「ボディ・ホラーの体裁で『サンセット大通り』を語り直した、バッド・テイストの大傑作!」サブスタンス じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ボディ・ホラーの体裁で『サンセット大通り』を語り直した、バッド・テイストの大傑作!
ヤバい、くっそ面白かった!!!
ごめん、『アノーラ』も『教皇裁判』も
面白かったけど、俺こっちのほうが断然好きだわ。
極私的アカデミー賞進呈!!
でも、こんな映画にアカデミー賞出したら
世の中もうおしまいって気もするな(笑)。
でも、よりによって、このテーマの映画で
あれだけ身体張って頑張ったのに、
デミ・ムーアって『アノーラ』の
マイキー・マディソンに主演女優賞で
負けたんだ(笑) それはなんていうか……
現実がフィクションを上書きしてくっていうか……
とにかく、可哀そうに。笑うしかない。
あのとき、ちゃんと「悔しそうな顔をして見せた」
デミ・ムーアはああやって「エリザベスの生」を
まっとうしてみせたわけだよね。
凄まじき役者根性!
僕は心からこの映画を愉しんだけど、
まあ人を選ぶ映画であることは確かでしょう。
個人的に、
●初期のピーター・ジャクソン
●初期のサム・ライミ
●初期のデイヴィッド・クローネンバーグ
あたりがジャストミートな人は、
もう文句なしに愉しめると思う。
あとは、悪ノリしてるタランティーノとか、
悪ノリしてるブライアン・デ・パルマとか、
悪ノリしてるニコラス・ウィンディング・レフンとか、
そういう「ふざけてるけど、お腹にずっしり来るひどい映画」が好きな人は、ぜひ寄ってらっしゃい見てらっしゃい。残念ながら、観客やモチーフをおちょくってかかるような映画は苦手という人は、たぶんこの映画のお客さんではないので避けたほうがよろしいかと。
題材は、ある意味わかりやすい。
「ドッペルゲンガー」モチーフで、
「ドリアン・グレイの肖像」を元ネタに、
「女性の加齢」をテーマに扱った、
悪意と創意に満ちた悪趣味炸裂のやり過ぎ映画。
でも、決してテイストは苦くない。
むしろ、愛と優しさすら感じさせる。
「やり過ぎる」ことで、テーマの「真のえげつなさ」に直面させないで、笑わせてくれる「優しさ」とでもいうんですか?
ちなみに、監督本人の宣言文を読むと、本人にとってはきわめてフェミニズム的な意図を詰め込んだ、頗るつきに「政治的」な映画であることも理解できる。
とにかく、コラリー・ファルジャ監督のセンスが良い。
そして、アイディアが抜群に豊富だ。
出だしだけでも、彼女の発想力にはびっくりさせられるばかりだ。
●割った生卵の卵黄に、くだんの「サブスタンス」を注射したら、黄身がふたつに分離する象徴的なアヴァン。これは、のちの「瞳が分離する」という奇怪なヴィジュアルイメージと相似形を成す。「分離」という現象を端的に表した面白いヴィジュアルだ。
●真上から捉えたショットは、そのまま「スター・オブ・フェイム」の設置と変遷を描くアヴァンへとつながる。観客にヒロインの名前をまず覚えさせ、彼女がスター・オブ・フェイムに遇されるほどの映画スターであったことを理解させ、その栄光が時間とともに失われていくことが物語の「前提」になることを、このアヴァンだけでわからせてくるのだ。
しかも、真上からの俯瞰ショットとそこを行きかう人々、時々訪れる雨という流れは、とある有名な映画のタイトルバックを容易に想起させる。そう、『シェルブールの雨傘』だ。あれもまた、女性の若さと加齢の悲哀を扱った映画だったとはいえまいか。
ついでにいうと、落とされるハンバーガーの描写で、この映画の本質が「バッド・テイスト」と「破壊」と「グロテスク」であることも観客は理解できる。
●ちなみにここで描かれる「ハリウッド」は仮想のハリウッドだ。
ハリウッドとして提示されるヤシの並木道は、実はカンヌ国際映画祭の舞台らしい。
要するに、これはフランスから見たハリウッドの「戯画」であり、「寓話」なのだ。
●場面変わって、TV局の廊下。いろとりどりのカラリングと真っすぐ続くシンメトリーは、われわれに『ネオン・デーモン』(2016)や『ファントム・オブ・パラダイス』(1974)を想起させる。そしてエアロビのレオタードで踊りまくるデミ・ムーアと、彼女がポーズを決めたげっすいポスターの数々!! これ、デミ・ムーアのフィルモグラフィ上最大の汚点であり転機でもある『素顔のままで』(1996)(原作はカール・ハイアセンの『ストリップティーズ』)のセルフ・パロディじゃん!! ここで観客は気づかされる。少なくとも監督はデミ・ムーアに容赦する気など一切ないことを。いや、デミ・ムーア自身のキャリアを徹底的に茶化し倒し、おちょくり倒すつもりであることを。さらには、デミ・ムーアにもそれを受けて立つ覚悟があることを!
●徹底的に強調されるデミ・ムーアの顔のアップと、微細に表面を覆う皺としみ。本当に加齢の描写がひたすら容赦ない。さらには、このあときわめて重要な役割を果たす「背中」の部分が、むき出しになった服によってクローズ・アップされる。
●外に出かけるデミ・ムーアの「背中」を、比較的近くから追いかけ続けるカメラワークは、『ブラック・スワン』(2010)でナタリー・ポートマンを追ったダーレン・アロノフスキー監督のカメラや、『TAR』(2022)でケイト・ブランシェットを追ったトッド・フィールズ監督のカメラを思わせる。女性を主人公とするサイコ・スリラーの近年の定型を、「背中」を強調しながらうまく用いているといえる。
●いきなり事故るデミ・ムーアの描写には、デイヴィッド・クローネンバーグの『クラッシュ』(1996)やアリ・アスターの『ボーはおそれている』(2023)の影が見える。一応、このあとの展開には深入りしないが、ここまで観ただけでも、コラリー・ファルジャ監督のホラー/バッド・テイスト系映画への深い造詣と、ほとばしるアイディア力は間違いなく本物だと確信できるはずだ。
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本作は、ジャンルとしては典型的な「ボディ・ホラー」といってよい。
グロテスクな身体変容によって、精神やアイデンティティまでが揺るがされる様子を描き、「肉体性」の破壊とメタモルフォーズをメインに扱う作品群。
いわゆる、クローネンバーグ監督の一連の作品群とその継承者を指す呼び名であり、最近の収穫だと、ジュリア・デュクルノー監督の『TITAN/チタン』(2021)やアレックス・ガーランド監督の『MEN 同じ顔の男たち』(2022)(『サブスタンス』には、本作の終盤を思い切り想起させるシーンと造形が用意されている)、トマ・カイエ監督の『動物界』(2023)などが挙げられるだろう。
内面の精神的な苦しみを解決するために、外科的な手段が活用されることで、「女性にとっての若さと老い」というテーマが具体的身体性をもって血肉化し、視覚的な「現象」として提示されるという意味では、まさにクローネンバーグの『ザ・ブルード 怒りのメタファー』(1979)や『ビデオドローム』(1982)の後継たる作品といえるし、「二人の自分」というテーマでは、同じくクローネンバーグの『戦慄の絆』(1988)の影響をも感じさせる。
「若さと老い」をテーマとしたホラーとしては、ロバート・ゼメキスの『永遠に美しく』(1992)がなんといっても想起される。ブラック・ユーモア&人体破壊を交えた作りや、主演女優をおちょくり倒す作り(こちらはメリル・ストリープ)、ラスト近くの似た展開など、明らかに本作にも影響を与えているはずだ。他にも、シャマランの『オールド』や『ベンジャミン・バトン』『コクーン』など、老いと若返りをテーマにした映画は昔から数多い。
ドッペルゲンガー系の映画にも、『複製された男』(2013)や『アス』(2019)のほか、結構な数の前例があるはずだ。「エゴ」について常に考える習性の強い欧米人は、ポーの『ウィリアム・ウィルソン』(1839)の昔から、「もう一人の自分」との生き残りをかけた闘争というテーマに、深い関心をもってきた。
さらには「若い女と熟年女の対決」を描く映画も含めれば、本作の前例にはいろいろと事欠かない。
要するに、『サブスタンス』には、多数の霊感源となった作品がある。
だが、数多の先例とは一線を画す形で、製作者たちが特別に念頭に置いているのではないかと思われる名作が、この映画には存在する。
それが、ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』(1950)だ。
ここで、『サンセット大通り』の具体的な内容については敢えて触れない。
ただ、両者にはいくつのも印象的な共通点が見いだせると思う。
●映画の内容自体が、主演女優(『サンセット大通り』ではグロリア・スワンソン)の歩んできた半生とパブリックイメージを、そのままネタにしたものであるということ。
●主役の役柄が、往年の名女優で、今では加齢に従って落ちぶれてしまっている点。
●正規の手段ではない特殊な手法を用いて、ヒロインが復権を図ろうとする点。
●「仮想」の夢の世界を構築している第三者(『サンセット大通り』では執事)が手を引いた瞬間に、かりそめの楽園が崩壊するという物語構造の一致。
●ラストシーンの驚くべき一致。
つまるところ、本作は「クローネンバーグの皮をかぶった『サンセット大通り』の再話」なのだ。
これはたぶん僕だけの感想ではないし、書いてからパンフを読んでみたら、案の定、解説の斉藤宏昭氏も同じようなことを述べていたので(笑)、結構当たっていると思う。
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その他、寸感を列挙しておく。
●猛烈に意地の悪い対比、という意味でいえば、デミ・ムーアとマーガレット・クアリーのバストトップの対比(ずず黒い&長い&広い Vs. ピンク&小さい&狭い)も強烈だった。そういえば、なんとなく「分身」マーガレット・クアリーの顔立ちが、『エマニュエル』(1984)のミア・ニグレンを思わせるのは単なる空似だろうか。
あれは、とうの立ってきたシルヴィア・クリステル(といってもまだ32歳)を、全身整形手術で「20歳の処女=ミア・ニグレン」に生まれ変わらせて、ブラジルで新たな性の遍歴を始めさせるという、今考えると『サブスタンス』とまんま同じ構造を持った恐るべき物語だった……。
●デミ・ムーアは、たしかに素っ裸に剥かれたあげく、あとからはラヴクラフト・クラスの特殊メイクまでさせられて、まさに「体当たり」は「体当たり」なんだけど、なんとなくこの人、『G.I.ジェーン』(1997)や『素顔のままで』とか観ても、若干マゾっ気があるというか、強烈な自己破壊願望がうかがわれるんだよなあ。
●デニス・クエイドが、くっそ楽しそう(笑)。
ちなみにクエイドは元ヤク中だったり、双子の子供が薬害に見舞われて訴訟を起こしてたりと、さりげにデミ・ムーアとは別の意味で、けっこうこの映画にコミットするにふさわしい実人生を歩んでいたりもする。
TV局一味は、ちょっと『未来世紀ブラジル』の幹部連中を思わせるかも。
●ひたすら股間を追い続ける品性下劣なカメラワーク、徹底的におっぱいをさらしていく卑猥なスタイル(とくに終盤のラインガール)、きったない食事シーン(とくにチキンと海老)など、とても本場ハリウッドでは撮れないような内容ばかりで、こういうとき清濁併せのむスタイルのヨーロッパ映画産業はホント強いなあ、と。
●終盤の展開については敢えて具体的に言及しないが、クローネンバーグ・テイストの度が過ぎた結果として、ほとんどフランク・ヘネンロッターに近接していて爆笑。しかも『バスケットケース2』(1990)→『バスケットケース』(1982)みたいなwww
あと、大晦日のやりたい放題のアレは、間違いなく『キャリー』(1976)へのオマージュですよね。バカみたいなやり過ぎのロック・サウンドは、ちょっとアルジェント臭もしたけど。
たぶん、この監督ほどの技量と演出力があれば、もっとこの映画を「それらしい」きれいな終わらせ方をすることだって、いくらでも出来たと思うんだよね。それを敢えてメチャクチャにして、やれるところまでバカをやり尽くして、ああやってペーソスを漂わせながら終わってる。これはこれで立派な「見識」なのではないかと。
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