サブスタンスのレビュー・感想・評価
全564件中、481~500件目を表示
前半は★★★★、後半は…
終盤はスプラッター それもB級
作品のアイデアと中盤までのストーリー展開はとても面白く魅力的だった
ただ後半(特に最終盤)が間延びし過ぎて何処まで続くのだろうと呆れてしまった
監督の言わんとしていることは解るのだがそれにしてももう少し何とかして欲しかった
サブスタンスのルールも終盤は破綻してるし
これってデミ・ムーアの力で終盤の脚本を改変出来なかったのだろうか?
っていうか出演してもらいたくなかった
せっかくのデミ・ムーア、マーガレット・クアリーの全身全霊の熱演が終盤で全て台無し
コアな映画ファン以外はおすすめしません
ポップで残酷。存在価値を追い求めた欲望の果て
コラリーファルジャの圧倒的なセンスが爆発している
頭一発目から一気に持っていく画作り、ハイコントラストな色彩感覚、大胆なアングルショット…
どれをとっても1シーン1シーンの画面構成に隙が無くキマりまくっている
でありながらも技術だけに収まらない暴力的とも言っていい攻撃性を備えたストーリー
年齢という呪縛、美への渇望、女性としての価値
ポップな画とは裏腹に容赦なくくだされる老いへの断罪
それらが最後にもたらす悲劇的とも喜劇的とも言える激烈なラスト
ここまで作品全体から溢れんばかりのパワーを感じたのは久々
局所でボディブローのように打ち込まれる痛烈なシーンの数々が徐々に作品を全体を包み込みやがて爆発するように終盤へ流れ込んでいく
そこからのモンストロスな展開とスプラッター顔負けの血しぶきの嵐をぶつけられ見ているこっち側の身体が熱くなる
ただそれは単純に見た目の派手さ だけではなく、その根底にある愛への飢えが強く感じられるから
映像演出と感情の機微。両側から頭を揺さぶってくる
老いたかつての女優を演じるのがデミムーア というのもどこか彼女自身と重なる部分がありだからこそマーガレットクアリーとの対比がより深みを持って描写できたのではないかと感じる
全体に説得力をもたらすような2人の存在が最終的にはサブスタンスという作品を見事にまとめ上げた
尖ったセンスと時世を突く表現技法、圧倒的なプロットや映像演出、そしてそれに深みを与えた演者の力 全てが高い次元でまとまった傑作!
果てしなく強欲
観た劇場は、かなり席うまってて期待値の高さは今年のアカデミー賞受賞作だからでしょうか。
かなりの衝撃作、ほんと後半は阿鼻叫喚だし、ちょっと事前に忠告しておいてほしいレベルにバイオレンスでスプラッターな内容。
デミ・ムーアよくこのオファー受けたなというような役どころ。いま63歳で49歳の役だけど、その年齢には見えないほどナイスボディ。そしてマーガレット・クアリーもスゴい脱ぎっぷりと体当たり演技、これはたしかにセクシー&バイオレンスでR15指定。
観終わった男性と女性では感想が異なりそうな予感もしたり。自分の目線では、己の強欲の果ての自業自得だけど、話の最後は、これはこれでハッピーエンドなのか?!と思った。
強欲その1、若い頃から49歳まで大成功している生活
強欲その2、他人からチヤホヤされることをやめられない
強欲その3、いまの自分の快楽のためなら、他人(自分の未来)なんてどうでもいい
そりゃそもそも、そんな危ない薬に手を出す人が、バランスや平穏なんて無理という分かりやすさ
サブスタンスを推奨した男性も半身に侵蝕されてたから、レストランで色々なものを落とすほど衰えてたのかな。
作品に登場する男性が底抜けにバカに描かれて、登場する女性は、果てしなく強欲に描かれてた。人間の黒くて闇な部分を思いきって清々しいまでに真っ黒く表現してる。
未知との遭遇
最高に悪趣味
嫉妬と自尊心
ここ最近忙しくて映画館にもなかなか行けず…レビューもしてないのが溜まっている😔はよ書かな…
この映画、公開前から個人的に大注目しておりめっちゃ楽しみにしてました!
まああらすじからして、薬を手に入れて最初はウハウハ。ルール破ってえらいこっちゃ!やろ。まあよくある設定やなって思いながら観ていたが、そのえらいこっちゃの描写がとにかくえげつない。そこまでやるなんて喪黒福造すらそこまでひどいことせーへん😔食事のシーンもやけに生々しくいちいちぐろい。
後半、ほとんど画面直視できず。チベットスナギツネのような目で観ていた…
そしてデミムーア。この役は今のデミムーアやからできたんやろうなあ。女優としてのこの作品にかける覚悟を感じた。やっぱりアカデミーとってほしかったよ…。
お局なんて言葉があるけれど、私の職場にもお局はおり、きまって集団で若い女性の悪口をいい、若い男にこびる。若い頃はお局さんたちもちやほやされていたんやろう。同じ女性としてなぜ同性を敵対視することしか頭にないのか?なんとも虚しい気持ちになったことをふと思い出す。嫉妬は理性を超越する。やから職場いじめはなくならない。嫉妬という感情は自尊心の低さと連動している。他人軸じゃなく、今の自分のことを愛せていたらエリザベスもきっと穏やかな人生をおくれたんやろうな。
帰り道、トイレの鏡で思わず自分の顔をみる。いつも通りの自分の顔で安心。それにしても疲れる映画やった。
使用上の注意
単に若返るんじゃなくて母体と分身に分裂、分身の安定剤は母体から精製されるため
1週間ごとに活動体を入れ替える必要があるって設定大好き!
案の定、イケイケ分身体スーが使用上の用法を破り始めた事から入れ替え生活は破綻をしていく・・・
説明書が結構テキトーに書かれてた割にエリザベスが注射うって分身作成→入れ替え→安定化迄してるの流石メディカル大国(?)の国民様だと勝手に感銘を受けてしまった(笑)
最期のモンストロエリザベスーの血塗れシャワーは
近年稀に見るスプラッター(つっても本人の血ですが)描写でした。
結論:面白かったけど、、よくデミムーアが出演したなってw
自分を愛せない悲劇
これはルッキズム批判やアンチエイジング批判に留まるような映画じゃない。もちろん女VS女の物語でもない。「自己愛とは何か」その問いをシンプルかつ大胆にホラーへと昇華させた、類まれなる映画だ。
グロくて怖いし、グロさもバリエーション豊かなので万人には勧められない。「サブスタンス」観ながらハンバーガー食べられるくらいの図太さが必要。
主人公・エリザベスが求めているのは、「皆に愛される自分」である。若さも美しさも副次的なものでしかない。
その「愛されたい」に対して、エリザベス自身は自分をうまく愛せないでいる。それはサブスタンスによって若く美しい「スー」を手に入れてからも解決せず、むしろ悪化しているように見える。
スーでいる間は、望んだ通りにチヤホヤされているものの、エリザベスに戻れば同じ人間から悪態をつかれる。その経験のせいでエリザベスは引きこもってテレビを見るだけの1週間を過ごし、部屋は荒れ、暴飲暴食で自分を慰めながら同時に傷つけていく。
7日間は長い。嫌いな自分と向き合うだけの1週間ともなればなおさら。逆に、スーである1週間は短すぎて、エリザベスである時間の怠惰さを「無駄」に感じてしまう。忙し過ぎて自由に過ごせない歯がゆさが、孤独な時間を耐える自分を切り捨てようとする恐ろしさ。
ちょっとくらい、無駄な時間を有意義に使ったって良いじゃないか、とばかりにスーは7日間のリミットを超えてしまうが、代償となったのはエリザベスの肉体だった。これをきっかけに、スーとエリザベスがバランスを取り戻せれば良かったのだが、むしろエリザベスの自己否定は更に拗れる。
お世辞かもしれないが「君は今でも世界一可愛い女の子だ」と言ってくれたフレッドが、エリザベスがエリザベス自身として愛される最後のチャンスだった。
会う約束をとりつけ、いざ出掛けるという時に目に飛び込んでくるスーの看板。あれは「完璧な自分」だ。もっと完璧にならなきゃいけない。完璧じゃなかったら、きっとフレッドは愛してくれない。
その感覚はもはや呪いだ。
なぜ「もっと、もっと完璧に」と際限なく求めてしまうのか。唇に潤いを足し、萎んた胸元は隠し、チークを濃いめに…どんなに繕っていっても、50歳のエリザベスがスーの持っている美しさを再現するのは無理だ。大体、フレッドだって求めてないのに。
もし、フレッドに会いに行っていたら、エリザベス自身を受け入れてくれる存在に心が安らいだはずである。スーのように多数に絶賛されなくても良いじゃないか。自分を愛してくれる存在は、自分自身を愛するきっかけになるはずだった。
結局、エリザベスは自分を愛せず、完璧な自分であるスーへも憎悪を募らせ、そんな醜さの権化であるエリザベスの存在は、スーによって搾取される。
醜い自分など、外に出るべきではないから。
私が本当に恐ろしかったのは、モンスターと化す前のスーによるエリザベスへの過剰な暴力である。
自分自身への攻撃は他人への攻撃より苛烈だ。愛される自分、その存在を脅かし、足を引っ張り、闇が深くなるくらいなら光を消してしまおうとする自分を息絶えてもなお蹴り続けて、それでもやっぱりこれは自分だと思ったのか。
それでもやっぱり、光を浴びてもう一度輝きたいと願うエリザベスの執着は、当然スーも同じ。
サブスタンスを終わりにする為の投薬のせいなのか、本体であるエリザベスの肉体が再生不可能だからなのか、スーの肉体も崩壊し、スーは禁断の2回目のサブスタンスに全てを賭け、そして彼女はモンスターとなった。
正直、あれをモンスターと言っていいのかわからない。エリザベスよりもスーよりも、純粋にこれが自分自身なのだと自覚している分、「モンストロ・エリザ・スー」は自己を肯定しているように感じたからだ。
知ってはいたけれど、想像以上にホラーだった。ホラーテイストはあっても、もっと途中で自分を肯定するような方向に向かうんじゃないかと思っていたから、崩壊するまで主人公を追い込んでいくテイストに驚愕した。
多分デミ・ムーアのファンと思しきおじいちゃんを見かけたのだが、彼がどう思ってこの映画を観ているのか、そもそもこのホラー展開についていけているのか、ふとそんな事を鑑賞中に考えて不安になったくらい、容赦がない。
が、私個人としては色んなシーンが面白く、特に序盤にこの後の展開を示唆する様々な仕掛けが施してあるのが良い。
序盤は映像的にもかなり攻めていて、カメラの近さや咀嚼音・呼吸音の近さが、エリザベスと観客を接近させるように仕向けられているところも興味深い。
誰だって、自分自身に嫌いなところはある。その日の体調や気分によって、良いパフォーマンスが出来るかどうかもわからない。
「より良い自分になれ」という命題は、もちろん悪いことじゃない。が、「ダメな自分」とどう向き合うか、を教えてくれる人はあまりいない。
ダメである自分も、また自分なのだ。ダメな自分を切り離して、良いところだけの自分しか見せないようにしたとしても、結局自分自身はダメで嫌いな自分からは逃げられない。
ダメな自分の時間とは、より良い自分を生み出す為に必要不可欠なインターバル。それが「バランス」なのだということを忘れないようにしたい。
愛と承認を求め、自分の鏡像に殺された女優
本編に繰り返し登場する鏡。
鏡に写った自分自身の姿をありのままに受け入れるか、それとも歪曲して受け入れるか。どのように認知するかは本人次第だ。そして、その認知が歪んでいるとき、その原因は本人だけでなく社会全体にあると思う。
摂食障害を患ったある知人の女性は、ミスコンの優勝経験もある美しいひとだった。彼女はある時期から食事を摂らなくなり、毎日のようにジムに通って激しい運動を行い、病的に痩せていった。彼女は骨のような姿になっても鏡を見て「頬にこんなに肉がついている」「もっと痩せなければ」とため息をつき、周囲の人々がいまの状態がいかに危険であるかを説いてもまったく効果はなかった。病室で面会した彼女に「いまの私はきれい?」とすがるような目で問われたことをいまでも忘れられないでいる。鏡が「ありのまま」を写しても、本人が「ありのまま」を認知できるとは限らない。
本作品の主人公エリザベスは、かつてオスカーを獲得し一世を風靡した人気女優だったが、50歳を超えてその知名度は下がるばかり。依頼される仕事も演技ではなく、エアロビ番組のインストラクター。その番組も年齢を理由に降板させられてしまう。一般人の私から見て、エリザベスは美しい女性だと思う。重ねた年齢は感じさせるが、鍛えられた身体も、手入れされた容姿も並外れている。街中でばったり再会した同級生から見ても同様だろう。しかし、芸能界という世界、そして芸能界で生きる彼女たちを消費する私たち、そしてエリザベス本人もそれでは満足できない。より若く、より美しい女性であること常に求める。
エリザベスはただ完璧を求めている訳ではないと思う。根底にあるのは「みんなに愛されたい」「認められたい」という果てしない欲求。ありのままの自分、50歳を超えて容姿が衰えはじめた自分は、芸能界で必要されない。芸能界だけではなく、日常生活でも必要とされない(周囲の男たちのエリザベスとスーに対する態度の明らかな違い)。そして、鏡に写った自分自身、老いた姿を受け入れられない。追い詰められたエリザベスは怪しげな再生医療サブスタンスに手をだし、欲望のまま破滅へと突き進んでいく。それはエリザベス個人の欲望の帰結でもあるし、そのように仕向けた私たち(社会全体、芸能界、芸能界を仕切る権力者、芸能界を消費する我々)の責任であり呪いだと思う。
私は誰かに呪いをかける前に、呪いをかけらていたと思う。私の見た目はエリザベスと違って不細工である。こどもの頃から「器量がよくないのだから、せめて笑顔でいなさい」「女の子なのだから常に笑っていなさい」と繰り返し言われて育った。なにも面白くないのに、笑顔を強要されるのはとても疲れる。絶対的な権力者である社長の前で、へつらうような、ぎこちない笑顔を無理やり浮かべるスーを見て息苦しさを感じた。こうした呪いは幼い頃からの刷り込みだけでなく、大人になってからも大量に付きまとってくる。そういうものをめちゃくちゃ研ぎ澄まされたナイフで眼前に突きつけてくる映画だ。老いたエリザベスが、若い自分自身に鏡に叩きつけられて殺されるシーンなんか極致だと思う。
それと、スーが担当するエアロビ番組の構成は、エアロビの皮を被ったアダルトビデオみたいで気味が悪かった。執拗に身体の線を辿るカメラ、尻や胸のアップ、スーがしゃべるのは最後にほんの少しだけ。スーの人格はどうでもよくて、若くて美人でエロい女の子がセクシーに身体をくねらせていればオールオーケーという馬鹿みたいだけどよくある番組。製作に携わるのは男性ばかり。「鼻の代わりに胸がついてればな」という採用担当者の最低な台詞。極端な気もするが、いまの芸能界の縮図なのだろうと思った。
映像はすべてテンポがよく、無駄がなく洗練されていて、スリリング。特に、星形プレートの使い方が面白くて強く印象に残った。ハリウッドウォークオブフェームにエリザベスの星形プレートが設置されるシーンから映画は始まり、プレート単体でエリザベスが世間から忘れられていく様、しかし彼女自身は過去の栄光にどうしようもなくすがり付いている様を淡々と容赦なく表現し、映画は終わる。
最後に。モンスターエリザベスの血を掛けられる観客の中に、私もいるのだろうと思いながら見た。私たち観客の眼差しが彼女をつくりあげ、結果として死に追いやったのだと。
ちゃんと阿鼻叫喚(笑)
正直終盤までは
面白いけど思った方向の話じゃないし
「永遠に美しく…」と「ナッティプロフェッサー」を足しような感じだし
それほど阿鼻叫喚じゃないし
まぁ星3か2.5くらいかなぁとか思ってたけど
終盤の怒涛の展開がマジ最高(笑)
ちゃんと阿鼻叫喚だったわ
細々突っ込みたい所もあったけど
ラストの展開でそんなもんどうでもよくなったよ(笑)
小道具や特殊メイクやデザインや演出の節々に
80年代ホラーへのリスペクトを感じたのは私だけだろうか?
なにげにアクションシーンも迫力あってよかったな
蹴りでふっ飛ぶシーンとか
ジャッキー映画みたいだった
個人的には
出来ればあの終盤の展開を中盤に持って来て
ラストはもっと周囲も巻き込んだ地獄絵図を繰り広げてくれたら満点だった
まいった!
主演女優賞、獲って欲しかった…
(今回はそれを読んだところで一切意味は解らないと思いますが、作品的な性質から判断して一応「ネタバレあり」としておきます。そもそも自分の表現が正しいのかも判断が難しいところですが、、、)
アカデミー賞授賞式から2か月以上が経ち、更に急遽「先行上映」が決まって明日から公開となる「某作品」に気を取られ、正直浮ついた心理状態で挑んだ本作。いやぁ、、ナメてましたね。。凄かった。「衝撃的」と言う表現が決して大袈裟ではないほど、観終わってしばらくは脳を支配されたような感覚に囚われます。ただし、身体の損壊や大量の血液など「ゴア表現」が苦手な方にはかなり負担になる描写が多く、ご覧になる際にはかなり注意が必要。その点は何卒ご留意ください。
それにしても、、カンヌで評価を受けるのは解りますが、本作がアカデミー賞「作品賞」候補に並ぶのもやはり、近年の「多様性重視」が考慮されつつあるレギュレーションの変更が大きく影響しているのでしょうか。ただそれなら、是非にもデミ・ムーアに「主演女優賞」獲らせてあげてよアカデミー会員の皆さん、、もう終わったことだけどさ。。勿論、『ANORA アノーラ』のマイキー・マディソンは素晴らしかった。だけど、本作のエリザベス(リジー)を演じるデミ・ムーアを見てしまうと、その他とは比べようのない「怪演」にもはや虜の私。更には「分身」であるスーを演じるマーガレット・クアリーとの相乗効果も相まって、どんどんと変わっていく容姿と、それでも抗えない欲望にもがき苦しむエリザベスを正に「体を張って」演じたデミ・ムーアは圧巻です。そして、阿鼻叫喚の最終形態から、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに納まり安らかな表情で「レガシー」となっていくエリザベス。勿論、受賞した「メイクアップ&ヘアスタイリング賞」の効果・影響も大きかったとは思いますが、とは言え、こんなの「他に誰が演じられるだ!」と思える唯一無二なデミの存在感に、もうただただ圧倒された142分。本当に素晴らしかったです。
そして、一見C級ホラーのような展開も、独特なカメラワークと編集、そして重低音で煽ってくるBGMでトントン拍子に進むストーリーは、特に説明的なことがされなくても充分に解りやすく、それでいてしっかり「人間の真理」を大胆に皮肉っていて可笑しくも刺さります。また、エリザベスに対してだけでなく、彼女(達)を消費する側に対する「壮絶な見返り・報い」もまた公平性を感じます。あれを浴びてしまった皆さま、明日も健康でありますように。
その見た目だけなら「ゲテモノ」に分類され兼ねませんが、観て味わえば、普遍的なテーマに対してユニークなアプローチで見事に表現された傑作。作品賞ノミネートが頷ける納得の作品です。あゝ観る前の浮ついた私よ、気持ちは解るがしっかり心してかかりなさい。
「ヘルタースケルター」かと思ったら「ザ・フライ」だった
若さと美しさを追い求めた女性が身を滅ぼすという話自体に目新しさはないが、年取った体と若い体の2つの体があって、1つの人格が、それらを1週間ごとに乗り換えなければならないという設定は斬新だと思う。
まるで昆虫が羽化するみたいに、年取った体の背中が割れて、そこから若い体が出てくるといった突拍子もないシーンも面白いのだが、出てきたのが若返ったデミ・ムーアではなく、彼女とはまったく別の顔立ちの女性であるところには、少なからず違和感を覚えてしまった。
ただ、こうしないと、若返った主人公に周囲の人間が疑念を抱いてしまい、物語が成り立たなくなってしまうので、これは、これで致し方ないのだろう。それに、顔が違う方が、年取った体の時と若い体の時とで、人格が別々になっていくという流れに説得力が生まれるので、逆に、この方が効果的だったのかもしれない。
特に、年取った主人公が若い主人公を妬み、若い主人公が年取った主人公を疎ましく思いながら、互いに相手に対する憎しみを募らせ、取っ組み合いの喧嘩(殺し合い)に至る過程からは、「人格は容姿によって決まる(のかもしれない)」という作品のテーマを垣間見ることができて興味深い。
エゴが暴走した挙げ句に生み出されるモンスターのグチャグチャ感は楽しいし、大晦日の特別番組での、血しぶき満載の阿鼻叫喚ぶりにも、突き抜けたような面白さがある。
その一方で、いくらデミ・ムーアの写真を顔に貼り付けているからといって、見るからにモンスター然とした主人公がステージに立てるのは不自然(「夢オチ」かと思ったら、そうでもなかった)だし、何よりも、あれでは、スーがエリザベスの変身した姿だったということが、劇中の登場人物に分からないのではないか?
ここは、スーが特別番組のステージに立った後、観客の目の前でモンスターに変身し、しかも、モンスターの正体がエリザベスだったとバレるという筋立てにした方が良かったのではないかと思えてならない。
それから、デニス・クエイド演じる下品で傲慢なプロデューサーには、もっと明確な形で鉄槌を下してもらいたかったと、少し残念に思ってしまった。
教訓のないイソップ物語
チョット前だったら渋谷の隅っこでレイトショーでやる様な映画が全国のシネコンでかかる事に時代の流れを感じます。
寓話的というか、マンガみたいな話というか、「笑ゥせぇるすまん」。作りもマンガ的なので多少物語が荒っぽくてもそれほど気になりません。
甘い誘いから提示される“約束"は当然全て破られるので安心して見ていられます。
以前よりSNS等の加工しまくったセルフショットを見るにつけ、「ありもしない美を自慢してどうすんだか?」と思っていたので、かなり共感できました。
「人間やっぱり内面の美しさが〜」だのと説教臭い事を言わない潔さには好感がもてます。
一方でスーに入れ替わった途端テレビCMの様なシズル感満載のカットになったり、プロデューサーの名前がハーベイだったり、各方面に喧嘩を売っていて唯のエログロナンセンスにはなっていません。
話運びのテンポも良く2時間超も長くは感じなかったので、「スーちゃん可愛いのに話し方がオバさん臭いのよね」とか
「スーちゃん普段着がちょっと古くて逆に新しいよね」とか
「スーちゃんカラオケで知らない曲ばっかり歌うね」みたいなシーンが欲しかった。
見慣れない撮影スタジオのロゴで始まったので、ラストの過剰な血しぶきも悪ノリ的に「結局コレがやりたかった」という様な悪趣味も許されたのでしょう。この監督さんが名前が売れて大手スタジオで撮る様になった時に牙が抜かれない事を願います。
【余談】
1月以上前にインスタだかyoutubeだかのオススメみたいな動画で最後のモンスター化した造形が出てきて、かなりデカ目のネタバレされてしまっていました。予告編でも隠してくれていたのでアレは知らないまま観たかった。
なので、オチは何となく分かってしまっていたので観るのをどうしようか悩んだのですが、十分楽しめました。
さすがの怪演
久々にホラー映画で楽しめた、すんごい面白さ。
TVプロデューサーらによる美醜や若さにこだわるルッキズムな俗物たちの醜さと、承認欲求モンスターの主人公が正真正銘のモンスターになっていくぶっ飛んだ内容。
怖いというより笑えました。
日本の漫画読みにとっては、行き過ぎた欲望の分のしっぺ返しをくらうのは『5年3組魔法組』と『笑うセールスマン』の組み合わせってとこか。
もしくは日野日出志テイストに近いと言ったら分かりやすいかも。
宣伝文句の「阿鼻叫喚」は間違っていなかった。
それにしても、女優お二人の全裸はまったくいやらしく見えず、恐ろしさを増すための素材として上手い撮り方をしていました。
若いマーガレット・クアリーより、むしろ60過ぎたデミ・ムーアの美貌と怪演ぶりがすごくて魅力的でした。
50代に見えるんだものなぁ。
超問題作。昨今の洋画が不満で、刺激が欲しい人に。
目や身体のパーツの超接写と激しい画面の切り替えで観客を不安にさせる。今どきレオタード姿の接写は大丈夫なのか。それよりも主演二人の自宅シーンでは着衣がすごく少ない。しかし日本映倫でのR15+理由は「刺激の強い肉体損壊および大量の流血描写がみられ、…」であり、裸体については記載がない。なおスー役のバストは人工のものです。
テレビ視聴率は絶頂でも年齢で切り捨てられる。
手に入れた若さと人気は何があっても手放したくない。たとえ禁断の事でも。
美貌が失った事は認めない。事実美しい。それが写真であっても。
今までにないストーリー展開で驚きのひと言です。
ただ広げた風呂敷がしっかりと畳めたのか。
H.R.ギーガーで大丈夫なのか。
減点はしないけど。
脱皮 → 分身 → ???
圧倒的なデミ・ムーアの熱演!快作にして怪作!!
《前夜祭上映》にて鑑賞。
【イントロダクション】
デミ・ムーア主演。50歳を迎えた元トップ女優が、容姿の衰えによる仕事の減少から再起を図ろうと、ある再生医療に手を出し、やがて予想だにしない事態へと発展していくホラー。
監督・脚本・編集・製作は、フランス人女性監督で『REVENGE リベンジ』(2017)のコラリー・ファルジャ。
第77回カンヌ国際映画祭、脚本賞受賞。第97回アカデミー賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞受賞。
【ストーリー】
50歳の誕生日を迎えたエリザベス・スパークリング(デミ・ムーア)は、かつてはオスカー女優にも輝き、人々の憧れの的として一時代を築いたトップ女優。しかし、加齢により次第に仕事は減少し、自身の名前を刻んだ星形プレートに多くの観光客が訪れていたのも、今は過去の話。容姿の衰えから、唯一の看板番組であるエクササイズ番組のプロデューサー、ハーヴェイ(デニス・クエイド)から直々に番組からの降板を言い渡されてしまう。
失意の中、エリザベスは運転中に自身の広告パネルが剥がされている現場を目撃し、不注意から衝突事故を起こして病院に搬送されてしまう。奇跡的にも軽傷で済んだ彼女は、その日の内に退院を言い渡される。すると、看護師は彼女に「私はこれで人生が変わった」と記したメモ用紙とUSBをコートのポケットに忍ばせて渡す。
帰り道、エリザベスはかつての級友と再会する。彼は「今でも君は世界一キレイなままだね」と賞賛し、連絡先を渡す。
帰宅したエリザベスは、USBを再生する。それは“サブスタンス(物質)”という再生医療についての広告映像だった。それは、「1回の注射で細胞分裂により若く美しい分身を作り出し、母体と分身で1週間ずつ交互に生活する」というものだった。はじめはUSBをゴミ箱に捨てたエリザベスだったが、自身の容姿の衰えに対する心理的不安を払拭出来ず、USBに書かれた番号に電話を掛ける。
後日、エリザベスの元にカードキーが送付される。指定された場所に赴くと、そこは一見廃棄と思しき寂れたビルだった。カードキーで中に入り、廊下の先にある部屋に入ると、そこはロッカーが並ぶ真っ白な部屋だった。カードキーの番号に対応したロッカーを開けると、そこにはサブスタンスの操作キットが段ボールに納められていた。
エリザベスは箱を持ち帰り、説明書通りに注射を打つ。すると、細胞分裂が始まり、まるで脱皮するかのごとくエリザベスの背中を突き破り、若く美しいもう一人の自分、スー(マーガレット・クアリー)が現れる。
スーはエリザベスの経験と若く美しい完璧な肉体を併せ持ち、彼女が降ろされたエクササイズ番組の後任を難なく射止め、瞬く間にスターダムにのし上がっていく。しかし、やがてスーは説明書にあった注意書きを無視して活動を続けようとするようになる…。
【感想】
3章仕立てで展開される本作は、良い意味で「懐かしさ」に溢れ、そして普遍的なテーマを持つ作品だったと思う。
コラリー・ファルジャ監督自身が「あえて繊細に描かなかった」と語るように、本作で女性が晒される男社会からのエイジズムやルッキズムは非常に短絡的で暴力的、また画一的だ。しかし、だからこそ、この問題は女性だけでなく男性にも響く作りだと言える。エリザベスが執着した「若さ」と「美しさ」という女性的苦悩は、男性ならば「収入」や「地位」に置き換えて捉えてみれば理解しやすいかもしれない。また、どちらの場合にも共通するのは「見栄」という点だ。
本作で描かれている破滅は、エリザベスの見栄が招いたものと言えるだろう。周囲からの評価や衰えに対する劣等感も、言ってしまえば周囲に対して見栄を張る姿勢が根底にあるからだ。勿論、その地盤を形勢したものこそが男社会なのだが、少なくともエリザベスは、若い頃はその事で成功を収め、評価される快感を享受していたのは確かである。そして、自分の価値判断を他者に委ね、美しさだけを寄る辺に生きてきた姿勢が破滅へと繋がったのだ。
番組の締めで「自分を大切に」と視聴者に投げかけていた彼女自身が、最も自分を大切に出来ていなかったからこそ招いた破滅なのだ。
「1人の人間が“理想”を手にし、欲を掻いた先で重い“代償”を支払わされる」という展開は、世界中で古くから脈々と受け継がれてきた寓話であり、普遍的な教訓だ。
また、本作と最も類似性のある作品は、ロバート・ゼメキス監督による『永遠に美しく…』(1992)だろう。あちらも人気のピークを過ぎた女性達が若さを求めて暴走していく物語だが、本作よりコメディチックで全体的なトーンは明るい。本作は、言うなればそのダークな強化版と言える。
エリザベスを取り巻く男社会の滑稽さが良い。ハーヴェイは、エイジズムとルッキズムの権化として描かれる。レストランで海老を頬張り、皿周りにソースを飛び散らせながら貪り食う彼の“品のなさ”がまた良い。エリザベスは、そんな彼から降板を言い渡され、グラスに浮かぶ蠅の姿を見つめる。その蝿は直前までハーヴェイの首に止まっていたもので、彼は所詮蠅にたかられるような人間なのだ。だが、エリザベスはそんな彼と、彼のような人間が好奇と性的な目を向けてくる男社会の呪縛から逃れられない。
画作りに関しては、巨匠スタンリー・キューブリック監督の影響も色濃く反映されている。エリザベスの自宅の白いタイル張りのバスルームや、サブスタンスのキットを受け取る真っ白なロッカールーム、何より、分身を誕生させる瞬間のトリップ画面は『2001年宇宙の旅』(1968)のそれと酷似している。また、TVスタジオのオレンジ色の廊下は『シャイニング』(1980)を彷彿とさせる。
左右対称を意識し、カメラを遠くに設置して登場人物を長い廊下の奥から捉えるショットも実にキューブリック的。
脚本の伏線、取捨選択バランスも素晴らしい。特に、サブスタンスの製造元についてや、どういったメカニズムで分身を生み出すかという点については、フィクションとして大胆な嘘をつき、細かいディティールを省いている。また、ホラー映画の1ジャンルながら、ジャンプスケアに頼らない点も評価したい。
音楽のラファティによる『The Substance』が最高。予告編から作中の広告ムービー、作中のあらゆる出来事、エンドロールに至るまで、度々作品を彩るこの不穏さを漂わせる象徴的なテーマソングも評価したい。
【第1章:エリザベスを演じたデミ・ムーアの圧巻の演技!】
何と言っても、デミ・ムーア演じるエリザベスの孤独感と劣等感、焦燥の果てに狂気に呑み込まれていく過程の演技は圧巻。
それは、演じる彼女自身が、エリザベスと同じく若かりし頃に世界中から絶賛され持て囃され、「ハリウッドで最もギャラの高い女優」として一世を風靡したからに他ならないだろう。しかし、その裏では度重なる結婚と離婚、加齢による仕事の減少に至るまで、エリザベスと同じく苦労も重ねてきた。
ともすれば自虐ネタにもなりかねない程、2人の共通点は多い。しかし、シリアスさが時にギャグとして映って思わず笑みが溢れる瞬間こそあれ、全編に渡ってエリザベスを演じるデミ・ムーアの姿は説得力に満ち、圧倒的な没入感を与えてくれる。
【第2章:スーが得る「完璧な美女」という評価に見る、“完璧”という幻想】
本作を製作する上で一番重要だと感じた点は、「誰がスーを演じるか?」という点だ。そして、マーガレット・クアリーのキャスティングは完璧な回答だったのではないかと思う。何故なら、既に若手女優として順調にキャリアを積み上げている彼女だが、その美貌に対する作中の評価に関しても、フィクションならではの盛大な嘘がつかれているからだ。
まず断っておくが、マーガレット・クアリーは間違いなくトップクラスの美女であり、この先の指摘は重箱の隅をつつくようなものである。しかし、それを指摘しなければ、その先の理論に発展していかないので行う。
彼女は、特に口元のアップカットで顕著だが、前歯がすきっ歯である。また、満面の笑みを浮かべる際には歯茎が見えるガミースマイルタイプなのだ。美醜の価値基準は人それぞれだろうが、こうした特徴は少なくとも好ましく思われてきたものではない。
しかし、作中では誰もそれを意に介さず、「完璧だ」と褒め称え、皆が彼女を好きになる。それもまた、フィクションならではの嘘だと言える。
本作は、「あなたはあなた1人しか居ないのだから、自分を大切に」というメッセージを分かりやすく伝えてくれるが、もう一つ、それと同じくらい大切な「完璧とは幻想であり、完璧な人間など居ない」というメッセージが隠されている。人は自分より優れていると感じた人の中に、安易に「完璧さ」という幻想を見出してしまう。
作中で、エリザベスはかつての級友を飲みに誘い、時間ギリギリまでメイクに追われ、遂には約束をすっぽかしてしまう。首の皺、肌のハリ、肌艶、リップの乗り具合に至るまで、どんなに鏡の前で試行錯誤しようとも、エリザベスの脳裏にはスーの姿がチラついて決して満足出来ない。あのシーンでティッシュで口紅を拭い、怒りに満ちた表情を浮かべる姿は、間違いなく本作の白眉だ。
ここで重要なのは、間違いなくエリザベスはファッションからメイクに至るまで、あの時点で彼女の出来るベストは尽くしているという点だ。しかし、エリザベスは若く美しいスーと比較して、劣等感を払拭出来ず、彼に会う事なく終わってしまう。
これは、そもそも比較対象からして間違っている。50歳の女性が、20代女性の若さや美しさと張り合ったところで無理があるはずで、現実ならば滑稽に映るはずだ。だが、スーがエリザベスから生まれた「より優れたもう1人の自分」だからこそ、彼女はそこにライバル意識を燃やし、目を向けずにはいられないのだろう。スーは若かりし頃の自分との比較になるのだ。
【第3章:モンストロ・エリザスーが魅せる地獄絵図】
《かわいいが暴走して、阿鼻叫喚》
日本における本作のキャッチコピーは、まさに本作の本質を端的に、的確に表している。
本作のジャンルは、正しくは「ボディ・ホラー」であり、クライマックスで誕生する“モンストロ・エリザスー”のビジュアルはインパクト抜群。また、エリザベスとスー両者の特徴を併せ持ちつつ、両者の肥大化した内面のエゴにそのまま肉付けして形を与えたかのような膨張・増殖しまくった歪なボディは、ジョン・カーペンター監督の名作『遊星からの物体X』(1982)のクリーチャーを彷彿とさせる抜群のデザイン。
エリザスーの姿を目の当たりにし、彼女を「化け物!」と責め立てる観客や、混乱して立ち尽くすパフォーマーらに容赦なく血を浴びせかける姿は、スティーヴン・キング原作の『キャリー』(1976)のクライマックスと重なる(あちらとは違い、本作はヒロインが浴びせる側だが)。
出来る限り実物に拘った特殊メイクとクリーチャー造形、実に13万リットル超の血糊、それによって描かれるラストの地獄絵図は、まさに阿鼻叫喚。
現代において、これほどまでに手作り感と情熱が迸る悪趣味で痛快なホラー描写が見られるのかと、心底感動した。
このやり過ぎとまで言える過剰なクライマックスが、私の本作に対する評価を更に引き上げた。人によってはこの第3章で賛否が明確に分かれると思うが、私はコラリー・ファルジャ監督の思い切りの良さに盛大な拍手を贈りたい。
【総評】
「ありのままの自分を愛する」事の難しさを描いた本作。「若さ」という身体的な長所は、どうしても時の経過と共に衰えていく。反対に、「知識」や「経験」は年齢を重ねていくほどに蓄積され、その価値は一朝一夕で失われるようなものではない。「若さ」の喪失をどう受け入れ、「知識」や「経験」を重ねて自分を磨けるか。誰もが迎える「老い」という現象を前に、どう折り合いを付けて新しい生き方を構築して自分を愛せるか。
本作は、女性陣の圧巻の演技、グロテスクながら痛快さに満ちたエンターテインメントとして、そんな問いを我々に投げかけているのだろう。
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