ルート29のレビュー・感想・評価
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独特な世界観の映画
予告で気になって鑑賞!
他者と必要以上のコミュニケーションをとることをしないのり子は、鳥取の町で清掃員として働いている。
ある日、仕事で訪れた病院で、入院患者の理映子から「姫路にいる私の娘をここに連れてきてほしい」と頼まれた彼女は、その依頼を受け入れ、単身で姫路へと向かう。
理映子から渡された写真を頼りに、のり子が見つけることができたハルは、林の中で秘密基地を作って遊ぶような風変わりな女の子だった。
初対面ののり子の顔を見て、「トンボ」というあだ名をつけるハル。
2匹の犬を連れた赤い服の女、天地が逆さまにひっくり返った車の中に座っていたじいじ、「人間社会から逃れるために旅をしている」と語る親子、久しぶりに会った姉など、さまざまな人たちと出会いながら、姫路から鳥取まで一本道の国道29号線を進んでいく2人の旅が始まった──。
というのがあらすじ!
U-NEXTでエピソード0を観て鑑賞しました
独特な世界観の映画で個人的にはなんかよくわからない映画でした笑
登場人物はどの人たちもとても個性的な人たちばかりでしたね!
特におじいちゃんは謎すぎた…笑
カヌーの場面は明らかに三途の川って思いました笑
もうあの会ったときに車がひっくり返ってましたしその場面ですでに亡くなってと勝手に思ってます…笑
不可解な出来事の連続で現実と幻想がよくわからなくなりますね🤔
周りの人たちも歩き方がおかしかったりしたし…
不思議な映画でした
もう一度観たら何か違う感想が出てきそうな気がする…
機会があれば是非もう一度観たいと思います!
ありがとうございました😊
現実と幻想の狭間で揺れる旅路
リボルバー・リリー(未見)の次がこれ
2回観てしまった。常に違和感と驚きを仕掛けてくる作り込んだシーンの連続に初見でくらくらした。シンメトリーや横移動などウェス・アンダーソン味のある画面を基調に、冒頭の修学旅行で日傘を差している中学生から始まって、あらゆる場面に「なんで?」という引っかかりが仕込んであって気が抜けない。ただし、ウェス監督作と違って字幕がないおかげで映像に集中しやすい(笑)。
しかし意味不明なこの作品世界、いったいなんの話なのか。自分の解釈としては、スイス・アーミー・マンと同じ手触りの話であり、森井勇佑監督の前作こちらあみ子からつながる続編だと思った。明確に言及はされないが、スイス〜はASD?の主人公ハンクから捉えた世界の話だし、こちらあみ子も何らかの発達障害をもつ女児あみ子と周囲との関係を描いた作品だ。
のり子は人とコミュニケーションが取れず孤独に生きる女性という設定だが、つまりハンクやあみ子と同様の気質(脳のレントゲンの丸い空洞で表される?)があり、本作はそんな彼女が見て聞いて感じている世界を表現しているのだと思う。世間から見ればタバコに着火する風除けとしか思われない存在感の薄い孤独なのり子の精神世界では、ぷくぷくと鳴る(砂漠の上を黄色い魚が泳いでいるような)音が聞こえたり、人々が亡霊のように動き抑揚なく話したりしているのだろう。
大沢一菜がハルを演じているのはそのものズバリ、成長したあみ子の姿なのだと思った。あみ子の母は娘の振る舞いで心を病み、母娘は別々に暮らすこととなった。ハルの母も精神科病院で別居しているが、「母親は自分を好きじゃなかったかも」というハルのセリフから、その原因はハルである可能性も示される。のり子とハルはともに一般社会には適応できず、他人の気持ちを理解するのが難しい種類の人間だが、そんな2人が国道29号線を端から端まで一緒に旅することで、お互いが心を通わせていく話である。
本作にはあちこちに死の気配がただよっている。ハルの母親はもうじき死ぬと言い、車の爺さんは死んでいるとハルは言う。R29の山間は異界のように描かれ、高良健吾親子が生活する森の沢はあの世とこの世を隔てる三途の川に思える。また、犬連れの女の赤い服や爺さんを迎える10艇の赤いカヌー、商店街の事故時に見える巨大な赤い月など、死は赤色で示されている。考えてみれば、スイス〜は死体と森をさまよう話だし、こちらあみ子にもボートに乗った亡霊が現れるなど、本作に通じるものがある。のり子やハルのような人々は日頃から死をかなり身近に捉えているのだろうか?
場面ごとの細部についてもいろいろ考察したくなるが、キリがないので最後に。本作のような一定の気質をもつ人たちの感覚やイメージを描き出すのは、その当人でなければなかなか難しいのではないか。ちなみにスイス・アーミー・マンの監督(の片方)ダニエル・クワンはADHDなのだそうだが、森井監督もそういった才能の持ち主なのかもしれない。
レビューの低評価が示す通り、綾瀬はるか主演ながら興行的には苦戦しているようだが、綾瀬の顔面力に頼っただけではない傑作だと思う。3回目を観るか迷い中…。
この映画のスタイルの意味とは?
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
基本的に今作を興味深く面白く観ました。
ところで今作は、まずイメージされた決められた画面配置や立ち位置があって、そこに人物や動きがはめ込まれる、特徴があったと思われます。
例えば、主人公・中井のり子(綾瀬はるかさん)が働く清掃会社の従業員は、ほとんど板付きの立ったままの構図でカットが始まります。
その立ち位置は、(清掃員のそれそれの動きの過程でそこにいるというよりも)あらかじめ演出側で指定した構図に沿った立ち位置で、いわばこの作品の作者(監督)の作為的な立ち位置だったと思われます。
この、作者(監督)の作為的な画面内の人物立ち位置の構図は、映画の冒頭の修学旅行生の座り位置や走り出す女子学生の立ち位置タイミングや、主人公・中井のり子と木村ハル(大沢一菜さん)との出会いでの画面に合わせたそれぞれのフレームインや手を伸ばすカットや、2人が途中立ち寄る喫茶店の店員や2匹の犬を連れた赤い服の女(伊佐山ひろ子さん)の動きや、終盤の大きな満月を見上げる町の人々など、映画の全般を通じて徹底されていたと思われます。
この(登場人物の内心によらない)作者(監督)による作為的な構図は、一体何を表現していたのでしょうか?
ところで映画の中盤で、主人公・中井のり子と木村ハルは、中井のりこの姉である中井亜矢子(河井青葉さん)の家に行き着きます。
その時に、教師の姉・中井亜矢子は、主人公・中井のり子に対して、自分の生徒の子供たちがつぶつぶで襲って来ると感じる、との悩みを打ち明けます。
その上で、姉・中井亜矢子は、妹である主人公・中井のり子は自分の話を聞いてくれると感謝しながら、一方で、話を聞いてくれるのは妹の中井のり子が他人に興味がないからだ、とも言うのです。
実は、この姉・中井亜矢子の妹への吐露が、この映画の本質を説明していると私には思われました。
即ちこの映画は、他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界を描いた、作品になっていると思われたのです。
なぜ(それぞれの登場人物がそれぞれの感情で動く場面描写でなく)あらかじめ作者(監督)が作為的に意図した構図に当てはめて人物を立たせたりそこに当てはめる動きの画面にしているのかというと、この映画は、(作者(監督)含めて)他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界、を表現しているからだと思われるのです。
姉・中井亜矢子が、自分の生徒に対してつぶつぶが襲って来るように感じるのも、生徒一人一人の背後にそれぞれの違った多様な感情や関係性や人生があることを、想像したり考えたりすることに関心興味がないからだと思われます。
この映画が、(作者(監督)含めて)他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界を描く作品、になっていると考えれば、なるほどその世界観は興味深く、面白さがない訳ではありません。
しかし一方で、その、他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界、に観客として違和感を感じるのもまた必然だと思われました。
なぜなら、他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界の人々を描く時に、本当であれば作者(監督)の側は、その映画の登場人物たちに逆に興味を深く持っていないといけないと思われるからです。
もっと言うと、この世界には(その度合いは様々であっても)他人に興味を深く持って生活している人々も一方で数多く存在しているはずなのに、その(今作の登場人物から見れば逆側の)他人に興味を深く持つ人々が全くこの映画で描かれていないのも、観客として違和感を感じる要因になっています。
つまり、他人に(ほぼ)興味がない人たちの存在を肯定したいのであれば、一方の他人に興味が様々な度合いで深くある人々の中に、今回の登場人物を配置して描く必要はあったのではとの感想は持ちました。
すなわち、個々の登場人物をそれぞれの感情で自由に画面の中で動かしながら、他人に(ほぼ)興味がない人たちをその中に描く必要があったのでは、ということです。
そうしなければ、今作の森井勇佑 監督は、早晩、(他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界に閉じ込められて)制作の行き詰まりを感じる事になるのではと、僭越思われました。
ただ、他人に(ほぼ)興味がない人たちだけの世界、を描き切った特異性ある作品である今作が完成出来たのは、この作品の完成の最後まで監督の作家性を信じて許した、映画に対する志の高い製作者の人達がいたからだとも思われました。
今作の製作者たちの姿勢は、映画の大切な部分を守ろうとしたとは一方で思われ、その志の高さには敬意を表したいとは、裏表の感情なく素直に映画の鑑賞後に思われました。
とってもスリリング!
Mirror
予告の感じからして自分と合うかどうか半信半疑での鑑賞でしたがたまーに面白いところはありつつも、全体的に首を傾げるシーンが多かったです。
清掃員をしているトンボという女性が施設にいた女性から娘を探して来て欲しいというお願いを聞き入れ、ハルという女の子を見つけ出し母親の元へ届けるロードムービーです。
序盤から無気力さが目立つストーリーかつブツッブツッと次へ次へ展開が進んで行くのが1本の映画としてしっくりこないところもあって大丈夫かな?と思っていましたが、登場人物のセリフの1個1個のクセが物語には繋がってこなくてモゾモゾしました。
軽く笑ったところを羅列していきます。
トンボが清掃の人の車を盗んで、盗まれた後を棒読みで見ているおばさんが最高に面白かったです。
怪しい女性が連れてるワンコが床にぺたーってなってるところはキュートでたまらなかったです。
死んだかと思ってた爺さんが後をついて来たり、突然カヌーに乗りたいと言い出したり、かと思ったらカヌーのチームに合流したりするところも素っ頓狂で良かったです。
都会の喧騒から離れて暮らしている親子の父親の一節一節は笑えもしつつ、考えもしつつでした。
トンボの姉との再会のシーンは感動ではなくどちらも心情的に何かを抱えているようで思いを吐露したりするところは結構良かったです。
にしても深夜にそんな爆音で猫踏んじゃった演奏したらそりゃクレーム飛んできますわと。
途中で予告にもあった誘拐というワードがきっかけで2人が大変な事に巻き込まれていくんですが、そこまでの道中がファンタジーすぎるのもあって急にリアルに戻すやんと思ってしまいましたし、トンボは行動的なものに誘拐を感じなかったのかとも思ってしまいなんだかなーという気分になりました。
おそらく死生観とはなんたるかを表現した作品だと思いますし、要所要所にこの人はこの世にいないんじゃ?と思わせるシーンもあって考察する楽しみがあるんだとは思うのですが、いかんせんつぎはぎに進んでいく物語のせいかそこまで考察してもな…と気分になってしまったのが惜しかったです。
意図的に棒読みにさせていたのか、それとも素で棒読みなのか分からないラインの演技なのもモヤモヤさせるところでした。
主演お二人や高良さんあたりはしっかりしてるんですが、背景に近い登場人物はどうしても言葉に命がこもっていないような気がしましたし、映画ならではの演技と舞台演技が混ざったような感じなのも観る側としては困っちゃうなと言ったところです。
この棒読みも実はこの世にはいないからという解釈もできるんですがあまりにも都合が良すぎるのかなと邪推してしまうところもあります。
自分にはハマりませんでしたが、撮影の仕方だったり、姫路はじめロケーションの良さだったり、主題歌の爽やかさだったり、1エピソードの濃度は感じられる作品でした。
原作にはかなり興味が出てきたので読んでみようと思います。
鑑賞日 11/21
鑑賞時間 12:00〜14:05
座席 E-10
綾瀬はるか唯一無二
綾瀬はるかが他のキャスティングでは成立しえなかった唯一無二の存在感でこのアンチ・ロマンを映画たらしめた。「こちらあみ子」の森井勇佑監督がそのままあみ子役の大沢一菜を起用して続編を作った感じなのだが、今回は「生と死」がテーマで虫や蛇カエルなど独特の自然と「生きている死者」の描写がより色濃くなった。国道の名を冠したロードムービーでありながら自動車は勝手に拝借したり盗られたりするもので早々に退場し死のイメージがつきまとう。他人と交われないのり子(綾瀬はるか)は将来のハル(大沢一菜)なのだろうけれど「私は回想構造が嫌(自分の人生が消化できておらず回想ができないらしい)なのでリアルタイムで並列して描く」と語っていた森井監督のインタビューが印象深い。夜ピアノ前で自分の人生を打ち消し続ける姉の長い長い語りと離れたダイニングテーブルで聞いているふりの綾瀬の小津的な切り返しの冗長なシーンがこの日常世界のむなしさを表していてだるいのだけれど心に残る。「あみ子」では子どもたちのランドセルだったが今作はハルとのり子が相合傘して歩くでかいこうもり傘と小学生のカラフルな小さい傘の群れがすれ違うシーンの美しさったらなくていつまでも二人の道行を観ていたい。
姫路から鳥取までの国道29号。 人を連れてきて欲しいと頼まれ、いざ...
残念すぎます💧
綾瀬はるかの無駄づかい
ダメなアート映画の典型。この監督さんの前作「こちらあみ子」は大傑作でその年の私のベスト1映画だったんだが。この映画はなんだ。正直がっかりした。
監督はこういう奇人変人ばかり出てくる、ファンタジー(?)みたいなのを作って通の評論家とかシネフィルに褒められたかったのかな。ため息しかでない。
あなたがまずやるべきことはエンタメ寄りのアート映画を作り、観客を楽しませることじゃないのか。意味ありげなシーンばかり見せられるこちらの身にもなってくれ。お爺さんになって趣味でこういうのを作ればいいじゃないか。黒澤明が晩年に「夢」とか作ったようにね。
しかも「アート」としてもダメ。何も心に残らない。例えば2年後この映画のことを覚えてる人が何人いるだろう。皆無だとあえて断言する。
唯一の美点は綾瀬はるかの美しさ。画面を持たせる力はすごい。彼女が主演でなかったら途中で席をたっていた。
人生がはじまる時に風は吹く
まずこの映画の本質は「誰のことばを聞くのか」という所にあると思う。
誰がどう「話すのか」ではなく、とんぼに「どう聞こえているのか」だ。
とんぼは、最初、精神疾患の患者さんが入院している隔離病棟で清掃員の仕事をしている。
そこで上司から「患者さんとは話をしないでね」と釘をさされる。
でも、なぜかスルッと話しかけて来る1人の女性から頼みごとをされてしまう。
そのやり取りが一連のロードムービーのスタート地点であるという所にこそ、この映画の良さが詰まっている。
要するに、言葉を軽んじられ易いであろう人の言葉を「引き受ける」良さである。
久しぶりにこんなに言葉を大切に使う映画を観たなと思った。
あとセリフを際立たせる構図が綺麗。
めっちゃ良かったです。
綾瀬はるかをなめんなよ。
綾瀬はるかもっと出さんかい、って泳げませんの時は思ったけど、今作はずっと出てるのに堪能できなかった。
「俳優を魅力的に見せるってみんなやってるから、ありきたりだな。そうだ、それならデビューからほとんど主役を張っていて、CMにも引っ張りだこ、美人でスタイルも良くてアクションもできてぐだぐだの番宣や舞台挨拶でも可愛らしい、国民的スター女優・綾瀬はるかを全く魅力なく撮ってやろう。これなら誰もできないだろう。よし、スタイルがいいからツナギを着せて隠そう。眼鏡かけさせよう。イメージ悪くなるようにタバコ吸わせよう。声もいいからできるだけ喋らせないようにしよう。笑顔も封印して表情もなくそう。泣くシーンは顔が映らないように引いて撮ろう。いや、まだまだ魅力的だな。そうだ。つまらない話にして観客を眠らせよう。眠らせれば流石に彼女の魅力は伝わらないぞ。」なんて思ってこの監督はこの映画作ったのかな。
残念、どんだけワケわかんないのいっぱい出してきても、
ラストのアップで彼女が全部持っていったわ。綾瀬はるかをなめんなよ。
カヌーとか月のシーンとか、いかにも狙ってるというか、最初から最後まで、どうだ普通じゃないでしょ、いい絵でしょ、って思いながら作ってたんだろうな。
普通がいいよ、普通が。
タイトルなし(ネタバレ)
永年の綾瀬はるかファンで,本作公開後のレビュー・観客動員がエライことになっているので,応援の意味で観に行った。日曜日の20時過ぎからの上映とはいえ,100席のスクリーンに観客は小生のみ。貸し切り状態。映画人生55年で初の出来事だった。
とにかく意味不明の映画だった。主人公の行動も不可解だし(口数が少なく自ら説明することがない),次々登場する人々(少女・老人・婦人・親子・姉・母親)の行動・思想・独り言も理解・共感できず,多くの謎が後々回収されるかと期待して最後まで眼を凝らして観ていたが,回収・説明されることもなく,終わってしまった。
欧米の映画でもときどき理解不能な映画があって,見終えてからモヤモヤすることがあるが,これも同じ。理解できない当方に問題があるのかと悩んでしまう。
ただドアップの綾瀬はるかは可愛いし(でも笑顔のシーンがほぼないのは悲しい……),映し出される景色は素晴らしい。カメラワークは感心するところがあった。
綾瀬自身は「新しい自分を見つけられた」ような発言(ちょっと不正確です。すみません)をしていたが,ファンとしては……。にこやかで,ちょっと天然で可愛い役がお似合いだと思っているが,本人は新境地を開拓したいと考えているのか,ちょっと残念。
無残すぎる失敗アートシネマ
いつものおなじみ低予算アートシネマ部隊を大手のプロダクションに乗せようと思い立った果敢な日本人がいたのは、あっぱれ。だけど予算をつけただけなので、カネと手間ばかりかかって全体が有機的に統合されていない。綾瀬はるかの下手くそな演技もそのまま。変なところで音楽が鳴るし…。興行的にもかなり無残な失敗。
へえと思わせるショットは、いくつもあります。冒頭のカプセルホテル、前作『こちらあみ子』のような町のどぶ川移動ショット、終盤の夜の商店街、等々。というかカメラはおおむね巧いのです。でもそれがつながっていかない。日本版ウェス・アンダーソンみたいなファンタジー風味グダグダ悲喜劇の気配はあるけども、俳優を適切に使えないならこんな脚本で映画撮るんじゃねえ。
ところでパンフレットは日本映画にしては丁寧だし資料性も高いんだけど、おおむねまっとうな書き手にこのレベルの作品を論じさせてるのは、正直苦痛。児玉美月みたいな無教養な自分語り大好きバカライターは、こういうしょうもない太鼓持ち駄文を書いてるのがお似合いなんだけど。この人、いっつもこんな感じなんだよね。
鳥取人は、こんな感じ
がんばれオシャレ映画
トレンド最先端の服を着てると「オシャレですね」って言ってもらえるんだって。でもそれは「奇抜な服を着てますね」って意味らしい。本当にオシャレな人は普通の服を着てるのに「お!」と二度見される着方をするらしいの。
この作品も「オシャレ」と言われるかも知れないけど「奇抜ですね」の意味で言われちゃうね。シーンが浮いてる。
この作品に綾瀬はるかや市川実日子が集まるのが不思議だったな。
河井青葉がだらだらと話すシーン良かったな。話し方がいい。
綾瀬はるかの走るフォームもきれいでいいね。
じゃあ、お前が言うオシャレ映画はなにさというと、この頃観たのではヴィム・ヴェンダース監督の《PERFECT DAYS》とアキ・カウリスマキ監督の《枯れ葉》だね。
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