八犬伝のレビュー・感想・評価
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あまりにも「実」
まず一鑑賞者として言うならばこの作品は王道のエンタメとしては正直あまり面白くない。
願わくば、このVFX技術と綿密な取材とロケ、細部までこだわり抜いたセットと小道具でなんのひねりも無く令和版南総里見八犬伝をやって欲しかった。
ではいわゆる”クソ映画”として楽しめるかと言えばそうでもない。八犬伝パートはあまりに面白く、馬琴パートは役所広司の演技力が高過ぎる。
この映画は物語の世界を「虚」と捉え、馬琴パートを「実」として描いているが鑑賞者にしてみれば八犬伝パートが「虚」であるなら馬琴パートも「虚」なのだが、なんと言うか馬琴の愚痴や苦悩を聞いている自分を感じることが「実」と言うか、映画を観に来ているにも関わらずあまり映画に入り込めず暗い気持ちになる作品だった。
と言うのもクリエーターとして食い扶持を稼ぐ身の上としては今の環境はあまりにも「実」なのだ。他人から奪う事を政府も経団連も文化庁も推奨してる。虚を貫けば実となるなんて正直綺麗事だ。今クリエーターは死んだら世に出した作品を全て奪われる。生きるにはクソ過ぎるがおちおち死んでも居られない。本当にクソな世の中になったものだと思う。
虚と実
一番の見どころは滝沢(曲亭)馬琴と葛飾北斎とのオッサントークかも知れない。
物語としては八犬伝そのものでは無い。
書き上げる過程に焦点を当てている。
八犬伝を書く曲亭が北斎に挿絵を書いて欲しいと願うが、北斎は面倒くさい性格の馬琴の要求に辟易しており固辞。孫に仕事をさせたい思惑もあり孫を推薦する。だが北斎は八犬伝の素晴らしいシナリオを聞いて即興で挿絵を書いてしまうが、その出来栄えにこれをくれと馬琴。北斎は破って鼻紙にしてしまう。このやりとりが何度も続くがその間のやり取りを含めてそれが面白い。
馬琴は北斎とのやり取りで八犬伝のブラッシュアップとモチベを上げて28年にも渡る長編小説を書き上げる。
オッサントークの間事に何年も時間が経過しておりどんどん年老いて行く様、馬琴と女房、子供、孫ととの家族との関わり。四谷怪談の鶴屋南北などライバルとの関係。勧善懲悪を好む馬琴と勧善懲悪は虚構、現実の中に実があると南北。四谷怪談と言う虚構っぽくした実話を元にした怪談と実話だけど尾鰭つきまくって虚構化した忠臣蔵、果たしてどっちが虚で実か?難しい命題に打たれる馬琴。悩みながらも勧善懲悪を突き進む馬琴は最後は加齢で盲目となり義娘の手を借りてようやく長編小説八犬伝を書き上げる。
その一連の流れ、心の動きを挟む様に八犬伝の有名なシーンがダイジェストの様に盛り込まれる作りとなっている。
どっちも時代劇ものとあって馬琴の現実世界と八犬伝の虚構の世界の切れ目が若干分かりにくいが、まあ出てくるのがオッサンか若い剣士かで分かるかな?
子供時代にNHKの人形劇で八犬伝を見た時は凄い話の展開と玉梓の怨霊、運命的な八犬士の出会いと合流、最後の決戦と大団円。おどろおどろしい中にも爽快な物語に胸踊る思いだった。その時の思いが蘇る感じでしたね。こんな物語を28年も書き上げた馬琴は凄いですよ。北斎も富嶽三十六景を八犬伝の間に書いたりと馬琴と北斎を演じたオッサン二人の掛け合いは秀逸。
中途半端
虚と実が交錯する展開の大作
若手チーム(虚)とベテランチーム(実)
外国での視聴が主に想定されていると思うもののその観点では…。
今年385本目(合計1,477本目/今月(2024年10月度)36本目)。
※ (前期)今年237本目(合計1,329本目/今月(2024年6月度)37本目)。
この映画、インド映画でもないのに(ほぼ)3時間級なので注意です(お手洗いなどは早めに済ませたほうがよさそう)。
私自身はこの映画の背景となる知識については一般的な理解程度にとどまります(例外除く。後述)。
多くの方が書かれている通り、「物語パート」と「執筆パート」の2つに分離されていてほぼ交互に登場します。この分離の仕方は極端に違和感はないのですが(「燃えよ剣」だったかが、完全に「執筆パート」からの見方だったので慣れていた方も多かったのでは)、ちょっと面食らったという感じです。ただ、物語としてではなく執筆パートの部分を入れることで教養的なパートもありそこは良かったかなといったところです。
日本から見ると少し前の江戸時代のお話であり、特に漢字文化圏ではないアメリカ、フランスほか(要は、韓国、中国、台湾以外の3国)での視聴が主に想定されているのだろうと思いますが(「動物は傷つけていません」なども、日本「だけ」を想定する映画では流れないものも流れる)、そこでおやっと思う部分もあります。
ちょっとこのあたり気になるので以下述べておきます。
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(減点0.3/「執筆パート」において「漢字の部首」についての理解が(誰にとっても)難しい)
漢字は中国からもたらされたもので、今の「部首」の概念も江戸時代にはほぼほぼあり、書かれた時代には「康熙字典」という、今でいう漢和辞典にあたるものが広く流通していました(とはいえ、当時これを必要としていたのは一部の「特殊な」階級にとどまります)。
ここで映画の中で「「疲れる」の「疲」について「にんべんではなく「にすい」だ」というところがあります。確かに誤字として部首として「にんべん」を書けば、説明の仕方としては「にすいだ」という意味は「2人の間では」その説明のほうが明確でありそれで通ります。
ただ、「疲」の字の「部首」は当時も現在も「やまいだれ」であって「にすい」ではないので(調べた限り、にすい扱いされていたことは日本の歴史では存在しない模様)、この部分は何らかフォローがいるのではないかと思いました(特に一定の日本語学習者が想定できるこの映画では明確に説明不足で、日本語を解する日本人も混乱する説明だし、海外進出が明確に想定できるこの映画では、結局ここの説明不足が翻訳時に苦労する)。
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(減点なし/参考/日本語学習者から見た漢字学習と部首)
外国人取次を扱う行政書士の資格持ちとして、外国人関係は身近に取り扱うる事項ですので、この点触れておきます。
「アジア系言語」として中国語を選んでも日本語を選んでも、特に非漢字文化圏の学習者にとって最大の難関は「漢字」でしょう。「敬語表現」等も難解といえば難解ですが、日本語学習者(=日本人ではない、ということ)であることが明確な場面では、多少の誤りは修正できるし、日本人でさえ「敬語乱れ」が指摘される以上はここは余り問題視されません。
問題はやはり大量に登場する「部首」で、特に日本語学習者は「日常生活に多く登場する字」から学習するようになっています(小学校の漢字配当表と異なる部分が多い)。つまり、コンビニのアルバイト等を想定して「円」や「朝昼夜」「仕事」「労働」「夜勤」…といった字のほうが優先順位が高いわけです。つまり、初歩の段階から部首を想定した字が多く登場します(逆に、小学1~2年で学習する漢字は、部首を明確に持たない字のほうが多いです(一部除く))。
日本語学習の上位層にもなると、「部首」というのは、 radical、または root (基)という概念で習うところですが、紙媒体の漢和辞典が廃れて、インターネットや電子辞書、スマホ辞典が当たり前の今日では、「部首引き」が間違っていても「よくある間違い」に関しては誘導してひけるようになっているのが普通なので、必ずしも「正確な部首分類」ができるようになる必要はありません。このことはもちろん日本人でも同じです。ただ、そうであるからこそ、映画内の「にすいで書く」は海外展開時に混乱しそうだな…と思えました(誘導された先には「正しい分類」で掲載されるため。字幕上はどう説明されるのだろう?)。
※ ただ、この論点に気が付ける外国人も、全体で言えば、漢字文化圏でアドバンテージがある中国・台湾の方、次いで韓国朝鮮の方がほぼ全てだろうとは思えます。非漢字文化圏に属する方だと、部首学習は上位レベルの話なので、そもそも「何を言っているのかすらよくわからない」方も一定数出てくる部分。
(減点なし/参考/部首は常に一意に定まるか)
ここからは、日本人も巻き込むマニアックなお話になります。
特に初歩の学習の漢字では、部首が一意ではなく漢字辞典によってバラバラであるものがあります。その例として「売」(「売買」の「売る」の字)があります。
この字は漢字辞典では「ひとあし」(にんにょう)として載っている辞書が多いです。「兄」や「先」もこの部首に属します。
ところが、日本では有名な「漢字検定」というものがありますが、そこでは公式の見解に沿って答える必要があり(公式の漢和辞典が存在します)、そこには「さむらい」という部首で掲載されている字です(ほか、「声」や「壺」が同じ部首に属する)。つまり、この字の部首を回答せよと言われたら「漢字検定では」そのように回答しないと答えになりません。
ですが、漢検は国家資格でもなく英検などと同じ扱いの公的資格であり、その公的資格が示す一つの見解が「別に存在する」だけにすぎません。一方で漢検が身近に存在する以上は、部首学習・理解は日本人でさえ混乱する部分が多々あり(特に漢検が公的資格の扱いを受けることもあって、漢検の見解を国(文科省・文化庁)全体の見解と考える方が一定数いる)、漢検の合否を問題にするのでない限り、常識的に通じる部首で話せば(書けば)通じるのであり、このことが殊更問題になるケースはそれほど多くありません(こうしたちょっとした混乱が日本では見られるため、公立高校の入試問題、入社試験ほかでは部首名を回答させる問題は意図的に避けられることがあります)。
最高の、時代劇エンタメ
来年の大河も楽しみ
馬琴、北斎、南北の文学談義がいちばんのクライマックスでした。山東京伝の名前もどこかで出ましたよね…そわそわ。
磯村くんや黒木華さんの匙加減も絶妙で、北斎じゃないけどとても絵になるなぁと。寺島しのぶさんの悔しさの演技が、凡人としていちばん共感できて痛かった。
それに比べて、ファンタジーパートのペラペラ感がこりゃなんだ、と最初は思ってたのですが、途中で、そうかこれで正解なのかと気づきました。
勧善懲悪のご都合主義、美しすぎるヒーローたちと悪すぎるヴィランたち。これが虚で、さらには理想の世界なんですから。
馬琴先生が描こうとしたものですよね。
そもそも、南総里見八犬伝を最初に読んだ小学生の頃は夢中になってましたが、大人になって読み返すとまさにこの映画の虚パートと同じ手触り、そんなあほな、と笑ってしまってた自分。あんなに素敵に見えてた信乃がこんなうっすいヒーローだったか?と。笑
いかに自分が今平和な毎日を過ごし、逆に世の中をはすにみる物語に慣れ、ジョーカーかっけーと安易に思ってしまう生活をしてるのか、などと考えてしまいました。
だからこれで良いんですね!
ただ、もう一声はっちゃけて欲しかったです。予告の屋根上のバトルシーンに期待してただけに、もうちょっと丁寧な殺陣や、CG感のない八房、栗山千明さんの生首が見たかったなぁ…
思いっきりファンタジーに振ったほうが、現実パートとの対比が鮮やかになるかと。
板垣くんが夢のように美しかったのがまさにファンタジーでした。
南総里見八犬伝が出来るまでを物語を交えつつ絵描きたかったんだな
南総里見八犬伝は好きな物語。
遠い記憶でNHKの人形劇でやってたような…
後に、真田広之、薬師丸ひろ子で映画になったと思う。
滝沢馬琴と葛飾北斎、
お百も交えての掛け合いが重厚感もありおもしろかった。
色々と有名な名前が出てくるのも面白い。
それに比べて
失礼ではあるが八犬伝の方を演じる役者さん達が軽すぎる。これからを担う役者さん達を揃えたんだろうが。
それともわざとだよね、物語の主軸は八犬伝の方ではないと。
栗山千明はピッタリだなと思った。
ダークサイドミステリーって番組をやってたなぁ。夏木マリの後を継ぐわ。
あと今私のイチオシ、塩野瑛久が一条天皇とはガラリと変わった悪役で見られたのも良かった。
磯村勇斗はヤンキー役が似合うと思っていたけれど、ひ弱なこの役もイケる。
南総里見八犬伝をちゃんと見たかったなぁ
でもまあおもしろかったよ
待ってた八犬伝
ラストに『フランダースの犬』(笑)八『犬』伝だけに
役所広司に内野聖陽に寺島しのぶにアラン様(磯村勇人)
これだけのメンツ揃えて面白くなかったら最早犯罪(爆)
実と虚の世界が入れ替わり立ち替わり流れるんだけど2部構成にしてキチンと描いても良いんじゃないかな?って出来。
むしろ虚の世界の映像が虚である故ちょっとショボい感…
2部にするのが無理だからこの長さなんだろうけどだったらもう少し虚の世界をぶった斬っても良かったかも?
実の世界はほんと良く描かれていると思います。
談春との問答は頑固親父同士?なかなかの見どころ。
劇中ずーっと描かれる役所さんと内野さんの掛け合いの友情がとても素敵。
突っ込み過ぎず離れ過ぎずの良い距離感。
朴訥な小汚いおっさん演らせたら内野さんはピカイチだな(笑)
仁義霊地中心皇帝…?
スマホの予測変換にビックリ!
ジンギレイチチュウシンコウテイと打ったらこんなタイトルに。
正しくは、仁 義 礼 智 忠 信 孝 悌 のはず…
分かりやすいテーマを分かりやすく伝える。
そういう意味では完璧だと思います。
現実の世界では必ずしも正義が勝つわけではないし、どちらかと言うと、ズル賢い奴らの方が世の中を楽しんでいるように見える。
だからといって、安易に楽なほう(現実世界では、なぜか悪いことをする方が簡単)に流されず、自分を律する生き方を選び続ける。
報われるとか報われないという話ではなく、それが人生に意味(実)をもたらす。
もちろん、人により受け止め方も言語化の仕方も違うはずですが、少なくとも〝難解〟な映画ではありません。
鶴屋南北は、世の中の実相を斜めにみている。
そして、ありのままの姿を分かる人には分かるように、物語に化体させる。
滝沢馬琴は、世の中の理不尽さを物語の力でほんのいっときかもしれないけれど、忘れさせてくれる。
公儀(幕府)のもと、現代の基準からみればかなり制約が多いであろう中、許される範囲で表現の自由を最大限に発揮している江戸時代のクリエイターたち。
それだけでもとても凄いことだと思います。
新聞連載時から
豪華なキャスト
虚はいずれ実となる
試写会にて。
開映前に本屋に立ち寄り、メディア化コーナーにあった「八犬伝」を手に取ったのだが、そこには著者が山田風太郎とあり、無知な自分は疑問が浮かんだ。あれ、滝沢馬琴ではないのか?この作品を見たいと思っている多くの人は承知の事だとは思うが、滝沢馬琴は「南総里見八犬伝」の著者であり、本作の原作にあたる「八犬伝」とは、その「南総里見八犬伝」を作った滝沢馬琴という人物にスポットが当たった、山田風太郎執筆の物語。少しややこしいが、主人公はあくまで滝沢であり、八犬伝そのものはあまり深く掘り下げられていない。「南総里見八犬伝」の実写映画化では無いということは、頭に入れておく必要がある。
それをなぜわざわざこの場で強調したのかと言うと、28年の時を経て完成した作品の魅力が、当たり前ではあるが映画の尺では十分に伝えきれていないと感じたから。そもそも、山田風太郎の「八犬伝」はどのように描かれているのか分からないが、本作の原作なのだから、現実パート、八犬士パートを行き来する構成は同じはず。
そう考えると、山田風太郎自身もこの作品だけで滝沢馬琴の八犬伝を知ってもらおうとは到底思っておらず、自分の書いた滝沢主人公の物語を読んで、少しでも「南総里見八犬伝」を知って欲しいという思いで執筆したのだろう。となると、本作の目的は滝沢馬琴という人物の作品であり、ここで興味を持った人はぜひ、日本文学史に残るその名作を手に取ってね、とそういう意味合いを持った映画なのだろう。
うだうだと語ってきたが、結局のところどうだったかと言うと、ちゃんと面白くて見応えたっぷりの作品だった。ただそれは八犬士の物語としてではなく、それを書いた滝沢馬琴の伝記ものとして。前述の通り、この作品だけでは八犬士の物語は掴めなかった。それでも伝記映画という見方をすれば素晴らしいものだった。
役所広司が演じたのも大きいが、これほどまでに歴史上の偉人を魅力的に写す映画は、そう多くない。柳楽優弥が主演の「HOKUSAI」よりも、葛飾北斎という人間の面白さが内野聖陽の手によって引き出されており、両者の関係性もまた見もの。2人の演技に対するストイックさに、今日もまた感服致しました。
とにかく現代パートに安定感があり、近年の邦画にしてはかなり長尺の作品にも関わらず、あっという間に感じてしまうほど没入出来た。八犬士の物語にはあまり入り込めなかったし、かなり省かれて説明されているんだろうなと感じざるを得なかったけど、ここまでのボリュームを1本の映画に少し粗くもまとめたのは凄まじい。映画を見てここまで見応えを感じたのは久々。それだけ本気が伝わってくるし、「八犬伝」を世に知れ渡らせたいという熱い思いが映画にこもっていた。その愛を受け取ることが出来たというだけでも、この映画が作られた意味があるなと思える。
少し駆け足な展開で描ききれていない部分も多くあると思うけど、満足度はかなり高かった。重鎮と若手のバランスの良さ、演出力の高さ、構成の巧妙さ。実写映画化はかなり難しい作品だったと思うけど、よくここまで出来たな〜と感じる。
役所広司、内野聖陽、寺島しのぶ、磯村勇斗、黒木華が好演なのは言わずもがなだけど、中でも一際輝いていたのは八犬伝の一人・犬坂を演じた板垣李光人。あまりに顔立ちが美しいから、登場シーンはホンモノの踊り子かと思った。惚れちゃう。超キレイ...。八犬士パートに出演する役者の登場シーンはかなり少ないけど、皆それぞれ爪痕を残していて、俳優目当ての鑑賞にもってこいの映画かも。時代劇はあまり得意じゃないんだ!という人も、この機会にぜひ。公開日は10月25日です!
虚と実と
なんだかペラペラの映画
なんだろう。馬琴の物語である実パートとその馬琴の書く八犬伝の物語である虚パートが交互に進んでいくのだが、
八犬伝パートはあくまでも馬琴の想像する空想の世界を表す意図からワザとVFXを安っぽい表現にしているのかな?と勘繰ってしまう程の出来でラスボスの表現に至ってはちょっと笑ってしまうらくらいでした。それに引き換え、馬琴の物語である実パートは役所さんや内野さん他、素晴らしい俳優陣のおかげで、まだ興味深く見れましたが、それでも総じて曽利監督の演出なのか脚本のせいか、人間関係に深みを感じれず、普通ならココは涙するシーンなんだろうなと言うシーンも感情がまったく乗れず、何か全体的に重厚さや深みのないペラペラのうわべの物語感が最後まで拭えませんでした。曽利監督作品はピンポン以来ファンで全作品を観てきてはいますが、ピンポンの出来は色々な奇跡が重なり合った結果だったのかなと思うくらい、ピンポン以降の作品は個人的にはイマイチで、次回作こそピンポンを超える会心の一作を撮って欲しいなと期待しています。
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