「戦争映画ではなくロードムービー(追記あり)」シビル・ウォー アメリカ最後の日 LSさんの映画レビュー(感想・評価)
戦争映画ではなくロードムービー(追記あり)
日常世界に非日常をぶっ込むロードムービー、というフォーマットは好き。ぶっ込まれるのが異形(ホラーやファンタジー)でなくリアル系ならなおさらで、個人的にはツボにはまった。ただ、映画として何を伝えようとしているかはよく分からなかった。
何が対立の種か、なぜ分離主義運動が起こり戦争に至ったかは作品内で一切説明がないので、米国政治社会の具体的な問題へのメッセージではないだろう。戦略も作戦もないので(合衆国大統領以外の指導者も将軍も出てこない)仮想戦記でもない。
最初に思ったのは、挿入される正規軍と民兵(一般人)の戦闘、捕虜の処刑、難民キャンプ、市民の虐殺といったエピソードを通じて、こうした人道的悲劇は今も世界の至るところで起きていると米国人に擬似体験させたいのかということ。だがどれも類型的、きれいに整い過ぎていている気がした。(このくらいライトでないとついていけないとの判断かもしれないが)
次に考えたのはジャーナリズム批評で、カメラマン(フォトグラファー)の「記録し発表しなければならない」という職業的本能についてはドキュメンタリー作品「キャメラを持った男たち 関東大震災を撮る」「続 戦車闘争 [戦争]を伝え続けるということ」のレビューで書いたが、本作にも(フィクションゆえによりピュアに)一歩でも被写体に近づき、シャッターを切ることへの強迫観念が映し出されている。
同時に、現在の戦争報道がembed方式で部隊の同行者として行動し、兵士に守られて最前線で決定的瞬間に立ち会える反面、当局の統制や誘導を受け得ることも描かれている。特に官邸突入後は、本人たちはジャーナリストとしての使命から行動していたとしても、客観的には大統領を殺害するプロセスの一部となっているように見える(最期の証言、死亡の証拠写真)。
そして大統領や警護官らの遺体と共に写り笑う兵士たちの「記念写真」は、勝利の高揚、戦争終結の安堵を割り引いてもある種の違和感を禁じ得ないし、兵士らに頼まれて撮ったのだとしても、新人写真記者がジャーナリストの一線を越えたように、個人的には思える。制作者が射殺直後の「現場写真」ではなくそれをエンドロールに誂えたのは、そこに何らかの問題意識を持っているからだろう。(SNSで誰もが発信者になれる時代のジャーナリスト倫理とか。あの写真が商用配信されたかは説明されていないので、うがった見方かもしれないが)
最後に、はじめの論点に立ち戻れば、相手方の大統領をトロフィーのように扱い、「敵」を軍民問わず殺害する姿からは、同じ国民・人種・民族・共同体の成員であっても、いったん「他者」として認識すればもはや同胞ではなく暴力の行使に躊躇しないという、分断の理由ではなく分断そのものの病理を描いているともいえようか。
なお、IMAXで観たが、戦闘シーンや装備品は全く実物とCGの見分けがつかなかった。驚きの迫力である。ただしクライマックスにしか登場しないので、それを目当てで行くと肩透かしかも。むしろキービジュとは正反対のオフビートな面白味(と後味の悪さ)の作品であった。
追記:最後の写真への違和感の中身
(初出:レントさんのレビューへの10月12日コメントを抜粋、改編)
見習いだったジェシーは道行きで精神的・肉体的にもタフになり、撮影技術も学んだが、「権力との距離」は学ばなかった。ジャーナリズムには力があると知っているので、権力者はそれを利用しようとする。特にエンベッド方式では、軍には最初から自らに有利な写真・記事を出稿させる意図がある。
ジャーナリストはそれを意識して権力との関係を律する必要があるが、最後の「記念写真」を見る限り、ジェシーは(WF支持者だったのでなければ)そのことに無自覚だった。先輩のリーならあの撮影は断っていただろう。これはジェシーの未熟さゆえかもしれないが、私はむしろ、伝統的なジャーナリストの倫理感・行動規範が滅びつつあり、代わって何やら明確ではないが異質な考え方が台頭してきている、そのことを制作者がリーとジェシーに仮託したのかと解釈した。
それはジャーナリズム批判というより、社会の変容への警告かもと思う。
すごく深読みされてますね。確かに歴史は勝者によって作られるということを考えるとそのように考えることができますね。ただ、私はそれを許さないためにこそジャーナリズムは機能すべきだという理想を抱いてます。あくまでも私の個人的意見です。しつこくてすいません。
コメントありがとうございます。
自衛の権利、銃所持の権利を声高に主張するアメリカ人の感覚は、自分などには計り知れませんが結局隣人ですら敵になり得るって事だよな・・と感じますね。
共感ありがとうございます。本作についてはジャーナリズム、特に戦場カメラマンへの批判が込められてるように受け取る方が多いみたいですね。
露骨にジェシーのことを毛嫌いするレビューも散見されます。彼女はは監督自身を投影した存在らしいですね。インタビューでも監督は今の時代こそジャーナリズムの重要性が再認識されるべきだと訴えてました。
終盤、自分をかばって死んだリーを顧みず表情も変えずシャッターを切りまくるジェシーの姿は観客にはいい印象を与えなかったでしょうね。でもあそこで泣き崩れて写真も撮れないようでは彼女は全く成長してなかったことになるんですけどね。
「ハゲワシと少女」の写真を撮影してピューリッツア賞を受賞したケビン・カーターは少女も助けずに撮影したということで世界中から非難されて受賞後二か月で自殺しましたが、彼の撮ったその写真がきっかけで人々のスーダン内戦への関心が高まり周辺国の介入により内戦が収まりました。あくまで一例ですがそれだけジャーナリズムには力があるのだと思います。彼を非難した人々はジェシーも非難するのでしょうがやはり起こっている事実を人々に伝えたいという彼らの意思は尊重されるべきものだと思います。長々とすいません。
共感ありがとうございます。
世紀のスクープ? のラストには明らかに作り手の意図が感じられます。ただ全編通してはこうなってもおかしくないんですよ、と観る側に全投げ、またそれが狙いの様にも思えました。