんか煮え切らないようなことしか出てこないんだけど、悪い映画、スカスカの映画、つまらない映画、ではないんだよね。
でもなんかモヤモヤして、ああでもない、こうでもないと考えてしまう。
そのはけ口としてこうしてレビューを投稿する次第です。
皆さんそんな感じなんですかね?
カンヌの受賞も、このモヤモヤ感に賞上げましょう!て感じだったのかな?
ひとつ思ったのは、自分中の理想というか願いというか、そういう真面目な思いが前面に出てくる場面が全然ないなあということ。
ちょっとでもあればよかったのに。
結局アンタ何がしたいの?どうなりたいの?って度合いが強すぎて。
いや彼女なりに前面に出してんのか・・・?
でなくてそういうのが見つからないってことなのか?
・・・結局モヤモヤする。
河合優実で持ってる作品
映画の冒頭、友人の自死を聞かされても他人事のような表情のカナに、一体この子の思考はどうなってるんだ?と少し驚かされてしまった。
その後、彼女は友人とホストクラブへ行き、自称クリエイターのハヤシとデートをして、酔って帰宅をすると同棲中の恋人ホンダに介抱される。何とも奔放なカナの日常が綴られ、よく言えば何事にも捕らわれない自由人、悪く言えば自分自身というものを持たない今時の少女といった印象を持った。好きか嫌いかという問題は別にして、この何とも掴みどころがない存在は、この映画をとても魅力的な物にしていることは確かである。
カナを演じるのは、昨今活躍が目覚ましい河合優実。彼女のドアップの映画のポスターが示す通り、全編出ずっぱりの熱演を見せている。正に彼女の存在感で持っているような作品ではないかと思う。
ただ、カナに感情移入できるかどうかと言えば、自分には出来なかった。どちらかと言うと、客観的に彼女の生き方を観察した…というのが正直な所である。
カナが今のような暮らしを送っている理由、彼女という人間を形成するバックボーンは、劇中に幾つかヒントが散りばめられている。例えば、妊娠中のエコー写真、終盤から登場するカウンセラーへの告白等から色々と考察はできる。しかし、いかんせん詳しい所までは分からず、そこは想像で補完するしかない。そこが分かれば彼女の苦しみや怒りといったものにも共感することが出来たのだろうが、残念ながらそれは出来なかった。
ただ、こうした孤独な若者がこの世のどこかに存在するのかもしれない…と、そんな思いを巡らすのみであった。
尚、カナは境界性パーソナリティー障害なのではないか…とも思った。ただ、そうするとこれは病気についての映画になってしまうわけで、それは少し捉え方として間違っているような気もした。本作はあくまでカナという女性のパーソナリティの部分をテーマにしていると捉えるのが筋だろう。
劇中には幾つか目を見張るような演出も見られる。
例えば、タイトルインサートのタイミングは「愛のむきだし」を連想させられたりもしたが、中々斬新で面白いと思った。
また、冒頭のカフェのシーンにおける周囲の騒音、後半の隣室から漏れてくる英会話のリスニング音等、音響演出も中々凝っている。
一方、時々カメラがズームされるが、これについては余り感心しなかった。唯一、カナのスマホに映るナミビアの砂漠の動画にズームするカットは技ありに思えたが、それ以外は余り意図が感じられない。全体のリアリティ重視なトーンにも合ってないような気がした。
また、終盤から幾つかシュールなシーンが登場してくるが、これもそれまでのトーンを考えると違和感を覚える。カナの不安的な精神状態を表したものなのだろうが、もう少し抑制しても良かったのではないか。
更に、ホンダやハヤシといった男たちの造形が陳腐過ぎるのもどうかと思う。ダメ男を描くにしても、もう少し深みが欲しい。ホンダに至ってはほとんどコメディかと思うほどであった。
現代社会を上手く描写している
平凡で退屈な毎日を過ごす21歳女性の日常生活を描いたヒューマンドラマ。窮屈な現代社会で苦悩する若者の姿を上手く描写している。
主演を演じるのは、注目の若手実力派女優・河合優実。最初から最後まで彼女の世界を堪能できる作品であり彼女の魅力に引き付けられる作品です。
2024-171
日本語字幕付き上映の回をあえて選んで鑑賞してきました。 主人公 2...
日本語字幕付き上映の回をあえて選んで鑑賞してきました。
主人公 21歳女子が、けだるく過ごす様子。
誰と接するにも、どこか上の空な感じ。友人との女子トークも、彼氏とも、職場でも。
受け流したり、揉めたり、縁遠くなったり、
静かなのは、ナミビアの砂漠のライヴ中継をスマホ画面で観ている時だけ。
相手を察するとか、遠慮とかではなく、
むしろ、生き抜くことが目標、とか。
同棲彼氏と日々のように大喧嘩する様子が、徐々にルーティンの体操劇のように見えてきたり。
母からのビデオ電話には愛想で受け流したり。
おそらく、目線を変えて再び見直したら、さらに気づきがあるような。
荒涼さと滑稽さと、じわじわ来ています。
河合優実劇場✨✨✨
何時間でも観ていられる。
若い時を思い出したり出さなかったり。
映画と関係無いのに『あんな事あったよな〜』っていつぶりに思い出したのかもわからないようなエピソードが次から次へと蘇り……この映画には自分の過去にアクセスするためのトリガーとなる何かがあるにみたい。
余計なことがアレコレよぎり過ぎて決して映画に没入はできないんだけど、でもなんか自分のコレまでの人生の振り返りを映画の伴走とともに完走した不思議な気分。
忘れた頃にまたコレ観たいなー。
ホンダ、うちに嫁に来てくれ。
河合優実を堪能する
はあ~カナから目が離せないです。ホンダもハヤシも優しい、、キャンプで居場所が無く間がもたない感じとてもリアルです。そういう事あるある。スッキリはしませんが河合優実さんを堪能しました。
ミイラ取りが。
砂漠に迷い込んだのか、砂漠の中で水源を見つけて生き延びたのか。愚か者が愚か者との生活を選び破滅していくようでいて、その心地良さに浸っているようにも見える。
喧嘩もセックスも最後には腹が減る。
強くとも弱くとも、70億人それぞれに「しっくりくる」場所がある。
まったく理解不能でした
最初から最後まで誰にも感情移入できませんでした。
わけのわからない主人公はもちろん、その周りの男たちも「そんな奴いる?」って感じで。
たぶん、こういう作品に胸を打たれる人が少なくないんだろうなと思いながら、胸を打たれる人でなくて良かったと思うしかないです。
カウンセラーの女性って、「悪は存在しない」のお一人だと思うんですけど、あの演技は正解なんですか?
監督とか脚本書いた人とか、演技やってない人がカメオ的に出てるのかと思うほどなんですが。
この才能はいったい何者!?
小栗康平さんの「死の棘」を見てから島尾敏夫氏の原作「死の棘」を読み終え、今「島尾敏雄日記(死の棘までの日々)」を読んでいます。島尾敏雄の「死の棘」の事は以前から知っていましたが夫の不倫がきっかけとなって妻が精神を病み夫を責め続けるというおどろおどろしい内容のため映画を見たり本を読んだりするのを避けていましたが、実際に見たり読んだりするうちに相手を責め続け、いたぶり、時には暴力をふるい、自死を図ろうとする姿がある意味究極の愛の姿のようにも思えてきました。
「ナミビアの砂漠」のなかでも酷似する場面が描かれますがきっと「死の棘」の影響を受けたものと思いパンフレットを買って読んでみましたが「死の棘」関する言及が一言もされていないことに驚きを感じました。「死の棘」は日本文学を代表する私小説であり、実際に島尾敏雄の妻である島尾ミホさんが精神を病んで医者にかかったり果ては住んでいた東京を離れ、最終的にミホさんの故郷である奄美大島に引っ越すという大きな代償のもとに書かれた作品なのですが同じような到達点に脚本・監督である山中瑶子氏が己の感性のみを信じることでたどり着いていることは特筆すべきことだと思います。
観客を楽しませるような展開やら、女優の可愛さをアピールするような映画でなくて監督の中のリアルを追求しているので一見女優にここまでの演技を求めるのか?と思うような場面もありますが「かっこ悪いのがかっこいい」「みっともないのが美しい」と感じる映画でした。見る人を選ぶというか万人受けするような作品ではないと思いますが...
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