クイーン・オブ・ダイヤモンドのレビュー・感想・評価
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C.C.RIDER
ラスベガスでカジノディーラーとして働く女性フィルダウスの憂鬱気な日常が描かれてます。
セリフが極端に少なくて、暗く静かで退屈、眠くなる眠くなる(笑)
フィルダウスのカジノディーラーとしての様子を17分もの長回しでセリフなしで収めていて、スロットマシーンなどの音だけが静かに響いています。
この静かで退屈すぎるシーンが、この映画を象徴していると思うんですが、
他の方も言われてるように、主人公の憂鬱な退屈な気持ちを表しているんでしょうね。
間違っても、一般的にはウケない作品だと思う(笑)
きらびやかなラスベガスじゃなく寂しげなラスベガスが収められてます。
エルヴィス・プレスリーのモノマネ設定の人も出てきます。
ラストは、カッコ良かった。
シビれた(笑)
尋常でない傑作
虚無と言ってしまうとつまらない。だって人間だもの。
ストーリーを楽しむ映画ではない。
反映画史的実験映画
『マグダレーナ・ヴィラガ』と続けて鑑賞。『マグダレーナ』は正直言ってシャンタル・アケルマン『ジャンヌ・ディエルマン』の再奏にしか思えず、そこで繰り返される退屈な性行為や不意に瞬く暴力性にも既視感があった。
しかし本作はニナ・メンケス独自の文法が開陳されており非常に鮮烈だった。本作では撮影技法が二極化しており、一方では気の遠くなるようなロングショットの長回しが、他方では法則性を欠いた目まぐるしいカットの連続がみられた。
ロングショット長回しについては、ヒトもモノも等しく無機物としてショットに還元させるような企みを感じた。そこでは特定の何か(ニナ・メンケスであればそれは「女」と答えるだろう)を有機的に顕彰するような作用はことごとく無効化されている。アパートとその階段を登る女性、夕暮れの海岸とそれを眺める半裸の男性、燃えるヤシの木とそれを見上げる女性。
ヒトとモノが等価で結ばれ、ただひたすら画として成立している地平。そこではもちろん女性が過度に艶かしく映し出されるといった事態は起こり得るはずもない。女も、アパートも、男も、ヤシの木も、単なる物体に過ぎないのだ。
カジノのシーンに代表される目まぐるしいカットの連続は、映画史に伝統的な視線の解体を目指していたように思う。カジノと女という組み合わせは、50年代フィルム・ノワールに登場するような危険で謎めいた美女(=運命の女=ファム・ファタール)表象を想起させる。「カジノと女」は画として非常にフェティッシュなわけだ。
しかしニナ・メンケスは敢えてカットを割りまくる。カメラの位置を絶えず右往左往させる。そうやって受け手の視線を絶えず撹乱し続けることで「カジノと女」という表象が映画史的に内包するフェティシズムの拒絶を試みる。やや技法に走りすぎな感は否めないものの、先ほどまでの緩やかなロングショット長回しとの対比上、本シーンは非常に強烈だ。
知人の結婚式を抜け出した主人公がスポーツカーをヒッチハイクして夜闇の中に消えていくラストシーンもよかった。抑圧からの一時的な解放(=結婚式からの脱出)と新たな抑圧への沈降(=おそらく男が運転しているだろうスポーツカーへの乗車)が同時に暗示されていたように思う。
ただ一点、時折明滅する宗教的モチーフに関してはいまいち読み解けなかった。十字架を乗せた滑車で街を練り歩くあの奇才は何だったんだろうか。そういえば『マグダレーナ』にもキリストの肖像画が登場していたな。
いろいろな感想が頭に浮かんで、面白かったです
ラスベガスと聞くと華やかなイメージがありますが、女性ディーラーのフィルダウスの日常は淡々と仕事をこなす地味な毎日の繰り返し。
驚いたのは、ディーラーとして働く彼女を延々と撮る場面。
いつまで続くのだろう? と誰もが思うシーンですが、そのままフィルダウスの気持ちでもあるのでしょう。
これは彼女の生活そのものを表していて、多少の波風はあっても、基本的に何も変わらない毎日です。
また、キービジュアルにもあるような、木が燃えるのを眺めているシーン。
木が燃え尽きるのを見て、彼女はなにか啓示を受け取ったことが想像できます。
日々のルーティンから抜け出せない自分との対比かなと感じました。
繰り返される単調な日々
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