「それは露悪か策略か」サブスタンス 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
それは露悪か策略か
ジョン・カーペンターやディヴィッド・クローネンバーグらが牽引した80年代B級映画の文脈を正統になぞるボディホラー。
エリザベス・スパークルと刻印された記念マンホールにケチャップまみれのハンバーガーを落とす冒頭のショットが来たるべき凄惨なスプラッター描写を予告するところから物語は幕を開ける。
往年のハリウッド女優が過去の栄華に執心するという筋立てはまずもってビリー・ワイルダー『サンセット大通り』を否応なく想起させる。
また美貌の代償として肉体を蝕まれていくという展開は、同じくルッキズムを題材とした韓国のアニメーション映画『整形水』を彷彿とさせる。
『整形水』が明らかに念頭に置いている今敏『パーフェクト・ブルー』にみられたような、自他境界の混濁が認識の崩壊を招くというホラー表現も至る所に散見された。
あるいはコラリー・ファルジャの出自を踏まえれば、露悪的なまでの過激な残酷描写がフレンチ・ホラーにその起源を持っていることもわかる。
あらゆる文脈を意図的にミックスした果てに生まれたのは、肉体と精神の双方から登場人物が追い詰められていくという苛烈きわまるスプラッター映画だったというわけだ。絶望的なのは先に挙げた参照先がほとんどすべて無惨なバッドエンドを迎えているという点。ゆえに本作は決定的破滅という必然に向かってひたすらギアを上げていく。
しかし「サブスタンス」というエキセントリックな薬品が引き起こす諸現象の奇矯さに反して、人物の造形はかなり大味だ。エリザベス/スーは美貌と映画以外の内面を持たないし、プロデューサーのハーヴェイやスーの彼氏は典型的なマッチョイズムの権化としてしか描かれない。最終盤のくだりにしたって、醜い姿に変わり果てたエリザベス/スーを「バケモノ!」「撃ち殺せ!」と指弾する人々は匿名的な群衆以上の意味を持たない。
凝りに凝った残酷描写に反して、あまりにも粗雑な人間描写。この二極化が示すのは二つの可能性だ。
一つは、単にコラリー・ファルジャが80年代から連綿と続く露悪主義的なホラー映画を無批判に再現しているだけという可能性。これだったらマジで最悪だ。
B級映画の極端な露悪主義は結局のところハリウッドのワインスタイン問題や日本の園子温問題とも根底の部分で繋がっている。それを「女性監督」をエクスキューズに一切の批判意識なく再現しているだけのだとしたら、本作には「B級ホラー」の縮小再生産以外の価値はない。
もう一つは、明らかに策略があって敢えてそうしている、という可能性だ。
劇中、カメラのレンズがデカデカと映されるショットが何度かインサートされる。このインサートショットはほとんどがスーが活躍している最中に差し込まれる。カメラが眼であることを踏まえれば、それはスーを眼差す我々の眼ということになる。魅力的な対象が現れたときほどわかりやすく機能する我々の眼。
本作はひたすら荒唐無稽な空想に向かうB級スプラッターの文法に倣いながらも、カメラ=我々の眼というインサートショットを差し込み現実との接点を確保することで、社会批判としてギリギリ機能しているのではないか、ということ。私としてはもちろんこっちの可能性を信じたい。
以上から、少々判断に困る作品だったといえる。もう少し氏のフィルモグラフィーを漁ってからではないと何も言えないような気がする。
〜追記〜
監督の前作『リベンジ』を観たので、そのうえで改めて。
両作に通底するのは男性への強い憎悪であり、その点については疑いようがないということ。そして劇中の大半を占める露悪描写は、その剥き出しの憎悪をほどよく戯画化するための緩衝材であるということ。
彼女は80年代から続く露悪映画(それは往々にして男性によって牽引されてきた)の系譜をなぞってはいるものの、そこに単なる縮小再生産の意図は絶対にないことは確信できた。むしろあえて召喚した系譜をその根源まで引き摺り出して締め殺してやろうという強い殺意さえ感じた。しかしそんな殺意を素で振り回したら映画にならないので、本作では戯画化という形でコメディ映画への逃走線が引かれている。
しかし戯画化というのは対立構造の輪郭線をくっきりさせてくれるという点において便利なものである一方、その手法が雑だと対立構造それ自体が陳腐化する。
下半身ばかりを舐めるような「男の視線」を現す構図や、クチャクチャと気持ちの悪い咀嚼音が強調される食事シーン、魑魅魍魎が明滅するBADシーンなど、男女の対立を示す描写としてはもはやあるあるすぎて面白くはない。それによって立ち上げられる男と女の対立構造というのも、よくある男女論的な範疇を出ない。
男への憎悪を糊塗する方便として用いていた「戯画化」(=露悪描写)によって、「何に寄り添い、何を打ち砕くべきか」という明確なスタンスが徐々に脱臼されていってしまったからこそ、本作は結局あらゆる二項対立を「ええじゃないか」と総棄却して開き直るラストシーンの狂宴へと向かわざるを得なかったのではないか、というのが私の見立てだ。
じゃあどうすりゃいいんだよ、男への憎悪をそのまま映画にして面白いのかよ、と突っ込まれそうだが、私は全然それでも面白いと思う。シャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン』を観ればわかる通り、この作品にあるのは男への剥き出しの憎悪だ。でも、メチャクチャな傑作だ。
要するに、単に演出の問題なのだといえる。ありふれたやり取りで男女の溝を説明するよりも、女が一人でひたすらジャガイモの皮を剥き続けるほうがよっぽど男女の間に横たわる何らかの不穏な差異を予示してくれる。そういうことがある。そういう演出を撮影の中で探り当てられるかどうかが一番大事だと思う。
ほんでもウチはハリウッド映画ですからなあ、ヨーロッパさんの悠長で小規模なインデペンデントとはワケが違いますからなあ、と言われてしまったら今度こそ何も言えない。スクリーン側からの歩み寄りをポップコーン片手にイライラしながら待っている怠惰な観客に有効なのは、露悪か感傷か、そのどちらかしかないのかもしれない。
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