ルート29のレビュー・感想・評価
全132件中、21~40件目を表示
あみ子はもう一人のあみ子に出会った。
本作は「こちらあみ子」の正当な続編という感じで鑑賞した。前作ではあみ子は独特な世界観を持つ子供だったけど、社会から疎外されたことによって自分の世界の住人達と別れを告げ子供時代と決別して「大人」になる選択をしたのだと解釈した。
本作の主人公トンボはあみ子が子供時代の自分と決別をせずにそのまま大人になってしまったような人物であり、日々自分だけの世界に閉じこもって外の世界とは極力接点を持たないよう暮らしていた。
人はみんな自分の心の中にそれぞれの世界を持っている。そしてそれは他人からは到底理解されないようなものだったりする。
たとえば感性なんかも人はそれぞれ違っていて同じ赤色でも人によっては血の色に見えたり、真っ赤な夕日の色に見えたり、爬虫類が気持ち悪い人もいれば可愛くてペットとして飼っている人もいる。そんな程度の違いは社会で生きていく上では許容範囲内だが、そんな違いを超えたもっといわゆる世間一般と大きな乖離があると社会では何かと生きづらくなる。
社会の「常識」から外れてしまう感性の持ち主にとってはこの社会では何かと生きづらい。
今まででいうとLGBTQの人たちなんかそうだったんだろう。今まで社会の一定の枠内に収まれない人たちは網で掬い取られて排除されてきた。
特に今のように経済が疲弊した世の中では他者への思いやりとか寛容さが失われていて異物を掬い取るための網の目がどんどん小さくなってきている。昔なら個性的だねと言われたような人でも皆と少しでも違えばたちまち排除される。
「こちらあみ子」のレビューではあみ子を障碍者としてではなくあくまでも個性的な女の子として書いた。
そもそも障碍者と呼ばれる人たちも広い視野で見ればみんな個性的だと言える。そんな個性を尊重できない社会は効率化をうたい「障碍者」と「健常者」に分けてしまう。そうして「障碍者」を隔離して社会から排除してしまう。
それどころかいまの世界では少しでも異物とみなせば排除しようという排他的な風潮が特にひどくなってきている。障碍者排除どころか高齢者排除、異民族排斥、イデオロギーの違いからくる排除。このままどんどん排除のための網の目が小さくなっていずれは自分自身も掬い取られるほど網の目が小さくなってきてることにも気づかないのではないか。
そんな世界で生きてゆくには自分が異物とみなされないようにする必要がある。今まで多くのLGBTQの人々は告白もできず隠れるように生きてきた。「普通」から外れてしまったらたちまち排除される。LGBTQでなくとも何か個性が強い人、なかなか周りから共感を得られないような独特の感性を持つ人、周りから変だとみられないように息を殺して生きてきた。周りにうまく溶け込めるような器用な人ならいいが、中には普通を装うことに耐えられなくなりこの社会が監獄のように感じられる人もいるだろう。トンボたちが森で出会った親子のように。
トンボとハルはやはり独特の世界観を持った人間。でも彼らは初めから社会に溶け込もうとはしなかった。自分の世界を保ちつつ最小限の社会との接点しか持たずに生きてきた。当然孤独である。自分たちのことはけして社会から理解してもらえない。社会の中の孤島で暮らしてきたそんな二人が初めて出会う。
トンボは言う。自分は今までひとりぼっちだったと、でも今は違う。この広い世界で同じものが見える者同士が出会えたのだ。トンボに見えるものはハルにも見える。ハルに見えるものはトンボにも見えた。
二人の目には国道29号線のカーブを曲がって来る魚の姿がはっきりと見えていた。他の人にはけして見ることのできない彼らだけの感性によって。孤独な二人が今まさに無二の仲間と出会えたのだった。
なかなか周囲には自分のことを理解してもらえないと悩んでいる人もいるだろう。でも必ずこの世界のどこかに自分と同じ世界を持つ人間はいる。そんな希望を抱ける物語。
何か棒立ちの人物たちがとにかく可笑しくて、きっとトンボやハルたちには世間の人たちがあんな風に無機質な感じで見えてたんだろう。彼らの独特な感性を通して世界を見ているかのようなとても興味深い作品だった。
本作は理解できない、わからないという思いを観客に持たせることができれば製作した意味があったと言えるかもしれない。
他者を簡単に理解しようなどということは傲慢なことなのかもしれない。
なぜか横一線
本作公開の報を目にしてから期待していた作品です。まず、怪作とも言うべき『こちらあみ子』で鮮烈な監督デビューを飾った森井勇佑の第2作であること。次に、同作で「何じゃこの子?」とやはり驚かされた子役・大沢一菜さんが再び出演する事。そして、奇妙な映像空間になるに違いない森井作に綾瀬はるかさんが起用された事です。特に大沢さんは『あみ子』があまりにはまり役だったので、「この子はこれ以外の役は出来ないのでは」と思っていただけに、期待半分・不安半分と言った思いでした。
人との交わりが苦手で鳥取で清掃員として一人ぼっちで働く女性が、「姫路にいる娘を連れて来てほしい」と頼まれて彼女を連れて国道29号線沿いに北上するロード・ムービーです。
まず、大沢さんがすっかり大人っぽくなった事に驚かされました。でも、独特の目力はやはり本作でも健在で、映画の中で輝いていました。また、本作ではかなり言葉少ない綾瀬さんも、静かでどこか奇妙な作品の空気を纏って新たな一面を見せて下さいました。
そして、この作品自体は「監督は何を言いたかったのか」と言う事を言葉にしたら忽ち崩れてしまう世界に映りました。僕も何だかよく分からないのですが、それが監督の独りよがりとは感じられず、唐突に飛び込む「なんじゃこりゃ」の映像が強く印象に残るのです。
横一線にならんだラバー・ダック、横一線に並んだ池のボート、横一線で夜空を見上げる街の人々、横一線に延々と並べられた小石。映像の中から伸びた手に脳みその裏側をくすぐられた様な思いがしました。これも映画でしか味わえない経験です。
わけわからん映画?
感想 意味不明わけわからん 主題はなに?何を言いたい!何に閉じこもり何から解放されたのか?まったく不明!
動機 綾瀬はるかファン 27日で終了のため
良かった点
1.鳥取砂丘の海の青さ
2.綾瀬はるかのランニングシーン
3.29号をはしる巨大な黄金色の魚 鯉?
残念な点
1.主題テーマ描きたいことか全く分からない
ハルが居なくなって寂しかった 最後の鳥取砂丘でのトンボの台詞である。何かに縛られそれから解放される その答えが29号ハルとの旅 わからない?
2.綾瀬はるかの衣装はつなぎの作業服のみ約5000円。
3.各シーンの繋ぎがない。
振り替えっても意味不明の映像ばかり 未編集か?
4.エキストラが突っ立っている。意図的であり主人公以外の時間が止まっている演出か?
5.無声音映画のよう
長かった…
未読だけども、原作の詩集は良いのかも知れませんね…。
詩集を物語にするのは、結構、難しかったのかな?
詩集を読んで浮かんだ、監督さんや脚本さんの頭の中の映像を優先させて、
そのまま作品にした感じ??
受け手がどう思うかは、置いてけぼりな感じ???
とにかく、引きの映像ばかりで飽きるし、それがそんなに良いとも思わないし…。
ドヤ顔浮かぶんですよね…。
お姉さんの話も長いしねぇ。
途中までは良かったのに。
長い間や、無音の映像から何も伝わらなくて、
結局、少ない説明セリフで伝えようとするから、「ふーん…」って感じ。
また、ハルの感じが、あみ子と変わらないのは敢えて?
12歳って、あんな感じだっけ??
画面も暗めだし、ラストのハッピー感も薄いし、観ていて疲れちゃったよぉ…。
人生の時計
生きること死んでいること、生と死をトンボとハルを通して描く。
非常に分かり難い、見る人を選ぶ映画。
だが、映画が持っている世界観、テーマは面白く、映像も素晴らしい。特に、山でのシーンの新緑の生命を感じる映し方は綺麗だ。
本編は、トンボとハルが母親に会うために旅に出る。
旅路で出会う人々は生きているのか、死んでいるのか分からない、不気味な雰囲気を醸し出す。
山で暮らす親子の腕時計が止まっている描写や、お姉さんとのエピソードでは、言葉で生きているのに死んでいるようと感じる話が展開される。
事件発覚後、トンボとハルが立ち寄った喫茶店では、写真で神経衰弱をしている老人がいるが、『生きてる』『死んでる』と話している、そして、トンボに映像が移るにつれて『生きている』と話す。行方不明になったハルを探す描写ではトンボ以外の人が止まってみえる。トンボの時計が動き出したように。
そして、母親との再会へ。『私は死んでいます』と話し背中を向ける母親に、ホイッスルを鳴らし『死んでてもいいからまた会おうな』と伝えるハル。
ハルはトンボに時計店で譲り受けていた、腕時計を手渡す。人生の時間が止まらないように。
警察で自首して、連行されるトンボ。その後ろ姿は母親と同じ面影がみえる。
ラストの魚は、トンボの心の砂漠の中に、ハルが、魚が、潤いをもたらしていく…。そんな希望的な展開だったと信じたい。
独特な世界観の映画
予告で気になって鑑賞!
他者と必要以上のコミュニケーションをとることをしないのり子は、鳥取の町で清掃員として働いている。
ある日、仕事で訪れた病院で、入院患者の理映子から「姫路にいる私の娘をここに連れてきてほしい」と頼まれた彼女は、その依頼を受け入れ、単身で姫路へと向かう。
理映子から渡された写真を頼りに、のり子が見つけることができたハルは、林の中で秘密基地を作って遊ぶような風変わりな女の子だった。
初対面ののり子の顔を見て、「トンボ」というあだ名をつけるハル。
2匹の犬を連れた赤い服の女、天地が逆さまにひっくり返った車の中に座っていたじいじ、「人間社会から逃れるために旅をしている」と語る親子、久しぶりに会った姉など、さまざまな人たちと出会いながら、姫路から鳥取まで一本道の国道29号線を進んでいく2人の旅が始まった──。
というのがあらすじ!
U-NEXTでエピソード0を観て鑑賞しました
独特な世界観の映画で個人的にはなんかよくわからない映画でした笑
登場人物はどの人たちもとても個性的な人たちばかりでしたね!
特におじいちゃんは謎すぎた…笑
カヌーの場面は明らかに三途の川って思いました笑
もうあの会ったときに車がひっくり返ってましたしその場面ですでに亡くなってと勝手に思ってます…笑
不可解な出来事の連続で現実と幻想がよくわからなくなりますね🤔
周りの人たちも歩き方がおかしかったりしたし…
不思議な映画でした
もう一度観たら何か違う感想が出てきそうな気がする…
機会があれば是非もう一度観たいと思います!
ありがとうございました😊
現実と幻想の狭間で揺れる旅路
リボルバー・リリー(未見)の次がこれ
2回観てしまった。常に違和感と驚きを仕掛けてくる作り込んだシーンの連続に初見でくらくらした。シンメトリーや横移動などウェス・アンダーソン味のある画面を基調に、冒頭の修学旅行で日傘を差している中学生から始まって、あらゆる場面に「なんで?」という引っかかりが仕込んであって気が抜けない。ただし、ウェス監督作と違って字幕がないおかげで映像に集中しやすい(笑)。
しかし意味不明なこの作品世界、いったいなんの話なのか。自分の解釈としては、スイス・アーミー・マンと同じ手触りの話であり、森井勇佑監督の前作こちらあみ子からつながる続編だと思った。明確に言及はされないが、スイス〜はASD?の主人公ハンクから捉えた世界の話だし、こちらあみ子も何らかの発達障害をもつ女児あみ子と周囲との関係を描いた作品だ。
のり子は人とコミュニケーションが取れず孤独に生きる女性という設定だが、つまりハンクやあみ子と同様の気質(脳のレントゲンの丸い空洞で表される?)があり、本作はそんな彼女が見て聞いて感じている世界を表現しているのだと思う。世間から見ればタバコに着火する風除けとしか思われない存在感の薄い孤独なのり子の精神世界では、ぷくぷくと鳴る(砂漠の上を黄色い魚が泳いでいるような)音が聞こえたり、人々が亡霊のように動き抑揚なく話したりしているのだろう。
大沢一菜がハルを演じているのはそのものズバリ、成長したあみ子の姿なのだと思った。あみ子の母は娘の振る舞いで心を病み、母娘は別々に暮らすこととなった。ハルの母も精神科病院で別居しているが、「母親は自分を好きじゃなかったかも」というハルのセリフから、その原因はハルである可能性も示される。のり子とハルはともに一般社会には適応できず、他人の気持ちを理解するのが難しい種類の人間だが、そんな2人が国道29号線を端から端まで一緒に旅することで、お互いが心を通わせていく話である。
本作にはあちこちに死の気配がただよっている。ハルの母親はもうじき死ぬと言い、車の爺さんは死んでいるとハルは言う。R29の山間は異界のように描かれ、高良健吾親子が生活する森の沢はあの世とこの世を隔てる三途の川に思える。また、犬連れの女の赤い服や爺さんを迎える10艇の赤いカヌー、商店街の事故時に見える巨大な赤い月など、死は赤色で示されている。考えてみれば、スイス〜は死体と森をさまよう話だし、こちらあみ子にもボートに乗った亡霊が現れるなど、本作に通じるものがある。のり子やハルのような人々は日頃から死をかなり身近に捉えているのだろうか?
場面ごとの細部についてもいろいろ考察したくなるが、キリがないので最後に。本作のような一定の気質をもつ人たちの感覚やイメージを描き出すのは、その当人でなければなかなか難しいのではないか。ちなみにスイス・アーミー・マンの監督(の片方)ダニエル・クワンはADHDなのだそうだが、森井監督もそういった才能の持ち主なのかもしれない。
レビューの低評価が示す通り、綾瀬はるか主演ながら興行的には苦戦しているようだが、綾瀬の顔面力に頼っただけではない傑作だと思う。3回目を観るか迷い中…。
この映画のスタイルの意味とは?
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
基本的に今作を興味深く面白く観ました。
ところで今作は、まずイメージされた決められた画面配置や立ち位置があって、そこに人物や動きがはめ込まれる、特徴があったと思われます。
例えば、主人公・中井のり子(綾瀬はるかさん)が働く清掃会社の従業員は、ほとんど板付きの立ったままの構図でカットが始まります。
その立ち位置は、(清掃員のそれそれの動きの過程でそこにいるというよりも)あらかじめ演出側で指定した構図に沿った立ち位置で、いわばこの作品の作者(監督)の作為的な立ち位置だったと思われます。
この、作者(監督)の作為的な画面内の人物立ち位置の構図は、映画の冒頭の修学旅行生の座り位置や走り出す女子学生の立ち位置タイミングや、主人公・中井のり子と木村ハル(大沢一菜さん)との出会いでの画面に合わせたそれぞれのフレームインや手を伸ばすカットや、2人が途中立ち寄る喫茶店の店員や2匹の犬を連れた赤い服の女(伊佐山ひろ子さん)の動きや、終盤の大きな満月を見上げる町の人々など、映画の全般を通じて徹底されていたと思われます。
この(登場人物の内心によらない)作者(監督)による作為的な構図は、一体何を表現していたのでしょうか?
ところで映画の中盤で、主人公・中井のり子と木村ハルは、中井のりこの姉である中井亜矢子(河井青葉さん)の家に行き着きます。
その時に、教師の姉・中井亜矢子は、主人公・中井のり子に対して、自分の生徒の子供たちがつぶつぶで襲って来ると感じる、との悩みを打ち明けます。
その上で、姉・中井亜矢子は、妹である主人公・中井のり子は自分の話を聞いてくれると感謝しながら、一方で、話を聞いてくれるのは妹の中井のり子が他人に興味がないからだ、とも言うのです。
実は、この姉・中井亜矢子の妹への吐露が、この映画の本質を説明していると私には思われました。
即ちこの映画は、他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界を描いた、作品になっていると思われたのです。
なぜ(それぞれの登場人物がそれぞれの感情で動く場面描写でなく)あらかじめ作者(監督)が作為的に意図した構図に当てはめて人物を立たせたりそこに当てはめる動きの画面にしているのかというと、この映画は、(作者(監督)含めて)他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界、を表現しているからだと思われるのです。
姉・中井亜矢子が、自分の生徒に対してつぶつぶが襲って来るように感じるのも、生徒一人一人の背後にそれぞれの違った多様な感情や関係性や人生があることを、想像したり考えたりすることに関心興味がないからだと思われます。
この映画が、(作者(監督)含めて)他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界を描く作品、になっていると考えれば、なるほどその世界観は興味深く、面白さがない訳ではありません。
しかし一方で、その、他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界、に観客として違和感を感じるのもまた必然だと思われました。
なぜなら、他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界の人々を描く時に、本当であれば作者(監督)の側は、その映画の登場人物たちに逆に興味を深く持っていないといけないと思われるからです。
もっと言うと、この世界には(その度合いは様々であっても)他人に興味を深く持って生活している人々も一方で数多く存在しているはずなのに、その(今作の登場人物から見れば逆側の)他人に興味を深く持つ人々が全くこの映画で描かれていないのも、観客として違和感を感じる要因になっています。
つまり、他人に(ほぼ)興味がない人たちの存在を肯定したいのであれば、一方の他人に興味が様々な度合いで深くある人々の中に、今回の登場人物を配置して描く必要はあったのではとの感想は持ちました。
すなわち、個々の登場人物をそれぞれの感情で自由に画面の中で動かしながら、他人に(ほぼ)興味がない人たちをその中に描く必要があったのでは、ということです。
そうしなければ、今作の森井勇佑 監督は、早晩、(他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界に閉じ込められて)制作の行き詰まりを感じる事になるのではと、僭越思われました。
ただ、他人に(ほぼ)興味がない人たちだけの世界、を描き切った特異性ある作品である今作が完成出来たのは、この作品の完成の最後まで監督の作家性を信じて許した、映画に対する志の高い製作者の人達がいたからだとも思われました。
今作の製作者たちの姿勢は、映画の大切な部分を守ろうとしたとは一方で思われ、その志の高さには敬意を表したいとは、裏表の感情なく素直に映画の鑑賞後に思われました。
とってもスリリング!
Mirror
予告の感じからして自分と合うかどうか半信半疑での鑑賞でしたがたまーに面白いところはありつつも、全体的に首を傾げるシーンが多かったです。
清掃員をしているトンボという女性が施設にいた女性から娘を探して来て欲しいというお願いを聞き入れ、ハルという女の子を見つけ出し母親の元へ届けるロードムービーです。
序盤から無気力さが目立つストーリーかつブツッブツッと次へ次へ展開が進んで行くのが1本の映画としてしっくりこないところもあって大丈夫かな?と思っていましたが、登場人物のセリフの1個1個のクセが物語には繋がってこなくてモゾモゾしました。
軽く笑ったところを羅列していきます。
トンボが清掃の人の車を盗んで、盗まれた後を棒読みで見ているおばさんが最高に面白かったです。
怪しい女性が連れてるワンコが床にぺたーってなってるところはキュートでたまらなかったです。
死んだかと思ってた爺さんが後をついて来たり、突然カヌーに乗りたいと言い出したり、かと思ったらカヌーのチームに合流したりするところも素っ頓狂で良かったです。
都会の喧騒から離れて暮らしている親子の父親の一節一節は笑えもしつつ、考えもしつつでした。
トンボの姉との再会のシーンは感動ではなくどちらも心情的に何かを抱えているようで思いを吐露したりするところは結構良かったです。
にしても深夜にそんな爆音で猫踏んじゃった演奏したらそりゃクレーム飛んできますわと。
途中で予告にもあった誘拐というワードがきっかけで2人が大変な事に巻き込まれていくんですが、そこまでの道中がファンタジーすぎるのもあって急にリアルに戻すやんと思ってしまいましたし、トンボは行動的なものに誘拐を感じなかったのかとも思ってしまいなんだかなーという気分になりました。
おそらく死生観とはなんたるかを表現した作品だと思いますし、要所要所にこの人はこの世にいないんじゃ?と思わせるシーンもあって考察する楽しみがあるんだとは思うのですが、いかんせんつぎはぎに進んでいく物語のせいかそこまで考察してもな…と気分になってしまったのが惜しかったです。
意図的に棒読みにさせていたのか、それとも素で棒読みなのか分からないラインの演技なのもモヤモヤさせるところでした。
主演お二人や高良さんあたりはしっかりしてるんですが、背景に近い登場人物はどうしても言葉に命がこもっていないような気がしましたし、映画ならではの演技と舞台演技が混ざったような感じなのも観る側としては困っちゃうなと言ったところです。
この棒読みも実はこの世にはいないからという解釈もできるんですがあまりにも都合が良すぎるのかなと邪推してしまうところもあります。
自分にはハマりませんでしたが、撮影の仕方だったり、姫路はじめロケーションの良さだったり、主題歌の爽やかさだったり、1エピソードの濃度は感じられる作品でした。
原作にはかなり興味が出てきたので読んでみようと思います。
鑑賞日 11/21
鑑賞時間 12:00〜14:05
座席 E-10
綾瀬はるか唯一無二
綾瀬はるかが他のキャスティングでは成立しえなかった唯一無二の存在感でこのアンチ・ロマンを映画たらしめた。「こちらあみ子」の森井勇佑監督がそのままあみ子役の大沢一菜を起用して続編を作った感じなのだが、今回は「生と死」がテーマで虫や蛇カエルなど独特の自然と「生きている死者」の描写がより色濃くなった。国道の名を冠したロードムービーでありながら自動車は勝手に拝借したり盗られたりするもので早々に退場し死のイメージがつきまとう。他人と交われないのり子(綾瀬はるか)は将来のハル(大沢一菜)なのだろうけれど「私は回想構造が嫌(自分の人生が消化できておらず回想ができないらしい)なのでリアルタイムで並列して描く」と語っていた森井監督のインタビューが印象深い。夜ピアノ前で自分の人生を打ち消し続ける姉の長い長い語りと離れたダイニングテーブルで聞いているふりの綾瀬の小津的な切り返しの冗長なシーンがこの日常世界のむなしさを表していてだるいのだけれど心に残る。「あみ子」では子どもたちのランドセルだったが今作はハルとのり子が相合傘して歩くでかいこうもり傘と小学生のカラフルな小さい傘の群れがすれ違うシーンの美しさったらなくていつまでも二人の道行を観ていたい。
姫路から鳥取までの国道29号。 人を連れてきて欲しいと頼まれ、いざ...
残念すぎます💧
全132件中、21~40件目を表示