劇場公開日 2024年11月8日

「あみ子はもう一人のあみ子に出会った。」ルート29 レントさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5あみ子はもう一人のあみ子に出会った。

2024年12月7日
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鑑賞方法:映画館

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本作は「こちらあみ子」の正当な続編という感じで鑑賞した。前作ではあみ子は独特な世界観を持つ子供だったけど、社会から疎外されたことによって自分の世界の住人達と別れを告げ子供時代と決別して「大人」になる選択をしたのだと解釈した。

本作の主人公トンボはあみ子が子供時代の自分と決別をせずにそのまま大人になってしまったような人物であり、日々自分だけの世界に閉じこもって外の世界とは極力接点を持たないよう暮らしていた。

人はみんな自分の心の中にそれぞれの世界を持っている。そしてそれは他人からは到底理解されないようなものだったりする。
たとえば感性なんかも人はそれぞれ違っていて同じ赤色でも人によっては血の色に見えたり、真っ赤な夕日の色に見えたり、爬虫類が気持ち悪い人もいれば可愛くてペットとして飼っている人もいる。そんな程度の違いは社会で生きていく上では許容範囲内だが、そんな違いを超えたもっといわゆる世間一般と大きな乖離があると社会では何かと生きづらくなる。
社会の「常識」から外れてしまう感性の持ち主にとってはこの社会では何かと生きづらい。
今まででいうとLGBTQの人たちなんかそうだったんだろう。今まで社会の一定の枠内に収まれない人たちは網で掬い取られて排除されてきた。

特に今のように経済が疲弊した世の中では他者への思いやりとか寛容さが失われていて異物を掬い取るための網の目がどんどん小さくなってきている。昔なら個性的だねと言われたような人でも皆と少しでも違えばたちまち排除される。
「こちらあみ子」のレビューではあみ子を障碍者としてではなくあくまでも個性的な女の子として書いた。
そもそも障碍者と呼ばれる人たちも広い視野で見ればみんな個性的だと言える。そんな個性を尊重できない社会は効率化をうたい「障碍者」と「健常者」に分けてしまう。そうして「障碍者」を隔離して社会から排除してしまう。

それどころかいまの世界では少しでも異物とみなせば排除しようという排他的な風潮が特にひどくなってきている。障碍者排除どころか高齢者排除、異民族排斥、イデオロギーの違いからくる排除。このままどんどん排除のための網の目が小さくなっていずれは自分自身も掬い取られるほど網の目が小さくなってきてることにも気づかないのではないか。

そんな世界で生きてゆくには自分が異物とみなされないようにする必要がある。今まで多くのLGBTQの人々は告白もできず隠れるように生きてきた。「普通」から外れてしまったらたちまち排除される。LGBTQでなくとも何か個性が強い人、なかなか周りから共感を得られないような独特の感性を持つ人、周りから変だとみられないように息を殺して生きてきた。周りにうまく溶け込めるような器用な人ならいいが、中には普通を装うことに耐えられなくなりこの社会が監獄のように感じられる人もいるだろう。トンボたちが森で出会った親子のように。

トンボとハルはやはり独特の世界観を持った人間。でも彼らは初めから社会に溶け込もうとはしなかった。自分の世界を保ちつつ最小限の社会との接点しか持たずに生きてきた。当然孤独である。自分たちのことはけして社会から理解してもらえない。社会の中の孤島で暮らしてきたそんな二人が初めて出会う。
トンボは言う。自分は今までひとりぼっちだったと、でも今は違う。この広い世界で同じものが見える者同士が出会えたのだ。トンボに見えるものはハルにも見える。ハルに見えるものはトンボにも見えた。
二人の目には国道29号線のカーブを曲がって来る魚の姿がはっきりと見えていた。他の人にはけして見ることのできない彼らだけの感性によって。孤独な二人が今まさに無二の仲間と出会えたのだった。
なかなか周囲には自分のことを理解してもらえないと悩んでいる人もいるだろう。でも必ずこの世界のどこかに自分と同じ世界を持つ人間はいる。そんな希望を抱ける物語。

何か棒立ちの人物たちがとにかく可笑しくて、きっとトンボやハルたちには世間の人たちがあんな風に無機質な感じで見えてたんだろう。彼らの独特な感性を通して世界を見ているかのようなとても興味深い作品だった。

本作は理解できない、わからないという思いを観客に持たせることができれば製作した意味があったと言えるかもしれない。
他者を簡単に理解しようなどということは傲慢なことなのかもしれない。

レント