「見事なミュージカル演出! 物語は?」エミリア・ペレス ノンタさんの映画レビュー(感想・評価)
見事なミュージカル演出! 物語は?
『エミリア・ペレス』は、ミュージカル演出と映像美で多くの観客を魅了した。だが、観終えた後、私の中に残ったのは高揚感ではなく、ある種の倫理的な違和感だった。
それは、「赦し」についての物語であるかのように装いながら、実のところ“赦される”ことの本質を描いていない、という違和感だ。
まず触れておきたいのは、映像と演出の見事さだ。ミュージカルパートと現実パートの融合、群像の動きと構成、色彩、音楽、振付——どれもが極めて高い完成度で、美術と演出の職人技に圧倒される。
しかし、映像と音楽、演技の美しさとは裏腹に、物語の焦点はなかなか定まらず、登場人物に感情移入しにくい。主人公が「元麻薬王」だったという設定が物語の中心にあるにもかかわらず、その過去の描写は極めて曖昧で、「なぜこの人は変わろうとしたのか?」という内面の葛藤がほとんど描かれない。
物語は、男性として生きてきた麻薬王が、性転換手術を経て女性“エミリア・ペレス”として生き直す姿を描く。そこには、「自分らしく生きる」という強いテーマがある。劇中でも「自分の声に従って生きたい。それで崖から落ちても、それは自分の崖なのだから」といった歌詞が繰り返される。
だが、私はこう問いたくなる。
「自分が変わることで罪の償いは終わるのか」と。
ここで、ふと自分自身の倫理観を振り返る。
「犯罪者は罰せられるべき」「過去の罪は改心だけでは帳消しにできない」——そんな考えが、自分の中に染みついている。
だがそれは、いま私たちが生きる“現代社会の倫理”によって構成された価値観でもある。
そしてこの映画は、そうした現代倫理の前で、あまりにあっさりと「赦し」を与えすぎているように見える。
エミリア・ペレスは名前も性別も姿も変えた。けれど、過去に殺人や恐怖で支配してきた人物としての記憶や判断基準、あるいは“生き残るためにタフで非情でなければならなかった”という内面の軌跡は、果たしてどこに描かれていたのだろうか。
その部分を描かずに“新しい自分”を肯定的に提示されると、まるで「罪の漂白」が行われたような印象を受けてしまう。
別人の体と名前を手に入れても、人の自己同一性は継続している。生きる動機も、後悔も、過去も、変化しながら続いている。だから過去は、完全には消せない。
『エミリア・ペレス』は、変化を肯定する物語であると同時に、赦しの構造をめぐって観客に問いを残す物語でもある。その問いにどう答えるかは、観る者それぞれの倫理観に委ねられている。
私にとっては、それが「赦しを与えるには、まず罪を引き受ける姿勢が必要だ」という、ごく当たり前だが見落とされがちな事実だった。