国宝のレビュー・感想・評価
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よかったが、好きな部類ではない。
カンヌのニュースを見たときから気になっていたので沢山人がいたがなんとか公開初日に見に行った。見終わった後味としての個人的な感想はタイトル通り。ストーリーはあまりささらなかった。
しかし何が凄いって、退屈なく観ることができたこと。面白くなかったわけではなく、好きなストーリーではないという感想なので、演出、場面展開、役者の演技はかなりよかったことが、3以上の評価に繋がった。フラガールの監督さん、ドラマ最愛の脚本家さんなのでさすがと思った。
ストーリーが好きな部類じゃないのは、
主人公に感情移入できないところ。周りには共感できて泣いた。
狂っていて時遅しとはいえ、家族や大事な存在をを捨ててまで何かに没頭したことはないし、その点において共感できるところがない。ささらない。
最初は自分で選んだ環境ではなかったかもしれない。まあ才能はあったからね。あり過ぎたのだろうね。
でも、選択はできたはずで、主人公はある意味恵まれていた。
そんな中、狂ったのも狂わせたのも自分だから、自分の世界でもがく様子を見せられても、周りが可哀想にしか思えなかった。
まあ仕方のない選択と捉えてもいいんだし、この狂い方やこの表現こそが映画の言いたいところなのだろうな。芸事を極めた結末。選んで捧げることの生き方の表現、人生。愛。継承。すごく考えさせられる。ストーリーがささらなかったが、演出その他もろもろの構成が素晴らしかったので3.5。
一つレビューで気になるのが、説明があまりないとかいう感想。考えてよって思う。考えることをやめた人の感想なんだよな。
言葉の少ない映画なんて山ほどあるよ。国宝はまだわかりやすかった方。
前評判どおり、よかった
すごいらしいと聞き、ロングランになってなお大きな劇場で上映しているのを観に行った。席は平日昼に関わらずかなり埋まっていた。
3時間近い大作、どう終わるのか?どこで終わるかと思ったら、まさにタイトル通り国宝になって、見たかった景色を見たところで終わった。
「ああ、綺麗やな」
こちらから見るとそんなに綺麗な景色に見えなかったがそんなものということだろうか。
終わり方も、ここから老いていくようす、後継者、死後などは蛇足であり、この映画としてはこれでいいのだろう。
1人の人間の生涯を追う、兄弟のような相棒と切磋琢磨する、順風満帆でなく芸から離れる時期、彼女を寝取られる、芸の世界とヤクザのつながり、時代背景全体に昭和元禄落語心中を思わせる作品だった。
芸事の道には、何やら狂気が潜んでいるようである。
それに歌舞伎界の血筋というテーマを足した感じか。
生まれというのは自分ではどうしようもないもの、なのに残酷に、大事な舞台に立つ前に、血のつながりを意識させられる。
逃げた坊の分まで、芸を磨き襲名も勤めたというのに、お師匠は今際の際に坊の名を呼ぶ。
襲名しても冷遇されたのは、血筋でないからか、週刊誌のすっぱ抜きの影響だったのか。そもそも、週刊誌がすっぱ抜くのも、後ろ盾がなくて握り潰せないというのもあったのかもしれない。
映画では何か端折られたのかもしれないが、人間国宝から声がかかって歌舞伎の世界に戻れたのはどういうわけだったんだろう。
世間を騒がせて数年経ってほとぼりが覚めたから?
そして血のつながりがあるからこそ、坊も糖尿病になる。足壊疽で入院してるのにバナナをたべているところ、まさに糖尿病患者だった…。
春江はどうして喜久雄でなく俊を選んだんだろう。喜久雄が見ているのは芸事を極めることで、自分は必要とされてないと感じたのかな。求婚されたのに、「1番の客になる」って答えるってそういうこと?しかし長い付き合いで、よりによって兄弟分の俊の妻になったのに、俊も死んでしまって、その後も長い時間一緒に過ごすというのが数奇な運命、というか、単純に気まずくないのかなぁ。さすが、こういう世界、狭くていろいろありそうではあるよね。
悪魔との契約の末路なのか、喜久雄の子は歌舞伎役者になれない娘だが、俊の子は息子。その息子に稽古をつける。どういう思いなのか。そこは掘り下げられなかったけど、ほんとドロドロだよね。
結局、人生幸せかどうかなんて、自分が決めることだ。周りは勝手に評価してやいのやいの言うのだ。
喜久雄は、血筋がないために苦労した。それも俊と兄弟のように育てられているからこそ、時折見せつけられる差が苦しい。芸をどんなに磨いても襲名しても、世間から「取り入って盗んだ」と見られる。仕事もない。
そして悪魔との契約のせいなのか、結婚したかった彼女は兄弟ともいえる親友に取られるし、子どもとも一緒には過ごせない。まあこれは、本人も家庭を大切にする気はなさそうだったけど。
さらには親友も亡くし、あるのは芸だけ。
それを、終幕のインタビューでは「これまでまさに順風満帆でしたが」などと言われる。全く、世間というのは勝手なものだ。
また、突然娘が現れて、「あなたのことを父親だなんて思ったことはない」だの「いろんな人の人生を犠牲にして」だのと恨み節を言われる。神の視点で物語を見ている私たちからすれば、芸妓との付き合いは互いに同意のようで喜久雄はそんなにひどいことをしているようには見えなかったが、娘の立場からしたらそれは大変だっただろう。まあ2号の立場は本来充分な経済的支援があってこそなのに、それがなかったのは大きいか。その上で放浪されてしまって会えなくもなったら娘が恨むのは仕方ない。
しかし血筋でないからこそ、糖尿病は患わずに長生きできて、国宝になれたのだ。まあ、血筋でないものが国宝になれるというのが、そこはお話だからで現実ではないのかもしれないが。
でもそうだなぁ、歌舞伎なら定年もなく最期までできるし、ましてや人間国宝になったらもう仕事がなくなることはないし、生涯現役で歌舞伎ができるというのは、この手の人にとっては最高の人生かもしれない。最高、は言いすぎか。プライベートで手に入らなかったものは大きかったけど、一番ほしかったものは手に入れた。あれもこれもで頂点に立つのは無理だということよね。中途半端では極められない。
2人して人間国宝になりたかったのかはわからないが、俊はといえば、あれもこれも欲しがりだ。少し売れれば派手に遊び、もちろん大きなことではあったけど、父の代役を一度取られただけで、そこから奮起するのではなく、親友の女を奪って逃げる。父が死ぬまで顔を出さなかったくせに、死んだ途端に陽キャなままで帰ってきて、喜久雄のこれからというところの仕事を奪っていく。この、どのツラ下げて?っていうところのハートの強さは、ボンボン育ちって感じだよね。その仕事が入ってくるのも血筋もあるのかな。それは、俊は意識できてないだろうけど。それとも、パッとやってきて自分より芸に通じ、父から認められた喜久雄に対する仕返しなのだろうか。父の借金は一体どうしたのか。
喜久雄はそういう恨み言は言わないけれど、どっちかっていうと俊の方が酷いことしてるように見える。才は天賦が与えるもの、喜久雄は真面目に芸を磨いただけなのに、嫉妬しただけじゃねぇか。
帰ってきたところで、2人で力を合わせてってわけには行かなかったんだろうか。それだと俊が見劣りしちゃうから、あのおかみさんあたりが認めなかったのかな。おかみさんは息子可愛さはあるにしても、旦那の作った借金を返してくれていた喜久雄に対してあまりにも冷たいんだよなぁ。取り立ててやったんだからそのくらい当たり前だとか都合のいい解釈をしているんだろうか。怖いなぁ、一緒に育てていても情はうつらなかったんだなぁ。それか喜久雄が仕事ほしさに下手こいたのがそんなに良くないことだったのか。もしかしてそういうことなのか、あのお嬢さんと別れて、お父さんが許したことも歌舞伎界に戻れた一因だったのか。
話はそれたが、俊は妻も得て息子も生まれたが、病に倒れる。でも義足で舞台に立つ、前向きな人間だ。それこそ血に守られているのかも。血に守られていると意識しなくても、深層心理で思っているような、ボンボンならではの自己肯定感の強さがある。息子にも怪我したらどうするといいながらバスケットボールをやらせてあげているし、ほんとに悪いやつじゃないんだ。
それに、放浪から帰ってきてからは俊は自分の才を受け入れたように思う。「それがあって今がある」と言っていたし。最期は国宝にこそなれなかったが自分の納得する曽根崎心中を演じられた。ただ命は長くなかった。もしかしたら、国宝になれなかったことより、舞台に立つ時間が短かったことの方が悔やまれたのではないだろうか。子どもの行く末を見守れないことも。いや、そんな感想は凡庸がすぎるかもしれない。子どもの行く末を気にする人間か?でも家族というものに対しては喜久雄とは対比的に描かれているし、その辺りは俊はそう言った愛情を持ち合わせていそうではある。
そんな俊との別れの時間。
お初役の俊の足を手に取り頬ずりするシーン。
本当にいろいろあったけど、この2人は他の人にはわからない強い絆で結ばれている。
彼女を寝取られても、仕事をとられてもなお、喜久雄はこの性根の明るいボンボンを嫌いになれなかったし、どこか憧れもあったんだろうし、一緒に過ごした時間は宝物だったことが伝わってきた。
喜久雄と俊は対照的だ。そういう意味でも、やはり人間国宝になるような、何か1つ突き出た才能というのは、多くの一般人とは違うし、孤独なんだなと思う。
でもそれが良いとか悪いとか、幸せか不幸かなんて、外からみてる人間は何も言える筋合いはないのである。
喜久雄が歌舞伎界に呼び戻されたとき、質素な古アパートで当時の人間国宝が1人寝ている。
坊が親から受け継いだ立派な家で、素敵な調度品に囲まれて暮らすのと対照的である。
そういうことなんだな。
あくまで舞台上で綺麗な景色を見るために。
それだけが目標で生きていく。
それ以外は望まない。
そういうものなんだろう。
そこまで突き詰めるからこそ国宝なんだろう。
いい映画だった。
評判の高かった吉沢亮のみならず、横浜流星も良かったよ。
印象を選ぶにしても、当てはまる言葉がなくて。
なかなかにドロドロな、人間の業の詰まった展開ではあるんだけど、全部昇華されて、言うなれば「美しいものをみた」という感じ。
見るのに3時間かかるけど、全然無駄じゃなかったよ。
一人の人間が「何か」になるという話。
話が長い分いろいろな読み取り方があるかと思うが、私は青年が成長するとか歌舞伎役者が大成する、というより一人の人間が人間ではない別の何かになる話のように感じた。
親との死別、血というしがらみや世間からの風評、役者たちや女達、没落もして半身とも言える親友との死別、最後に実の娘との対面。いろんなものを得てその全てを失って何かになった。
特に、歌舞伎役者という血縁と世襲制の世界で、稽古を重ねて役者として成長し、救ってくれた親のために(背中に背負ったミミズクのように恩を忘れず)やって来たことが、死に際の親のたった一言で全て粉砕されるシーンはすさまじいものがあった。
おそらく、対比であり半身である親友は主人公と同じ「何か」になった。けれど、家族や病もあってそれを得るのに自らの命を差し出さなければならなかった。
田中泯演じる老歌舞伎役者は全てをわかったいたのか、とにかくあの存在感は凄まじい。
「ああは生きられねえよな」という台詞もあったが、観客にとってはこの台詞が全てだと思う。客はこの台詞に対して共感するか否定するか無視するか理解できないか、でこの映画の印象は変わる気がする。
ひたすら芸に生きる
圧倒的なスケールで歌舞伎に潰される。圧倒的な映像美。芸の果てしない追求。国宝になるために悪魔さえも味方につけて芸に精進する。
まったく前知識なかったが、最後の芸を極めた瞬間はだれをも圧倒するだろう。
観るか観ないか悩むなら観る
李 相日監督ならではのリアルで過酷な世界観。
伝統芸能にまったく詳しくない自分でも観ていて感動できる舞台シーン演出。
吉沢亮の振り切れた芝居も全編良かった。
キャスト陣も永瀬正敏さん、渡辺謙さん、寺島しのぶさんと大好きな俳優陣が出演していてとても見応えがあった。中でも田中 泯さん演じる歌舞伎界の重鎮でもある人間国宝役が本当にいそう、インパクトあり過ぎのクセ強感で圧巻でした笑
ラスト、吉沢亮が晩年の役でも演じるのですが、話し方も体型も動きも若々しい、見た目だけメイクで歳を重ねたように見せているのですが、魔性に取り憑かれた人間は歳を取らず若く見えるようにわざとなのかな…とか考えました。
3時間が苦にならない良い作品だけど…
とても評判がいいので見に行きました。なるほど、3時間という長さが気にならず、最後は終わるのが寂しく感じるほどでした。
ただ、採点を5点にしなかったのは、2つほど気になったところがありまして。(以下ネタバレです)
まず、最後のほうで、年をとった主役の立花喜久雄(吉沢亮)を撮影するカメラマンの女性が、実は立花と愛人の間に生まれた子だったということで、その女性は立花に向かって、あなたを父と思ったことはない、と批判しながら、あとに、立花の舞台には拍手を送ったという趣旨のことを言うシーンがあります。ここが、私にはきれいすぎる作り物感を感じました。この作品は映像もストーリーもとてもリアルに展開してきたところが良かったので、ここは見ながら違和感を感じました。
もうひとつは、これも最後のほうで立花が人間国宝になるのですが(先の写真撮影がそれ絡みだったかも?)、これには唐突感がありました。立花はいろんな、中には悲惨な回り道をしながらも歌舞伎の世界で生きてきたのは感動的なのですが、決して役者としての王道を歩んだわけではないと思える彼の評価は分かれるのではないかと感じていました。それが、人間国宝になった経緯や過程が語られないままだったのは残念な気がしました。「国宝」というのは作品の題名でもあるのでなおさら…。
という感想を家族に話したら、そんなのあまのじゃくじゃんと一蹴されました。まあそうかもしれませんが、原作はどうだったのか?機会があれば読んでみたいと思います。
ともかく、3時間楽しめる素晴らしい作品であることは間違いありません。最後ですが、吉沢亮のすごさを感じました。
すごいものを見た
役者さんたちは一体どれだけの努力をしてこの作品をを作り上げたのだろうか。
伝統芸能のような型のあるものはただでさえ難しいと思う。それを未経験者が、感情を込めながら、こんなにも美しく見せるなんて。歌舞伎のシーンはもうそれだけで見る価値があるような美しさで、うっとりと見入ってしまった。まるで歌舞伎の舞台を観に来ているのかのように、自分が映像と一体化するような錯覚を覚える瞬間もあった。演技も良かった。特に喜久雄、俊介は本当に彼らが彼らとして生きているような感じがした。吉沢亮さん、横浜流星さん本当にすごい。格好いいだけじゃない本物の役者さんだった。魂のこもった演技だった。少年時代を演じた黒川想矢くんもとても良かった。
ストーリーは色んな感情が湧き起こり書き起こすのが難しいけれど、とにかく最初から引き込まれあっという間に時間が過ぎた。特に前半、喜久雄が代役に選ばれ曽根崎心中を演じたことで俊介が去るまでの流れは良かった。
名シーンはたくさんあったけど、プレッシャーで手が震えて化粧が出来ない喜久雄に俊介が化粧をしてあげるシーンが印象に残った。自分には守ってくれる血がないという喜久雄に、芸があるやないかと励ます俊介。俊介も相当複雑な気持ちでいただろうにあれを言ってあげられる2人の関係がすごく良かった。結局俊介はその舞台を見ていられなくて離れることになるけれど、その後のすべてのことを含めて彼らの関係は最後までとても愛おしく感じられた。それぞれの気持ちに感情移入出来て、幸せを願わずにはいられなかった。
三浦貴大さん演じる竹野も好きだった。あの役どころはこの映画に必要だったと思う。芸の世界の人ではなく普通の人であることがより2人を引き立てたと思う。時に現実に引き戻し、時に舞台に引き戻し、良いスパイスとなっていた。始めは嫌な奴だったのに喜久雄を認めて親しげになっていく様子もほっこりした。
喜久雄を取り巻く女性たちもそれぞれ良かった。春江が俊介とくっついたのは、喜久雄は結婚して家庭を顧みるような男じゃないことがわかってたのかも。喜久雄が何を犠牲にしても上を目指す根っからの役者であることを感じ取っていて、自分は必要じゃないと思ったのかなと解釈した。俊介への同情と、喜久雄へのコンプレックスの共感で、ついていくことを選んだのかなと。結果的に良い家の妻の座に落ち着いて、こう言っては悪いけどうまくやったのかも。
藤駒も喜久雄を見初めて娘を産んだけど、喜久雄が自分のものになるとは思っていなかったと思う。大人になった娘があとから出てきたのにはびっくりしたけど良い展開だった。悪魔と取引して日本一の役者になったね。
彰子は利用されたようなかたちで喜久雄と一緒になり、その後も苦労をして幸せそうに見えなかったのが残念だった。喜久雄暗黒期だったので仕方ないけれど、彰子はどうなったのだろう。
田中泯さん、良い意味でゾッとするようなオーラがあった。
本当にすごいものを見た。思い出す度、感動が蘇る。
日本の映画史に残る傑作になったんじゃないだろうか。
映画館で見られて本当に良かった。
パパだけちょっと…
いやぁすごかった。いい映画でした。
何回も泣きそうになった。(と言うか泣いた)
3時間近くの長い映画だけど一瞬たりとも気を抜かず観れました。
こっから大いにネタバレ
吉沢くんと横浜くんすごかったです。
そしてディスる訳でなく、やっぱり本職の歌舞伎役者すげぇ、が映画を観終わった後の感想でした。
そりゃそうだ、年輪を重ねてこそ滲んでくる凄みや色気を1年2年で出せるわけがない。それでも本当に美しかったしすごかった。そしてカメラワークで上手く撮っていたと思う。
歌舞伎という芸事が主題の映画、として大いに面白かったです。
一つだけ個人的に難を言うなら、お父ちゃんの謙さんがミスキャストだったかな。もちろん大御所の役者みはあるし、素晴らしい俳優さんなんですけどね。
曽根崎心中のお初が持ち役のベテラン歌舞伎役者としては、男らしすぎるのよ、謙さん。笑笑
男らしくても、女形をこなされる役者さんて、どこかフィメールみを帯びた色気があるのよね。決してカマっぽい、というわけでなく。謙さんは対極。笑笑
「じゃどなただったら??」水谷豊さん、古田新太さん、市村正親さん辺りどうだろう。!!そうだ、我らがマスター、真田広之さん!!彼なら日本舞踊の名取だし、現役でアクションもこなしてるから身体能力的にもハマったんじゃないかなぁ。久々に髭剃ってさぁ。
なんて色々妄想しつつ。笑笑
まさか「国宝」て、人間国宝になるまでの道程とは。
吉沢くんと横浜くんの舞台すごかったけど、物語としては前後編で6時間くらいで、もっと人間模様じっくり描いても良かったかもね。前段の実家話すごい良かったのに、最後半が取ってつけたみたいになっちゃってたから。
とはいえ、朽ちていくけど役者目だけはギラギラしてる泯さんの怪演とか、すごい良かったけどね。
あと友人が「ちょっと!なんで春江、俊ちゃんについて行くのさ!!!」って憤ってたけど。笑笑
いや、あれは喜久雄の凄まじい舞台を目の当たりにして、俊ちゃんはおろか春江までもが立ち入る隙がない、って絶望して逃げ出したんだよ。喜久雄はそんな事望んでないのに。さらに師匠は「精進して尽くして、逃げ出した血(息子)より選んでくれたと思ったら結局息子かい!」っていう、とにかく何もかもが喜久雄にとって噛み合わずすれ違ってくとこが、それでも役者続けるところが、切なくて重いんじゃん!!!と説明しました。笑笑
確かに女人達との関わりの描かれ方は薄っぺらかったかな。でもそのおかげで、やることやってても結局は舞台以外はどうでもいい喜久雄、は強調されたかな。
舞台以外はどうでもいい、というより心底それしかできない、って。鬼畜のように利用しようとしたのは彰子ちゃんだけなんだよね。下手こいてしくじったけど。あとは流れるように受け入れて、ひたすら歌舞伎役者として生きた。
などなど、色々考えを巡らせることができる、良い映画でした。
面白かった。ただ、感動できない事情があった
歌舞伎のことは全くわからないですが、周りの評判がよかったので見にいきました。
◾️全体的な感想
・血を持っている者とそうでない者の物語として、とてもよくまとめられた作品だったと思います。
・極道の出自や、家族を失った過去を抱え、歌舞伎の世界に入った彼は俊介と絆を結ぶが、常に「血のつながり」の壁に阻まれる。途中、大役を得ても結局最後には選ばれず、愛も家族もつかみ損ねる。花江や彰子、藤駒らとの関わりも、途中で手放してしまう。
喜久雄は芸の道でしか存在を証明できず、その生き方が最後の綾乃との再会の言葉に凝縮されていた。
・役者の眼差し、一挙手一投足が緊張感を持って伝わってきた。見ている私も息が切れるような、苦しさや彼らのもがきを体験できる作り方で素晴らしかったように思う。
・歌舞伎のシーンも、(まったく歌舞伎を見たことのない自分から見ればだが)とても完成度が高く、映画とは別に歌舞伎としての面白さを感じられた。
◾️個人的な感想
・物語のテーマ、主人公の設定や、歌舞伎という世界の特殊さから、芸事に飲み込まれた人間の生涯として楽しく見ることができた。
・ただ、これは作品の性格上、必要な描写ではあるしむしろ現実的だなと思うところとして、「喜久雄最悪!」と思ってしまったことなのだが、喜久雄の女の子の扱い(特に藤駒、綾乃、彰子)にムカついてしまった。そのせいで喜久雄のことが好きになれないところがあり、物語に感動しきれないところがあった(とはいえ、物語の流れからしたら不自然な描写ではなかった。むしろそう思わせる構成や演技だったから、すごいなと思った)。
・とはいえ、喜久雄もかわいそうだなと思うことがあった。喜久雄も俊介も、互いに思うところはありながらも、互いを思い遣って接しようとする姿は素敵だった。同じくらいの熱量で芸事を語れるのが、喜久雄にとっては俊介くらいだったし、なにより同じ時間、同じことを同じ厳しさで味わってきた二人だから、深い絆ができたんだと思う。
・一方で、それ以外の絆を喜久雄は築けなかった。血のつながりというのは、この作品において非常に重要なテーマだが、喜久雄は「歌舞伎界に必要な血のつながり」だけでなく、「血を分けた自身の家族」も持っていなかった。仇を討とうとすら思えるほどの大きな愛情を失ってしまった喜久雄は、それゆえに誰かを愛することができなかったように思う。花江、藤駒、彰子という3人の女性との関わりの中で、三者三様の喜久雄との繋がりをもった。喜久雄を利用しようとした藤駒、喜久雄に利用された彰子。花江だけは、どう考えていたのかはわからない。背中の刺青だって喜久雄を思っていれたのだろうし、故郷からいなくなった喜久雄を探してわざわざやってきたし、喜久雄と深い関係にもなるし。喜久雄のことを一途に思っていた彼女は、しかし俊介と共に喜久雄から離れ、結婚した。そこに関する花江の心理描写はほとんどなかったので、想像するしかないのだが。だが、戻ってきた花江と俊介に対し、喜久雄が問い詰めることもなかった。絶望していたようにも見えなかったし、結局喜久雄にはもう芸事しかないのかもしれないとも思った。
・全編を通して、この人が何を考えているのかわからない、ということもあった。だが、喜久雄の物語として見ると、喜久雄の目を通して世界を見ているのだなと感じると、喜久雄自身にはわからなかったり、興味のないことだったのかもしれない。それでも歌舞伎に関することは鮮明に仔細に描かれていて、それをとても美しく見れたのだから、喜久雄には本当に芸を極める道しか残らなかったのかなと思った。
◾️総評
・主人公が様々なものをないがしろにしているせいで不快に感じる人もいるだろうし、いろんな人の感情がわからないせいでつまらなく感じる人もいるだろうなと思った映画。
・でも、うまく生きられない、生きようと思うことが難しい人の、唯一の優れた一面を極めようとした波瀾万丈な生き様は面白かった。
・こういう人を許す、許せないという心情的な聴者の葛藤はあり、それがその人の映画の評価につながるとは思う。でも、そう思わせる構成と演技だったように感じた。
彼の痛み
周囲の評判が高く、「映像が美しいから絶対映画館で観た方がいい」と勧められ、足を運びました。
演技力に対しての評価は★5です。
ただし、作品そのものに対しては、正直★1をつけようかと悩んだほどです。
物語の中盤、あまりのしんどさに途中退室を考えた瞬間もありました。
一番深く傷ついていたのは、喜久雄のはずなのに。
なぜか周囲の人々のほうが、彼以上に「傷ついた表情」を浮かべ、「怒り」を向けてくる。
誰も、彼の痛みに触れようとしない。
誰一人として、「どうしてそんな選択をしたのか」を見ようとしない。
傷つける側だったのではなく、ずっと“傷つき続けてきた人間”だったのに。
喜久雄が口にした「悪魔との契約」という言葉は、
彼の覚悟の言葉のように感じました。
悪人になりたかったわけじゃない。
狂人になりたかったわけでもない。
ただ、
純粋に歌舞伎を愛せる自分がいて、
どんな自分でも無条件に支えてくれる人がいて、
つらいことがあっても乗り越える度に笑い合える日常が欲しかっただけ。
でも現実は絶望の果てに立っていて、悪魔と契約するしかなかった。
結果だけを見れば、「映像が素晴らしい作品だった」「喜久雄が世界一になってよかった」と言う人も多いでしょう。
でも、この作品に刻まれていた
孤独と痛みの深さを、
一体どれだけの人が本当に感じ取っているのでしょうか。
面白かった
マンガで少し読んでいたがそれはイマイチでやめてしまったが、ヤクザの息子が何故か歌舞伎の世界に入りそこの息子と歌舞伎の世界で生きていくという何となくのストーリーは理解していた。
鑑賞の結果、これはホントに面白かった!1人の歌舞伎役者の人生を俯瞰で見させてもらった満足感はある。歌舞伎に成功するのに悪魔と契約したと娘に語ったシーンあったがまさにその通りの人生なんだろうな。
幼馴染の女の子、芸者の結婚した女性、その女性との間の女の子、先輩歌舞伎役者の娘、色んな人たちに迷惑かけて人生狂わせてまで生きてきた、最後は人間国宝までなった人生を体験させてもらった。
吉沢亮は顔立ちが綺麗なせいか歌舞伎の女がたには向いていたが、空手やってたせいか横浜流星は顔立ちがゴツゴツで少し違うかなーってのは感じた。
悪魔との契約?
芸に生きる対照的な2人の男性の物語りで、3時間があっという間に過ぎて飽きないストーリー展開です。体感60分位に感じる作品でした。
映像も衝撃的で糖尿病の怖さが脳裏に焼き付きました。映画を見終わったその時から甘いものを食べるのがちょっと恐ろしくなりました。
ただ、お話の途中唐突に挿入された悪魔との契約の話で、荒井由実さんがラジオで話されたらしい逸話を知り、こちらもちょっと怖くなりました。ジュゼッペ・タルティーニの「悪魔のトリル」がバックで流れればもっと印象深い作品に成ったかもしれませんね。
メガネマンの国宝級変貌ぶりキックが印象に残るなんて
あまりにもつまらなくて合わな過ぎてビックリした。
落ちぶれ描写すら金持ち道楽の世界で、まずそれが嫌。
あの宿の食堂の小さいステージとかさ。「歌舞伎座の立派な舞台に立っていたきくおは今やこんな小さい舞台、お客もまばらでちゃんと見てくれないような舞台にしか立てないのです」の意味であの演出なんだろうが、いやすごいだろ。あそこが旅館だとして小ステージ付き食事付きとして一泊いくらするんだよ。金持ちじゃなきゃあんな場所に行けねえだろ!そこに立てるだけで、役者として仕事があるだけで超すげえだろうが!
続いて同じく落ちぶれ描写のなんかざわざわしたパーティ会場みたいな場所も、あんなに客がいて、あんな小綺麗なホールで。あんな場所で食事できるのもある程度以上の収入がなきゃ無理だろ。ステージに近づく変態メガネマンにすらなれねえんだよ、こっちはよ!
本当に、平気で金持ち道楽の世界を描いてるんだよな。そこに自覚もないと思う。
そして。とにかく遅い。序盤からこれみよがしにゆっくりゆっくり演技を見せてクソみたいに無駄な間が多い。
「この間がポイントなんだよ。舞台の空気と役者の演技をじっくり感じるんだ!これが格調高い映画のあかし!」とでも言うかのように序盤からとにかくおっせー!早くしろクソバカ野郎!と何度も心の中でとなえた。
俺は子供の頃から何をやるにも遅くて頑張って急いで急いでなんとか周りに合わせてきたから。フィクション内でノロノロされると許せないのよ。
あんなにノロノロするなら全画面に字幕や解説を文字情報としてびっしり入れて欲しかったぐらい。よく分からねー金持ちの舞台ゲームに対する金持ちどもの大げさなリアクションを見せられている感じがしてすげえ嫌だった。
俺にとっては昭和のクソ文化のフルコース、日本映画の悪いところの詰め合わせの極悪映画だったわ。
嫌なところ、合わなかったところ
- とにかく間が長い。あと5日で本番というタイミングでパパが事故で入院!代役どうする?ってタイミングでもノロノロしてて「あと5日しかねえんだからもっとあせろや、クソ野郎ども!」と俺が心の中で映画内の渡辺謙以上にキレていた
- きくおが小さい頃からヤクザの親分の息子で大事にされてて、復讐を手伝ってくれるよき友人もいて、一緒に背中に刺青入れてくれる彼女までいて、さらに演技の才能まであって歌舞伎の家に住めるようになって、さらに吉沢亮の顔までついてて!「持たざる者」ポジションに見せかけて序盤から色々持ちすぎなんだ、この野郎!
- しゅんすけの方もしゅんぼうと言われて可愛がられてるし、そもそもこっちも演技が上手いのでなんできくおが選ばれたのかが分からない。素行の悪さ的なところか?こっちは少なくともパパ入院時点ではもっと下手な方が対比できたんじゃないの。
- 舞台上で渡辺謙が吐血したり、しゅんぼうの足が糖尿病で壊死して足切断で義足になったり、結局病気でストーリーを盛り上げようとする姿勢が嫌
- 昭和の大人キャラがどいつもこいつも偉そうで不快すぎる、渡辺謙も寺島しのぶも田中国宝もぶん殴りたくなるほど偉そうで不快過ぎ、クソ嫌な昭和の再現がうますぎた。「俺の娘を」デブ親父もひたすら嫌、キレ芸だけは面白かったけど
- タバコを吸いまくるのもきちんと昭和を再現してるからこそ不快で嫌過ぎた。役者のいい演技がかすむレベルで不快
いいところもあげる。心の中で笑ったポイントな。
- 序盤のこれみよがしに少年の汗ばんだ肌をアップで映す、一部の層にウケそうな執拗なカット
- 春江が大きくなって高畑充希にメタモルフォーゼするすごい成長具合。骨格から変わってない?似てないよな。国宝級の成長ってこと?
- きくおが代役に選ばれた時のしゅんぼうとの橋の上のやり取りで後方で安定した走りを見せる自転車
- 8年ぶりにきくおとしゅんぼうが再会する場面で無駄に豪華そうな部屋で会うところ。高そうな壺を3つくらいテーブルに並べて!そんなに高級な工芸品をアピールしてえのかよ、クソバカ野郎!
- 日本映画、ドラマの悪いくせ、役者のアップが多すぎる。身体全体の演技がものをいうこの題材ですら顔芸祭りにするその面白さ
- 大事なことは白塗りで言うよ!な姿勢をつらぬいてる。田中国宝が初対面きくおに「その美しい顔にくわれる」的なことを言うホラー演出
- 渡辺謙パパが吐血した後に白塗りのまま息子の名前呼んでショックを受ける白塗り吉沢亮
- 屋上で失意のダンスをする際も粗い崩れた白塗りを忘れない
- 役者の後ろについてぬいだ履き物まで向きをなおしてくれる後ろの人、着物早替えもこの後ろの人の力が大きく、この後ろの人達の動きを映したところにこの映画の意義があるとすら思った
- 襲名のパレードの金満ぶり。あんなことやってたの?本当、金持ちの世界の楽しみなんだな
- 終盤に2014年に人間国宝になったきくおがインタビューの後に車に乗る場面の無音時間。隣にいたポップコーン食いニキも音をたてることが出来なかったぞ!意味深な無音を作って緊張感演出する、この無駄な緊張感たまらねー!
- 渡辺謙の扇子で子供を叩きながらキレ指導する昭和稽古に笑う
- 病室で代役のきくおの演技にキレて食器を床にぶちまける渡辺謙の面白キレ具合
- デブ親父の「俺の娘を!」と言いながらきくおを襲撃するキレ具合
- 序盤でヤクザの殴り込みにあいテーブルの盾である程度応戦するも、「きくお、よく見ておけ」とカッコつけて刺青アピールする割に速攻で撃たれて死ぬ永瀬パパ
- 舞台近づきすぎ変態メガネマンがきくおの刺青を見た瞬間にキレて「この偽物が!」と言いながら蹴りを入れる豹変ぶり。あれは国宝級の変貌ぶりだった。女に見えた役者が実は男で刺青まで入っていたらむしろ怖いと思うのだがあの変態メガネマンは謎に強気だった。やっぱりあいつにはなれねえわ。
俺は歌舞伎を実際に観に行ったこともあるんだよ。一番安い席で、色々解説がつく初心者向けの公演だった。色々解説がないと何がすごいのか分からねーんだよな。動きのひとつひとつにどういう意味があるのか分からない。理解したいという気持ちはあるんだよ。
吉沢亮は仮面ライダーメテオの頃から知ってたから。なんなら舞台『プロデューサーズ』まで観に行ったことがある。今回も、大ヒットやったじゃん!おめでとう!な気持ちでわざわざ混んでる映画館に来たところがあるのよ。
まさかここまで合わないとは思わなかった。残念過ぎる。役者の演技の素晴らしさをもってしても俺には合わなかった。せめてもう1時間短かったらまだ印象は良かったと思う。
みんなはこんな俺のクソ感想を無視して映画館に足を運んでアニメ以外の実写映画も盛り上げて欲しい。
でもこういう映画がヒットすると「格調高く見せたくてひたすらノロノロ意味深な間でつなぐクソつまらねえ邦画」がまた増えそうで、それはそれで嫌。
みなさんは、どう思いましたか?
このお話は、人間国宝小野川万菊が、自らと同じ境地の人間(次の「国宝」)を生み出すまでの話だったのではないでしょうか?
映画のはじめの方で喜久雄少年が、万菊の歌舞伎を見て「怪物(だか化け物だか)」と言っていた。その怪物万菊に憧れた喜久雄が、万菊と同じ「怪物(だか化け物)」になっていくまでの物語に見えました。
そして、俊介と喜久雄の人生に要所で手を差し伸べ(いや、いたずらに狂わせ)、両者を追い込み、突き放し、切磋琢磨させ、次の怪物(「国宝」)を生み出そうとした万菊が影の主役だったのではないでしょうか?
万菊にとっては、俊介でも喜久雄でもどちらでもよかったのではないか?自身と同じ境地に立つ人間(「怪物」=「国宝」)が育ちさえすれば。
二人に対して残酷な手引をした万菊の人生も、映画の中では語られていなかった(と思う?)が、相当なものだったのだろうと推察されます。
それぞれの生い立ちや才能の違い、人生の流れ(や万菊の手引に)翻弄され、清濁を併せのみ到達された境地、自分を恨んでいるであろう娘にさえ拍手を送らせるほど圧倒的高みにのぼった芸の力、を「国宝」という言葉で表現しているのだと感じました。
一点の曇も許さいない風潮がある現代社会に対するアンチテーゼにも思えました。
「好きだから続ける」だけで極めたらどうなるの?という疑問に答えてくれる
ドキュメンタリーのように見えてぜんぜん堅苦しくない。
何を見せられるかというと「役者とはどういう生き物なのか?」という業の話。
稽古熱心な主人公で、才能を開花させ努力もして認められてもいるが、お家の血筋が通っていないという理由から様々な苦難を強いられる。
育った環境のせいか人付き合いも下手みたいで、純粋に歌舞伎が好きでそれだけやっていたいんだろうな、と。
歌舞伎についてのウンチクを学ぶようなシーンはゼロ。映像と心理描写だけで魅せてくる凄み。
そして普段見られない舞台裏が映っていて「簡単に良いもの見られた感」がある。
間口が広い。
あとカメラが良かった。なぜか飽きのこないカメラワーク。
この角度で撮ったら新鮮だろうとか、
ここは皺が見えるくらいズームしても見ていられるだろう、といった巧さを感じる。
おじいさんの皺がずっと映っていても「すごい人の皺だからいいか」と納得させられてしまう。
バッドエンドではないが「怒り」と同じ監督で心を抉りにくるのでそこは要注意。報われなかった人もいる。自殺や他殺は無いが出血はある。
少なくとも主人公は報われて良かったねと思える最後だった。
ダメなところじゃないが「やりすぎでは?」を取り上げると、
太宰治の「人間失格」的な空気がずっと漂うので映像の9割くらいが不穏。この人次の瞬間には死ぬんじゃないのか…?というくらいに不穏。
技術だけが高みに至ったがゆえ、耐え難い孤独がつきまとう。
それが「国宝」の道の謂われなら、ただ納得できるのみで後は目を伏せたい領域である。
綺麗なお顔に喰われちまいました
「その綺麗なお顔は役者にとって邪魔も邪魔。お顔に喰われちまいますからね。」とは、人間国宝の万菊が喜久雄にかけた言葉。しかしこの台詞て吉沢亮本人を連想した方も多いのではないか。
駆け出しの頃は顔が目立ちすぎるとエキストラに選ばれず、端役を得ても顔が良すぎるとメガネをかけさせられ、オーディションは顔が役に合わないと落とされ、キラキラスイーツ系映画なのに下手したら共演アイドル女優より美しい始末。
吉沢本人も、演技を見て欲しいのに顔のことしか言われないと吐露することもあったようだ。
そして作中ではたびたび前髪を伸ばし、メガネをかけ、視線を落とし、背中を丸めた。まるで自らの美貌にリミッターをかけるように。今回「この世ならざる美貌の歌舞伎役者」という役を得たことにより、それらのリミッターは完全に取り払われた。
本作は主人公喜久雄の少年時代から始まる。子役の黒川想矢の演技で最も印象的だったのは、人間国宝万菊が踊る鷺娘を見つめる目であった。「美しいバケモンや」と言いながらも、その目は輝いており、視線は舞台に釘付けで、芸という魔物に魅入られてしまっていた。後の「悪魔はんと取り引き」の伏線になっている。
そして月日が流れ、お待ちかねの吉沢亮と横浜流星が登場。化粧前も化粧中も化粧後も絵になるのは流石。
二人道成寺では、舞台に立つ二人に対して、二代目半二郎から声がかかる。俊介は血が守ってくれる、喜久雄は踊りが骨に染み付いていると。本作にも出演している寺島しのぶのインタビューでは、舞台に立つ前に、自分には受け継がれてきた血があると己を奮い立たせることがあるとのことであった。実際に血とは大きな心の支えなのだろう。二代目半二郎の精一杯の優しさは、図らずしも、喜久雄に血を持たざる者という烙印を与えてしまった。
舞台では喜久雄が恋の手習いを、俊介が振り笠を用いた舞を披露するが、歌舞伎においては、演技巧者の方が恋の手習いを踊るのが通例だとか。ここも後の伏線になっていたのかもしれない。
物語は二代目半二郎が怪我により舞台出演を断念し、代役に俊介ではなく喜久雄を指名することで、大きく転換していく。184cmの堂々たる体躯の渡辺謙が曽根崎心中のお初役というのはかなり無理があるが、そこには目を瞑ろう。
二代目半二郎の病室で稽古が始まる。まずは喜久雄の発声に驚かされた。素人の耳にはいかにも歌舞伎の女形らしい発声で、吉沢亮はこんなことができるのかと驚かされる。
しかし二代目半二郎からは叱責される。死への恐怖も、愛する男と死ねる喜びも感じない。お初として生きていない、と。歌舞伎とは単なる様式美ではなかったのか。しかし稽古を経て、喜久雄はお初を掴んでいく。
舞台当日、喜久雄は楽屋で一人重圧に震える。直前まで酒を飲んでいても、楽屋に来れば甲斐甲斐しく世話を焼いてもらえる俊介との違いが切ない。楽屋を訪ねた俊介に対して、喜久雄は目にいっぱい涙を溜めながら、俊介の血が欲しいと訴える。血がありながら芸で選ばれなかった俊介の心には思い至らないのが喜久雄らしい。
俊介は複雑な思いが入り混じる中、「芸があるやないか」と優しく語りかける。ここで俊介に大きく心を掴まれた。
そして舞台に現れた喜久雄お初は、遊女としての色香と退廃的な美貌で観客の度肝を抜いた。愛する徳兵衛が奸計に落ち、最早自死でしかその汚名をそそげないと理解したお初。その覚悟があるのかと問うお初の気迫は、先日の病室で初めに見せた芝居とは全く別物であった。技術の巧拙ではない。役に生きるという点で、俊介は完全に喜久雄に負けたのだ。堪えきれずに席を離れた俊介を追ったのは、なぜか喜久雄の恋人の春江。この展開は予想できなかったが、伏線らしきものはある。
本作は映画であるため、当然時間と予算に限りがある。そこで喜久雄の一代記という点に焦点を当て、長編の原作を再構築している。喜久雄を取り巻く女性達の心情を丁寧に説明することは難しい。
吉沢亮は、以前のインタビューで、ナンパをするならどうやって声をかけるかと問われ「『顔見て』って言います笑」とジョークで返していた。まだ10代の春江が「喜久ちゃんがいないと生きていけない」と大阪まで追ってきたのも、藤駒が「2号、3号でも」と子を成したのも、説明はいらない。顔を見れば良いのだ。だって吉沢亮だから。何という割り切り。
しかし喜久雄の美貌に魅せられ、愛情を一身に注ぐ女性達は、いずれ気づく。ただでさえ言葉少なである喜久雄の心は芸で占められており、どんなに愛しても、喜久雄とは心が通わないと。もちろん喜久雄に愛がないわけではない。自分を追ってきてくれた春江とは結婚すべきだろうと考えている。しかしそれは愛というよりむしろ義理である。恋人として暖簾に腕押しするような愛を注ぎ続けることより、ご贔屓として応援することを春江は選んだ。だから俊介にも「わかっとうよ」と言えたのだろう。
この辺りから物語の構成は原作と大きく異なっていく。演目も大胆に変更されているが、これにより歌舞伎の知識がない観客でも「さっきの演目だ」と理解できる。数を絞ることで、一つの演目に時間と予算をよりかけることができる。映画化に当たっての英断である。
後半で驚いたのは、森七菜演じる彰子の登場だ。突然「喜久にいちゃん!」と馴れ馴れしく現れた女の子が、程無くして大開脚で喜久雄と絡むのだから。
恍惚の表情で「お嫁さんにしてね」と囁く彰子に「覚悟は決めてんで」と返す喜久雄の表情はどこか冷たい。喜久雄の決めた覚悟とは、愛する人を生涯守るという覚悟ではなく、役に繋がるなら籍くらい入れてやるという悪魔との契約だったのだろう。だから、大物役者である彰子の父親の激昂にも、喜久雄と出て行くという彰子の宣言にも、激しく狼狽する。
そこからの二人は多くの屈辱を経験する。しかしどんなに辛くても、喜久雄の体には何千回、何万回と稽古した踊りが骨まで染み付いている。喜久雄が見たい景色も生の実感も舞台の上であり、喜久雄は舞台でしか生きられない人間なのだ。屋上での狂気の舞はそのことを痛感させる。
周囲の手助けにより、喜久雄は再び俊介と舞台に上がる。しかし糖尿病という血の病により、俊介は片足を失う。それでも再度舞台に立ちたいと選んだ演目は、あの曽根崎心中であった。初の立役姿もまた美しい。
かつて喜久雄が演じたお初は、恋の業火に身を投じる激情を纏っており、仇敵九平次に向ける視線に込められた殺気からは、喜久雄の任侠の血が感じられた。一方俊介のお初は、残る片足にも壊死が見つかったことと相まって、自分の運命を受け入れるような諦観を感じる健気なお初であった。
出色は心中の場面。お初の表情からは、既に悩み苦しみ恐れを通り越して、あの世で徳兵衛と一緒になれるという喜びすら感じた。そこに「喜久ちゃんに引導渡してもらえるなら本望や」という俊介の声が聞こえてくるようであった。徳兵衛の落涙には、愛する女に手をかけなければならないという辛苦を感じた。そこに「俊ぼん…なんちゅう顔で見とんねん…」という喜久雄の声が聞こえてくるようであった。
歌舞伎役者に歌舞伎を演じてもらうのではなく、俳優に歌舞伎役者を演じてもらい、その上で歌舞伎を演じる。李監督の采配がピタリとはまった名場面である。
最後に人間国宝となった喜久雄が踊るのは、少年の日に魅せられた鷺娘である。大量の紙吹雪の中、恋に身を焦がし舞う白鷺。その目は何を見ているのか。悪魔と契約した人間は、次第に人ではいられなくなっていくのだろう。長い睫毛に留まった紙吹雪が動きと共に舞い落ち、やがて白鷺は力尽きた。
目を開けた喜久雄が見たものは、空っぽの客席とあの綺麗な景色。喜久雄はどこへ行ったのだろう。
この作品で吉沢亮は、自分の綺麗な顔に食われてしまう役者から、自分の綺麗な顔で見るものを喰いちぎる役者へと飛躍を遂げた。
初めて鑑賞したときは、ただただ何か凄く美しいものを見たと圧倒され、なぜか勝手に涙が流れていた。きっと私は吉沢亮の綺麗な顔に喰われちまったのだ。
一つのことを極めるためには
原作未読で尚且つ歌舞伎をよく知らない状態で鑑賞。
歌舞伎の演目のシーンは、観客席からのショットのみならず、役者の後ろ姿を捉えたショットなど様々な方向から演目を見ることができる。そのため、歌舞伎を平面的ではなく立体的、多角的に見ているという感覚に陥った。また、役者の顔や指先、足先などのクローズアップを多用することで、動き一つ一つのしなやかさや、美しさが強調され思わず見入ってしまうと同時にこんなにも歌舞伎は面白いのかと感動を覚えた。
そして物語においては、一つのこと(この映画で言えば歌舞伎)を極めるためには多くの犠牲が必要であり、その犠牲を顧みず、一つのことに全身全霊をかけて向き合った者だけが見ることのできる景色があるということを伝えたいのだろうと私は解釈した。そして私は一つのことを極めた経験がないため、あらゆる物を犠牲にする喜久雄に共感できなかった。しかしその共感しにくさが、喜久雄を孤高な存在へと押し上げると同時に彼に尊敬の念を感じざるを得ず、物語終盤の歌舞伎の演目では雲の上の存在を間近で見ている感覚に陥り、鑑賞後高い満足感と幸福感に包まれた。
非常に美しい作品だった。
原作の人間模様が好きだったんだ。
原作を読み歌舞伎と人間国宝をどう表現するのか気になって視聴。
前半30分で徳次が切られて気持ちが切れた、花ちゃんが徳次ポジにすげ替えられてるけどお前居なくなんじゃん!と思いながら苦痛を堪えながらの3時間だった。
主人公が紆余曲折あって人間国宝になりました終わり。中身薄すぎて無感情でした。
原作を予習したのが良くなかった。が原作を見なかったら観たのかと言われれば多分観なかった。本読まずに観たら多分星3位なのかなと。
せめて2部作に
原作を読んでさらにオーディブルで聞いていてもたってもいられずに観に行ったが。
新年会のシーンから始まって時々の端折りは仕方ないかなって思いながら観てると、辻村の射撃シーンが出てこない?ということはそのエピソードは描かれないのかという残念さから始まり、原作とは全く違う喜久雄の敵討ちのシーン、大阪での徳治の不在や万菊役ビジュアルの原作の描写との乖離(二代目半次郎もだけど)、なぜか突然キレる千五郎など引っかかることばかり。
映像の美しさも売りなのだろうが、桜の下を二人乗りで駅に向かうシーンのVFXは合成感不自然さがすごい。
長編の原作を3時間とはいえ1本の映画に入れてしまうのは無理だったのではないか。
せめて青春篇・花道編の2部作にするとかできなかったのだろうか。
歌舞伎役者役は本職を使ったほうがよかったのではないか。とくに小野川万菊、二代目半次郎。
素人の吉沢と横浜が歌舞伎を頑張ったのは本当にすごいと思うけど、原作「国宝」はその類の話ではない。才能を持った者と名門の血筋を持つ者の歌舞伎のレベルの高いところの話。
ネタバレレビューに書いても仕方ないけど、この映画は絶対に原作読むより映画観るのが先。もしくは映画観たら原作読まないほうがいい。
喜久雄の観たかった景色は……。
8月下旬に鑑賞しました。6月6日の公開から2か月以上が経過した8月下旬でも、この映画の人気は衰えを知りません。平日昼過ぎの回で、4割程度の座席が埋まるくらいには観客がいました。私の住む秋田県では、平日昼間の映画館は観客が自分一人という貸し切り状態になることも少なくありません。公開から2か月以上経ってるのに、この盛況ぶりには正直驚きました。
色んな映画レビュアーさんが大絶賛して、レビューサイトではとんでもない高評価を獲得している本作。ハードルがこれ以上ないくらい上がり切った状態での鑑賞です
結論ですが、観に行って良かった。3時間近い上映時間があっという間に感じられました。映像の美しさ、役者陣の演技の素晴らしさ、長尺のストーリーを見事にまとめた脚本と構成の巧みさ、目を奪われる美しい映像の数々。どれをとっても最上級の作品でした。話題になるのも納得のクオリティで、年間ベスト級の作品でした。
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ヤクザの組長の息子だった喜久雄(吉沢亮)は、15歳の時にヤクザ同士の抗争によって父親を喪った。その後は歌舞伎役者・二代目花井半二郎(渡辺謙)に引き取られ、半二郎の息子であり同い年の俊介(横浜流星)とともに、歌舞伎の稽古に励む。そこで喜久雄は女形の才能をめきめきと開花させていくのだった。
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この映画、何より歌舞伎のシーンがめちゃくちゃ良かったです。
私は歌舞伎を観たことはありませんが、吉沢亮さんと横浜流星さんの歌舞伎の演技は、直感的に「めちゃくちゃ上手い」と感じられるものがありました。準備に時間をかけ、そして相当な情熱を持って演じられているのだということが分かります。この映画を鑑賞した歌舞伎役者の市川團十郎さんは、ご自身のYouTubeチャンネルで本作の感想動画をアップしており、劇中の歌舞伎の演技について「違和感なく観ることができる」「すごく練習されたんだと思う」と言及されていました。プロの歌舞伎役者から見ても「違和感ない」というのは本当にすごいことです。
個人的な話になりますが、私は小学低学年から高校卒業まで剣道部に所属していました。そのため、映画やドラマで剣道をするシーンが出てくると、その所作を見て「上手いな」「下手だな」とかを感じてしまうんですよね。上手ければ問題ないんですが、下手な剣道をしているのを見ると、どうしても気になってしまって、作品を楽しむノイズになってしまうんです。そのため、本作の歌舞伎の演技がプロの歌舞伎役者である團十郎さんから見ても違和感のないものだったというのが、いかに凄いことかというのが良く分かります。
本作の歌舞伎の演技は撮影の1年半前から練習が開始されていたらしいです。横浜流星さんは吉沢さんよりも3か月ほど遅く稽古を開始したのに、あっという間に吉沢さんに追いついてしまったと、吉沢さんがおっしゃっていました。「そのまま歌舞伎役者になってしまうんじゃないか」と思うくらい歌舞伎にのめり込んでみるみるうちに上達していく横浜さんを見て、「負けてられない」と奮起した吉沢さん。二人が切磋琢磨したおかげで、この圧巻の歌舞伎シーンが生まれたのだと思います。
そして、主演の二人以外にも、本作の制作陣には一流のスタッフが揃っています。監督の李相日さん、脚本の奥寺佐渡子さん、撮影のソフィアン・エル・ファニさん。作品制作を主導した監督は言わずもがな、3時間という長尺の映画で、最初から最後まで全く飽きることなく退屈なシーンなどなく集中して鑑賞することができたのは、間違いなく奥寺さんの引き込まれる脚本と、ソフィアンさんが撮影する美麗な映像によるものだったと思います。
語りたいことはまだまだありますが、長くなるのでこの辺で。
本作は今後何年も語り継がれる大傑作映画だと思います。今年はまだ4ヶ月残っていますが、おそらく私の今年の年間ベスト映画になると現時点では確信しています。素晴らしい映画でした!オススメです!
【2025年11月30日追記】
本作『国宝』が興行収入ランキングで実写邦画カテゴリで歴代一位となりました。おめでとうございます。「今後何年も語り継がれる大傑作映画だ」と、8月時点のレビューで私が言ったことが現実となるとは……。この歴史的映画を劇場で鑑賞できたことを誇りに思います。ありがとうございました。
全566件中、101~120件目を表示
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