「自由の獲得とその代償ーー平成元年アメリカを舞台にした稀有な恋愛スリラー」愛はステロイド nontaさんの映画レビュー(感想・評価)
自由の獲得とその代償ーー平成元年アメリカを舞台にした稀有な恋愛スリラー
変わったタイトルなので、スルーしていたのだが、先日、別の映画で予告編が上映され、これはいいかも!と思って、観にきてみた。公開からしばらく経っていることもあり、平日1日1回の上映はガラガラだったけれど、観て大正解! 面白いし、考察ポイントがたくさんある映画だった。
しかもオープニングで気づいたけれど、先日観た「テレビの中に入りたい」に続けてA24の制作で期待が高まったし、高まった期待に見事に答えてくれた。「テレビ〜」に続き、本作も作家性が高く、色々な要素が詰め込まれている。そして、現代社会の批評的な文脈も豊富に取り込まれている、なかなかに手強い1作であるとも思う。観終わって、まだモヤモヤしているところもあるので、感想を書きながら自分なりに読み解いてみたい。
ベルリンの壁に関するニュースが挿入されていたので、舞台は、おそらく1989年。日本では平成元年で、僕が就職した年だ。ということは、本作の主人公の女性二人、トレーニングジムで働くルー(クリステン・スチュワート)と、ボディビルダーのジャッキー(ケイティ・オブライエン)は僕と同世代だから、より共感が深まった。
実際、本作が描く社会状況や様々な文化は覚えがある。現在のアメリカの状況の原点が、この時代に見ることができるし、当然、日本人の僕らにもそれは関わってくることだ。40年前の過去を舞台にすることで、現代を鮮やかに描くことに成功した映画だと言っていいと思う。
本作の設定で重要なのは、ジャッキーがアメリカ中部オクラホマ出身で、西海岸を目指しているという点だ。アメリカ内陸部は家父長的・宗教的規範が強い「内陸の保守」。その世界に息苦しさを感じて、目指すのは西海岸カリフォルニア。世界で最も、開放的で自由、多様な生き方と自己表現が許容される「沿岸のリベラル」エリアだ。
ジャッキーは、おそらく教育も不十分でお金もない。性的にもノンバイナリーで保守的な田舎では認められ難い。そして異形の肉体で、さらに保守的内陸部では生きにくい。だから自らの個性「筋肉」を武器に自由を手にするために西海岸へ向かう。
自らの意志と個性で、自分の力で、自分の人生を切り開く。これは当たり前のようだけれど、80年代から急速に広がった感覚でもある。
1989年は『7つの習慣』がアメリカで刊行された年だ。自己啓発を代表する1冊の冒頭の第一の習慣は「主体的である」。人はデフォルトでは、周囲の人や環境に動かされるように生きている。そうではなく、どう感じ、考え、行動するかは自分で決めることができるし、そうするべきだという教えだ。
これが案外困難だ。僕自身は2000年頃本書に出会い、その後、後輩たちの求めに応じて読書会や社内研修もした。分かっている、実践できているつもりでいたけれど、今年、退職を決めた日に、通勤電車の中で「あっ」というような気づきの瞬間があった。この第一の習慣が初めて理解できた感覚があって、思わず電車の中で泣いてしまった。
この(少なくとも僕にとっては)とても困難な「主体性の獲得」を主張する本が、この時代にアメリカで広まった背景には80年代のレーガン政権がもたらした新自由主義的価値観がある。小さな政府と規制緩和によって実現した自由に成功を求められる環境のもとでは、成功できないのは自己責任となる。
個人の成否はセルフヘルプ(自助)の結果。自らの意思と努力で自己改善に励み自由と自己実現を手にすることが普遍的価値として提示され、それが受け入れられる時代となった。
ルーが働くトレーニングジムの壁の様々な標語が映画中でも何度もインサートされるが、それらもそうした価値観を表している。
「肉体は、心が信じることを成し遂げる」
「負け犬だけがあきらめる」
「体が痛むのは、心の弱さが去っていく表れだ」・・・などなど。
トレーニングはある種の宗教的行為でもあり、ジムは宗教的な殿堂として、その信仰の確認と実践の場でもあるという表現が迫力満点だ。
筋肉が増えることは人間の根源的欲求にも繋がっている。ニーチェのいう「力への意志」やアドラーの言う「権力への意志・劣等感の克服」としても理解できる。そして、次第に筋肉獲得自体が自己目的化していくのは、ダイエットとも同じ構図だ。筋肉は自制心の証明でもあり、自己実現なのだ。
そして目的となった筋肉獲得のための最も効果的な手段が、本作のタイトルにもあるステロイド(アナボリック・ステロイド)。映画では、ステロイドを使わず肉体を作り上げたジャッキーに、ルーの副業的な商品でもあるステロイドを気楽に打ち、そこから物語が急展開していく。ステロイドの作用の表現として、筋肉がぎしりぎしりと音を立てて、肥大していく描写が何度も挿入される。
ステロイドの副作用として(医学的には必ずしも証明しきれていないようだが)精神面の不安定化や、攻撃性の上昇ということが言われていて、映画でもそうした流れになっていく。
僕はかつてプロレスファンだった。だから、主人公たちや僕と同世代の新日本プロレス出身のレスラー、クリス・ベノワを思い出してしまう。日本ではジュニアヘビーの小さなレスラーだったが、アメリカに戻って急速にマッチョとなりヘビー級チャンピオンにもなった。そのベノワが家族を殺し、自殺するという衝撃的事件。当時、ステロイドによる錯乱のように伝えられたのだけれど、それを思い出させるような変化が、この映画でもジャッキーに起こっていく。
女性にとっての筋肉の意味はさらに複雑だ。80年代にはミスオリンピアが創設されたが、当初のチャンピオンは、ジャッキーほどマッチョな感じではない。その後、筋肉をつけることは女性開放なのか、男性的価値観への服従なのかというような議論もあったようだ。この作品はその歴史的文脈を押さえて、筋肉(力)による自己決定の自由の獲得のダークサイドも描いている。
当時の、そして現在のアメリカでも、自由を享受できるのは、一部のエリートに限られている。エリートは自らの努力でその地位を手に入れたと言うが、様々な研究で言われる通り、所属する社会階層など先天的に決定されている要素は相当ある。
何も持たないものが自由を獲得するには、大きなリスクを取るか、裏技的な手段に頼らなければならないという現実があるという認識が、この映画を撮らせたのではないだろうか。
そうした先天的恵まれた条件を持たない人が、厳しい世界で生きるには、「心の痛み」が伴い、それがオピオイド中毒という現象となった。この映画はそこまでを射程に入れて物語っているのではと感じさせた。
まとめると本作は、1989年の情景(保守とリベラルの分断、自己責任文化の萌芽、そして現在に続くジム文化の隆盛)をを再現しつつ、自由の獲得と女性開放や、薬物による精神と肉体の自己改造の問題などを、恋愛スリラーという形に見事にまとめ上げた稀有な1作と言えると思う。
ボディビル大会では「でかい!」という掛け声が最高の承認の一つであるそうだけれど、本作は様々な現実をそのデカさを求める精神性という単純明快なイメージに集約して見せている。
なんか小難しい感想になってしまったけれど、さまざまな考察要素を埋め込むのがA24作品の真骨頂だ。的外れな考察だっていいのだ。そうして何度も咀嚼し直して楽しむのが正解なんだと思う。何度も思い出して考えたくなる、豊かで、複雑で、寓意に満ちた見事な作品だ。
