「愛と承認を求め、自分の鏡像に殺された女優」サブスタンス エビフライヤーさんの映画レビュー(感想・評価)
愛と承認を求め、自分の鏡像に殺された女優
本編に繰り返し登場する鏡。
鏡に写った自分自身の姿をありのままに受け入れるか、それとも歪曲して受け入れるか。どのように認知するかは本人次第だ。そして、その認知が歪んでいるとき、その原因は本人だけでなく社会全体にあると思う。
摂食障害を患ったある知人の女性は、ミスコンの優勝経験もある美しいひとだった。彼女はある時期から食事を摂らなくなり、毎日のようにジムに通って激しい運動を行い、病的に痩せていった。彼女は骨のような姿になっても鏡を見て「頬にこんなに肉がついている」「もっと痩せなければ」とため息をつき、周囲の人々がいまの状態がいかに危険であるかを説いてもまったく効果はなかった。病室で面会した彼女に「いまの私はきれい?」とすがるような目で問われたことをいまでも忘れられないでいる。鏡が「ありのまま」を写しても、本人が「ありのまま」を認知できるとは限らない。
本作品の主人公エリザベスは、かつてオスカーを獲得し一世を風靡した人気女優だったが、50歳を超えてその知名度は下がるばかり。依頼される仕事も演技ではなく、エアロビ番組のインストラクター。その番組も年齢を理由に降板させられてしまう。一般人の私から見て、エリザベスは美しい女性だと思う。重ねた年齢は感じさせるが、鍛えられた身体も、手入れされた容姿も並外れている。街中でばったり再会した同級生から見ても同様だろう。しかし、芸能界という世界、そして芸能界で生きる彼女たちを消費する私たち、そしてエリザベス本人もそれでは満足できない。より若く、より美しい女性であること常に求める。
エリザベスはただ完璧を求めている訳ではないと思う。根底にあるのは「みんなに愛されたい」「認められたい」という果てしない欲求。ありのままの自分、50歳を超えて容姿が衰えはじめた自分は、芸能界で必要されない。芸能界だけではなく、日常生活でも必要とされない(周囲の男たちのエリザベスとスーに対する態度の明らかな違い)。そして、鏡に写った自分自身、老いた姿を受け入れられない。追い詰められたエリザベスは怪しげな再生医療サブスタンスに手をだし、欲望のまま破滅へと突き進んでいく。それはエリザベス個人の欲望の帰結でもあるし、そのように仕向けた私たち(社会全体、芸能界、芸能界を仕切る権力者、芸能界を消費する我々)の責任であり呪いだと思う。
私は誰かに呪いをかける前に、呪いをかけらていたと思う。私の見た目はエリザベスと違って不細工である。こどもの頃から「器量がよくないのだから、せめて笑顔でいなさい」「女の子なのだから常に笑っていなさい」と繰り返し言われて育った。なにも面白くないのに、笑顔を強要されるのはとても疲れる。絶対的な権力者である社長の前で、へつらうような、ぎこちない笑顔を無理やり浮かべるスーを見て息苦しさを感じた。こうした呪いは幼い頃からの刷り込みだけでなく、大人になってからも大量に付きまとってくる。そういうものをめちゃくちゃ研ぎ澄まされたナイフで眼前に突きつけてくる映画だ。老いたエリザベスが、若い自分自身に鏡に叩きつけられて殺されるシーンなんか極致だと思う。
それと、スーが担当するエアロビ番組の構成は、エアロビの皮を被ったアダルトビデオみたいで気味が悪かった。執拗に身体の線を辿るカメラ、尻や胸のアップ、スーがしゃべるのは最後にほんの少しだけ。スーの人格はどうでもよくて、若くて美人でエロい女の子がセクシーに身体をくねらせていればオールオーケーという馬鹿みたいだけどよくある番組。製作に携わるのは男性ばかり。「鼻の代わりに胸がついてればな」という採用担当者の最低な台詞。極端な気もするが、いまの芸能界の縮図なのだろうと思った。
映像はすべてテンポがよく、無駄がなく洗練されていて、スリリング。特に、星形プレートの使い方が面白くて強く印象に残った。ハリウッドウォークオブフェームにエリザベスの星形プレートが設置されるシーンから映画は始まり、プレート単体でエリザベスが世間から忘れられていく様、しかし彼女自身は過去の栄光にどうしようもなくすがり付いている様を淡々と容赦なく表現し、映画は終わる。
最後に。モンスターエリザベスの血を掛けられる観客の中に、私もいるのだろうと思いながら見た。私たち観客の眼差しが彼女をつくりあげ、結果として死に追いやったのだと。