グランドツアーのレビュー・感想・評価
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アジア旅行は楽しめたが・・・
東南アジアから日本を含む東アジア各国を股に掛けたロードムービーという話だったので、結構期待していた作品でした。内容的には、第1次世界大戦終盤にビルマに駐在していたイギリス人・エドワード(ゴンサロ・ワディントン)の下に、イギリスから婚約者であるモリー(クリスタ・アルファイアチ)が来るという話を聞き、マリッジブルーになったのか思い立ってビルマを逃げたし、そんなエドワードをモリーが追いかけるというお話でした。ビルマを起点に、シンガポール→タイ→ベトナム→日本→中国を転々と逃げるエドワードに対して、モリーもその後を執拗に追いかけて行きましたが、結局追い付くことは出来ず、2人は悲運の最期を迎えることになりました。
婚約者同士の追いかけっこなので、それほど切迫したストーリーではありませんでしたが、アジア各地の映像、特に地方地方の映像は中々見応えがありました。また疑似的な旅行を楽しめるのではないかという期待も一定程度満たされました。注目の日本パートでは、何故か虚無僧が登場するなど、いわゆる外国映画の中のニッポン的な様相でしたが、それもまあご愛敬という感じでした。ただ100年余り前の舞台と、現代の映像を交互に映し出した”実験”は、今ひとつ奏功していなかった感があり、その点残念でした。白黒映像にすることでそれらしい雰囲気を醸し出そうとしていたように思われますが、ちょっと安直に感じられました。
そんな訳で、本作の評価は★3.2とします。
資金さえ集まれば、どう使おうが僕の勝手だよ!ついでに賞までくれてサンキュ。
婚約する前に別れるべき。
ニルヴァーナ
1918年ビルマ北部の町ラングーンで暮らす婚約して7年の英国人公務員が結婚に怖気づき逃亡する話。
ロンドンからやって来る婚約者を迎えて結婚する予定だったが、正装して花束も持ってと言う状況から、そこらにいた人たちに花を配りシンガポール行きの船に飛び乗って巻き起こって行くストーリー。
現代の遊園地や人形劇らしきものの映像に、エドワードのドラマが挟まれる感じで始まって、あちこちを転々として行くけれど、途中から出来事はナレーションで説明されるばかりで、映像も殆どが現代の世相と人形劇の様子ばかり。
途中日本にも来たけれど、虚無僧や坊さんが話しているのはポルトガル語?
モブは日本語喋っていだけれど…。
後半は追いかけるモリーパートで、エドワードパートよりもドラマをみせてくれたし、電報のからくりも示されたりしたけれど、やはり現代の映像も多いし…。
エドワードパートはユニークでコミカルさもあったけれど、モリーパートではそういう要素は汚い笑い方ぐらい?
終盤は重さも入って来て、なかなか面白かったけれど、エドワードの方は中途半端だったし、現代パートを散々見せられてきた意味も感じられず…。
話し自体は嫌いじゃないけれど、間延びが凄いし、もっとしっかり映像でドラマをみせて欲しかった。
字幕がついていない部分の内容が全部わかったらまた違うのかも…。
今年度ワーストを争える作品
や・お・い
『エドワード(ゴンサロ・ワディントン)』はビルマのラングーンに駐在する
大英帝国の公務員。
七年越しの婚約者『モリー(クリスティーナ・アルファイアテ)』が
結婚のためロンドンから長の船旅で自分を訪ねて来ることを知り、
突如隣国のシンガポールへと遁走する。
が、逃げ延びたと思った先でも『モリー』の足音はひたひたと近づき、
『エドワード』は度毎に次の地への逃走を図る始末。
前半部は『エドワード』の、後半部は『モリー』のパートで、
行く先々の土地での
イマイマの現実の情景が挟み込まれる。
二人が登場するフィクションの場面は
おそらくスタジオにセットを組んで撮られたよう。
現代のノンフィクション映像と
1900年代前半のドラマ部が
パズルのように組み合わされ、
何を見せられているのかと不審な面持ちに。
男性は結婚について、
なにがしかの恐れを抱いているのか。
女性は逆に漠然とした憧れを持っているのか。
結局は主人公たちが
何故そこまで恐れて逃げるのか、
固執して追うのかは明らかにされず、
多国を股に掛けた冒険譚ののちに唐突なエンディングを迎え、
観ている者は置き去りにされたように呆気に取られる。
2024年の第77回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で
監督賞を受賞した作品だそうだが、
審査員がどこに反応しての受賞なのか、まるっきりピンと来ない。
加えて「Metascore」の評価も、現時点で82点の高得点は理解の外。
寧ろ「IMDb」の評点6.5の方がしっくりくるし、
それでも高いと思えるほど。
1918年は年末に「第一次世界大戦」が終結したものの、
それ以前はアジア周辺でも「シベリア出兵」を睨んできな臭い状況だったハズ。
その中を、大旅行記さながらに東洋を縦横に移動するのは、
西洋人が観ていて爽快感を感じるのか。
まさしく、タイトルの「グランドツアー」そのものとして。
とは言え、それにどれだけのお金が掛かるのかは、
とんと見当も付かず。
はたまた、劇中の
タイの「アクサラ」
インドネシアの「ワヤン」
中国の「パンダ」
日本の「虚無僧」と
エキゾチックでオリエンタルな文物に反応したのかしら。
もっとも東洋の人間としては、
登場する西洋人の宗主国の人間然とした尊大な振る舞いに、
横っ面を張りたくなってしまうのだが。
確かにオリエンタリズム。しかもラストが突然の切断。でもヒロインは魅...
確かにオリエンタリズム。しかもラストが突然の切断。でもヒロインは魅力的で、後半のほうがずっといい。人形劇が良かったし、歌もよかった。アジアにいる西洋人の話でもある。ゴックは別だけど、他のアジア人は他者。確かに笑い方も変すぎ。
アジア伝統芸能紹介?
モノクロの映像でこの間見たアビチャッポン監督作品思い出した(真昼の不思議な物体) あちこち追い回すのは楽しかったけど、婚約者2人ともそんなに若くなかったような...人生はハプニングが多い?と言うかそう望んでいたというか 意外な道程、結末でそれは良かったんだけど何を伝えたいのか解釈に困る作品だった
オリエンタリズム、エキゾチズム?そうではないと言い切れる?
予告編の段階から、自分はあんまり楽しめないかもしれないと思った。この映画のグランド・ツアーは20世紀初頭ので、植民地政策バリバリの国々の人々がアジアを巡る旅だ。大英帝国だけでなくポルトガルも「立派な」宗主国だ。本来のグランド・ツアーは17~18世紀、イギリス、ドイツの知識人がヨーロッパの源を求めてイタリアを訪ねる旅だ。寒々しい北ヨーロッパの人間にとってイタリアは柑橘類のかぐわしい魅惑的な土地、古代ギリシャ、ローマ帝国、ビザンチン、イスラム、イタリア・ルネッサンスその他その他が歴史のミルフィーユになっている場所だ。だから乱暴な言い方かも知れないが、イタリア行きのグランド・ツアーは上から目線でなくて、下から目線、憧れ目線だ。
時空を超えてアジアの国々を巡り、逃げる婚約者を追いかける女は逞しく楽観的だ。フィルムは白黒とカラー。映るアジアは今のアジアだ。ホテルや駅や列車など、逃げる・追いかける二人がいるのはセットで、キッチュな作り物感が面白かった。逃げる男=エドワード・パートの真ん中と後半は眠ってしまったが、追う女=モリーのパートになってからほぼ眠らずに見ることができた。モリーのあの吹き出し笑いは1回だけにして欲しかった。何回もすると面白くなくてちょっと馬鹿みたいだった。でもそのためか、彼を追ううちにだんだんと衰弱して咳もひどくなる姿は余計に可哀想だった。でも見方を変えると「湿度が高く不衛生で、何が起こるかわからないアジア」というイメージに貢献しているようでもあり、土地の者が危険だ無理だ、と言っても言うことを聞かず金の力で移動を強行するヨーロッパ権力の横柄のしっぺ返しにも見えた。何度も寝落ちしたので偉そうなことは言えないが、映るアジアが今のアジアでも人々は今のアジアの人々の姿ではない。
とても不思議で可愛かったのは木の上に佇むパンダ。面白くて良かったのはナレーションがその時々に映される国の言語であったこと。
本当は彼は何から逃げ、彼女は何を追い求めていたのか
カンヌの審査員たちよ、寝なかった人は正直に手を挙げなさい(笑)
つまらないが、
別の見方では目の醒めるような挑発的な映画ではあった。
まともに演技が出来ていたのは侍女役のゴック(ラング=ケー・トラン ⇒トラン・アン・ユンの娘)とシャムの皇太子だけ。
あとの欧米人は一人残らず大根もいいところだった。
当てが外れた。
ラッフルズホテルのラウンジと称するプレハブのあばら家。白人たちが狭しと踊るシャムの王宮。どこもかしこも安普請の「セット撮影」だし。
ミゲル・ゴメス監督が「西欧人の登場場面においては」わざとこのチープさを繰り返し指示し、徹底して演出して狙ったのであれば、それは大したものだ。
意図がある。
ならばドラマの進行における主人公たちの道行きのシーンは佳く撮られていたかと云えば、それも違う。
⇒駅の待合室も、船長のダイニングも、ベトナムへ抜ける陸路のジャングルも、重慶の先の竹の林も、いかにも本作の撮影隊主体の安っすい=撮りやすい=行きやすい=演技をさせやすい狭量なロケ地の有り様だった
これもきっと意図がある。
(「モリーの最期の撮影シーン」をあのようにわざとエンディングでバラす事で、矢張りクルーたちのカメラ位置も、照明も、そしてモリーとエドワードが立っていたその「場所」「場所」も、明らかに”撮りやすい絵を得るための“不自然なアクティングエリアだったと判明する(させる)のだ。
すべてが西洋人たちのためのお膳立てだ。
「ジャングルの けもの道」しかり。「竹林の中に人数ぶんだけ不自然に開けていた空き地」しかり。「光線」もそうだった)。
つまり、
◆かつてのヨーロッパ人たちのなしたアジア周遊=「グランドツアー」がどれだけ本当は退屈で中身の無い空っぽなものであったのか、
◆かつ、睡魔に襲われるものでしかなかったのか。
【その事】がよくえぐられていたし、その実態が、敢えて作られたであろう安上がりな画面から僕は分かった気がするのだ。
イギリス人の主人公たちがポルトガル語を喋る奇っ怪さ。その白人ばかりが酒を飲み、イタリアのアリアを歌い、仲間うちで退屈そうに言葉を交わしている。BGMも西のものばかりで選曲も滅茶苦茶。それに対して現地のアジア人たちのセリフや、実生活を見せる貼り付け映像にはほとんど字幕は付かない。異人種間の会話は僅かゴックと皇太子だけ。
追いかけっこはアジアの勝ち。
「逃げる男、追う女」とのキャッチフレーズではあったけれど
実は「どんなに君等が追いかけたって、アジアは西欧人なんかには捕まらないですよ」
「ユーは何しにアジアまで?」
「来たって分からんでしょ」
「脱線してんじゃん」
「帰れば?」と、
けっこう辛辣に、列強の連中を拒む映画だったのではないかと、思い至ったなぁ。
つまり、彼らののんきな旅もそして植民地主義も突っぱねて「白人のアジア趣味の空虚さ」を突きつけるテーマではなかったかと。
・・
やれやれ。長かったですね。
世界を股にかけての鬼ごっこでしたが、ラブストーリーではありませんでしたね。
ビルマ〜シンガポール〜タイ〜ベトナム〜フィリピン〜中国の流れでした。
whay?日本の「歌舞伎町のネオン」や「禅寺」や「大阪のうどん屋」が出て来たのか?って?
ボーっと観ていちゃダメですよ。あれはもちろんエドワードやモリーたちの白人の国によって、いま現在も(アメリカ軍に)グランドツアーされている現地として。
つまりアジアの一国としての、並列の扱いです。
・・
で、
帰りの電車に揺られながらこの変な映画を反すうしながら、
僕は、自分で今まで考えた事も無かった思いが湧いてきて、自身戸惑っているのです、
「かつて日本軍が言っていたあのスローガン=『亜細亜各地をば列強の支配から解放せん』との進軍。あれ、あながち間違っていなかったのではないか?」―という、僕がこれまで絶対に肯定は出来なかったあの頃の日本国の“思い上がり”を
「それも・・、それも有りなのかな・・」と
ふと思ってしまった事。
自分のこの脳裏のつぶやきにびっくりしてしまったです。
こんなのがカンヌで監督賞??
1918年の設定なのに、映し出されるのは、ド現代の街並み。
道頓堀ドンキのあと、立ち食いうどんで「軍人」登場???
時代は変われど、本質は変わらないのを描いたつもり?、
なのか、ギャグのつもり?なのか知らんが、何にも成功していない。
むしろ監督の怠慢、創造性への放棄に感じた。
終わり方もなあ。はい虚構〜でなんでも格が上がるとでも??
こんなので観客はありがたがるとでも?観客をナメんなよ。
(つか、観客は正直で、土曜の昼間でガラガラでした)
モリーのぶぶぶ笑いの下品さ・有り得なさは少しだけ良かった。
そもそも話の運び方が酷い。
こんだけ複数で脚本書いてこの出来であることに驚愕。
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