「それぞれにとっての神々」憐れみの3章 ジュン一さんの映画レビュー(感想・評価)
それぞれにとっての神々
〔女王陛下のお気に入り(2018年)〕
〔哀れなるものたち(2023年)〕
に続き『ヨルゴス・ランティモス』が三度『エマ・ストーン』を起用した一作。
語り口自体は平易なものの、
前二作に比べると、寓意の指し示すものが相当に分かり難い。
三章だての夫々を、
別の出演者で撮っていればまた異なる印象かもしれぬが、
同一の俳優を別々の役柄で起用していることに
何らかの意図を求めてしまうのも一因かも。
要は、意識して困惑させ
分かり難くしようとする意図が感じられる。
第一章は上司の言いなりに動いているうちに、
一人では何も決められなくなる男の物語り。
その指図は微細に及び、何時に何をするかまで
細かく指示される。
が、たった一度、
『R.M.F.』なる男を交通事故死させる指令に反発したばかりに、
離反とみなされ全てを失っていく。
信頼を取り戻そうとするも徒労に終わり・・・・、との流れは
「ヨナ書」を、最後は神に対して悔い改めるユダヤ人を想起させる。
第二章は海で遭難した妻が救助され家に戻っては来たものの、
以前の妻とは違った何者かになっているのではと疑い怯える夫が登場。
彼は次第に精神に混乱を来たし、ついには妻(ではない何者かと
考えている女)に無理な要求をする。
作者は、妻が遭難中に何か怪しげなものを口にしている場面を挿入し、
夫の印象を補強する「レッドヘリング」として機能させる。
最後の場面は「イサクの燔祭」の裏返しだろうか。
第三章は怪しげな新興宗教に入れあげた女の破滅の物語り。
夫も娘も捨て、奇跡を起こす女性を探し求める。
それには、同道する男性と彼女が共に見た夢での啓示に、
ぴったり一致する必要がある。
それこそが「奇跡の人」だと言うのだ。
これは「ユダヤ人の王」を僭称したとして
磔刑に処せられた「イエス・キリスト」そのものを思い浮かべた。
そしてエンドロールが流れるなか、
一つのシーンが挟み込まれる。
まさに「ラザロの復活」のように。
こうして反芻すると、
一つの円環が成立しているようにも思える。
などと勝手に妄想を巡らせるが、
これが正鵠なのかはとんと分からぬ。
キリスト教圏の人は
どのように観たのだろう。
もっとも、エピソードの核の部分は、
他の作品でも目にすることがあるモチーフの数々で
斬新さはない。
トリッキーな仕掛けが目に付くばかり。