国宝のレビュー・感想・評価
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役者という職業の大変さ
この映画に当たって、主役の吉沢亮と横浜流星は1年半の稽古を積んだという。その努力は素晴らしいと思う。ただ、本職の歌舞伎役者は、それこそ映画の中で描かれていたように物心つくころから日本舞踊や芝居の稽古を積み重ねてきている。その域に達するには、1年半という期間は短すぎるのだから、本当に基本的なことと、映画で扱う演目に限った稽古だったのだろうし、そのことは吉沢、横浜両氏も十分に認識していたことだと思う。
何が言いたいのかというと、本職の歌舞伎役者のレベルではないことを承知していながら、歌舞伎役者を演じなければならない「役者」という職業は、本当に大変なのだな、ということだ。もちろん、映画の中の吉沢亮と横浜流星の演技は素晴らしかったことに異論を唱えるつもりはない。両氏の努力には、素直に拍手を送りたい。
映画自体の感想だが、事前に歌舞伎役者諸氏が本作を絶賛しているとの報道を見聞きした。もちろん、歌舞伎の振興を考えての発言ということもあるだろうが、それにしても絶賛と言っていい評価が続いている。それに興味を引かれてこの映画を見に行った。今回、ジャンルは違うが舞踊の世界で50年以上キャリアを積んでいる、田中泯が女形の重鎮を演じており、その舞踊の場面の評価も高かったのでそのシーンに興味を持っていた。結論から言うと、自分自身に歌舞伎や舞踊に対する素養がほとんどないので、残念ながら田中泯の舞踊のすごさは分からなかった。だが、舞踊以外の場面での田中泯の演技は凄かった。田中泯が映画等のメジャーな場所に出てきたのは、映画「たそがれ清兵衛」が最初だったと記憶しているが、その後もどちらかというと男臭い役が多かったと思う。しかし、この映画の小野川万菊を観たとき、これは確かに女形の役者だ、本当の女形だと感じた。芸達者な役者さんばかりなので皆上手かったのだが、この映画でまず印象に残ったのは田中泯の小野川万菊だった。
感想が前後するが、自分はこの映画の原作になった小説は、新聞連載時に読んでいる。上下2巻の小説を(映画としては少々長いとは言え)3時間に落とし込むわけだから、色々なエピソードがカットされているし、原作から変更した設定もある。だが、私は上手くまとめたのではないかと思っている。このあたりは同じ横浜流星が出演し、そして同じく役づくりのためにかなりの努力をした作品で有りながら(私からみると)残念な出来だった「春に散る」とは大きく違う。
なぜ違う映画の事を持ち出したかというと、原作をもつ映画の場合、絶対にカットしなければならないエピソードが出てくるし、設定の改変も必要になる。問題は、カットしたエピソードや設定の改変が物語として生きているかどうかだと思う。残念ながら、春に散るはそこが上手くいっていなかった。対して「国宝」は、その点が上手くいっていたと思う。
例えば、小説「国宝」ではかなり重要な役どころである徳次は、前半部分にしか登場しない。しかし、原作通りに彼を登場させるとなると、喜久雄と綾乃の関係も描かなければならず、そうするととても尺が足りない。思い切った改変ではあるが、映画としては正しい判断だったのではないかと思う。この映画の場合、そうした割り切りが絶妙だという気がした。
おそらく、本職の演劇関係や、歌舞伎関係者がみれば、「それはありえない」という描写は少なからずあるのだろう。だが、元々これはお芝居、作り話なのだ。嘘と真が混じっているお話なのだ。偽りのほうが多かったかもしれないが、歌舞伎の世界に触れられただけでも良かったのではないかと思っている
3時間もあるので再見するかは思案中だが。
映画という芸術
3時間という長めの映画だったが、美しい男たちが演じる麗しい歌舞伎で、この作品自体が一つの芸術として完成されていた。
歌舞伎はさっぱり何言っているか分からないので、字幕版で観て大正解だった。作品を100%で楽しめた。
結構アップのシーンが多いので、主演の吉沢亮と横浜流星がいかに整ったお顔立ちかを再確認して、この映画の芸術点を高めていると感じた。
ストーリーとしては、血筋の横浜流星、芸の吉沢亮。相棒からライバル、恋敵、そして盟友、親友、最大の理解者へ。女関係もあるけど、この作品は2人の絆が主軸。
淡々と物語は進んでいくので、人の人生を俯瞰して見ている気持ちになる。映画を観る人それぞれで感じ方は異なる気はする。美術館で、絵画を観るような感覚。
少し残念だと感じた点は2点。
一つ目は、吉沢亮の目が若過ぎて、最後年齢がわからなくなる。娘役と同世代にしか見えない。(役者を変えずに演じているから仕方ないことなんだけど)
二つ目は高畑充希と森七菜が顔の系統似ていて、一瞬どっちがどっちだ!?となるので、もう少し違う系統の方だと良かったような。これが、敢えて高畑充希と似た俳優を使っている(吉沢亮が初恋の人に似た人を選んだ)のであればある意味大正解。
家だとダラダラ観ていろんなところ見逃してしまいそうなので、映画館で真剣に観て良かった。
圧倒的な美を支える女たち。すさまじい映画。
子役の二人も吉沢亮も横浜流星も田中泯もあの「たたずまい」の美しさには息を呑む。
俳優陣の踊りのお稽古はどのくらい厳しかったか。感嘆するしかない。
特筆すべきは俳優陣の化粧の顔が画面いっぱいにアップで映されること。
化粧は剥げ、肌の荒れも、シワもむき出しになり、それは迫力、気力、壮絶であり単に「きれい」なものではない。
美と芸の追求のために綺麗事では済まない凄まじさが、画面いっぱいの顔で迫ってくる。
気になるのは女性の描き方。
二人の役者の、不遇なとき、あるいはプレッシャーを影で支えているのは女性たち。
特に喜久雄をめぐる女たちは不遇だ。
高畑充希演じる春江は喜久雄でなく俊坊を支える側になる。
観客はああそうなるだろうなぁと納得する。
最後のカメラマンは父である喜久雄に恨みをぶつけつつ、父の美に拍手を送るしかないと祝福を捧げる。
都合の良い女たち、悪魔との契約の生贄になる女たちを含めた全ての世界観が美しいと感じてしまう。
この昭和的な感動に身を委ねてしまっていいのだろうか?
このコンプライアンスのうるさい世の中でこれほど振り切った世界観を示すことはとても勇気の必要なことである。
この圧倒的な映画の成功を果たして海外の評論家たちは素直に評価するだろうか?
一抹の不安を感じる。
拍子木の音
血脈の苦しみと天涯孤独の苦しみ。
狭い歌舞伎界の中でふたつの星が才能をぶつけ合って戦い、そして心を寄せ合う。
今をときめく吉沢亮と横浜流星の演技が圧巻。
これだけの女形を演じる為にどれほどの努力を重ねたのだろうか。
これでもかとふたりに苦難が降り注ぎ翻弄される。当方としては横浜流星の宿命がより辛く感じた。
見どころは娘道明寺などの舞台本番シーン。
舞台上で通い合う目線、衣ずれの音、舞台上から見た客席。幕前の表情や本番前の通路を早足で歩くシーンなど舞台裏を覗いている気分も味わえる。
映画としてはやや長尺か。
冒頭の抗争シーンは迫力満点で、古き日本映画を思い起こさせられた。
ふたりが大人になってからは表情のアップのシーンが多く、少し表現の繊細さが欲しいかと思った。
観劇はその場の臨場感や役者の迫力を間近に感じそれは良いものだが、日本の歌舞伎はその中でも独特の光を放つ。見ている間は歌舞伎の格調高い日本文化をとても誇らしく思った。
血と芸、半々を継承し遺す、歌舞伎ブラックスワン兄弟
血か芸か。歌舞伎に必要なのはその両方。
それに加え前提となる、
稽古の鍛錬を積んだ踊りと台詞の実力と、
ご贔屓がつく愛嬌や人柄、精神性、
言うまでもなく立ち振舞いの所作・容姿。
多くを求められる世界で、世襲名門一人息子として産まれた、横浜流星演じる俊坊。
反社組長を父に持ち長崎の大きな家で育ったが、ある日他組襲撃に遭い、父を殺された吉沢亮演じる喜久雄。家族を亡くすが、居合わせた歌舞伎役者、俊坊の父の花井半二郎のはからいで、俊坊の部屋子弟子として同い年の兄弟同然に稽古され育てられる。
2人は比べられる気持ちと同等かそれ以上に仲良く稽古に励み、二人とも女方が似合い、喧嘩でき鼓舞し合える親友。
でありながら、
俊坊は血筋に恥じぬ芸の腕前で喜久雄と遜色つけ難いものの、喜久雄の熱心にどこか及ばず芸も親の視線も喜久雄に持って行かれたような寂しさに傷付いていた。
かたや喜久雄は、身寄りもなく、しかも居候の身で本当の息子でないがため、血筋の世界で血筋に守られる安心感が全くない緊張感に常に怯え、だからこそ芸に打ち込み芸で身を守ろうとしていた。出自に恵まれた若き俊坊にはわからない複雑な心情を先に経験しているから、表現に活かせる。
横浜流星の俊坊と吉沢亮の喜久ちゃん、
それぞれの青年期の感情の揺れとそれでも支え合える兄弟のような関係性がしっかり画面から伝わってくる演技力はそれだけで他の作品ならそこが見せ所なはずだが、この作品ではまさかの基礎的能力。
圧巻の舞い、発声台詞回し、顔立ち、
人気、精神性、容姿。
歌舞伎の血筋以外の全てを兼ね備えた、
日本人俳優が堂々と歌舞伎を魅せてくる。
2人もそんな若い逸材がいる日本、すごすぎる。
世襲の歌舞伎役者に見える歌舞伎を振る舞った上で、
吉沢亮も横浜流星も青年期から老年期まで演じ分け、
喜久雄の吉沢亮は、
居候の身分を弁えた全うに稽古に励む立ち振る舞い、
出自が顔を出すヤクザな一面、
血の強さに悩む中、好意を寄せた女の子に、そうだこの子の家系を狙えと閃くじわりとした目。
俊坊の横浜流星は、
育ちの良さから素直だが、打たれ弱く、兄弟同然な喜久雄を慕う花江の包容力を借り、奪う形で結婚した上に跡取り息子までいることで、血筋を頼り歌舞伎役者に復帰するぼんぼん街道が喜久雄を傷付ける。
父半二郎の代役をし襲名までしたのは、
血の繋がらない喜久雄。
喜久雄は夢にまで見た出自をこれで手に入れたかに思われたが、跡取り息子と花江を携えて、戻った俊坊半弥。
母親は息子が戻れば孫が可愛く、喜久雄こと東一郎は一度は花井の屋根を後にするが、
他の歌舞伎名門の娘、彰子を手玉に取ることで他所の名門の家に転がり込もうと思うが失敗、
踊りの才だけを持って彰子とどさ回り営業活動をしていた。しかし重鎮万菊が死を前に喜久雄を呼び出し、
歌舞伎の表舞台に17年前と同じ、
俊坊と喜久雄、
半弥と半二郎の女方共演として戻る。
これで確執は終わるかに思え、これからと言う時に、
半弥の足は父と同じ糖尿病により壊死が進み、
片脚切断、義足の役者となる。
今や半弥の息子に稽古も行う半二郎だったが、
半弥の最期はすぐそこに見えていた。
半弥と半二郎でもう一度、曽根崎心中でお初と徳兵衛のタッグを組み、足がギリギリ動く最期の公演を行う。
半弥亡き18年後、半二郎は人間国宝に選出されていた。
長崎の産みの両親との別れ、
恩を忘れずお礼に蛇ネズミを取ってくる習性のミミヅクを自身の将来に重ねて彫った背中の大ミミヅク、
親の仇をヤクザの道で取らず、芸で取れと家に入れてくれた半二郎、
その息子俊介との稽古と友情、
長崎から追って来て陰で役者として支えると言いながら、血筋のある俊介を選んだ花江とその息子、
歌舞伎役者人生のために側に置かなかった、
京都から慕う芸妓藤駒とその隠し子となる娘彩乃、
俊坊に遠慮もありながら血筋への安心求めて襲名した半二郎とそれに対する世間の誤解と推測、
出戻った半弥に伴い排他され、
彰子を使おうとし失敗した卑怯にしっぺ返しをくらった惨めなどさ回り、
万菊と半弥に呼ばれ、戻って飾った半二郎の半生。
全てを芸の肥やしにし、
京都の明神様で悪魔と取引した
「誰よりも芸が上手くなる代わりに他に何もいりません」
を貫いて得た人間国宝。
そこに人々は様々な見方をするが、
芸妓の娘、彩乃はカメラマンに成長。
父半二郎の活躍を、舞台でも、ファインダー越しにも、しっかりと見つめていた。
国宝に至るまでの、運命と半生と犠牲と精神の徹底性全てが詰まった半二郎の人生。
反社の組のトップの父の仇を、
果たして芸で獲れたのか?
でも、追い続けた景色、
闇にキラキラとした雪か紙片か輝きか。
その景色に喜久雄は辿り着くことができた。
舞台の幕が降りた後、
何度も何度も感じた、血筋者でない孤独を、
その景色に辿り着いた今は感じず、
孤高の輝きを放つ人間国宝になっていた。
花井家の血を引く息子は花江の血も引く半弥が遺し、
十八番を継ぐ芸は半二郎が遺し跡取りに指導する。
一代かけて、
血と芸半々ずつ遺した2人は結局半々コンビの表裏一体2人で一代を世襲したことになる。
次の代は女方ではない勝負。
果たしてどうなるのか。
この作品を作り上げた、
全てに妥協しない俳優陣に圧倒された。
見事に儚くしなやかな切ない女役を生きる横浜流星。
狂気と熱情を秘めた女役と、そこまで惚れられる男役両方に芸と容姿両方で生きる吉沢亮。
圧巻としか思えない。
横浜流星がよく言う、役を生きる、が歌舞伎を通してまで伝わるほどの、結果の伴う血が滲む徹底的努力を、若い俳優2人ともが同水準に行い、2人から射抜くように放たれる気迫。
画面越しにくらい、何日経っても余韻が残る。
しかも、2人ともが同じ場所で育ちながら異なる人生と人物像を対比させ、演技のみならず頂点の歌舞伎としても仕上げて見せる。
同じ3時間半使うなら愛に生きたタイタニックより、
孤高の喜久雄と花井家に捧げて人生叩き直された気分に浸りたい。
ものすごい邦画なのに、これを撮り残してくれたのはルーツが韓国の監督さんなのか。
日本人が日本文化をここまで撮れなかったもどかしさも感じつつ、本作も出演俳優もそれを指導した歌舞伎文化の継承者達も全て国宝と感じる。
実際より軽いとは思うが、世襲の必然性もしがらみも、わかりやすく映像で見せてくる。
嫁いだ女の歌舞伎理解や稽古の下支えに挨拶参り。鷺娘程に惚れ込んでいなければ、まず無理務まらない。
長崎の頃から喜久雄に寄り添い大阪に追って出てきて、ホステスをしながらも支えてきた筋の通った花江だからこそ務まる役目。半弥と結婚し半二郎を同じ家の者として支え、跡取りまで遺すとことんな女性である。入れ墨入れるだけある。それでも半弥の脚が危ない時に正気を失う花江から、心も半弥にあるとわかり、既に折り合いのついた年齢とはいえ半二郎は寂しかっただろうな。同じ寂しさを京都の藤駒も感じながら彩乃を育てていたわけだが。
彰子もまた、自分は好きだが半二郎からの愛はないと悟りながらも惚れた弱み、半二郎の地方回りを文字通り荷物を抱え行脚してでも支えてくれた。
歌舞伎世襲の、極めないと演目が成り立たず、日本の文化産業としての興行にヒビを入れ後世に借金を残しご贔屓様に顔向できない、正気で生きていられないような重圧を見て育つ女達。男より強いのではないか?
喜久雄のような部屋子達も、出自が異なるという意味では嫁いでくる女達と同じである。
稽古を惜しまない俳優達に務まるのなら、世襲でなくとも芸は務まる気がするが、それを一生の生業とせざるを得ないとなるとまた話は異なる。
大抵の人間は一生はちょっとと思う中で、せざるを得ない世襲の息子、半弥や海老蔵のような存在にはまた、共感や理解が深まるのではないか?反動で激しく飲み遊び女遊びの愚行に走っても、仕方ないとも思える重圧。
珍しく生い立ちに恵まれている側を横浜流星が演じているが、べらぼうとは全く異なるちょっと気弱な女方。
でも、鷺娘の絵を遺した春信先生とべらぼうでは話している。大河でまさかの、お初の徳兵衛なんて台詞も飛び出していた。横浜流星の江戸時代日本への理解は深く厚いものになっていそうだ。
吉沢亮の彰子に目を付けた瞬間の眼差しが忘れられない。こんなすごい作品を見て吉沢亮への印象はすっかり変わりつつあるが、当初吉沢亮に感じていた印象はまさしく闇落ち側面でじわりと彰子を見つめたこの目の印象そのものだった。
横浜流星の方が一見繊細そうで、吉沢亮の方が精神的に追い詰められやすそうな一面を感じる。
残った脚にも壊死が進むが演じ続ける半弥と中の人横浜流星も、
血に勝る芸を求め続ける半次郎の中の人吉沢亮も、
歌舞伎ブラックスワン。
半弥が出て行った8年間と、
半弥が死に国宝選出までの18年間を、
寂しそうだなぁこの間修行に励み続ける孤独はいかばかりかと、国宝選出インタビューの場面を見ながら感じていた。身寄りがない中、同級生で仲良くできる稽古仲間に出会えた奇跡を、血筋のある俊坊を羨ましい時もありつつ、ずっと心強く喜久雄は感じていただろう。半二郎もまた、息子を想う気持ちも勿論あるが、分け隔てなく育ててくれた。
半二郎が遺した功績は、歌舞伎界に2人の継承者を仲良く遺した事に尽きる。
だからこそ半弥も半ニ郎も支え合って、捻じ曲がり切らずに育つことができた。
彰子は気の毒に尽きる。
下手な言葉で語れない作品
うまい言葉が見つからない
下手な言葉を並べられない
それだけ役者たちが全てを注いだ作品だったことはすごく伝わった作品だった
歌舞伎の世界は全く知らない
だけど世襲が継いでいくだろうというなんとなくの知識はある
息子でよかったねと言われる世界であることも
喜久雄が歌舞伎の世界に引き取られた時からずっと心臓が痛かった
代役に選ばれた時もサスペンスでもないのにどこかで崩れる瞬間を想像して苦しくなった
終わるまでずっと
俊介の子どもが息子だったこともまた心が抉られた
立場が逆転するとそう思った
だけど想像と違ったこととしたら俊介は喜久雄の才能を認めていた
悔しいくらいに
喜久雄は努力ももちろんだけれど最期に二人でまた舞台に立てたのは俊介が喜久雄を認めていること、これは大きかったのだろうと思う
結局最後のところは才能で上がれといえど
後ろ盾はなくてはならないものだったのだろう
1人、また1人、
関わってきた人たちの最期を見届ける喜久雄
その姿をみて失礼ながら私の気持ちも1つまた1つ解放させられるかのようだった
それだけ歌舞伎の世界は重い重圧の中守りきらねばならぬ屋号と才能が渦巻いているのだろう
俳優陣1人ひとり光っている人たちばかりだった
今をときめくとかそんなキャスティングじゃない本気のキャスティングをみた
特にこの映画に出演すると決めた吉沢亮さん、横浜流星さんは並々ならぬ覚悟だっただろう
正直なことを言うと彼のストイックさも理解した上で横浜流星さんにこの役は重いのではとも思った
だけどそんなことはなかった、私が彼の限界を見誤っていた
吉沢亮さんは、吉沢亮さんの光で
横浜流星さんは、横浜流星さんの光で
この舞台に立っていた
ご本人のお姿がかっこいいだけではここに立てていない二人の人生をかけた姿だった
カタチ違えど彼らもまた憑依していたように思う
本当に美しかった
そして田中泯さん
彼の何かを見透かすような目に鳥肌がたった
(本当に無知で最初歌舞伎の方だと思っていた)
言葉に凄みがあり説得力があった
どの登場場面も振り返れるほどにあの短時間で記憶に残った人だった
黒川想矢さん
怪物は観ていないけれど前半は確実に彼しか見えなかった
呼吸を忘れるくらい見入ってしまった
幼さと色気が混じる不思議な方だと感じました
(調べたら実写推しの子の少年カミキヒカルも演じていたのですね)
これからの作品も楽しみ
とにかく濃い3時間だった
恐ろしいほどの凄みがあり、奥深く、美しい映画
歌舞伎の世界とは縁遠い生活の私。
子供の時に狂言の教室に参加したり、お正月にNHKの番組で見るくらい。
でも、初めにでてくる舞台が連獅子だったので
これ、見たことある!と物語にスッと入ることができました。
目は口ほどにものを言う。
の言葉、思いだしました。
セリフにのせずに役者の目に語らせる。
父親が殺される瞬間を見つめる喜久雄の眼差し。
喜久雄を迎えた時の俊介の目つき、万菊さんの刺すような視線、神社で悪魔と取り引きして芸以外は全てを捨てると語る父親に幼い娘は何を思ったのか。
寺島しのぶさんは気持ちを表に出す役回りでしたが、昭和のこの時代の日本人、口数が少なめ。
だから、目で語るんですね。
女形演じる喜久雄の目の表情は千変万化。
妖艶、色艶、凄みを感じました。
吉沢亮くん、凄い、凄い!
横浜流星くんと2人、歌舞伎の所作を稽古したんですね。
しゃがみながら滑らかに歩く姿。
見事でした!
歌舞伎では代々受け継がれてきた型があり、それを完璧に表現する為の厳しい稽古。
華やかな歌舞伎の舞台、それを支える人達のなんと多いこと。
大掛かりな舞台装置、衣装、音楽、多くの黒子さん達に支えられて主役が引き立つのですね。
浴びる光が強いほど濃い影ができる。
華やかな表舞台の裏でドロドロの人間模様が繰り広げられる。
喜久雄、なかなかに嫌な奴に仕上がっていた。道を極めるには何かを捨て去らなければならないのか。
人としての矜持さえ。
緩く生きている私にはあちらの世界には入れないな。
しんどそうだな。
最後、映画館の階段を降りながら改めて吉沢亮くん凄いと思いました。
演技が上手いと思っていたが、凄まじい演技力を感じました。
予告で見たバンパイアの映画も見に行きたくなりました。
喜久雄の豊かな人生
小説を読み終えたばかりであの世界観が自分の中に色濃く残るなか鑑賞。開始5分、少年時代の喜久雄と徳次が出てきただけでもう泣いてた。小説では喜久雄をずっと支える徳ちゃんが映画では端折られていて残念だけど、映画は映画ですごい完成度で、3時間があっという間、あちこちのシーンで泣きながら観た。映画はそれだけで素晴らしく完成しているのだけど、私は映画だけではここまで感情移入しなかったかも。例えば喜久雄が大阪に行くことになったいきさつをより詳細に小説で知っていたからこそ、大垣家に着いた時の喜久雄の心情を俳優さんの表情から感じ取り「きくちゃん頑張れ!」と感情移入した。喜久雄が「不束者ですが」と挨拶するシーンも、映画では端折られているが、これは育ての母であるマツが喜久雄を長崎から大阪へと送り出す前に仕込んだ挨拶だと小説で知っていたので、このシーンから、息子を送り出すマツの強く切ない思いを感じとったり。一方、映画じゃなきゃ観られない大好きなシーンもあった。少年時代の喜久雄と俊介が正式な稽古以外の場所でも橋の上で自主的に稽古していて、二人とも本当に踊りが好きなんだなあというのが伝わってきて幸せな気持ちになった。俊介の最後の演目のシーンは小説でも泣いたけど、映画でも同じくらい泣いた。小説の方がリハーサルのところから、描かれているので、よりハラハラしながらそして泣いてしまう。映画の最後の方で「あなたがここに辿り着くためにどれだけの人を犠牲したと…」という台詞があったけれど、犠牲という言葉はちがうんじゃないかなあと思う。喜久雄が芸の道に邁進した孤独な人というふうにとる人もいるかもしれないけれど、小説を読むと、本当はもっと豊かな人間関係があり、彼は決して孤独ではなく、人に恵まれ、本人も人に対して仁義を通したひとだったのだと思う。喜久雄の面倒をずっとみていた徳次の存在(これはほんとに大きい。なんならこの軸でもう一本、映画が撮れるくらい。印象的なシーンがたくさんある)、あと映画には全く出てこないけど、弁天との出会いとその後のつながり、力士との温かな交流、綾乃との葛藤がありながら孫を抱っこする幸せに浴することもできたこと、などなど色濃い人間関係が小説には描かれているので、映画を観て感動した人は、小説を読んだらさらに感動すると思うし、喜久雄への見方がまたちょっと変わるのではないかと思う。オーディブルにもなっていて、歌舞伎役者の尾上菊之助さんが朗読しているので歌舞伎のシーンはホンモノが聴けて贅沢です。(奇しくも尾上菊之助さんのお姉さんが映画では幸子役として重要な役割を演じましたね。)
面白い
歌舞伎は全く無知、なのに予告で惹かれて鑑賞。
公開後すぐに話題になっていた。
主演の2人が素晴らしい。
それだけでも見応えがある。
静かに人間模様が描かれているが退屈はしなかった。
むしろ3時間弱の映画でも描ききれていなかった登場人物達のその後が気になりもう少し長くてもよかったとすら思った。
転落からの復活、2人の再共演もあっさり。
その辺も物足りないがそれでも久々に終わった後の喪失感というか、言葉に出来ない気持ちで映画館を出た。
タイトルなし(ネタバレ)
家族で鑑賞🎥
絶対映画館で見たかったので、
行けて良かったです!
大迫力で、音楽、映像とてもいい。
吉沢亮の演技がとても魅了されました✨
歌舞伎一筋で生涯それしかいらないって
思える喜久雄が、羨ましいなって思いました。
命かけて、努力したことが
人生にあるのは素晴らしい。
歌舞伎って素晴らしい日本舞踊ですね。
楽しみました
踊りの謡のシーンがたくさんあり歌舞伎に疎い身には楽しくみることが出来ました。経験者や目利きにはまた違う感想があるのやもしれません。
物語の筋や展開がどうというより血やしきたりといった世界を垣間見ることが主眼の作品。
説明も最低限でノイズが少ないのも良かった。
寺島しのぶさんや渡辺謙さんらの大阪弁は…調子がズレてたなあ。舞台が上方なのでその言葉を使ったのでしょうが…関東弁でも良かったのかもね。
あと昭和40年代の大阪はあんなに綺麗な街ではありませんでしたよ。リアリティラインとか気にする部分ではないのですが、NHKの朝ドラみたいな画面に感じました。
懐かしい街並みを再現することには力を割かなかったのかも。
残酷なシーンもドサ回りのコミカルなシーンも田中泯も再起もすべては舞台を際立たせるため。
ミュージカル映画のように気軽に楽しめました。
まあまあだった
歌舞伎にそもそも興味がなくて、お高い感じがむしろ嫌いである。その上3時間もあり、見たい要素が一つもないのでスルーのつもりだったがあまりに評判がいいので気になって見る。すると、3時間が気にならないくらい充実していたが、しかしやっぱり興味のない内容であるため特に興奮も感動もしないまま終わる。
歌舞伎に興味が持てるかと期待はしたのだけど、早着替え、決めポーズばかりで迫力はあったけど特に面白くない。
横浜流星は『べらぼう』を毎週見ており、見慣れているはずなのに顔がよく分からない。くすんでいるように感じる。わざとなのか特徴を消すような工夫をしているのだろうか。
吉沢亮は背中に彫り物をしているからさぞ破天荒でめちゃくちゃするのかと思ったら、とてもまじめで、1回男を恫喝して暴行を働いただけだ。海老蔵の方が質が悪い。
二人ともしっかり芸に向き合っていて大したものだ。二人とも特にユーモアがあるわけでもなく暗い。あんまりキャラが立っておらず、好きでも嫌いでもなく、感情移入できないまま終わる。
見て損したとは思わないけど、見ても見なくてもどっちでもよかった。
鳥肌が立った。
やはり脚本有りき。これ以上削れば、ぶつ切り感が顔を出し、これ以上足せば、重く飽きてくる。血と才能、生と死、信頼と裏切り。凄く良かったです。与えられた物は全て受け入れる喜久雄、そしてその代償。現実を突きつけられ、奪おう(壊そう)とした女性に逆に救われ、文字通り足掻き続ける俊介。「順風満帆」な人生など何処にあると言うのだろう。此れではない、此処ではない、と思う事は誰でも一度はあるだろう。心の内は誰にも分からない。一皮剥いたら何が出てくるかは、本人でさえも分からないのでは無いだろうか。(一時脱線)
カメラワーク、カット割りが凄い。一体どれほどの手間と時間を掛けたのだろう。そしてラストシーン。是非、映画館で観てほしい。出来れば前の方の席で、スクリーン一杯に広がる映像の美しさに鳥肌が立ちました。
良かった。
主演2人が何となく好きではないので良かったのが悔しいくらい。大河の主役は伊達じゃないんだなぁ、見終わったらそんな事はどうでも良いくらい緊張感と存在感が迫る舞台だった。映画っていうより舞台って言った方が今の気分にハマる。
歌舞伎界の人達じゃないのにあんなに歌舞伎に足を運びたくさせるなんて…なんかもう頭が下がります。
序盤の永瀬正敏のカッコ良さから学生時代の2人を演じた子達の演技にも引き込まれて見てよかった。
2度目の演技とか同じ日になんか出来ないだろとかおもっちゃうんだけど、セットとか2回組んだのかな。他にも色々とどうやって撮ったんだろう。気になる。
パンフのテキスト量が多そうだったので読みたいなー
映画でしか見れないカメラワークも素晴らしくて舞台から見た景色や均衡というか近さみたいなものがこんなに感じられるもんなんだなぁと圧巻でした。
映像美は圧巻。プロットはやや雑
映像がとにかく繊細で素晴らしい。
撮影がアデルブルーは熱い色のソフィアン・エル・ファニというのを見て納得。
歌舞伎という扱い辛い伝統芸能を題材によくぞここまでの映画を作り上げたなと感心した。
問題のプロットだが、話の焦点が芸事への執念なのか、キクオとシュンスケとの因縁や友情の物語なのかがやや散漫になった印象。
少し欲張り過ぎて色々な要素を詰め込み過ぎた印象はある。
シュンスケの足の件や師匠半次郎の死もやけにアッサリと消化してしまったなと感じた。
また、キクオとシュンスケが過去の軋轢を超えて、再び舞台で共演するに至るまでの流れがバッサリカットされているので、1番見たかった美味しいシーンが見れなかった印象。
あとは主人公キクオの何を犠牲にしても芸事にかける執念のような部分もあまり強くは描かれておらず、娘を蔑ろにするシーンもパレードのシーンだけなので、最後の娘の言葉もあまり効いてない感がある。
もう少し色んな要素を交通整理してまとめてシナリオを練り直したら更に良くなったと思う。
「国宝」というタイトルも話の真芯に合っているかと言われたら合っていない気もする。最後に人間国宝になりましたという展開があるだけで、あくまでも記号。キーワードとして出てくるだけなので、
「国宝」という題にするならば、国宝というものが何なのか、映画としてもう一段深く掘り下げて見せて欲しかった。
それこそ歌舞伎なだけに話の筋にビシッと一本筋を通して欲しかった。
これは「ファンタジー」です?
背中に入れ墨のある「元ヤクザ」が歌舞伎役者になれるか?否。
ファンタジーとはいえ、リアリティの無い設定は、作品への没入感を減退させる。
一度『世界』に入り損なうと、粗探ししか出来なくなる。
「本業の歌舞伎役者さんじゃないから、仕方ないよね」
何で、観る側が俳優に配慮して観なければならないねん。
連獅子も二人道成寺も、カメラワークとズーム、カット割りで誤魔化されてる。
元ヤクザの人間が、歌舞伎役者に魅入られて歌舞伎の世界に入り、大役を貰う?
地道に下から稽古し続けている門下生達のやっかみとか絶対にあるハズと思うんだよね。
【中村仲蔵】の話みたいに。
そこらへん、全スルーだもんね。
映画を観た歌舞伎役者さんが言っていたが、「化粧が☓。あれは、メイクさんにやってもらったメイクだから、皆同じ顔になってる。本来メイクは、役者自身がやるもの」「メイクしたまま寝ない」「衣装の扱い方がゾンザイ」らしい。
まるで人間国宝になる事がゴールの様になっているけど、人間国宝の役目って「後継者の育成」じゃないの?
この映画の【歌舞伎】は、『リアル』な歌舞伎ではなく、『ファンタジー』の歌舞伎です。
ただ、この映画を観て、歌舞伎に興味が出たなら「シネマ歌舞伎」からでも観てほしいね。
実際の歌舞伎役者が演じたものは、もっとすごいんだよ。
男の世界。ウ〜ン、マンダム。
5〜6月は、別の趣味でカメラを持って出かけているので映画館へ行くのが少ないのだが、今月はやっと劇場鑑賞2本目。
カミさんが珍しくこの映画観たいと言うので一緒に「国宝」をTOHOシネマズ上野で。原作未読。
6月17日(火)
平日昼間でもキャパ392の劇場が七分以上の入りで年齢層高め。横並びの列に年配の夫婦が予告が終わる開映ギリで係員に案内されて来た。映画館慣れ?していないのか、しばらくおしゃべりがうるさい。映画館に普段来ない客層が足を運んでくれるのは嬉しいがこういうのはちょっと困る。
齢70を過ぎたが、恥ずかしながら歌舞伎座には行った事がない。3階席でも良いから一度行った方が良いと昔言われた事があったのだが。そういう点では、ある意味歌舞伎の世界は新鮮であった。
上方歌舞伎役者の花井半二郎(渡辺謙)は、招かれた長崎・立花組組長立花権五郎(永瀬正敏)正月の宴の余興で「関の扉」を舞う権五郎の息子喜久雄を観る。その才能に眼を見張るが、二人の眼の前で殴り込んで来た他の組の者に権五郎は射殺されてしまう。
喜久雄を引き取った半二郎は、喜久雄を同い年の自分の息子俊介と一緒に芸を磨かせ、歌舞伎役者の女形として仕込んで行く。
半二郎と俊介(越山敬達)が舞う「連獅子」を舞台袖から観る喜久雄(黒川想矢)。
二人が成人した後、交通事故で舞台に立てなくなった半二郎は、自分の代役を息子の俊介(横浜流星)ではなく喜久雄(吉沢亮)を指名する。緊張で震えが止まらず化粧が出来ない喜久雄に化粧を施す俊介。
父の代役で「曽根崎心中」の舞台を見事に務め上げる喜久雄の才能にショックを受けた俊介は姿を消す。それに気づき俊介と行動を共にする春江(高畑充希)。
「曽根崎心中」のお初徳兵衛の道行きとリンクして描かれる春江と俊介。
とうとう喜久雄は半二郎を襲名する事になるが、襲名披露の舞台で先代半二郎は糖尿病のために倒れ、亡くなってしまう。(倒れた時に呼ぶのは隣にいる喜久雄ではなく「俊坊!」)
いくら才能があっても血筋がない喜久雄は大旦那が亡くなれば歌舞伎の世界ではセリフもないような役しか貰えない。
そこへ俊介が花井半弥として歌舞伎界に戻って来て脚光を浴びる。喜久雄は背中の刺青や隠し子のスキャンダルで奈落に落ちるように姿を消すのだが…。
「関の扉」「二人道成寺」「曽根崎心中」「鷺娘」といった演目が複数回演じられる。演者を替え、或いは替えずに。(親子で舞う「連獅子」は一度のみ)
この構成は良かったと思う。吉沢亮は「曽根崎心中」でお初も徳兵衛も演じる。
「鷺娘」では田中泯と吉沢亮の比較もある。ソフイア・エル・ファニのカメラも素晴らしかった。
「ぼくのお日さま」のタクヤ越山敬達が、若き日の俊介を、「怪物」の黒川想矢が若き日の喜久雄を演じている。彼らも吉沢亮みたいにどんどん吸収して育って行くのだろうな。
結局、歌舞伎界と言うのは男の血筋の世界と言う事か。吉沢亮、横浜流星、田中泯、渡辺謙の演技が素晴らしいのは言うまでもない。女優陣の演技も素晴らしいのだが、女性の側の描き方が足りない。
母(宮澤エマ)のその後は。見上愛はどうなったのか。何故、春江は喜久雄と一緒に刺青を入れたのか(若き日の高畑充希(春江)役の娘も良かった)、恋人喜久雄を捨て俊介を選んだのか。彰子(森七菜)はあの後どうなったのか。唯一、その後が描かれたのはカメラマンとして登場した瀧内公美くらいだ。(これがまた良いのだな)
男性側も充分ではない部分もある。人間国宝の万菊は何故あんな安宿に住んでいるのか。それでいて喜久雄の事を何で知ったのか。俊介が亡くなった後、喜久雄はどうして人間国宝になるまでになったのか。
人間国宝となる男の50年以上の人生を描くのには2時間55分でも短かったのかも知れないが、もう少し編集に加減と工夫があっても良かったのではないか。
映画は、省略の芸術でもあるのだ。
おまけ
母は原爆症で死んだと言及があったらしい(長崎だから?)。聞き逃した。
実の母親は亡くなり行くところがない、と言うのは聞き取れましたが原爆症で、というのは聞き逃しました。
吉沢亮と横浜流星はどれだけ練習したのだろうか?
主演の吉沢亮と横浜流星、どんだけ練習したんだろう?凄ご過ぎる。圧巻。多分、多くの人が歌舞伎を観た人はそんなに多くないと思うけど、素人でも良い悪いは判ると思う。
私の姉は5歳からピアノを始めて毎日練習をして音大に進んだが、姉は色々言っているが、姉のピアノを一度も上手いと思った事はない。
ピアノに詳しくなくてもプロで活躍している人のピアノは上手いと思うし、上手い下手は素人でも判ると思う。
歌舞伎役者から見たら彼等の演技はどう写るのたろうか。聞きたいくらいだ。
主人公の喜久雄は子供の頃に歌舞伎役者半二郎から認められる程の天才。
それは交通事故で代役を実子の俊介より喜久雄を任命する位に。
以前に歌舞伎役者が学生の時の良かった事は?「将来が決まっている事」悪かった事は?「将来が決まっている事」と書いたと聞いた事がある。歌舞伎では家業を継ぐのが当然。世襲の世界。
映画で心に残った台詞は俊介が稽古中、「貴方、芝居が好きじゃないでしょう」と言う台詞。自分の生まれだけで歌舞伎の道を歩ませられた俊介。本当はそんな考えがあったかもしれない。「憎くでも演じ続けなければならない」と言う台詞にも考えさせられてしまった。
代役に抜擢された喜久雄は俊介に血が欲しいと言う。自分に足りない家系という血が。
しかし、喜久雄の演技の素晴らしさに逃げ出してしまう俊介。それを追う喜久雄のガールフレンド春江。やはり喜久雄は天才なのだ。
世界一の演者になれる様に悪魔と契約する喜久雄。全てを犠牲にしても。
半二郎の死で3代目を就任していた喜久雄は何年も帰って来なかった俊介の帰還と共に後ろ盾を無くして転落する。
歌舞伎役者の重鎮の娘と放浪をするが、人間国宝の万菊の呼びかけで、また歌舞伎の舞台に復帰する事が出来る。
観ていて、何故、人間国宝の人の前で踊って復帰に繋がるかよく解らなかった。口添えがあって後ろ盾が出来たって事だろうか?この人間国宝の万菊は初対面の時からも喜久雄の才能を見抜いていた。その位、喜久雄は才能がある。
舞台に復帰して俊介と二人で歌舞伎を盛り上げるが、俊介が糖尿病で足を切る事になる。
片足になった俊介は「曽根崎心中」で喜久雄との共演を申し出る。ここの俊介の流星は凄い。舞台で倒れても演技を続ける。涙の中で演技を続ける喜久雄と俊介。
数年が経ち俊介が亡くなった事が判り、喜久雄が人間国宝に選ばれる。その取材の中、カメラマンをしている女性が芸妓の間で出来た娘だと判る。娘は悪魔の契約の通りになった事と喜久雄の舞台を観る度に正月が来た様な別の所へ連れて行ってくれる楽しさを感じていたとも。
舞台で踊る喜久雄は降る紙吹雪を見て「綺麗やわ」と呟く。
ともかく映像が綺麗。
何度も言うが吉沢亮と横浜流星の演技が素晴らしい。
3時間を感じさせない。
今年の日本アカデミー賞の多くを獲ると思う。
全キャスティングが素晴らしかった
ストーリーを超えて、、
吉沢亮がすごい。
横浜流星さんがいい俳優なのは[春に散る][正体]で知って驚いていたんですが、、
吉沢亮さんも[キングダム]で二役演じ分けていていい俳優だなあくらいに思っていたんですが、今回は次元が違って。
このお二方、イケメン俳優売りされていたり、事務所が推したりでいろいろ言われたこともあると思うんですけど、実力で見返してやろうと努力されたんだろうなと思います。
このストーリーともリンクするような。
水面に浮かぶ白鳥ですよ、、すごい。
このまま力をつけて、日本を代表する俳優になるんだと思うとそこにも感動してしまいます。
葛藤や狂気、皮肉で美しい作品でした。
悪魔と取引をしたと喜久雄も自覚しているんですよね。
そこが残酷で人間らしくて。
春江も背負っているものが同じで魂の繋がりがある喜久雄ではなくて、俊介を選んだのがまた、、
それも喜久雄のためだったように思えたり、本能で流れたようにもみえる人間らしさでもあるように思えたり
喜久雄に翻弄された女たちもまた、、
万菊の全てを見透かしたような目と語り。シシガミ様のようで国宝というよりは神のような。
血筋に翻弄された2人
この2人でなければこのレベルの作品にはならなかったと思いました。
上質な作品でした。素晴らしかった。
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