ナミビアの砂漠のレビュー・感想・評価
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現代を砂漠にするのはまだ早い
カナの頭の中は分かった気がする。
頭の中ではランニングマシーンが稼働して、常に世界で動くことが求められる。部屋の中でも、横になっても休めない。精神の疲労を身体の疲労に同期することが求められる。ゆえに暴言を吐き、身体を暴れさせる。
カナと現況が似ている人や、それを現代の若者像と素描したい人には必要であり、求められる物語であるのは一定理解はできる。
しかし私は朝子のように「だから、謝らへん」。
本作を批判的に取り上げるには、3つの障壁がある。それは①河合優実のトップレスをみてしまったこと②男性クリエイター批判があること③精神疾患に物語が回収されていること、である。
この障壁はなかなかに手強い。河合優実の身体のあり様が凄かった。男性クリエイターの性加害やハラスメント問題は全く解決されていないから、それをトピックとして取り上げたのは素晴らしい。カナのような女性像は今まで捨象されてきたから、映画として現前させたことは一つの肯定の仕方でよい。そう言うことはできる。もちろんそれらに反論するつもりはない。しかしそれで全てを済ませていいのか?とも思ってしまう。
まず、カメラが酷いと思うのは私だけだろうか。
手ブレが酷い。冒頭のカフェのシーンのように、なぜ室内のシーンで固定カメラではなく、手持ちが採用されているのかがよく分からない。さらにカメラが移動する際、人物を追えていない。撮り逃しが生じている。その手ブレをカナの精神の不調、カメラワークの酷さをドキュメンタリーらしさということはできる(動物のドキュメンタリーを想起してほしい。カメラが追おうとしたり、ズームをしても何も起きなかったり、逃げてしまうことがある。そういった描写が本作にはある)。
けれどカメラのブレがカナの精神の不調を表現しようとも、それは「カメラが偽装しているカナの精神の不調らしさ」であって、当のカナの精神の不調と全く同期していない。それどころか不和が生じている。さらにカメラワークは例えば、肝心なカナと唐田えりか演じる隣人の女性の想像世界か現実なのか分からないあの幻想的な火の飛び越えを全く綺麗に撮れていないから、単に下手であるという感想しか持ち得ない。
このように本作は全体を通して、カメラが不調をきたしている。だからその不調さに私も気持ちが悪くなって、カナが精神疾患かもしれないと明かされるまで、苦痛な時間を強いられた。
物語それ自体に立ち入れば、本作が道徳とジェンダーロールの転倒をひとつのトピックにしていると解釈はできた。
冒頭のカフェのシーンで、カナの頭の中では知人の自殺と他人の話すノーパンしゃぶしゃぶが同等の話題でしかないことが音声イメージの巧みな表現で明らかになっている。さらにこの道徳の転倒が、カナには安定した彼氏がいるのに別の男がいる性の奔放さや、虚言癖であることのヤバさに結実していくのである。
しかしカナをヤバいと思うのは女性だからであって、上述のことを映画に登場する男たちに置換すれば、紋切り型の話でしかないことがわかってくる。だって、妻子を持った男が、魅惑的な女の虜になって、円満な家庭生活が崩壊していく物語なんて腐るほどあるじゃないですか。
だから男の領分とされた映画において、本作ではジェンダーロールを転倒させ、カナにかつての男を、ヒステリックさを元カレに演じさせる。そして無根拠な暴力に晒されたり、原罪を負わせることを今カレに配置し直す。その試みは面白いとは思う。
だが問題は社会が存在しないことである。彼らが生きている現状は理解した。カナをヤバいと思ってもいいが、それは男一般に言えることだとは分かった。しかしカナたちはどう生きるの?
社会が存在しない世界観はとても現代的だ。新自由主義思想に経済も政治も侵される現代は、市場原理によって全てが統治されて、社会保障は徹底的に削減される。国家も社会も守ってくれない。だから個人の能力と責任で自力に「生き延びるしかない」。
そんな現代に生きていたら、生活と世界が社会を飛び越えてダイレクトに接続される。その様は、カナがソファにくつろぎ、スマホでナミビアの砂漠のライブ映像をみている姿であろう。ダイレクトに繋がると私たちは引き裂かれる。生活と世界の問題は別個であるはずなのに、直接つながる。しかしそれぞれの次元はそれぞれの次元に何ら解決を与えない。それなら問題は解決はされないから生活の何もかもが詰んで、都会であっても砂漠同然となり、精神疾患になってしまうのも当たり前だ。
しかし現実にはやはり社会は存在するのである。だからあたかも社会が存在しないかに偽装する本作はカナらの問題を何ら解決させない/できないし、私たちに慰めを与えるしかできない。
カナと今カレの家賃はどうしているのだろう。東京の郊外であっても、十分な広さがあるファミリー向けの部屋は相当高いのではないだろうか。21歳の脱毛サロンの彼女と脚本を書いているクリエイターもどきの彼にそんな経済力があるのだろうか。彼の実家が裕福な描写はあるから、親の所有する不動産なのかもしれない。ただ仮に彼らが家賃を払っているのであれば、カナの経済状況から容易に辞める選択はできないだろうし、親が所有または家賃を払っているのなら、今カレがカナと別れない理由が分からない。このように彼らの置かれている社会背景が不明瞭であるならば、カナが精神疾患にならざるを得ない現状の訴えに説得力が欠けてしまう気がする。「で、カナは何に悩んでいるの?」で一蹴されてしまう。
「ティンプトン」でいいのだろうか。分からない、分からないと何度も繰り返し、病的で破綻した生活を送れば。でも私はそんなの嫌である。
上述の生活空間の描写のように、本作に登場する彼らー特にカナーはリキッドした学校の中を生きているように思えてしまう。全てが大人に所与されている。部屋も職場も食事も何もかも。まずは自分でご飯を作ってみなよ。バーベキューの準備をしてみなよ。後輩も働きやすい職場をつくってみなよ。全然一からじゃなくていい。上手くなくてもいい。けれどそんな社会への働きが、カナの体調を改善させるのではないか。というか精神疾患で、全ての問題を片付けるな。原因は個人ではなく、社会にもあるのだ。そしてもちろん不調を医学的に診断し、名前をつけ、治療することもまた当然に必要であるが。
そう思うのも、カナの現状を擁護するだけで終わりたくはないからだ。というかそれなら、あまりにも他人事過ぎませんか?カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞したのも、「現代の日本で生きる若者は大変やな。まぁ、私たちの社会には関係ないからあんま知らんけど」とか、本作を評価する親世代以上の人たちも「子どもたちは本当に大変やな。まぁ、自分の子どもはインターに通わせるからあんま知らんけど」であるなら最悪じゃないですか。もちろんこれは私の妄想ではある。しかしやはりカナが生きれる社会をどうつくれるか私は考えたい。
長くなってしまった。カナが脱毛サロンの店員から、「脱毛」を取り巻く社会の強迫観念がもっと主題にあがってくると思っていたしー介護脱毛ではない、広告や若年化、ルッキズムー、カナが仕事を辞めてからはどう脱毛するのか期待していたが、全く後景に退いて悲しかった。けれど「原罪」というのはひとつの主題のような気がした。生えてくるのが罪かのようなムダ毛。そしてムダ毛的な事態は、生きていることが罪かのように、消費活動に駆り出される現代に横滑りする。さらにそんな観念を内面化して、私たちは生まれなければよかったと思ってしまう。反出生主義だ。だが私はもう反・反出生主義者なので、未来を向きたい。
そして現代を砂漠にするにはまだ早い。
眺める人生、眺められる人生
ヒロイン・カナのつかみどころのなさに、前半かなり戸惑った。友人を軽くあしらい、二股をかけ、あっさりと堅実な恋人を裏切る。彼女の目的や志向がさっぱり分からず、物語もどこに向かっているのか予測がつかず…。彼女の暴力性も相まって、不穏な空気におののきながらも、なぜか目が離せなかった。
予告もちらしにも触れる機会がなく、タイトルとキャスト以外の前情報は一切なし、での鑑賞。そもそも、タイトル「ナミビアの砂漠」の意味さえも、よくわかっていなかった。時折カナがスマホで眺めている砂漠、エンドロールで延々と大写しになる風景がナミビアなんだろうな…と思いながら、帰宅後にネット検索。ナミビア共和国・ナビブ砂漠の人工池に集まる動物たちのライブカメラ映像が、気持ちが鎮まる、中毒性があるなどと支持されているらしい。では、彼女はなぜ、このサイトにハマっているのだろうか。
後半、スクリーンがぐーっと反転してスマホの画面に押し込められ,カナが自分を画面越しに眺めるシーンが印象的だった。心や体が自分から切り離される、離人症を思わせる描写。恋人との生活がいよいよままならなくなり、仕事からもドロップアウトした彼女は、よろよろとカウンセリングに通う。箱庭にやっと置いた木の下で、顔を合わせるだけの隣人(あの!唐田えりか。ハマり役!)と楽しく歌い踊る。本作の中で唯一、純度の高い幸福なシーンだった。
彼女は縛られたくない、解き放たれたい、と全身で叫ぶ。自分の自由のためならば,周りが傷つくことも厭わない。けれども、縛られず、解き放たれるためには、まずは自分を縛り付ける存在が必要になる。たとえば友人、恋人、仕事。そして、解き放たれるということは、拠り所を失うということでもある。やさしい元彼が作ったハンバーグを、もそもそと咀嚼して消滅させるカナ。滑稽なのか悲壮なのかわからない、ねっとりと残るシーンだった。
人工池に集まる野生の生き物に自然を感じるように、作りものの世の中でうごめく自分を外から眺める、拭いきれないウソっぽさ。自分は眺める側ではなく、眺められる側だった。ならば、値踏みが大好きな人たちに鑑賞される人生から、フレームアウトすればいい。そう気づいた彼女が辿り着く先にあるのは、安堵なのか、失望なのか。…100年経ったら、どちらも大差なし。
今年一番の日本映画
無軌道であぶなっかしく、しかし強かで強靭さもある主人公像が本当に素晴らしい。岡崎京子の作品の主人公のようだ。タフで大胆で人を食ったような強烈な個性とエネルギッシュに現代を闊歩するカッコいい女が存分に見られる作品だ。この作品の主人公にとって、心の傷もまた自分らしさで個性である。現代の消費社会は残酷で傷つけられることもあるが、その傷にひるまない強靭さが全身で体現した河合優実の佇まいがすごい。『あんのこと』ではむしろ、社会の理不尽さに傷つき敗れる繊細な女性像を体現したが、こっちは現代社会を食い破るような強靭さと繊細さも併せ持ったような驚くべき主人公像を構築している。今年はこの2本で完全に河合優実の年になった。そして、山中瑶子の脚本は大胆不敵で見事なキャラクター造形力を見せてくれた。今後、日本を代表する映画作家になるだろう。
戦いに疲れ、傷つき、怒るヒロインは大都会のヌーなのか?
友達からカフェに呼び出され、共通の友人が亡くなったことを聞かされてもどこか虚なヒロイン、カナは、同棲中の恋人に管理されているような生活を続けながら、別の男とラブホデートがやめられない。カナはいったい物事のどこに共感し、どこに自分の幸せを見出そうとしているのか?
途中で見えてくるものがある。友人も恋人たちもみんな自分勝手かつ本音と建前が乖離しまくりで、会話の途中で突然キレることが多いカナのストレスの原因は、どうやらそこにありそうだということが。だが、それさえ世間は躁鬱病という枠内に押し込もうとする。カナの頭の中の?は膨らむばかりだ。
他にも、カナの血族に関するあれこれとか、脚本も兼任する山中遥子監督はヒントになるカードをあちこちにばら撒いて、終始観客の集中力を途絶えさせない。こんな握力がある映画は珍しいと思う。
握力の一端は、カナを演じる河合優実の常に目と唇から力みを取り去った放心状態のような演技にもある。
題名は『ナミビアの砂漠』。劇中で、カナは携帯動画が映し出す砂漠のオアシスに群れるヌーに何を見ているのか?砂漠=現代社会、ヌー=自分と解釈するのは単純すぎる気がする。平日の新宿、劇場は若い女性観客で席の約9割は埋まっていた。
根深い男社会への不服を全身で表すカナに、ぐいぐい突かれる痛みと快感
男女平等や多様性尊重の理念が当たり前の語られるようになった昨今の日本でも、男女格差は厳として存在するし、そんな根深い男性優位社会に不満を抱きながらも「自分一人が声を上げたところで何も変わらない」と消極的に現状を容認している大勢(恥ずかしながら私もそう)にとって、カナ(河合優実)の恋人に対する暴れっぷりは、単に目の前の相手だけでなく、優しいふり理知的なふりで女性という存在をじわじわと押しつぶそうとするより大きな男社会そのものへの不服を体現しているように見える。それは自分でも気づいていなかった急所、あるいはツボをぐいぐい突かれるような痛さをもたらすが、その痛みを受け入れることで積年の凝りやこわばりがほぐれ、ほどなく快感に変わっていくのに似ている。
監督・脚本の山中瑶子は日本大学芸術学部の監督コースに通うも、馴染めずに中退。その後独学で初監督作品「あみこ」を制作したというが、型にはまらない作風、小器用にまとめようとせず粗削りでもいろいろ試してみようという意気が映像から伝わってくるのが実にいい。
この「ナミビアの砂漠」を観たことがきっかけで、身のまわりで不満に思いつつも受け流していたことを自分から変えていったり、理解しているつもりで実は勘違いだった言動を改めたりする人が増え、めぐりめぐって社会の古い体質が改善されるなら、それこそまさに“痛快”ではないか。山中瑶子監督にはこれからもその独創性を極める方向で突き進んでほしいと願う。
ナミビア砂漠でつかまえて。 確かにあのライブカメラは面白い( ͡° ͜ʖ ͡°)
深い憤りを覚えながら日々を生きる女性、カナの日常を描いたヒューマンドラマ。
監督/脚本は『21世紀の女の子』やテレビドラマ『今夜すきやきだよ』の山中瑤子。
主人公、カナを演じるのは『ちょっと思い出しただけ』『ルックバック』の河合優実。
カナの恋人、ハヤシを演じるのは『おっさんずラブ』シリーズやドラマ『サンクチュアリ -聖域-』の金子大地。
精神科医、東高明を演じるのは『愛がなんだ』『浅草キッド』の中島歩。
第77回カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞するなど、国内外で高い評価を受けた話題作。監督の山中遥子は当時27歳。この若さで長編映画の監督を務め、しかもそれが世界的な名声を獲得してしまうんだからこれはもう大したものである👏
カナを演じる河合優実は、高校時代に山中監督のデビュー作『あみこ』(2017)を鑑賞し衝撃を受け、監督に「将来女優になるので、その時は私を起用してください!」という熱烈なファンレターを手渡ししたのだそう。今回の山中監督と河合のタッグは、その時の縁に由来している。
本作は最初から最後まで河合優実の姿をカメラで捉え続ける。ほとんど彼女の一人舞台であると言えよう。カナは河合に当て書きされたキャラクターであるため、その存在感やリアルさは尋常ではない。彼女の演技力も相俟って、本当にカナという激烈な女性の生態を覗き見ている様な気分になってくる、とにかく不思議な手触りのする作品である。
河合優実と金子大地は『サマーフィルムにのって』(2020)で共演済み。この時はほんわかした高校生を演じていたのに…。『サマーフィルム』は大好きな映画なので、なんだか観てはいけないものを観てしまった気分。
女たらしを演じさせたら、金子大地の右に出るものなし。松居大悟監督のロマンポルノ『手』(2022)でも人当たりの良いクズ男を演じていたが、今回もまぁ憎たらしいいけずを熱演。ハヤシと『手』のクズ男は同一人物なんだと思いながらこの2作を連続鑑賞すると、カナが抱える怒りの解像度がよりはっきりとする事だろう。毎回毎回、羨ましい役どころばっかり…。けしからんぞ!
描かれるのは、東京で暮らす21歳のリアルな空気感。「日本は、少子化と貧困で終わっていくので、今後の目標は生存です」とは強烈なパンチラインだが、これは今の若者なら誰もが共感するのではないだろうか。
若い監督がほぼ同世代の心の声を代弁しているだけあり、時代の切り取り方が上手い。邦画界ではこの前年、ヴィム・ヴェンダース監督による「足るを知る」映画『PERFECT DAYS』(2023)が国際的に評価されたが、本作と比べるとこちらはいかにも爺むさい。全く異なる日本感を打ち出したこの2作を比較すれば、若者世代とシニア世代の隔絶を理解する事が出来るだろう。
映画を支配するのは圧倒的な「怒」の感覚。若い女性の怒りという点ではエメラルド・フェネル監督の『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)を想起したりもしたが、『プロミシング』が女性への性暴力をはじめとした社会問題に対して怒りを爆発させていたのに対し、本作で描かれているのはカナの抱える個人的な怒り。若さと精神的ストレスでコントロール不全となった彼女の感情の暴走こそがこの映画の推進力になっており、ウーマン・リヴやフェミニズムといった社会性は希薄である。つまりこれは何に対しても苛立ちを抑えきれない、漫画家・荒木飛呂彦の言うところの「怒の季節」を扱った作品であり、ジェンダーではなくメンタルヘルスがテーマとなっていると言えるだろう。
女性映画だと敬遠している男性もいると思うが、この映画は男女の別の無い広汎的な事柄を活写した作品であるので、一度は鑑賞してみる事をお勧めする。
ハヤシと同棲を始めたカナは鼻ピアスをつけ始める。これは彼女のパンクな一面を表現するのと同時に家畜の鼻輪をも想起させる、今後のストーリー展開を示唆する重要なアイテムであるが、それ以前に金原ひとみの「蛇にピアス」(2003)を思い出させた。偶然かな?と思っていたのだが、どうやら山中監督は金原のファンであるらしく、彼女の作品が本作に影響を与えた事を公言している。そう考えると、この鼻ピはあまりにもストレート過ぎる…😓
その他にも、文学からの影響を感じさせる点は多く、例えば元カレのホンダが北海道に出張している間にお腹の子を堕すというのは村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(1994-1995)にその通りの展開があったし、カナの精神的乱調はサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」(1951)にルーツがある様な気がしてならない。
また、女性主人公の主観的物語である上に山中監督自身の心境を反映しているのであろう潔癖なクリエイター論が吐露されている点など、太宰治の書く女性告白体小説、特に「きりぎりす」(1940)のスピリットを強く感じる。「メンヘラの暴走」、乱暴な言い方になるが本作はそう言わざるを得ない内容であり、確かに他ではあまり見ないタイプの映画ではあるのだが、文学の世界では太宰が80年も前にすでにやり尽くしている訳で、そこに革新性は別に感じなかった。
〈この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません〉という「きりぎりす」の最後の一文は、本作の全てを表している。やっぱ太宰はええなぁ…。
20代でこれだけの大作を監督したという点は確かに凄い。時代の切り取り方やリアルなキャラクター造形も賞賛に値する。ただ、面白いかと言われると…。全体的にダラっとしていてメリハリがなく、だからと言ってそこに面白みを見出せるほどのユニークさはない。
カナがハヤシにエコー写真を突きつけ、「これ何なんだよっ!!」とブチ切れるシーンは「おっ!やったれやったれ」とアガったりしたのだが、そこが映画のピーク。その後もダラダラダラダラと物語は続く。もういいだろそこで終わりで…。
社会に蔓延る「本音と建前」を許容する事が出来ないカナの愚直さには、『ダークナイト』(2008)のジョーカーっぽさを感じたりもしたので、最終的に銀行強盗したりビル爆破したりしてくれればあげぽよ〜だったのに。いやそういう映画ではないのはわかってるんだけど。こんだけ文学のかほりをさせているんだから、やっぱ最後は檸檬型爆弾で丸善ブッ飛ばすくらいの飛躍を見せて欲しいよね。
90分程の短尺であればあるいは好きになれたのかもしれないが、いくら何でもこの内容で137分というのは冗長過ぎる。無駄に長いというのは昨今の映画の悪癖だが、本作も御多分に洩れずといったところでしょうか。
批評家筋には評判が良いようだが、一般観客にはあまりウケていない本作。正直、自分もこれがそんなに絶賛される程の映画とは思えない。これから先もメディアは山中監督を時代の寵児として持て囃すのだろうが、あまりにもチヤホヤし過ぎると太宰の「水仙」(1942)みたいな事になっちゃいますよ。
※本作の鑑賞によって得た1番の収穫は、ナミブ砂漠のライブカメラ配信というものがあるのを知れた事。水飲み場にやって来る野生動物をただ眺めるだけなのだが、これは確かに面白い!ついつい観てしまう不思議な魔力がありんすね🦒
河合優実のPV
河合優実はやっぱり上手い
「あんのこと」での演技がとても良かった河合優実を見たくて行った
やはり上手い。悪い女、病んだ女、キレた女、etc…どれも自然に1人の女の中に違和感なく連続して存在させちまった。長回しのカットで細かいところにちょっとした仕草を盛り込んで来て目を引くが、監督の指示なのか自己判断なのか。
映画そのものは若い女性のやり切れなさを描いているのだろう。でも女性目線なので、男が見ると違和感もあるし、ホラーでもある。いや、マジで怖い。
イチャイチャシーンも多いが、無駄な濡れ場やエロにしないとこは女性監督らしくて良いね。
河合優実が上手いので、下手な役者が絡んだときの落差がひどい。よく監督はあのまま使ったなぁ。
関心が持てる様なシーンが全く無かった
出演者さんがいい
出ているメイン俳優さんがいいです。
河合さんが出ているので見ましたが、
グランメゾンの俳優さんがより一層いい味が出てる俳優さんになってて、とてもよかったです。
男性2人とも色気がある模写というか、撮り方がうまくて、素敵でした。
河合さんは、歩き方や、仕草、目つきからその人の性格や、素性を表現するのが凄いなぁっておもいました。
始まって瞬間から歩き方がとんでとなくて、こういう感じの人かって言うスタートで見始められました。
上映中の音楽の音と、声の音の高低差がすごすぎて、
ベクトルをどちらかに合わせると、引くほど声がでかいか、引くほど声が小さいかになってしまい、小さくすると本当に全然最後の方とか聞こえなくて、何度も見返しました。
終わり方が突然すぎて、消化不良おこしすぎましたが、こう言う作品なんだなって思って見終えました。
河合さん、素敵です、彼氏役の2人の演技と良かったと思います。
自分自身へというか、自分の元々あった周りの環境コンプレックスがある人なのかなって思いました。
前半は進むので見ていられますが、後半は、私には難しいというか、ハマりませんでした。
結局河合さんの家族の内容はざっくりとしかわからず、自分は浮気しているけど、彼氏が風俗に行ったら別れる女、そして暴力的、
依存体質同士が惹かれ合う恋愛なのかなぁーて。
集中力が切れてしまいちゃんと見れてなかったのかもしれません。
中年だけどなんかわかる
その映画に共感・理解することは必ずしも「その映画が面白い」ということではない
河合優実演じる主人公のカナの二人の男性の間でフラフラしたり男性の影響でタトゥーや鼻ピしたりする感じは「あぁ、こういう子いるよな」「ああいう子ってこんな感じなんだろうな」と妙に納得するし、急にヒステリックになって暴力的になるところなんて、実際にはやらないんだけどもすごく自分ごとのように感じる。砂漠のオアシスのライブカメラが人気というのは聞いたことがあったし、主人公が何となく観て別の世界に思いを馳せるのもなんだかとても良くわかる。
じゃ、ストーリーが面白いかという別にそういうわけではない。
ただ、河合優実含め役者たちの演技への真摯さや飽きさせない絶妙なゆっくりめのテンポ感で何となく見入ってしまう。
それがこの映画の目指すところなのかどうかはわからない。
よくある小さな邦画の及第点という感じ。
印象に残ったこととしては
●寛一郎と金子大地のセクシーさ
この二人は正統派イケメンとも違うクセのある顔立ちなのだが、なんだか妙に色気を感じる時がある。それがこの映画ではよく出ている。役柄について言えばホンダ(寛一郎)と付き合ってればよかったのに…と思う。仕事も頑張ってるし家事もするしいいやつじゃん。ハヤシ(金子)はちょっとかなへの本気度がわからないな、、と思ってたけどなんだかんだいってカナのヒステリーに付き合ってるのは意外だし好感持てる。穏やかな幸福を得るにはホンダの方が確実そうだけど、現実もカナみたいな子は案外ハヤシとくっついてる方が多いのかもな。
●カナの勤務先がエステ
今若い女の子の就職先でめちゃくちゃ多そうだよなと思う。美容外科の受付とかさ。で、先輩社員がVIOの脱毛について「絶対やらない」と言ってるのが良かった。最近の脱毛必須&マナーみたいな風潮が嫌いなので。このセリフが実際の取材などに基づいているのか、監督の願望なのかは気になるところ。
●河合優実が脱いでる
これは事前情報として知らなかったのでちょっとびっくり。でも以前から、この子ほど良く胸も大きめでスタイル良いよなと思っていたので(最近は年齢のためか痩せてきてそうでもないけど)、しっかり、イヤらしい感じではなく撮ってくれたのは嬉しかった。同性でも綺麗な裸体は観たいのです。監督もそうだから撮ったんだと思うし。
●地元町田!
冒頭で河合優実が走ってるシーンが一番興奮した。
そんな感じ。
1番わからなかったかも。
この無気力は共感できました
意図が余り分からなかった
なんかもったいない
わからない
河合優実の芝居は引力の強さを感じる
昭和、平成、令和のどの時代の女性の役を演じても、その時代のその女性のリアルさを河合優実さんからは感じられる。かなりぶっ飛んでるカナという女性がリアルに感じられるのは彼女の演技力の賜物かと。ストーリーとしては人によって色んな受け取り方があると思うし、個人的には河合優実さんじゃなきゃ最後まで集中して見れなかった可能性は大きい。彼女の芝居は引力がすごい。この女性を生きる河合優実がどういう結末を迎えるか見届けたくなってしまう。
健康な人にはカナがありえない女としか映らないとは思うけど、カナと同じ境遇の人には少し共感できる部分があるかも。カナは他人を傷つけてるようにしか見えないけど、実際のところは自分を大切にできずに自分を傷つけてる。
この監督は絶対才能ある
全360件中、1~20件目を表示













