「淀川さんだったら、何と言われただろう?」ONE LIFE 奇跡が繋いだ6000の命 詠み人知らずさんの映画レビュー(感想・評価)
淀川さんだったら、何と言われただろう?
淀川長治さんが「シンドラーのリスト」について、一言述べたことはよく知られている。
私は「One life」は、大変良い映画だと思った。
背景は、第二次世界大戦直前のヨーロッパ。1938年9月29日、イギリスのチェンバレン首相は、ヒトラーの要求を呑んで、チェコスロバキアのズデーデン地方のドイツへの割譲を認める。宥和政策、しかし、一般には、この決断が先の大戦を招いたと言われている。ただし、ソ連を恐れたためとも言われ、この時の教訓が、今日のロシアによるウクライナ侵攻への対応にも影を落としている。
ドイツはもちろん、38年3月ドイツに併合されていたオーストリア、チェコの各地から、ナチを恐れたユダヤ人がプラハに逃げ込んでくる。住む場所も食料もほとんどなく、劣悪な環境。この状況を目にしたロンドンの若き株式仲買人、ニコラス・ウィントンは、ユダヤ人の子供たちを救おうとする。一体、どうやって?子供たちを、イギリスに避難させようとしたのだ。彼は、英国に帰って主旨を説明し、寄付金を集めて里親を探し、彼の母親バベットの助けを借りて、子供たちのためのヴィザを取得しようとする。何より大事だったのが、難民の子たちのリストを揃えることだったが、チェコスロバキア難民英国委員会のプラハ事務所の協力があった。
39年の3月、書類の揃った子供たちから、鉄道を使った避難が始まるが、時あたかも、ヒトラーが約束を破ってチェコ全土を占領した頃だから、その苦労は想像にあまりある。かろうじて宥和政策は続いていたので鉄道を利用することはできたが、終に、9月1日ドイツはポーランドに対し砲撃を開始し、3日イギリスとフランスに対し宣戦布告、両国もそれに対抗したため、3日に予定されていた250名の子供たちの救出は叶わなかった。それでも、ニコラスたちの努力は、669名の子供たちをチェコから脱出させることに成功した。しかし、彼の心に残ったのは、なぜもっとできなかったのか、だった。
50年後、妻のグレーテに言われて、書斎の片付けをするうち、どうしても片づけることができない、当時の子供たちの写真とリストが入った革の書類カバンが出てくる。この書類がきっかけになって、彼はBBCの人気番組に出ることになり、当時の子供たちとの再会を果たす。その喜びの結果として、彼は初めて過去の自分と向き合うことができたのだ。
印象的だった場面、ドイツがプラハに侵攻してきたとき、それまで保存していたユダヤ人の子供たちの書類を本人と係累のために、事務所の中庭に投げ捨て、燃やすところが出てくる。それは、50年後、ニコラスが家に蓄積していた書類の山を処分するところと、見事に響きあう。そう感じたのは、私自身がためてきた書類や書籍を処分する時が来ているからだろう。
私は、この映画の舞台の一つになったプラハ中央駅に行ったことがあった。何だか、がらんとして、大きい割には寂しい駅だった。それは、社会主義体制の遺残か何かと思ったのだが、あのような歴史を経験していたとは。
それにしても、ニコラスは、50年後でも、何という強靭な体力を持っていることか。ペンギン向けの(と自分で皮肉る)自宅の庭の冷水プールに飛び込むことができるなんて。「健康な身体に健全な精神を」とは言うけれど。