「この映画のスタイルの意味とは?」ルート29 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
この映画のスタイルの意味とは?
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
基本的に今作を興味深く面白く観ました。
ところで今作は、まずイメージされた決められた画面配置や立ち位置があって、そこに人物や動きがはめ込まれる、特徴があったと思われます。
例えば、主人公・中井のり子(綾瀬はるかさん)が働く清掃工場の従業員は、ほとんど板付きの立ったままの構図でカットが始まります。
その立ち位置は、(清掃員のそれそれの動きの過程でそこにいるというよりも)あらかじめ演出側で指定した構図に沿った立ち位置で、いわばこの作品の作者(監督)の作為的な立ち位置だったと思われます。
この、作者(監督)の作為的な画面内の人物立ち位置の構図は、映画の冒頭の修学旅行生の座り位置や走り出す女子学生の立ち位置タイミングや、主人公・中井のり子と木村ハル(大沢一菜さん)との出会いでの画面に合わせたそれぞれのフレームインや手を伸ばすカットや、2人が途中立ち寄る喫茶店の店員や2匹の犬を連れた赤い服の女(伊佐山ひろ子さん)の動きや、終盤の大きな満月を見上げる町の人々など、映画の全般を通じて徹底されていたと思われます。
この(登場人物の内心によらない)作者(監督)による作為的な構図は、一体何を表現していたのでしょうか?
ところで映画の中盤で、主人公・中井のり子と木村ハルは、中井のりこの姉である中井亜矢子(河井青葉さん)の家に行き着きます。
その時に、教師の姉・中井亜矢子は、主人公・中井のり子に対して、自分の生徒の子供たちがつぶつぶで襲って来ると感じる、との悩みを打ち明けます。
その上で、姉・中井亜矢子は、妹である主人公・中井のり子は自分の話を聞いてくれると感謝しながら、一方で、話を聞いてくれるのは妹の中井のり子が他人に興味がないからだ、とも言うのです。
実は、この姉・中井亜矢子の妹への吐露が、この映画の本質を説明していると私には思われました。
即ちこの映画は、他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界を描いた、作品になっていると思われたのです。
なぜ(それぞれの登場人物がそれぞれの感情で動く場面描写でなく)あらかじめ作者(監督)が作為的に意図した構図に当てはめて人物を立たせたりそこに当てはめる動きの画面にしているのかというと、この映画は、(作者(監督)含めて)他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界、を表現しているからだと思われるのです。
姉・中井亜矢子が、自分の生徒に対してつぶつぶが襲って来るように感じるのも、生徒一人一人の背後にそれぞれの違った多様な感情や関係性や人生があることを、想像したり考えたりすることに関心興味がないからだと思われます。
この映画が、(作者(監督)含めて)他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界を描く作品、になっていると考えれば、なるほどその世界観は興味深く、面白さがない訳ではありません。
しかし一方で、その、他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界、に観客として違和感を感じるのもまた必然だと思われました。
なぜなら、他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界の人々を描く時に、本当であれば作者(監督)の側は、その映画の登場人物たちに逆に興味を深く持っていないといけないと思われるからです。
もっと言うと、この世界には(その度合いは様々であっても)他人に興味を深く持って生活している人々も一方で数多く存在しているはずなのに、その(今作の登場人物から見れば逆側の)他人に興味を深く持つ人々が全くこの映画で描かれていないのも、観客として違和感を感じる要因になっています。
つまり、他人に(ほぼ)興味がない人たちの存在を肯定したいのであれば、一方の他人に興味が様々な度合いで深くある人々の中に、今回の登場人物を配置して描く必要はあったのではとの感想は持ちました。
すなわち、個々の登場人物をそれぞれの感情で自由に画面の中で動かしながら、他人に(ほぼ)興味がない人たちをその中に描く必要があったのでは、ということです。
そうしなければ、今作の森井勇佑 監督は、早晩、(他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界に閉じ込められて)制作の行き詰まりを感じる事になるのではと、僭越思われました。
ただ、他人に(ほぼ)興味がない人たちだけの世界、を描き切った特異性ある作品である今作が完成出来たのは、この作品の完成の最後まで監督の作家性を信じて許した、映画に対する志の高い製作者の人達がいたからだとも思われました。
今作の製作者たちの姿勢は、映画の大切な部分を守ろうとしたとは一方で思われ、その志の高さには敬意を表したいとは、裏表の感情なく素直に映画の鑑賞後に思われました。