国宝のレビュー・感想・評価
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原作にリスペクトはあるのだろうか
とても前評判が高くネットで調べたところ、そもそも小説が素晴らしいとのことで小説を読んだ
個人的にラストはそこまで好きではなかったものの、全編を通して素晴らしかった。
満を持して映画を見た。
何これ?
大作を3時間に収めるので、ある程度端折る事は仕方がない。
そこは腕の見せ所。
それなのに
とにかく不要なシーンを付け足す。
そして必要だと思われるシーンを端折る
父親を殺した人間が、芸の道に斡旋したことをなぜ変える?この存在が無いから話の芯が欠けてしまっている
春江との濡れ場からの結婚しようとの流れ必要?
春江のキクオの一番の贔屓になってペルシャ絨毯買うたる、って小説でのトクジのセリフを春江に変更して、それ言った春江が俊ぼんと結婚したらお贔屓になんかなれないじゃん
キクオが歌舞伎に熱中しすぎて春江を相手しなかったからこそ、裏でシュン坊とできてしまったんだろうに、映画だと春江がただ悪い女に見える。
女将さんの幸子は、初見では親にはなれんし、いつまでも置いとけんみたいな話はするも、どうせ仲良くなるから、今日明日で喧嘩終わらせとき、みたいな粋な言葉をかけたりする
映画以上に人情味のある女将さん
あきことの濡れ場も必要?
親父に殴る蹴るされたら、何をしたか十分伝わる。
子供がお父ちゃんって、追っかけるシーンも要らない
キクオが悪魔に何も要らんから歌舞伎を上手くして欲しいってお願いしたと子供に伝えるシーン
子役の表情がとても良かった。それだけで十分伝わるのに、なぜわざわざ追っかけさせた?
俊ぼんが、何を頑張って復活したか、キクオが何をどうやって復活したか
端折りすぎてて二人の努力が全く伝わらない。
代役の曾根崎心中、ラストの2人での曾根崎心中は、本当に見応えがあり、歌舞伎を知らない人間だけれども、歌舞伎の映像には感動した
それだけに、とにかくストーリー全般が原作から端折りすぎてて、とっても薄く感じた
もっと原作に深い愛情があれば、もっと良い映画になったであろう、
誰か原作を深く愛する監督さんに、上、下の2作で完全版として取り直して欲しい
凄い
よく3時間でまとめたと思う
嫡出子と非嫡出子のつらさはあるが、この2人は同じ方向で描かれていた気がする
養子になってお披露目になった愛之助さんは大変だったろうと思う
田中泯氏の手つきに震えた
出会えて良かった映画。美の衝撃がすごい
とにかく美しい…。
少年時代、父親が殺されるシーンがあまりに美しく恐ろしく描かれていたのが衝撃で、それがラストに繋がっていく様に、美の価値観を揺さぶられました。
芸に生きる人の生き様は、こんなにも孤独なのか。その果てしない孤独の中に、ずっとずっと求めていたものがある。こんなに美しいラストシーンは、他のどの映画にもないでしょう。そんなシーンにふさわしい、美しい歌が聴こえた時は、魂の震えというものを感じました。
役者さんについて。
少年時代役の黒川さん。あどけない顔からの、あの色気は凄まじかったです。静かに燃える炎が、確かに見えました。将来が恐ろしい役者さんですね。
吉沢亮さんも、もはや喜久雄としてしか見れなくなってしまいました。それほど、喜久雄は生きていました。
印象に残ったシーン。
多すぎて上げきれないですが…
・黒川さんの舞台のシーン。会場の空気を完全に掌握していました。圧巻でした
・曽根崎心中の練習(病室で)のシーン。「演じる」ということがこんなに人を感動させるものであることを、初めて知らされた気がしました。
・曽根崎心中の舞台に立つ前、震えてメイクができない喜久雄と俊ぼんのシーン。血と、才能。それは決して二元論ではなく、交わり、支え合っていけるものなのだと信じさせるのに足るやりとりでした
・白虎襲名の際に白虎が倒れたのを見て、動けなくなった喜久雄と、それを刺す万菊の目。全てを見透かす彼の目がとても怖かった
・屋上で喜久雄が踊るシーン。取り憑かれていましたね、喜久雄も観客も。
・俊ぼんと喜久雄の曽根崎心中。映画であることを忘れ、私は歌舞伎の舞台に入り込みました。歌舞伎の舞台?いや、曽根崎心中の世界に入り込んだ。ドキドキして、美しくて、涙をこらえるのに必死でした
・そしてもちろんラストシーン。喜久雄が見つめていたものは何だったのでしょう。芸の神様?父親?半ニ郎?俊ぼん?いずれにしても、生死を超越した何かであり、美しいものであったのでしょう。
芸を極めるということ
3時間飽きさせないテンポ感でもっと描いて欲しい部分もあるくらいで、切り詰めて切り詰めての3時間なんだと思う。歌舞伎の世界に復帰できた理由に関わる部分や人気絶頂の演目も見てみたかった
人間国宝の芸を見たことがあるわけでもないので何とも言えないが、芸に魂を売ることの意味。あらゆることが芸の肥やしになると言われる世界で、血筋の理不尽さに葛藤することや、芸のために他者を利用すること、婚外子を作ること、義兄弟の将来を奪ってしまうこと、仲直りをすること、義母の心無い言葉、義父の執着、自分の才能に溺れること、挫折、あらゆる経験が芸に反映されて、老人といわれる年齢の男性が若い娘を演じる際にこれまでの自身の経験や自分が傷つけた女性のことを思い出すように演じることで細部に神が宿る。そうゆう歌舞伎の世界があることを描いた作品なんだと思った。だからこそ国宝になれたのは全ての人をおかげなんだと本気で思っている、婚外子のことも最初からわかっていたけど芸のために必要な過去であった。ここで謝ったりするのは自分の芸の到達を否定することになるので、謝ったりはしないけど人のおかげで到達できたことを理解しているし感謝している。そうゆうことと解釈した。
別世界すぎて共感とかはできないけど、綺麗事じゃない世界の美しさ、儚さを感じて納得させられた。
病室での曽根崎心中の練習シーンと結婚式場の屋上のシーンが個人的にはベストアクトだった。
オールドメディアのゴリ押し映画
大手事務所ありきの映画かな?電通など利権関係も絡んでるんでしょう、テレビでかなりの量の広告をうっていますねそういった意味では広告宣伝費にかなり巨額なお金をかけているのでしょう、たいしたことない映画です。F1か鬼滅の刃を見ることをお勧めします。
これほど美しい映像表現にはなかなか出会えない
陰湿な物語だった。
主人公が性格悪い。
結局のところ主人公は周囲の人間にした仕打ちについて全く反省していない。人に対する責任感がなく、人との関わりを全て自己陶酔に繋げてしまうナルシスト。
物語はそんな主人公を落ちぶれさせることによって「表面上」非難しているだけ。ラストの娘との再会のシーンは、娘を主人公を飾り立てるだけの舞台装置としか扱っていないことがわかる。
結局のところ犠牲者は主人公の人生の飾りだったと伝えたいのかと解釈してしまった。
原作ではもう少し血の通った物語であると聞いたため、ここまで陰湿に仕上がったのは脚本と監督の手腕のせいだろうと思う。
映像は終始美しかったが、ちょうど飽きてきたところで瓶を叩き割ったり、殴り合いのシーンが始まるのが嫌だった。
こちらが無理やり叩き起こされている気分になって精神的に疲れた。
映像は素晴らしいが、削り過ぎて伝わらない
舞台での映像美は素晴らしい。本物の歌舞伎は見たことがないが、一度本物を見てみたいと思わせる迫力があった。ただ、舞台のシーンに多くの時間を割いた結果、間のさまざまな人間ドラマがあまりにカットされ過ぎていて残念。たくさんの人と関わり、どん底から立ち直る俊介や喜久雄の姿が素晴らしいのに、正直、小説を読んでいなかったら、それが半分も伝わらない気がした。小説も上下巻だったのだから、映画も2部作にしてもっと小説に忠実にして欲しかった。
美しいけど、結構心が痛くなる作品
鬼滅の刃無現城編に次ぐヒットを飛ばしている大長編映画、身内が「映像が綺麗な作品」と評していたことから早速見に行きました。
感想としては歌舞伎のシーンが美しかった。演じているときの表情や目線が男性なのに妙な色気を感じさせらる場面があり、非常に映画映えするシーンが多かった。実際の歌舞伎の舞台とは違う、映画ならではの歌舞伎の魅力が見事に描かれていた感じだった。けれど、ドラマパートではかなり心が痛くなる場面が多く辛い作品だった。主人公がヤクザ出身ということもあり、日本の古来より続く伝統芸能である歌舞伎の世界のルールに対する葛藤や挫折が生々しく突き刺さる場面もまた多く、それもまたこの作品の魅力なのだと感じさせられた。結末としては主人公は最終的には日本一の歌舞伎役者となって国宝に認定されるのだが、それ以上に失ったものが多く、最後に舞台に向かって進み、最高の晴れ舞台で舞う姿は神聖であると同時に孤独な姿で胸に締め付けられるような感じだった。
見て後悔無く感動させられるものだったけど、リピートしたいとは思えない。良い意味で痛々しい作品だったから。
等価交換
何かを得るには代わりに何かを差し出さなきゃならない
一般人には分からない芸事の世界の裏側を垣間見る様なお話でした
良くも悪くもそういう世界で我々はその断片しか見ていないのかもしれない
そこにリアル感を加える役者陣の鬼気迫る演技を固唾を呑んで見守ったあっという間の3時間でした
主人公の半生を辿る映画なので、登場人物が歳をとるのだけど、しっかり歳相応に見せるメイクも凄かったです。
1つ気になったのは、森七菜さんの役が、パッと出てきてパッと居なくなってしまった所、本人の演技は素晴らかっただけにもう少し背景を描いてあげて欲しかった。
喜久雄の人生を疑似体験
歌舞伎の世界は世襲だと、寺島しのぶさんが言っていた。ではなぜ、二人の師匠である花井半二郎は、実子の俊介ではなく喜久雄を自分の代役に決めたのだろうか?私生活が派手だった俊介の奮起を促すためだったのだろうか。結果的に俊介は現実を受け止める事が出来ず、8年以上も喜久雄の彼女だった春江と逃避行してしまったので、間違った選択だったと思う。半二郎が襲名の舞台で吐血し、俊坊と叫んだとき、喜久雄は絶望したんだろう。誰も信じられないし、芸の道に邁進するしか無かったんだろう。晩年、人間国宝になった喜久雄は幸せなのだろうか?あのカメラマンの娘さんと交流しても、もう悪魔は見逃してくれると思うが。
生きる覚悟が物語を熱くさせる「国宝」
映画「国宝」がこれほどまでに惹きつけられるポイントに関して自分なりに考察をしてみた。
要約すると以下となるだろう。
1. 脚本(構成)・セリフ
2. 俳優の演技
3. 映像美/音楽
どれも素晴らしかったが、1に関して深掘りしてみる。
まず、主人公である吉沢亮演じる喜久雄の運命を決定づける事件として、父親を目の前で殺害される事件が起きる。
そして復讐を試みるが失敗して、身寄りのない喜久雄は歌舞伎の世界に入っていく。
そこから彼の復讐は父を殺した男を殺害する代わりに、銃よりもナイフよりも強力な「芝居」を極めることで復讐を果たすことを目指していく。
映画の後半で喜久雄が「ある景色を求めている」といったセリフがあるが、映画のところどころに登場する雪が降り頻るシーンはまさに父が殺された時の光景であり、彼の復讐が始まった原点である。
復讐を完遂させるため、彼は「復讐の悪魔(鬼)=芝居の鬼神」となって日本一を目指すことになる。
この「父を殺される」シーンが彼の運命を決定づける訳だが、単に歌舞伎に入るきっかけのようにも見られてしまい、
彼の演技に対する動機というのが少し分かりずらいというのはあったかもしれないが結果的に分かりづらさ故に何度も見る方が多くいたとも言えるのではないか。
分かりずらいシーンで言うと、一生添い遂げると言っていた幼馴染が、横浜流星演じる俊介の元に行ってしまったのも、
のちに子を授かる芸妓と関係を持つことにより、個人的には理解できた部分があった。
喜久雄の幼馴染は、喜久雄のことを誰よりも理解しており、芝居の鬼神となり「自分だけの男」ではなくなってしまったことを理解していた。
「永久に自分の男」にならないと理解してるからこそ、彼を諦め俊介の元に行ったのではないだろうか。
喜久雄が3代目を就任した際に、元芸妓との子供が「お父さん」という呼びかけに応じなかったのも彼はもう「父=人」ではなく「芝居の鬼」となったからだろう。
最終的に芝居の世界で国宝となり、彼の復讐=見たかった世界を成し遂げることになる。
個人的には、この復讐という脚本のエンジンがこの物語を深くそして狂気の世界を創造していく訳ではあるが、
彼がなぜそこまでこの復讐にこだわったのか、また復讐の先に彼は何を感じたのかというのはもう少し見たかった/理解したかったと感じてしまった。
イプセンが「人形の家」を作って以降、物語に「生き方」を求めてしまうようになってしまった観客である我々に、
喜久雄が問いたかった生き方というのはどのようなものだったのだろうか。それは見たものの「覚悟」によって景色は違ってくるだろう。
面白いけど今年一番だとかは思わない。
めちゃ気合いの入ったいい作品だと思いますが、少なくとも100年に一度の名作とか、そんなレベルではないですね。
世間の異常な盛り上がりようが逆に冷めます。
吉沢亮の演技は確かに鬼気迫るものがあって素晴らしいんだけど。
なんかところどころぼやけるんだよね。
主人公が中盤舞台を追われるところ、世襲制であるが故に冷遇されたのが間接的な原因だと思うけど、そのこと自体には主人公は全然憤ってる感じがない。
さらっと受け入れてしまってるというか。
これは作り手の中にもそういう感覚が全然ないんですよね、きっと。
自分はもっと怒って、抗ってほしいと思う。
現実とか、社会とか、何かしら歪んでいるものに自分の道を阻まれたとき、それを飲み込んで進まなければならないんだとしても、ただ受け入れるんでなくて、少なくとも心の中ではノーと言っていてほしい。
終盤で突然娘が出てきて、あなたは立派になられたみたいなこと言うんだけど、あそこもそう。
そんなわかったようなこと言うなと言って欲しかった。
わかりやすいやり方でなくてもいいけどとにかく否定して欲しかった。
・・・もしかして、あれは娘の言ってることが正解ってことなのか?
この映画の結論としても、なんだかんだあったけど、こうして人間国宝になって、立派になられました、良かった、なのか?
まさかね。
でもあの娘のセリフは、この映画としては肯定的な意味合いですよね。
その辺もどうも違和感がある。
様々な現実を飲み込んで、それでも芸を、その中にある美しさを追い求めた。
それはいい。
そういう話なんだから。
ただなんかそこに、なんというか、飲み込むことのネガティブさが足りない気がする。
なんか悪魔に魂売ったみたいなこと言ってたしなー。
日本の伝統芸能の話で、神社にお参りしてる場面なんだから、そこは悪魔じゃなくて鬼とかそういうのなんじゃない?
なんかいまいち、ピントが合ってないんだよなあ。
ピントがそこだけ完全にあってたのは田中泯さんですね。
この映画のテーマとして描くべきものを、一人で体現しまっていたように思います。
映画館で見てよかったー!
2人が主人公かと思って鑑賞したけど、吉沢亮が美しくて凄かった。彼が主人公だったのね…
展開が早く飽きさせないので、3時間見入ってしまった。かなり外国の興行を意識した映画なんだと思う。最初のヤクザとか。歌舞伎の世界は日本人でも分からないことが多いと思うけど、ストーリー自体は分かりやすい。どうしても「さらば、わが愛/覇王別姫」が頭に浮かんでしまいます。
プレッシャーと緊張で震えてる吉沢亮に、横浜流星がメイクしてあげるシーンと、壊死したつま先に頬擦りするシーンで涙が出ちゃった…
あと2人が殴り合うのを、車の中で見てるアキコのシーンとか、なんか胸にきた。希望と喜びもあるけど、悲しくて絶望も感じてるやつ。無音の車の中から、見てるだけしかできないという…
鬼気迫るシーンを音楽とカットで魅せる映画、久々に映画館で見てよかったと思った。心が動かされました。よかった!
心中と芸の道を結びつけた、見事な成長劇
この映画で1番重要なシーンは、冒頭で喜久雄(吉沢亮)の父親が死ぬシーンだと思った。
『国宝』は、「見る人」と「見られる人」が交互に出てきて、物語を展開する構図になっている。もう少し細かく言うと、「見ている人」が変わっていくことで、ストーリーをドライブしている。
冒頭、ヤクザの新年会から始まるシーン。喜久雄は、渡辺謙が演じる半次郎に演技を見せた後に、父の死にざまを「見る人」となる。
その際に、父親から「よぉく、見ておけよ」という呪いの言葉を受けることになる。これが、映画の核でありラストシーンにも繋がってくる。
その後、数年の時を経て、喜久雄は芸の道を歩むことになる。そこから、喜久雄は「見られる人」となり、様々な登場人物に視線を送られることになった。
半次郎、歌舞伎の興行を手掛ける三友の社長、観客と喜久雄を見ている人たちが変わっていき、喜久雄が順調にステップアップしていくことを映画では描いていく。
一方、喜久雄は何を見ていたのか。それは、間違いなく「死」であると思われる。半次郎の事故の後、「曾根崎心中」のお初を演じることになった喜久雄は、半次郎との稽古を通して「死」の矜持に近づいていく。
稽古の合間に、喜久雄は春江に会いに行くが、喜久雄は春江を全く見ない。視線が交わらせずに行なったプロポーズを春江が拒否したのは、映画の構図からも必然だった。喜久雄はあくまでも「見られる人」であり、この時に見ていたのは目の前にいる春江ではなく、お初の心情「死」だった。
喜久雄は、ここから終始どこを見ているのか分からない視線を繰り返す。それは、増村保造の映画『曽根崎心中』でのお初の目線を思い出させる。
芸の道を極めることと、心中をリンクさせて、骨太な芯をつくり演出仕切った手腕が見事だった。
光は見せたが、境地は描けず
映画『国宝』は、人間国宝という称号に至る芸道の苦しみと、その背後にある人間的な業を描き出す意欲作である。吉沢亮をはじめとする俳優陣の演技は迫真に満ち、舞台シーンには息を呑む迫力があった。
小さな注文をつけるならば、義母(寺島しのぶ)、義父(渡辺謙)、そして小野川万菊(田中泯)へとつながる人間関係が簡略化されていた点は惜しい。ただし、尺の都合上やむを得ない部分もあっただろう。
しかし看過できなかったのは、隠し子との対面という局面で娘が父に向かって発する「役者としての賛辞」である。あまりに安易で説明的であり、業を背負いながら舞台に立ち続ける人間国宝の姿を象徴的に描ききるはずのラストを、陳腐な和解と感動の演出へと引き寄せてしまった。
さらに言えば、業の深さを超えた先にある「国宝にしか辿り着けないはずの」澄み切った境地を、光一本の暗示にとどめるのではなく、確かな像として描き出してほしかった。
俳優陣の努力と舞台シーンの緊張感は確かなだけに、ラストの安易な謝辞と境地描写の不足が、作品全体の美しさに水を差した。業の深さそのものは見事に表現されていたが、それを超えて芸道に昇華する崇高さが、最後まで届かない。その不在こそが、本作を惜しくさせる最大の要因である。
何がこの映画を特異にしているか
2回目の鑑賞(前回は8月1日)。1回目は主人公の喜久雄に感情移入していたようで、最初の道成寺で泣き終えて、そのあとはやや感動の押し売りの感がしたが、今回はシュン目線でも観れたせいだなのか、後半も泣けた。
>>『国宝』は若いアイドル的な俳優が主演とあって、若い観客層を動員している
そういう地域もあるらしい。わたしが見た回は2回とも間違いなく50代以上がほとんどだった。(ブログの書き手にとっては50代は若いんだろ、との忠告も頂いた。確かに。)
嘘つきや裏切り者に罰があって観る側は満足するわけで、裏切りがあるとすれば万菊と春江になる。2人への罰を望むむきはまずないだろう。この作品の何が観客に満足を(満たされない現実生活の救いとなるものを)与えているか。そこを考えるときに、ワイドショーの観客インタビューにあるような映像の美しさとか役者の芸達者ぶりということを書くつもりはない。
自分が役を獲るために、息子に役を与える為に、権謀術数をめぐらしライバルを蹴落とすことがない。登場人物にさまざまな障害が降りかかるが、陥穽にはまるわけではない。おかみさんは菊ちゃんをキタナイと言うが息子に対してもキタナイと言う。
この映画は、嘘も策略も皆無ながら観客を飽きさせないという意味で、清廉潔白だと言えるだろう。「てな感じで言ったら(怒ったら)オモロいんやけどな」の台詞のとおりに、僻むにしてもありきたりな僻みはない。勧善懲悪を目指すドラマティックな展開と一線を画している物語の清浄さが多くの人を魅了して飽きさせないモトなのかもしれないと思った。
血と芸と犠牲と惚れと…
跡取りとすべきなのは血か芸か?
母性で考えると圧倒的に血一択。
父は死ぬ間際に息子の名前を連呼していたので、やはり本音では血が本命であるものの、糖尿病を患い敢えて、血を選ばなかったのか?
万菊も血が本命ではあるが、糖尿病の遺伝を見越して3代目を呼び戻したのか?
物事を極める時、周りの人は犠牲になっても仕方ないのか?
圧倒的に極める時、犠牲になった人さえ惚れてしまうのか?
極めたものにしか見えない景色がここにある。
原作が良すぎる分どうしても…
原作を読む前に一回鑑賞をし、原作を読んでから二回目の鑑賞をしたレビューになります。
どうしても、モヤモヤが消えないのが正直な所です。やっぱり徳次がいない、彰子がいなくなる、客席との境界が消える、喜久雄が俊介のような時期を過ごし、歌舞伎から離れているような描写がある、そこから復帰、足の切断までが早すぎる、喜久雄の辿り着いた先が違うなど、原作との相違点が多すぎてしまい、作品に没入出来ませんでした。
やっぱりNetflixなど、資金を投じてドラマで見たい、それか原作のように上下で分けて欲しかったです。徳次がいたから喜久雄はやっていけていましたし、彰子さんは喜久雄を支え続けていますし、何なら綾乃との関係も無くなっていません。原作のネタバレになるので控えますが、喜久雄はもっと歌舞伎に身を捧げて、ずっと躍り続けます。それが無くなってしまっているのが一番寂しかったです。
色々と書きましたが、それでも歌舞伎のシーンは素晴らしいです。徳次のセリフも、他のキャラが言っていたり、暖簾にも徳次の名前があったりということはありましたし、三時間で徳次は無理だったんだろうなとは思いました。
本当に演技なりセットなり音楽なりと、様々な熱量が素晴らしい分、脚本が気になってしまうというのが正直な今の感想です。
人生の縮図
1.運命と犠牲
人には変えることのできない運命があるが、抗うことはできる。
ただし、何かを得るには何かを犠牲にしなければならないこと。
喜久雄は家族を捨てる選択をするが、国宝という名誉を受け取ることができた。
その後、娘と再会。
娘は、父としては認めないが、歌舞伎役者としては認めた。
倫理的に家族を捨てることは間違っているが、喜久雄がとった選択は間違っていなかったとも言える。人生において、あなたは何を選びとりますか?と問われているようだった。
2.友情
喜久雄と俊介は意気投合するも、互いに嫉妬をする。
喜久雄→俊介の血筋、家族の存在
俊介→喜久雄の演技の才能
途中は蹴落とすようなシーンもあったが、最後にまた同じ舞台に立つことができた。
互いに憎むこともありながら、リスペクト故と感じた。
3.圧倒的演技力
吉沢亮と横浜流星の作り込みに驚嘆。
どれだけ練習したんだろうかと思うほどの圧倒的演技力だった。
もう一度観たいと思える良作。
全540件中、121~140件目を表示
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