動物界のレビュー・感想・評価
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今年一番泣いた家族ドラマ
親子愛を描いた映画はごまんとありますが、本作は傑出しています。繊細な心理描写、深い洞察、知的な視点、美しい音楽など、高品質な土台が熱い感動に繋がっています。
物語では、一部の心ない人達が動物化した人間を獣と呼び、銃で追い回す。その姿はまさにコロナ禍での私達ではないでしょうか。
しかし、悲惨な境遇の中ではじめて見つける喜びもある。幸せとは何かと胸を締め付けられます。
本作はジャンルとしてはホラー、またはSFですが、極めて良質なヒューマンドラマでもあります。ラストは涙なしでは見られません。
困難の中で生きる人たちを描く始めたフランス映画の一作
ハリウッド映画のようなわかりやすい三幕構成ではなく、描きたい主題を突き詰めて映像化した一作。
「ACIDE」や「またヴィンセントは襲われる」と似た質感で、起こっている問題の機序は説明せず、全体的な解決作を描くこともなく、主人公たちが巻き込まれた災難の中でいかに生きるかを描き切っています。
本作においては、多様化する社会とそこで起きる差別の問題に気候変動問題を絡めて動物化する奇病に振り回される人々や社会を描いています。
ハッキリとした答えが出せない問題が増えているからこそ、このような作品を作り続けているフランス映画界に注目しています。
毒も喰らう、栄養も喰らう。
人生初、ポテチをむさぼる父親の姿で泣く。
宣伝映像もポスターもまるでパニックホラーかの様に煽るが、何のことはない「人間界」を描いた映画。
コミニケーションは取れているが、何かが変わっていく歳頃の息子に、親の平常運転が通じなくなっていく様は一般的な訳あり親子の姿そのものに見えたし、
疫病患者差別にも、人種差別にも、いじめ問題にも見えた。無駄にホッコリするフィクスの成長物語が挟まるのも良かった。
近い人の変化にこそ気づき辛いもの。「その時」に抱きしめてあげられる人になりたい。
24-130
悪くない。十分楽しめた。ただ…、ちょっと惜しい感じの映画。
基本観ると決めた映画については、なるべく予備情報を入れないようにするので、今回はボディスナッチャー的に人間がどんどん動物に変わっていくようなドロドロ近未来SFを想像していた。そこは予想が外れたけれど、それはそれでよし。
夫婦、親子の愛情を軸にしつつも「愛は地球を救う」的なベタなアメリカ映画みたいな押しつけがましいくどさは無く、自然に感情移入できるちゃんとしたシナリオです。
動物化した人間たちのCGも中々だし、上記家族愛の他にも、太古より耐えることなく続いてきた人間様の動物虐殺、また同じ人間である障碍者や宗教的異端者に対する迫害の黒歴史に対するクリティカルなメッセージがしっかりとあって、被迫害者に対する理解を示そうとする人間もバランスよく登場させるなど、娯楽作品とはいえやっぱりヨーロッパの映画はちゃんと人間が描けている。
色んな意味で、何と言うか、「いい映画」だと思った。
ただ、母国セザール賞で多くのノミネーションを得ながらも、主要部門では受賞できなかったのが、この映画の出来を正しく評価していると言っていいのかな。
「惜しい!」と言ったところか。
ただ、十分元は取れました。
映画とは関係ないけれど、少ない観客の中で、上映開始から終わりまでずっと袋の音やらガサガサ音を立てて飲み食いしている輩がすぐ後方に居て参った…。
あいつは何の動物に変化しつつあるんだろう。
フランスから現れたクローネンバーグの継承者!!濃密なフレンチ臭漂う掘り出し物の快作。
おおお、面白いじゃないか!
SF要素、CG要素、SFX要素は最小限に抑えて、
ちゃんと「フランス家庭映画」してるし、
ちゃんと「フランス思春期映画」してる。
しかも、テーマはデイヴィッド・クローネンバーグを継承している!
「異形へと肉体的に変容していく人間の社会的疎外と孤独、アウトサイダーの苦悩を描く哀しみ色のホラー/サスペンス」。
これはまさにクローネンバーグが、『シーバース』『ラビッド』『ザ・ブルード』『ヴィデオドローム』『デッドゾーン』『ザ・フライ』『裸のランチ』などの、俗に「ボディ・ホラー」と呼ばれる諸作品を通じて、繰り返し思索してきたテーマに他ならない。
うーむ、こんなところにクローネンバーグの正統なる後継者がいたなんて。
観に来てよかった!
人間が動物化する世界を描いたフランス映画というから、やっすいCGを多用した劣化版の『アバター』とか『ジュマンジ』みたいな、アメリカ映画のチープな模倣(たとえば日本でいえば映画版『進撃の巨人』のような)になっていたらどうしよう、と危惧しながら足を運んだのだが、しっかり「フランス映画の得意なジャンルと描写」を踏まえた上で、「動物化」のモチーフから引き出し得るテーマを網羅した佳品に仕上がっていて感心した。
①フランス映画としての『動物界』
とにかく、SF要素を除けば、驚くほどに「ふだんよく観るフランスの家族映画/青春映画」のテイストをまっすぐ引き継いでるんだよね、この映画。そこがすごく良い。
ちょっとがさつだけど漢気のあるお父さんと、
内気だけど思春期性の高い少年の組み合わせ。
両親の間に、何らかの難しい問題がある設定。
(通例は離婚の危機があったり、愛人がいたりする場合が多いが、今回はべた惚れしてる恋女房が病で人格を喪いつつあるというパターン)
やたらと暑苦しいボディタッチと親愛の表現。
親の季節労働と田舎への転出、少年の転校。
うーん、めっちゃフランス映画だ。
あと、フランス家族映画の半分くらいは、親の運転する車に子供が乗っているオープニングで、そのあと、子供がさっそうと自転車で学校に行くシーンが出てくるものなのだが、『動物界』もそこはちゃんと外さない。フランスでは、トリュフォーの『あこがれ』以来、自転車は少年少女の思春期性を示す重要なアイコンなのだ。
学校でのカーストの在り方や、親の労働の様子、子供のバイト、森での水遊び、キャンプ生活、性の目覚め、犯罪への加担、逃亡と解放……本当に、フランス映画が「得意」としている生活感や思春期性の描写を、期待通りに丹念にこなしていく。
かなりぶっとんだネタのSF映画なのに、しっかりと地に足のついたフランスらしい家庭映画を観ている充実感がある。ジャック・ドワイヨンとか、クロード・ミレールみたいな監督が、SF撮ってみたらこんなふうになりそうな(笑)。
そもそも、鳥人間が空を飛べて「自由だ!!!」とか、ラストの解放感(ただし濃厚に破滅の香りが漂っている)とか、結局、トリュフォーの『大人は判ってくれない』で主人公が少年院を脱走して海に至るラストと、やってることはまあまあ一緒だものね。あるいは、とってもアメリカン・ニュー・シネマ的ともいえるのか。
②クローネンバーグの後継者として
クローネンバーグにとって、精神の変容は肉体の変容を意味し、肉体の変容は社会からの逸脱を意味した。彼の映画における主人公は、内的変化の結果、だれしもが一目見てわかる身体的な異形化を起こし、社会から疎外され、ひとり孤独のなかで滅びの道を歩んでいく。
「動物化」という意味では、まさに『ザ・フライ』(『蝿男の恐怖』のリメイク)が同じモチーフだが、腋に生えた吸血触手で相手の血を吸わずにはいられなくなる『ラビッド』や、相手への怒りがそのまま受胎につながって、マザーエイリアンのようにぼこぼこ怒りの侏儒を産み落とし続ける『ザ・ブルード』など、「身体変容」の恐怖は他作でも顕著なクローネンバーグの特徴である。
本作の監督であるトマ・カイエは、まさにこのテーマを引き継ぎ、自作にて展開しているわけだ。
本作における「身体変容」は、世界同時多発的な「病」として設定されており、当然ながらコロナを彷彿させるところがある(ちょうどコロナの時期に脚本の執筆と撮影準備が進められたという)。中高年で発症しているお母さんのラナ(冒頭ではナマケモノだと思い込んでいたが、終盤で巨大化して登場して、なんだこの動物?ってなったが、パンフによれば熊らしい)や、同じくオッサンである鳥人間のフィクスのような人間もいれば、子供なのに発症しているカメレオン娘のようなケースもある。
ただ、主人公の少年エミールの物語としては、身体変容は思春期特有の性の目覚めであったり、性徴の発現であったりの「性的成熟」とパラレルな現象として象徴的に描かれているように思う。
あと、「動物界」というタイトルと、一斉動物化というSF的設定で見えづらくなっているが、ことエミール少年だけに限定していえば、本作は至極まっとうで王道を往く、典型的な「狼男」映画でもある。
一方で、お母さんの動物化や、しゃべれなくなっていく鳥人間の様子からは、われわれが日常生活のなかで直面する、家族の「老い」や「病による変化」「介護」といった問題も同時に語られていることがわかる。
「相手が相手でなくなっていく」恐怖。
それは、「自分が自分でなくなっていく」恐怖と同じくらい、切実で悲痛なものだ。
本作では、その「異形化」のプロセスと家族の心の揺れを、「動物化」というキャッチーでシンボリックなネタに「読み替える」形で表現しようとしているといっていい。
さらには、動物化現象の結果生まれた「新生物」が阻害・迫害される流れを見ると、「新生物差別」は、身体障碍者や発達障碍者、異人種への差別のメタファーとしても機能しているように思われる(実際、ADHDを自称する少女ニナが、少年と関係をもつ重要な役回りで登場し、動物化による周囲との違和と、発達障碍特有の「生きづらさ」がパラレルな要素として語られている。また、作中ではロマに言及される瞬間も出てくる)。
異形化した存在は、正常な社会から「脅威」として疎まれ、恐れられ、捕獲され、隔離され、抵抗すれば問答無用で射殺される。
相手を制圧し、抹殺しようとする「排除の意思」のおおもとにあるのは、じつは民衆の「自衛」の意識――とくに「家族を守りたい」という当たり前の想いだったりもする。
そういう「正しい」自衛衝動が、集団化するなかでやがて「排他」となり、「掃討」となり、苛烈な「浄化」思想へとつながっていく。それはまさにかつてのユダヤに対するナチスや、現在のハマスに対するイスラエルの在り方に通ずるものである。
ただし本作では、そういった新生物たちへの「虐待」「抑圧」について、必ずしも声高に否定することなく、あくまで「突然始まった対処しがたい状況に対して人間が示してしまう過剰反応」として、フラットに描こうとする姿勢が顕著だ。
価値判断抜きで、「現象」として動物化をとらえ、そこから引き出しうる要素をなるべく見逃さずに「拾う」ことを何よりも重視する感覚。人間にも新生物にも肩入れせずに、共感をもって物事を語ろうとするスタンス。
それは「分断」の時代に生きる表現者の、新しい「道徳」であり「流儀」であるのかもしれない。
③「動物化」というモチーフについて
日本の創作文化だけで見ると、「獣化」ないしは「動物化」という題材は意外になじみがないかもしれない。
かつては水谷豊の『バンパイヤ』のような「狼男」ものもあったし、最近のプリキュアみたいに、鳥やら犬やら猫やらが人化・プリキュア化するケースもあるが、あれらはどちらかというと「獣化」「動物化」というより「変身」の領域に属するものだろう。内なる獣衝動にさいなまれながら、さまざまな動物たちが共生する『ビースターズ』あたりが世界観としてはむしろ近い存在かとも思うが、現代日本のエンタメにおいて「動物もの」が主流を成すとはとてもいいがたい。
一方、欧米では、狼男伝説をベースにしたと思しき「獣化する人々」が出てくる「アーバン・ファンタジー」と呼ばれるジャンルが巨大な規模で存在し、なかでも、超能力者やヴァンパイアや獣人族が種族間で恋愛したり事を成したりする「パラノーマル・ロマンス」と呼ばれるカテゴリー・ロマンス群が、何百冊と書かれて広く人口に膾炙している(よくわからないが『レディホーク』あたりが源流なのだろうか?)。一般に爆発的に売れた例としては『トワイライト』なんかもそうで、あれのサブ主人公は人狼である。
よって、豹族の女と狼族の男が愛し合ったり、ホークマンと人間の女が恋に落ちたり、という展開は、ロマンス・ジャンルではしょっちゅう出くわすパラノーマルの類型であり、フランス人にとっても「獣化」自体はそう珍しい題材ではないのではないかと思う。
このように、欧米のエンタメ・カルチャーでは獣人化ネタがじゅうぶん成熟している。このことと、本作において「動物化」というモチーフがうまく活用されていることは、もちろん無縁ではない。
若干、テイストが一貫しない部分もあるし(特に鳥人間と友情を交わすシーンは、エピソード自体は面白いけど、全体のカラーのなかでは浮いているし、流れを壊していると思う。女性憲兵隊員とのうざ絡みも、果たしてどれくらい必要だったか)、引っ越してからの展開には、ちょっとこれでいいのかな?と思わされるところも結構あったけど、展開を先読みしづらい内容でどうなるか終始ドキドキしたし、何よりあっという間の2時間だったので、総じて言えばとても良い映画だったのではないかと思う。
以下、寸感を箇条書きにて。
●お父さん、どこかで観たことあるなと思ったら『パパは奮闘中!』の人か。今回もまさに奮闘しっぱなしで、宛書きみたいな感じでしっくりきてました。
●息子役のちょっと米津玄師みたいな子は、顔立ちからしてロバかアルパカに変身するのかと思ったら、狼だった。というかいきなり動物になる病気だとはいっても、母親が熊で息子が狼とか不可思議すぎる。遺伝子関係ないんだ……。
●個人的にとても愛らしかったのが、ものを必死で投げつけてくるタコ人間。タコとかカマキリみたいな下等生物にまで動物化しちゃうんだ(笑)。 非知性的なクリーチャーを引き当てちゃったら、運命ルーレットとしては最悪だよね。
●飼ってるわんこ(アルベールだっけ?)が最高にかわゆい。毛の生え始めた肩のところぺろぺろぺろぺろ舐めまくったり、一緒にお風呂に飛び込んできたり。飼い主が狼に変容しつつあることで同族意識が高まってるのか、相手の哀しみを分かち合おうとしてくれてるのか。うちの実家で飼っていた犬も、母親が体調を崩してうなってるときに、必死でぺろぺろ舐めてやってたなあ。
あと、バキュンで倒れるのもかわゆすぎる。
●終盤に出てくるお祭りは、実際に南仏であるお祭りなんだろうね。竹馬乗ったり、甲冑着てバトったりなかなか楽しそう。
●出だしの病院で、座椅子の奥にアリクイの新生物が座ってて舌をちょろちょろしてるシーン(最後までピントを合わせない粋な演出)があって、すげえデジャヴを感じていたのだが、脳内を検索したら『プリンセスチュチュ』のアリクイ美だった(笑)。
考えてみると、あのアニメは「おはなし」に汚染されてしまった金冠町で一部の人間に変容が起きて、アリクイになったり猫になったり(猫先生!)する、まさに「動物化」の物語だった。そして、もとはアヒルだった少女が、プリンセスチュチュに変身して王子様に恋をしてしまうという、「人間化」の物語でもあった。
●ポテトチップスで出だしと終わりを締める演出、エミールの動物化の予兆として「自転車に乗れなくなる」「ペンでサインが書けなくなる」シーンが出てくるなど、さりげに「小道具」の使い方がうまいのは印象に残った。
これって、たしかに狼に自転車は乗れなさそうだけど、熊のお母さんならまだ乗れるんだろうか(笑)。
考えさせられる映画 A movie that inspires deep thought
おそらく、
実世界のメタファー(比喩)なんだろうけど
観る人によってそれが何なのかは
微妙に変わるかもしれない。
およそ100年ぶりに(スペイン風邪以来)
人類はパンデミックを体験したことと
この作品は無関係とは思えない。
感染症に対する比喩なのかもしれないし
あるいは性的マイノリティに対する
比喩なのかもしれない。
実際、第二次大戦ごろ
ゲイは治療対象として
外科手術が行われたという歴史があるし
ドイツのエニグマを解読した
アラン・チューリングに対し
当時、同性愛は罪とされ
逮捕、治療されたことは事実だ。
そういったことに対して、
どのような態度を取るのか
取れば良いのか、
観る側は突きつけられてしまうように思った。
実際、観終わってから
頭の一部がこの映画に支配されている。
未来を感じる終わり方が
個人的には救いになった。
It’s probably a metaphor for the real world, but what exactly it represents may subtly vary depending on the viewer.
Given that humanity has experienced a pandemic for the first time in about 100 years (since the Spanish flu), it seems impossible to think this work is unrelated to that event.
It might be a metaphor for infectious diseases, or perhaps a metaphor for sexual minorities.
In fact, during World War II, gay individuals were subjected to surgical “treatment” as if they were patients, and history tells us that Alan Turing, who cracked Germany’s Enigma code, was arrested and forced into treatment because homosexuality was considered a crime at the time.
The film seems to confront the viewer with questions about what kind of stance to take or what stance is appropriate toward such issues.
Even after watching it, I felt as though part of my mind remained captivated by this movie.
For me, the ending, which hinted at a sense of the future, offered a sense of salvation.
「守ってなんかいない!」
ポスターのビジュアルに惹かれて観に行った。
奇病による"新生物"というテーマだけど、
根底にあるのは「愛とは?」みたいな話かもと感じた。
緊迫感が常に漂う中で端々から感じる温かさは、
きっとそれが理由なのかもしれない。
歪であり素敵とも感じる父子の関係が印象的だった。
小言のなかに矛盾が多いのは親あるあるかも笑
お父さんは「守りたい」「一緒に暮らしたい」、
エミールは「真の理解」を求めてたと思う。
父に"ケダモノ"と呼ばれたフィクスを助けることで自分でも変異していく自分を受け入れられたのかもしれない。
最後は、お父さんも「本人の幸せ」を最優先して、お互い幸せそうな顔だったなぁ
でもこれって割と親子であるかも。
安全な道を歩ませたい親と、それによってありのままの自分を出せない子ども。
本人を信じて解き放つ勇気って大変だろうけど、きっと必要なことなんだろうな。
はたから見たら獣だし、
身内にとっては家族だし、
被害が出ればケダモノだし。
自分がなったら?とか色々考えた。
終わってから、
・新生物同士捕食関係になったりするのかな?
・日本だとニホンザルとかその地域特有の変異があるのかな?(もし北国で南国の動物に変異したら大変…)
・体が完全に動物寄りになったらオリジナルの同種と共存できるのかな?
とか、その後の世界がどうなっていくのかシンプルに気になった。
とんでもない設定を、真面目にストレートに
物足りない
Nature
様々な動物へと変化していく奇病が流行っている世界で生きる親子の話で、思っていた方向よりかはドラマ性重視の作品でしたがそちらのテイストでもしっかり楽しむことができました。
テーマ的にはコロナ禍をモチーフにしているらしく、感染者の隔離と非感染者との距離の取り方だったりを少しオーバーに描きつつ、それでいて身近な人が感染していたらというのも描いているので、動物人間パニックムービーかと思って観に行きましたが、テーマが奥深いのもあってしっかりのめり込めました。
エミールが動物の症状がチラホラ出てくる感じが微々たる変化の積み重ねだったというのもうまい演出だなと思いました。
小さな牙や鋭い爪が生えたり、背中が尖ってきたり、自転車がうまいこと漕げなくなったりなどなど、当人ですら気づかないものから周りが怪しむレベルまでの変化をゆったりと描いていて、病気に感染する残酷さをしっかり表現しているなと感心しっぱなしでした。
ADHDのヒロインはそこまで出てくるわけでは無かったのが惜しかったです。もっと絡ませて生存本能を刺激するシーンがあればなぁってなりました。
動物人間のデザインが仰々しいものでありながら、半分人間半分動物なのもあって美しいとも取れるデザインになっていたのがとても良かったです。
鳥人間にタコ人間、ライオン人間に犬人間etc…それぞれの特徴と能力を組み合わせた感じなので、実際にいてもおかしくないなという塩梅なのも今作に良いスパイスを与えているなと思いました。
どんな動物になるかとかは全く分からずなランダム性は病気にかかるのですら怖いのに、下手したらとんでもない動物になるのかと思うとゾッとするところもあります。
序盤で街中で暴れていた鳥人間のフィクスが後半ガッツリ物語に絡んできて、エミールと仲良くなったり、一緒に飛べるように練習したり、窮地に追い詰められた時には羽を差し伸ばしてくれたりと人間と動物の間を彷徨う登場人物として最高な活躍をしてくれました。
母との再会だったり、同じ感染者たちとの出会いだったりは少ないながらも自然の美しさ込みで壮大なものになっていたのが印象的でした。
エミールが自然に戻っていくラストは好み分かれそうなところですが、家族を大事に思っているフランソワが下した決断はかなりのものだったと思いますし、永遠に会えないかもしれない別れなのに前向きな表情だったのと、エミールが爽やかに走り出すもんですから眩しささえ感じてしまいました。
2人で最後の会話を交わしながら、塩分の塊だったポテチをムシャムシャと食べるフランソワの姿が美しく見えてカッコよかったです。
自分は親元から旅立った側の人間なので、見送る側の立場になったらそれはそれは辛いけど前向きに送り出すんだろうなと思いました。
改めて両親に感謝をしながら劇場をあとにしました。
鑑賞日 11/12
鑑賞時間 17:45〜20:05
座席 I-3
石川賢の野獣戦線
を思わせる鳥人間が街中で大暴れするシーンから始まる。このまま、獣人達と人間との大決戦が始まるのかとワクワクしていたら、そんな事は無く、
主人公の男の子が獣人化するも背中に毛が生えて、獣人の爪が伸びるけど、爪切って背中の毛は剃ればいいくらいの変身しか遂げない。何だそりゃ?
この映画では、人間が突如、獣人化して獣人した人間は隔離されるが普通にお見舞いに行けるくらいのセキュリティの弱さ。
これが、アメリカ映画なら、獣人化した人間が研究所に隔離されて、非道な実験でモルモットにされた獣人達が、
「 ニンゲン...、許さない...!」
と、叫び研究所から脱走し、人間達に復讐する展開になるのだが、
脚本を書いた、おフランス野郎にはエンタメ魂が無いので、獣人化した主人公は普通に学校に通って、キャンプに行って日常生活を満喫する。
このチンタラした日常に尺を取りすぎていて、何の映画を見ているのか分からなくなる。
ようやく、終盤で獣人狩りが始まるが、あっさり終わる。
ラストはどうなるかは内緒にしておくが、10人中、10人が思いつく陳腐なラストシーンとなる。こんな陳腐なオチだったら、日常部分を削って90分にしとけよ。
これで、2023年のセザール賞をいくつか、受賞されているが、意味が分からない。他にも良い作品があっただろうよ?
難解な映画を理解できる俺スゲー野郎のプライドをくすぐる雰囲気映画。でも、これはエンタメじゃねーよ?
配信になったら、見てもいいかも?
獣人の悲劇を見たかったら、手塚治虫の「 きりひと讃歌」 と、石川賢の「 野獣戦線」 がお勧めです。
仏製アニマライズスリラー
人間がさまざまな動物に変異する謎の奇病が蔓延した近未来を舞台に動物に変異したまま姿を消した妻を捜す男とその息子の姿を描きだす。仏製アニマライズ詩情スリラー放出。ケモノに変わりゆく世界で人間たちは何を思う。人間と動物のハイブリッドという設定自体の新機軸や解釈、メタファーなど多様に描こうとする題材が開かれている。それぞれが動物化するおぞましさがある一方で、動物化することで自己採掘や生き方の問いの是非を導きだすような風刺的側面もある。新生物のビジュアルや造形もアニマトロニクスやデジタル効果などで表現したみたいでリアリズムが良く出来てる。強制隔離された世界で現実世界との対比や人間自体の脆弱ぶりを思い起こさせる思慮深い作品へ昇華される。
わたしはタコになりたい
北欧映画かとおもったらフランス映画。予告編でヨン・アイブィデ・リンドクビスト原作·脚本の「ボーダー 二つの世界」と同じような匂いがした。
やはり、現代の寓話だった。
母親はなんの動物とのキメラだったのか?アザラシみたいな顔だったが、千と千尋の神隠しのカオナシみたいなからだつきだった。監督はもののけ姫に強く影響を受けたらしい。
ADHDだと自分から名乗るクラスメイトの彼女。エミールがオオカミに変わりつつあるのを分かったうえでのあの行動。単に好奇心が強いからだとは思いたくない。異端同志のSYMPATHYに裏打ちされた愛だと思う。とても印象に残る素敵なキャラだった。
憲兵隊の女性曹長役はアデル ブルーは熱い色のアデル。新生物に対する軍隊の対応に疑問を抱き、フランソワに同情し情報を流す。フランソワも熱い男だったよ。ポテチをめぐる息子との確執のシーンで彼が反体制側の人間であることがなにげなく描かれる。そしてラストにつながる。
ワシになってゆく青年の苦悩は何者かになることを運命付けられた青年の苦悩そのものだ。翔べるようにならなきゃバカにされるだけだ。それを応援するエミールの友情にも大いに泣けた。
予告編にも出てきたが昆虫のナナフシになった人間が夜の街を彷徨する。これは何かに擬態しながらひっそりと生きてゆく人間の象徴か?
特異な状況設定に最初は違和感を覚えたが、それが氷解する親子のラストシーンがまた素晴らしい。
セザール賞で落下の解剖学にノミネート数で上まった今作。VFXの質には低予算の悲哀を感じたが、ただ胸糞悪いサスペンスもどきの落下の解剖学と比べ、意欲的で、格段にチャレンジングな良作。
スーパーマーケットのタコ人間のシーンは素晴らしかった!タコはチンパンジーと同じくらいの知能を持つ高等動物。身体能力も高いので、どうせ変身してしまうならタコ人間になりたい。魚好きだし。ウツボ人間との死闘に備えて、カウチポテトはやめて、明日からトレーニングしなければいけないね。
追記
マダコは男親が巣の中で外敵の侵入を防ぎながら、飲まず食わずで卵に酸素を送りつづけ、赤ちゃんが孵化して大海に泳いでゆくのを見届けて一生を終えます。
パンデミック後の世界。
人間が徐々に動物になる奇病がパンデミック化した世界。母親が奇病に罹り隔離施設に残された父と息子の日常を描く。
タイトルで?ホラー映画とばかり思ったらグロテスクなシーンはなく、淡々と様々な事象を丁寧に描写。
バードマンを始め奇病で動物化した人間にも監督は優しい目線。
カタルシスの炸裂にまさかラストに泣いてしまうとは!
移民に寛容なフランスだからか動物化した人間にも厳罰化していない様子。
ノルウェーだと共存まで。
日本だと排除する。
岡本喜八監督、ブルークリスマスや漫画版デビルマンみたいな狂った世界を思わせる。
ケモノノケモノ
サスペンススリラーになりそうな題材で描くヒューマンドラマ。
フランソワ視点で始まった物語は、症状の進行と連動するようにエミールに比重が移る。
状況説明はスムーズで、父子がメインであることを考えれば学校や職場、憲兵の比重も適切だったと思う。
哺乳類ならともかく、鳥類や爬虫類、ましてや軟体動物にはならんやろ、とかは言いっこナシ。
人間の身体のままで飛べんやろ、も禁句。
前提として“そういうもの”だと受け入れる必要はある。
出色はエミール役の演技で、変容に対する苦悩や動物としての動きという内的/外的どちらの面も抜群。
そういった意味ではフィクスも秀逸で、この二人の交流がとてもよかった。
その分、変容した者たち自身の“どう生きるか”という葛藤や決断が描かれないのは勿体ない。
特に思春期のエミールにとって、ニナとの今後なんかは大問題のハズなのに。
父は、どうす“べき”かだけでなく、息子がどう“したい”かをもっと聞くべきだとは思った。
しかし常にそこに確かな愛情があったのは間違いない。
彼はただ息子が自由に生きられることを望み、信じた。
冒頭の「服従するな」「反抗する」という会話に繋がるラストから感じる生命力は、とても力強い。
変容が始まる箇所もペースも、凶暴化の度合いなども、個体差が大きそうで法則性は見えない。
原因の究明や今後どうしてゆくかという話には到らず、あくまで入口の話。
そこが物足りなくもあるが、しかし一番考えを巡らせるべきなのもこの“一歩目”だよなぁ。
アルベールがとても可愛いので、終盤出なくて寂しい。
コロナ禍を経験したからこその違和感が気になってしまう
人間が動物に変異する奇病の蔓延というアイデアは面白いし、それを具現化した特殊メイクやVFXも見応えがある。
ただ、何のためにそのような設定を導入し、それで何を訴えようとしているのかが、今一つ分からない。
この奇病は、エイズや新型コロナなどの実際の病気のメタファーではなさそうだし、この奇病で、新種の狼男や吸血鬼やゾンビを描こうとしている様でもなさそうだ。
奇病を発症した人に対する差別や抑圧、あるいは、健常な人と発症した人との分断や対立みたいなものも、それなりに描かれてはいるのだが、それがテーマであるとも思えない。
別に、無理矢理、寓意やメッセージを読み取る必要はないのだろうが、それでも、こうした奇病に対する対応の不自然さは気になってしまう。
例えば、自分が、いつ、この奇病にかかってもおかしくない状況のはずなのに、人々に、そうしたことに対する不安や警戒心が全くと言っていいほど感じられないのは、どうしたことだろう?
新型コロナの頃は、隣の人がマスクをしていなかったり、ちょっと咳をしただけで、あれほど過敏に反応していたのに、この映画の高校生たちが、ごく普通の学校生活を謳歌しているばかりか、主人公の少年の異変に気付かないことには、大きな違和感がある。
奇病に対する社会の対応にしても、発症した者を捕獲したり隔離するばかりで、病気の予防法や発症が疑われる場合の措置(病院や保健所に届けるなど)が周知徹底されていないことには首をかしげざるを得ない。
そもそも、社会がこんな対応をしていたら、主人公のように、発症を隠そうとしたり、家族が発症した人をかくまおうとするような事例が後を絶たなくなるはずで、施策としては完全な失敗と言えるだろう。
祭りの夜に、村人たちが、発症した人たちを、問答無用で撃ち殺そうとする場面は、唐突で脈絡がないとしか言いようがないが、こんなことを放置していたら、それこそ、社会の秩序は崩壊してしまうだろう。
その一方で、父親と少年が、施設に入る前に行方不明になった母親を独自に捜し出そうとしたり、病気を発症した少年が、施設に入ることを拒否しようとする理由にも、あまり説得力が感じられない。
病院で面会した母親は、そんなに酷い扱いを受けているようには見えなかったし、施設に収容されても、家族等が面会できる(そのために、施設の近くに引っ越したのだろうし、終盤で、父親が少年に「面会に行くから」とも言っている。)のだから、それほど孤独にはならないように思えるのである。
もし、病気を発症した人や家族が、施設に対して良からぬ印象を持っているのであれば、施設内の様子を明示するなどして、その理由をきちんと説明するべきだったのではないだろうか?
いずれにしても、ラストシーンからは、結局、「束縛から逃れて自由に生きろ!」みたいなことが言いたかったのかとも思えるのだが、その一方で、そのために、このような特異な設定とストーリーは必要だったのかという疑問も残るのである。
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