ナミビアの砂漠のレビュー・感想・評価
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現代を砂漠にするのはまだ早い
カナの頭の中は分かった気がする。
頭の中ではランニングマシーンが稼働して、常に世界で動くことが求められる。部屋の中でも、横になっても休めない。精神の疲労を身体の疲労に同期することが求められる。ゆえに暴言を吐き、身体を暴れさせる。
カナと現況が似ている人や、それを現代の若者像と素描したい人には必要であり、求められる物語であるのは一定理解はできる。
しかし私は朝子のように「だから、謝らへん」。
本作を批判的に取り上げるには、3つの障壁がある。それは①河合優実のトップレスをみてしまったこと②男性クリエイター批判があること③精神疾患に物語が回収されていること、である。
この障壁はなかなかに手強い。河合優実の身体のあり様が凄かった。男性クリエイターの性加害やハラスメント問題は全く解決されていないから、それをトピックとして取り上げたのは素晴らしい。カナのような女性像は今まで捨象されてきたから、映画として現前させたことは一つの肯定の仕方でよい。そう言うことはできる。もちろんそれらに反論するつもりはない。しかしそれで全てを済ませていいのか?とも思ってしまう。
まず、カメラが酷いと思うのは私だけだろうか。
手ブレが酷い。冒頭のカフェのシーンのように、なぜ室内のシーンで固定カメラではなく、手持ちが採用されているのかがよく分からない。さらにカメラが移動する際、人物を追えていない。撮り逃しが生じている。その手ブレをカナの精神の不調、カメラワークの酷さをドキュメンタリーらしさということはできる(動物のドキュメンタリーを想起してほしい。カメラが追おうとしたり、ズームをしても何も起きなかったり、逃げてしまうことがある。そういった描写が本作にはある)。
けれどカメラのブレがカナの精神の不調を表現しようとも、それは「カメラが偽装しているカナの精神の不調らしさ」であって、当のカナの精神の不調と全く同期していない。それどころか不和が生じている。さらにカメラワークは例えば、肝心なカナと唐田えりか演じる隣人の女性の想像世界か現実なのか分からないあの幻想的な火の飛び越えを全く綺麗に撮れていないから、単に下手であるという感想しか持ち得ない。
このように本作は全体を通して、カメラが不調をきたしている。だからその不調さに私も気持ちが悪くなって、カナが精神疾患かもしれないと明かされるまで、苦痛な時間を強いられた。
物語それ自体に立ち入れば、本作が道徳とジェンダーロールの転倒をひとつのトピックにしていると解釈はできた。
冒頭のカフェのシーンで、カナの頭の中では知人の自殺と他人の話すノーパンしゃぶしゃぶが同等の話題でしかないことが音声イメージの巧みな表現で明らかになっている。さらにこの道徳の転倒が、カナには安定した彼氏がいるのに別の男がいる性の奔放さや、虚言癖であることのヤバさに結実していくのである。
しかしカナをヤバいと思うのは女性だからであって、上述のことを映画に登場する男たちに置換すれば、紋切り型の話でしかないことがわかってくる。だって、妻子を持った男が、魅惑的な女の虜になって、円満な家庭生活が崩壊していく物語なんて腐るほどあるじゃないですか。
だから男の領分とされた映画において、本作ではジェンダーロールを転倒させ、カナにかつての男を、ヒステリックさを元カレに演じさせる。そして無根拠な暴力に晒されたり、原罪を負わせることを今カレに配置し直す。その試みは面白いとは思う。
だが問題は社会が存在しないことである。彼らが生きている現状は理解した。カナをヤバいと思ってもいいが、それは男一般に言えることだとは分かった。しかしカナたちはどう生きるの?
社会が存在しない世界観はとても現代的だ。新自由主義思想に経済も政治も侵される現代は、市場原理によって全てが統治されて、社会保障は徹底的に削減される。国家も社会も守ってくれない。だから個人の能力と責任で自力に「生き延びるしかない」。
そんな現代に生きていたら、生活と世界が社会を飛び越えてダイレクトに接続される。その様は、カナがソファにくつろぎ、スマホでナミビアの砂漠のライブ映像をみている姿であろう。ダイレクトに繋がると私たちは引き裂かれる。生活と世界の問題は別個であるはずなのに、直接つながる。しかしそれぞれの次元はそれぞれの次元に何ら解決を与えない。それなら問題は解決はされないから生活の何もかもが詰んで、都会であっても砂漠同然となり、精神疾患になってしまうのも当たり前だ。
しかし現実にはやはり社会は存在するのである。だからあたかも社会が存在しないかに偽装する本作はカナらの問題を何ら解決させない/できないし、私たちに慰めを与えるしかできない。
カナと今カレの家賃はどうしているのだろう。東京の郊外であっても、十分な広さがあるファミリー向けの部屋は相当高いのではないだろうか。21歳の脱毛サロンの彼女と脚本を書いているクリエイターもどきの彼にそんな経済力があるのだろうか。彼の実家が裕福な描写はあるから、親の所有する不動産なのかもしれない。ただ仮に彼らが家賃を払っているのであれば、カナの経済状況から容易に辞める選択はできないだろうし、親が所有または家賃を払っているのなら、今カレがカナと別れない理由が分からない。このように彼らの置かれている社会背景が不明瞭であるならば、カナが精神疾患にならざるを得ない現状の訴えに説得力が欠けてしまう気がする。「で、カナは何に悩んでいるの?」で一蹴されてしまう。
「ティンプトン」でいいのだろうか。分からない、分からないと何度も繰り返し、病的で破綻した生活を送れば。でも私はそんなの嫌である。
上述の生活空間の描写のように、本作に登場する彼らー特にカナーはリキッドした学校の中を生きているように思えてしまう。全てが大人に所与されている。部屋も職場も食事も何もかも。まずは自分でご飯を作ってみなよ。バーベキューの準備をしてみなよ。後輩も働きやすい職場をつくってみなよ。全然一からじゃなくていい。上手くなくてもいい。けれどそんな社会への働きが、カナの体調を改善させるのではないか。というか精神疾患で、全ての問題を片付けるな。原因は個人ではなく、社会にもあるのだ。そしてもちろん不調を医学的に診断し、名前をつけ、治療することもまた当然に必要であるが。
そう思うのも、カナの現状を擁護するだけで終わりたくはないからだ。というかそれなら、あまりにも他人事過ぎませんか?カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞したのも、「現代の日本で生きる若者は大変やな。まぁ、私たちの社会には関係ないからあんま知らんけど」とか、本作を評価する親世代以上の人たちも「子どもたちは本当に大変やな。まぁ、自分の子どもはインターに通わせるからあんま知らんけど」であるなら最悪じゃないですか。もちろんこれは私の妄想ではある。しかしやはりカナが生きれる社会をどうつくれるか私は考えたい。
長くなってしまった。カナが脱毛サロンの店員から、「脱毛」を取り巻く社会の強迫観念がもっと主題にあがってくると思っていたしー介護脱毛ではない、広告や若年化、ルッキズムー、カナが仕事を辞めてからはどう脱毛するのか期待していたが、全く後景に退いて悲しかった。けれど「原罪」というのはひとつの主題のような気がした。生えてくるのが罪かのようなムダ毛。そしてムダ毛的な事態は、生きていることが罪かのように、消費活動に駆り出される現代に横滑りする。さらにそんな観念を内面化して、私たちは生まれなければよかったと思ってしまう。反出生主義だ。だが私はもう反・反出生主義者なので、未来を向きたい。
そして現代を砂漠にするにはまだ早い。
眺める人生、眺められる人生
ヒロイン・カナのつかみどころのなさに、前半かなり戸惑った。友人を軽くあしらい、二股をかけ、あっさりと堅実な恋人を裏切る。彼女の目的や志向がさっぱり分からず、物語もどこに向かっているのか予測がつかず…。彼女の暴力性も相まって、不穏な空気におののきながらも、なぜか目が離せなかった。
予告もちらしにも触れる機会がなく、タイトルとキャスト以外の前情報は一切なし、での鑑賞。そもそも、タイトル「ナミビアの砂漠」の意味さえも、よくわかっていなかった。時折カナがスマホで眺めている砂漠、エンドロールで延々と大写しになる風景がナミビアなんだろうな…と思いながら、帰宅後にネット検索。ナミビア共和国・ナビブ砂漠の人工池に集まる動物たちのライブカメラ映像が、気持ちが鎮まる、中毒性があるなどと支持されているらしい。では、彼女はなぜ、このサイトにハマっているのだろうか。
後半、スクリーンがぐーっと反転してスマホの画面に押し込められ,カナが自分を画面越しに眺めるシーンが印象的だった。心や体が自分から切り離される、離人症を思わせる描写。恋人との生活がいよいよままならなくなり、仕事からもドロップアウトした彼女は、よろよろとカウンセリングに通う。箱庭にやっと置いた木の下で、顔を合わせるだけの隣人(あの!唐田えりか。ハマり役!)と楽しく歌い踊る。本作の中で唯一、純度の高い幸福なシーンだった。
彼女は縛られたくない、解き放たれたい、と全身で叫ぶ。自分の自由のためならば,周りが傷つくことも厭わない。けれども、縛られず、解き放たれるためには、まずは自分を縛り付ける存在が必要になる。たとえば友人、恋人、仕事。そして、解き放たれるということは、拠り所を失うということでもある。やさしい元彼が作ったハンバーグを、もそもそと咀嚼して消滅させるカナ。滑稽なのか悲壮なのかわからない、ねっとりと残るシーンだった。
人工池に集まる野生の生き物に自然を感じるように、作りものの世の中でうごめく自分を外から眺める、拭いきれないウソっぽさ。自分は眺める側ではなく、眺められる側だった。ならば、値踏みが大好きな人たちに鑑賞される人生から、フレームアウトすればいい。そう気づいた彼女が辿り着く先にあるのは、安堵なのか、失望なのか。…100年経ったら、どちらも大差なし。
今年一番の日本映画
無軌道であぶなっかしく、しかし強かで強靭さもある主人公像が本当に素晴らしい。岡崎京子の作品の主人公のようだ。タフで大胆で人を食ったような強烈な個性とエネルギッシュに現代を闊歩するカッコいい女が存分に見られる作品だ。この作品の主人公にとって、心の傷もまた自分らしさで個性である。現代の消費社会は残酷で傷つけられることもあるが、その傷にひるまない強靭さが全身で体現した河合優実の佇まいがすごい。『あんのこと』ではむしろ、社会の理不尽さに傷つき敗れる繊細な女性像を体現したが、こっちは現代社会を食い破るような強靭さと繊細さも併せ持ったような驚くべき主人公像を構築している。今年はこの2本で完全に河合優実の年になった。そして、山中瑶子の脚本は大胆不敵で見事なキャラクター造形力を見せてくれた。今後、日本を代表する映画作家になるだろう。
戦いに疲れ、傷つき、怒るヒロインは大都会のヌーなのか?
友達からカフェに呼び出され、共通の友人が亡くなったことを聞かされてもどこか虚なヒロイン、カナは、同棲中の恋人に管理されているような生活を続けながら、別の男とラブホデートがやめられない。カナはいったい物事のどこに共感し、どこに自分の幸せを見出そうとしているのか?
途中で見えてくるものがある。友人も恋人たちもみんな自分勝手かつ本音と建前が乖離しまくりで、会話の途中で突然キレることが多いカナのストレスの原因は、どうやらそこにありそうだということが。だが、それさえ世間は躁鬱病という枠内に押し込もうとする。カナの頭の中の?は膨らむばかりだ。
他にも、カナの血族に関するあれこれとか、脚本も兼任する山中遥子監督はヒントになるカードをあちこちにばら撒いて、終始観客の集中力を途絶えさせない。こんな握力がある映画は珍しいと思う。
握力の一端は、カナを演じる河合優実の常に目と唇から力みを取り去った放心状態のような演技にもある。
題名は『ナミビアの砂漠』。劇中で、カナは携帯動画が映し出す砂漠のオアシスに群れるヌーに何を見ているのか?砂漠=現代社会、ヌー=自分と解釈するのは単純すぎる気がする。平日の新宿、劇場は若い女性観客で席の約9割は埋まっていた。
根深い男社会への不服を全身で表すカナに、ぐいぐい突かれる痛みと快感
男女平等や多様性尊重の理念が当たり前の語られるようになった昨今の日本でも、男女格差は厳として存在するし、そんな根深い男性優位社会に不満を抱きながらも「自分一人が声を上げたところで何も変わらない」と消極的に現状を容認している大勢(恥ずかしながら私もそう)にとって、カナ(河合優実)の恋人に対する暴れっぷりは、単に目の前の相手だけでなく、優しいふり理知的なふりで女性という存在をじわじわと押しつぶそうとするより大きな男社会そのものへの不服を体現しているように見える。それは自分でも気づいていなかった急所、あるいはツボをぐいぐい突かれるような痛さをもたらすが、その痛みを受け入れることで積年の凝りやこわばりがほぐれ、ほどなく快感に変わっていくのに似ている。
監督・脚本の山中瑶子は日本大学芸術学部の監督コースに通うも、馴染めずに中退。その後独学で初監督作品「あみこ」を制作したというが、型にはまらない作風、小器用にまとめようとせず粗削りでもいろいろ試してみようという意気が映像から伝わってくるのが実にいい。
この「ナミビアの砂漠」を観たことがきっかけで、身のまわりで不満に思いつつも受け流していたことを自分から変えていったり、理解しているつもりで実は勘違いだった言動を改めたりする人が増え、めぐりめぐって社会の古い体質が改善されるなら、それこそまさに“痛快”ではないか。山中瑶子監督にはこれからもその独創性を極める方向で突き進んでほしいと願う。
孤独と繋がりをめぐる現代の寓話
物語は、21歳のカナ(河合優実)が、優しいが退屈な恋人ホンダ(寛一郎)との関係に飽き足らず、自信家で刺激的なクリエイター・ハヤシ(金子大地)との新たな関係に踏み出す姿を描いています。しかし、新しい生活を始めたカナは、次第に自分自身や社会との摩擦に直面し、内面的な葛藤を深めていく。
カナのキャラクターは、一見すると無軌道で自己中心的に映るが、その行動の背後には現代社会に対する深い疎外感や孤独感が潜んでいる。彼女がスマートフォンでナミビアの砂漠のライブ映像を眺めるシーンは、現実世界からの逃避や、自分の存在意義を模索する姿を象徴しているように感じられた。
また、カナが関係を持つ二人の男性、ホンダとハヤシは、それぞれ異なる価値観や生き方を象徴している。ホンダは安定と優しさを提供するが、カナにとっては退屈であり、ハヤシは刺激と創造性をもたらすものの、自己中心的でカナの本質を理解出来ない。この対比は、カナが求めるものが単なる安定や刺激ではなく、自己の存在意義や真の理解を求めていることを示唆しいる。
さらに、映画の終盤で明らかになる、「双極性障害」カナの精神的な崩壊やカウンセリングのシーンは、現代社会における若者のメンタルヘルスの問題や、自己認識の難しさを浮き彫りにしている。カナの行動や激しい感情の揺れ動きは、観客にとって理解し難い部分もあるが、それこそが現代の若者が抱える複雑な心情をリアルに表現していると言える。
河合優実の演技は、カナの複雑な内面を見事に体現しており、その存在感は圧巻。彼女の表情や仕草、視線の一つ一つがカナの心の動きを繊細に伝え、観客を物語の深部へと引き込む。また、山中瑶子監督の独特の映像美や演出も、作品全体の雰囲気を高め、観る者に強烈な印象を残す。
現代社会に生きる若者の孤独や葛藤、自己探求の旅を描いた秀逸な作品。観る者に多くの問いを投げかけ、深い余韻を残すこの映画を27歳の山中瑶子、23歳の河合優実という若き才能が描いたことに驚かせられる。
今後も大いに期待を抱かせられた。
蛇足だがカナのイマジナリーフレンド役として、唐子えりかが端役で好演している。過去に色々あってブランクを余儀なくされたが才能ある女優なので今後の活躍を期待したい。
この映画は河合優実じゃないと無理
鼻ピアスはペケ
21のエスティシャンの女性がロングヘアの不動産会社に
勤める男性と同棲している。
男性が、細々と家の中のことや食事作りをこまめにして
くれている。
しかし、このカナという女性、他の男とも付き合う
二股女だった。この男と会う時は、天真爛漫にはしゃぎながら笑顔で過ごす。
男が住んでいる男性と別れて自分と暮らそうと言う。
同棲の男性の旅先での風俗通いの告白を聞いて直ぐ後、
出て来たらしい。
男と新しいアパートに住み新生活を始める。
女性は、仕事とオフの時と表情がガラリと変わる。
男についてタトゥーの店に行ったり、
男の知り合いたちが集まるキャンプに参加したり。
カナは鼻ピアスを施した。
私見ながら、鼻周りのピアス下品にしか見えない。
カナのは、牛のと同じ。家畜か?
男と家にいると男は、パソコンに向かってばかりで、
カナにかまってくれない。
二人の生活を楽しみにしていたカナは当てが外れたか、
暴れて男に挑みかかる。
男は、抗おうとするな、とか何とか言うが、
そんな言葉、普通出ないだろ。
家を飛び出したカナが石段で転がり落ち、
首や足にケガ。優しくしてくれる男。
可愛いオレンジ色のワンピでオシャレしてデート❤️
なぜかの都庁前を歩いていると男に声かけて来る
三重野というエリートが。
ケガが治り仕事復帰したカナだが、
正しいことだけどここで言っちゃいけない言葉を吐く。
見事クビとなる。
前の男性が待ち伏せして追い縋って来るが相手にしない。
しかし、男に以前のようにまたくってかかる。
自発的なのか誰かに言われたかわからないが、
精神科受診するが、あいかわらず。
男と部屋で取っ組み合いする物音で察しているのか、
隣室の遠山という女性、意味深な顔つき。
夢も見る。
カナに中国の親戚からの電話あり。
こんにちは、と、わからない、だけ繰り返すカナ。
ラスト、いよいよサッパリ諦めたような表情の男、
と言われるなぁ〜と待ち受けるカナの表情。
エンドロールの後に、タイトルの
ナミビアの砂漠だろうか?
ロバに似た数頭の動物がオアシスに水を求めてやって来る
カナが、自分の居場所オアシスを求めてやって来るロバみたいな動物なのだろうか。
精神が病気になってしまったのだろうか。
wowowでえらい薦めていたけど、
わがまま身勝手な女性にしか映らなかった。
河合さんが非常に素晴らしく、監督の独特な演出も個人的には嫌いじゃな...
4ヶ月ロングランのわけ
流石に行かなくちゃとサービスデーと仕事の合間がぴたりとハマったのがユーロスペース。あんまり良い思い出がないから警戒はしていたのですが…案の定、後ろのおじさんが席を蹴る系と持ち込みのお菓子の袋カサカサ音させ系のダブルコンボでわたしの137分が終わりました。途中で後ろ向いてお菓子分けて貰えばよかったかな?って思ってる間にやっとタイトル出た(笑)。
というわけで、周りのことが気にできず自分勝手なタチの悪いオッサンが全く出てこない若者の若者による若者のためのこの映画ですが、実はカナの自暴自棄や心の不調の原因は「父親はクソ野郎で死ぬべきだが、父親以前に1人の人間として接しないといけないし、許してあげるべきだと思う」という言葉に集約された、毒親であるオッサン、つまり父親へのトラウマなのかも?と思ったり。愛情は欲しいけど与えることは苦手で、他人の所有物にはなりたくないのに独占欲はある、みたいな感情のチグハグさも幼年期に負った心の傷(愛されなかった/愛され過ぎた/異常な愛情だった等)が原因なのではないかと。自分もなかなかの家庭環境だったので今だにお酒を飲んで声を荒げる人が本当に嫌いで理解できませんし、女に手を挙げる男も男に手をあげる女もとても苦手です。なので、後半のシーンはずっと顔を引き攣らせながら観てましたけど、山中遙子監督の言う
「生きている過程、その延長に映画を作れたらいい」
「映画は社会を映す鏡だから、映画で描かれていないと、社会に存在しないということになってしまう」
という意図はとてもよく反映されていたと思います。全ての若者が自暴自棄なわけではありませんが、10年後や20年後、下手すると2.3年後の自分すらイメージせずに今を生きている人がとても多い気がしますし、彼らの示す優しさとか思いやりはどこかで借りてきたような薄っぺらさを感じてしまうこともしばしばです。むしろそれがあるのはまだ良くて、自分さえ良ければ良いという行動をする人が増えてきたような風潮をよく捉えている描写がたくさん。でもこれってつまり、彼らの親の世代が子供に対して薄っぺらかったりどこか歪んだ愛情しか注いでこなかった因果応報だったりするのかもしれません。世代を超えたブーメランってやつですね。特に共感を拒むようなカナの行動や態度、言葉遣いに、子供を正しく(正しいって何?)育てることの難しさを痛感せざるを得ませんでしたね。知らんけど。彼氏のハヤシなんて親の理想に潰された感じがめちゃくちゃリアルでしたし。
とにかくギチギチだった戦中戦後を生き延びた世代が未来ある若者がお腹いっぱい食べれて楽しく自分らしく生きていける世界を作ってくれたのに、それをいとも簡単にぶっ壊したベビーブーマーの世代は今後日本がなくなっていく原因として語り継がれていくに違いありません。日本と語り継ぐ日本人とそもそも日本語が残っていればですけどね。
いやあいい映画だったな!みたいな気持ちにはなりませんが、河合優実の憑依系の表現力と体当たりの演技(必然性のないシーンを監督が敢えて入れた意図とは?)と死んだ魚の目には長すぎるカットを飽きさせず見せてしまう迫力を感じました。にしても宇垣美里さんがあたらしいテレビのコンテンツアワードでこの作品を上げてたのは中居正広問題が明るみになっているだけに意味深。「お前みたいなもんが作ったもんは毒だろう」ってね。
なんだか取り留めのないレビューになってしまったけど
なんだか取り留めのない映画なんだよたぶんね。
毒親、ダメ彼、ダメ彼女、ダメ旦那、ダメ嫁経験者(もしくは継続中)は強烈なフラッシュバックにフラフラするかもね。
それではハバナイスムービー!
新藤兼人賞を見た後に、見る
公開されたときから精神的に病んでいる女の子の話は、話題になっていたので。
そこまで話題になるのならと、映画館に行ってきました。
私小説風の演技重視だが、映画文法しらずで、自由に撮った感じの映画でした。
これがカンヌで賞を取っているのが凄いですね。
好き嫌いは分かれるタイプの映画だと思いました。
とってもえっちでした。
山中監督の作品はあみこしか観てないが
女の(というより人間の)恥部を曝け出すタイプの方だと思っていたので、
今回もとても良かった。
第一印象は、あら、山中監督、だいぶエロくなりましたねと、←
個人的に寛一郎さんのビジュアルがとても好きなので、彼のエロいシーンも見たかったです。
終盤、観客を納得させるかのように、躁鬱とか精神病に持っていってて蛇足だなと。
そんな診断ついてもつかなくても、女は結構ああいう感じだよなぁと反面教師的にみてました。
彼氏とは、ちょっと一緒に見れない。1人でみてよかった。
ラストシーン、中国のお母さんたちと電話してふと何かを取り戻したのかな。
そう考えると、引き金となったのは冒頭の友達(の友達?)の死なのか?なんだろう。
中絶しても人生は続いてく、仕事はしなきゃいけないし、
ご飯も食べなきゃいけない。
生存したいかは正直分からないけど、生きていく方に足が向いている。
他の方のレビューを見ればきっと答えがあるんだろうけど、
私は私なりの答えを見つけたいので、人のレビューは見ずに、何度かこの映画を反芻して、答えを探していこうと思いました。
なんで評判良いのかわからない…。
やたらイケメンでやたら性格の良い二人の好青年を手玉に取り二股かける今どき女子。
4:3の狭苦しい画面で淡々と起伏のないドラマを見せられて、たまに唐田えりかが脈略もなく現れたり、ランニングマシーンで走りながら自らの暴力を傍観する謎シークエンスが入る。
はっきり言って意味不明で退屈な映画。
と、なんども欠伸をして失神寸前になっていたら主人公の性格の破綻は精神疾患のせいだとヒューマニズムに訴えかけられる。
これはヤバい映画を見てしまった。
なんでこれが評判良いのか、わからない。
監督が新藤兼人賞候補に上がるのも不明。
河合優実は頑張ってた。
それだけが唯一の救い。
ストレス溜まる映画。
懐かしのATG映画
そういえば 若い頃ってこんなだったな…と。
主人公の女の子が映画中盤まで真面目に
勤務先であるエステに通っていたこと。
やたらお腹空いたと言ってたこと。
ちょっと年上の 面倒見の良いカレシがいたこと。
ハンバーグを美味しく作れる男なら
風俗行こうが全然構わない
昔は真珠のピアスだったけど、
産婦人科がくれた腹の子の画像。
映画見終わって、お腹空いて
豚カツ屋へ駆け込んだ。
若いころ
21歳の時は似たようなものだったな〜。懐かしい。今どきの若者ってわけでもなく、あんな感じだよ。
物語としてはまあまあかなあという感じだけど、若い女性の繊細なひりつきを描いたという点では面白かった。タイトル出る前までがよかったかな。
起きるときのぐだぐだした感じとか、無意味に走ったりとか、めんどくさいからズボンはかなかったりとか、女性からみたらあるあるなのでは。
脱毛サロンという、女性なら7割くらいの人が行ったことあるけど男性は知らない場所のリアルが書かれておもしろい。無表情でお互いやり過ごす場所。
彼氏がふたりとも絶妙にウザくてなぐりたくもなるわ〜。2人目の彼はケンカの後すら意識高くてマジうざっ。水飲めとか、服着ろとかうるさいな。
若い頃のなんかムカつく感じを思い出した。
でも何にむかついてるのかよくわかんなかったなあなころ。砂漠の水飲み場くらいなにもかも遠いんだもん。
河合優美のプロモーション映画?
河合優美の演技力は昭和末のスケバンだろうと宗教二世だろうと何でも演じられるくらいに起用で抜群なものがある。初の主演作「かぞかぞ」を経て題名が流行語大賞候補にもなった「ふてほど」で人気が出た河合優美の為に所属事務所が制作したプロモーション映画といったところ。河合優美の演技自体は引きつけられるのだが色々とシーンが目まぐるしく変わるので何を見ているのかが分からなくなってしまうのが多々あるのが難。精神科のクリニックでの診察費として額は忘れたが異様な金額が提示されていたのは全額自己負担なのか、それとも日本国内では未公認で合法的に購入出来ないような危ない薬でも処方されたのだろうか?河合優美がどきつい台詞回しをするのは「ふてほど」をイメージしているのだろうか?
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