劇場公開日 2024年10月4日

「見慣れた日常風景のすぐ先にある「戦闘の光景」」シビル・ウォー アメリカ最後の日 ドミトリー・グーロフさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5見慣れた日常風景のすぐ先にある「戦闘の光景」

2024年9月25日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会、映画館

内戦下のアメリカ合衆国。戦場カメラマンらが1台の車で首都ワシントンD.C.を目ざすという物語は、ロードムービーにありがちな一種の単調さをもって進むが、ここでふと思い浮かべたのが、河川哨戒艇で目的地を目ざす『地獄の黙示録』だった。

まず、ノンクレジット出演のジェシー・プレモンス扮する「赤メガネ男」が劇中随一の強烈なインパクトを放ち、まるで『地獄の黙示録』のキルゴア中佐のようだ。プレモンスの発する不穏な「問い」は関東大震災時の「十五円五十銭」を連想させるが、「正解」が全く読めないうえ、妙にリアルでもある。

またこの映画には、平時ならあり得ない「異質な光景」が、ごく当たり前のように次から次へと出てくる。
たとえば、高層ビル群の谷間を通勤者の自転車と武装車両が並走する“日常の一コマ”だとか、西部開拓史のように揚々と私刑執行する民兵、自らの所属すらあやふやなまま謎の狙撃者と対峙し続ける兵士たち、あるいは内戦なぞどこ吹く風のショップ店員、とかだ。

これら一連の光景が、かつて『地獄の黙示録』で見たシーン——ジャングル奥地に出現した狂乱のプレイメイト慰問ショー、フランス人入植者らの優雅な会食、闇夜の密林に向けて機銃乱射する米兵たちなどと、いつしかダブって見えてくるのだ。
さらに、火の粉舞い散る夜の森に車を走らせるシーンの美しさは、『地獄の黙示録』で機銃掃射のはぜた閃光が闇夜に映えるシーンにも相通ずる。

音楽面にもそれはうっすらと感じ取れる。
本作のサントラは、既存曲のヒップホップ、カントリー、ヘビメタ、エレクトロニック・ロックとオリジナルスコアのインスト曲から構成されているが、ラストに流れる「Dream Baby Dream」は、その声質や憑かれたような歌い回しにドアーズの「The End」の面影がちらついていないか。
また、議会議事堂を携帯式対戦車ミサイルで攻撃するシーンに流れるインスト曲も、どこか「The End」のイントロ部分みたいだ。

一方で、この映画が『地獄の黙示録』と決定的に違うところは、本作の主人公たちがジャーナリストであって、合法的殺人が認められた軍人ではないことだ。彼らは、いかなる状況下でも一方に与することなく冷徹に事実取材の姿勢を貫く。その使命感において国際赤十字や国境なき医師団などと立場を同じくすることが、本作から見てとれる。

主人公たちはストーリー上、「老賢者」「導師」「次代継承者」とでもいえそうな一種の師弟関係を形成し、機銃掃射の真っ只中へ身を投じてゆく——あたかもヨーダ、オビ=ワン、ルークのように。そんな彼らがたどる道筋は、鬱蒼とした熱帯雨林を蛇行する河川ではなく、市街戦が勃発する都市部や比較的ひらけた郊外を走る自動車道だ。

ここには、カーツ大佐のようなカリスマも存在せず、熱に浮かされたような物語のうねり、異郷の密林で展開される哲学的思索もない。ただあるのは、見慣れた日常生活と地続きの「戦闘状態」であり、それこそが本作イチバンの見どころなのかもしれない。

有事の「戦闘状態」とは、決して平時と無縁の非日常などではなく、今この瞬間の延長上にある。そこには精神麻痺した人間がゾロゾロ湧いてきて、理不尽で予測不能な暴力が日常茶飯事となる。そんな「見たくない、知ろうとしないリアル」を、映画は冷ややかに突きつけてくる。

補足:
1)音響面の優れた劇場——ドルビーシネマ、ドルビーアトモス、IMAXなどで鑑賞されることを強くオススメしたい。
2)今さらだが、ミズーリ州のニックネームが「the Show me State」というのは、本作で初めて知った。同州が舞台となった映画というと、『スリー・ビルボード』『ジェシー・ジェームズの暗殺』『ミズーリ・ブレイク』『アウトロー』など、ぱっと思いつくのだが…。いずれにせよ不用意に射殺されないために、この際しっかり覚えておこう(苦笑)。
3)戊辰戦争の時代に戦場カメラマンがいたら、どんな写真を遺しただろう…。

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