「メイ・パン撮影の写真集で既に十数年前に公になっている事実に加え、それから1980年の12月まで続いたこと」ジョン・レノン 失われた週末 アンディ・ロビンソンさんの映画レビュー(感想・評価)
メイ・パン撮影の写真集で既に十数年前に公になっている事実に加え、それから1980年の12月まで続いたこと
まず、メイ・パン本人に感謝の意を示しておきたい。
個人的には既に、2008年に『ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド Instamatic Karma』として出版された写真集で初めて明かされ、その当時驚きを持ってそれを目の当たりにした“真実”であった。
この時期に於いての、既にビートルズの4人の再会が果たされていたことと、特にポールとの復縁と解散後に唯一の共演がなされていた事については、更に遡ること数年前の1992年の時点で既に入手していた(今作中にも登場した)”1974年のジャム・セッション(というかカオス?)”とされた音源の登場によって、その当時はマニアの間では大変な衝撃とともに知る事となったが、それは事前情報も、これらについての関連情報すらももたらされていなかったその時期の状況下の“世界”に突然と登場したその内容は余りの驚きに「フェイクなんじゃ無いだろうか?」との疑念すら感じる程のインパクトをもたらした。
それがメイ・パンにより、2008年『ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド』に収録された写真により初めて、実際の出来事だったのだということが裏付けられた事、その当時はそれを何よりも嬉しく思い、感謝したものだった。(その前の1983年のペーパーバック版だった回顧録は日本未出版。)
そして更に今また、1975年よりほぼ半世紀の時を経て、(ようやく)本人自らの口から語られるのを聞くことが叶った事、そして最も重要な時期にジョンと寄り添い、時間を共にしてくれた存在としての彼女に謝意を。
更に、ジュリアンとシンシアに対しての優しさにも。
当時20代前半だった女性にとっては、如何に荷の重きことだったあろうかと慮るばかりである。
既に、ビートルズを自分の中の重要な存在として認識するようになって半世紀以上が過ぎたが、そもそもその様な輩でもなければ、今作の内容のような(直接音楽部分には関係無い)事にまで興味を持って拘り、情熱を注ぐ様な事などは無かろうことだろうと思う。
この作品で取り扱われている時期、その当時にまさにリアルタイムで「ヨーコと別居し、東洋系のメイ・パンという“秘書”でもある女性と付き合っている」という話が海外から伝えられ知っていた、しかしその後も真相がはっきりとは分からない部分が多い事でもあった。
これまでに相当数の書籍や映像を目にしてきたつもりだが、今回の作品の中には、そのようにしてきたこれまでのものの中でも、目にした記憶が無い映像が可成りの量含まれていると思う。
それらを時系列に整理して並べ、完全な一連のものが存在しないコンテンツについては、断片的な数種類を駆使してそれでも欠落している部分はコラージュで繋ぐことで補うなど、作品としての完成度は手抜き無いクオリティだと思う。
特に、エルトンのLiveへの飛び入りに関しては、正式な動画が存在せず、静止画像のみでしか観たことが無かったが、一部の断片とは言え感動した。
他にも、明らかなプライベート・ショットやプライベート映像、当時のメデイア出演時の映像等、貴重で興味深いものが全編に渡って散りばめられていた。
また、ジュリアンとジョン、ジュリアンとメイとの関係性を示す動画の数々は感動無くしては観れないものだろう。
そして、本作制作時点でのジュリアン自身の登場と、その本人の言葉が、今作の内容に嘘偽りや偏り、偏見などが内在していないということを表す、何よりの証明であろうと思う。
そしてまた、ビートルズとはアメリカ・ツアーでの同行取材以降も長年良い関係にあったジャーナリストのラリー・ケインによる、この”失われた週末”の期間を詳述した伝記のインタビューでジョン自身がメイと過した時期について、
「ラリーの知っての通り、私は今までで一番幸せだったかも知れない、私はこの女性(=パン)を愛し、何曲か美しい音楽を作り、大酒やたわ言やその他もろもろで色々とやらかした。」
と明かしている、という事実を無視することは出来ない。
ラリー・ケインは、ジョン・レノンの生涯に関する専門家としてアメリカでの第一人者の一人とみなされている人物である。
随所に、感情的になって涙滲みそうな箇所をおぼえた。
私個人としては、基本的にいつも客観的なスタンスでいるつもりであり、ヨーコ・オノに対して興味深く思いこそすれ、嫌う気持ちや悪い感情などは持ち合わせない。
しかし、敢えてジョン&ヨーコの“困ったちゃん“なところを言うと、今作中でも触れている「星が悪い」というやつ。
二人は過度にこれに拘り、事実上、後付けで"星の良い日“に変更してしまったりして、運命的だったり美談っぽかったりな「自分(たち)史」の構築を図っていた事が伺える。
そういうことやってると、後年になって「本当の真実」はどういう事だったのかが分からなくなっていくだろう。
一例を挙げると、一般的なファンの間で知られているのは前述のエルトンの「Liveの直後に楽屋にやって来たヨーコとの劇的な再会により、二人はそこで一気に燃え上がって復縁した」というような筋書きで流布され、知られている。
しかし、実際のところは今作で説明されている通り、そのように「劇的な再会により一夜のうちに復縁」などでは無く、その後も紆余曲折あった末の事だったというのがやはり真相だった。
もう一つ、作品中でも触れているが『夢の夢 #9 Dream』の中の「John…」という声というか囁きについて、メイは「自分も録音に参加した」とこれについて語っているが、この声についてもヨーコは「自分」と主張していたりなどという事も。
また、ジョンが逝く半年ほど前の電話での最後の会話と云うのも興味深い。
亡くなった直後にも、早速ヨーコに新恋人説が流れたり、当時のその時期には「二人の関係が既に(また)破綻していた」との記述が見られる書籍も実際あり、それらとの関連性がイメージされるところではある。
今となっては、メイの言葉だけではそのことの決め手にまでがならないだろうから、真相は不明、複数の証言による判断しか無いだろう。
ただ、これに関連する内容として、先述のラリー・ケインの書籍の中で述べられている。
「当時まだ10代だった共通の友人が二人の間の仲介者となり、メッセージや情報を伝える役割を担った。彼は1980年12月まで、献身的な任務を忠実に遂行し続けた。彼はジョンの最後の荷物の 1 つ、ダブルファンタジーをメイに届けた。レノンが殺害される数日前に。」
この作品を観終わった後、とても深い、長年の溜飲が下がるような感情というか、感動に満たされた。
長い間探し続けているパズルのピースがついにやっとまた一つ、それも重要な一つをはめ込む事ができたような。
多分、それは完成することは無いモノなのだろうけど、また一歩、如何に完成に近い形に近付けるか、恐らくこれからも続けていくことなんだろうなと。
以下参考までに、蛇足というか.....
実はヨーコは、ジョンよりも先にポールと接近遭遇して(関わりをもって)いる。
両者の接点は前衛音楽のイベント絡みで、一般に知られている印象よりも前衛音楽についての着手もポールの方が先んじており、ジョンが前衛音楽についてヨーコとの出会い以降にのめり込んで行ったよりも早い時期の、1967年1月のイヴェントのみでお披露目された公式には未公表のビートルズ音源として知られたものがある。
本編でも触れられているが、ポールこそがまさに、ジョンとヨーコを復縁させる手助けをしたその人である。
経緯は、ヨーコからポールに「ジョンと復縁したいがどうしたら良いの?」と自らポールに相談、懇願してきたと明かされている。
ポールはそれに答えて、「手紙を書くのが良いよ」とアドバイスして、そのメッセンジャーも請け負ったということのようだ。
ヨーコとポールはよく”不仲”のように言われるが、実際には共作でレコーディングもしていたりする関係もある。(「広島」関連でヨーコが依頼を受けた際の曲など。)
劇中に登場するジョンのプロデュースによるハリー・ニルソンのアルバムは『プシー・キャッツ』(Pussy Cats)であり、レコーディング終了後にはニルソンも引き続きその延長線のようなジョンのアルバム『心の壁、愛の橋』のレコーディング・セッションにも参加し、両作はメンバーも殆どが同じことから、まるで姉妹編のようなサウンドになっている感じを受ける。
更に、翌'75年のキース・ムーンが残した1枚だけのソロアルバム、『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン (Two Sides Of The Moon)』にも、ジョンやリンゴ、クラウス、マル・エヴァンス、ニルソン、デヴィッド・ボウイ、ジム・ケルトナーなどといったこの時の豪華メンバー殆どが関わっているという関連性もある。
ついでに蛇足ながら、この当時は「4チャンネル(ステレオ)」レコードというのが流行っており、この両作ともそのバージョンが存在していて、同期にポールの『バンド・オン・ザ・ラン(米国編集バージョン)』と『ヴィーナス・アンド・マース』のもありこちらはDTS-CD化されているが、『プシー・キャッツ』と『心の壁、愛の橋』は公式発売されておらず残念である。
これら通常版とは一味違い、没入感が素晴らしく、どの作品も凄く興味深いものがある。