国宝のレビュー・感想・評価
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それでもいいの それでもやるの
(人間)国宝
文化財保護法第71条第2項に基づき
文部科学大臣が指定した
宝物や建築物などでない技能などの
「重要無形文化財」の保持者として
認定された人物を指す
人間国宝という言葉は俗称で
法定上は単に「国宝」である
国宝に認定されると助成金が
年額200万円ほど支給される
吉田修一原作李相日監督コンビは
ヒット作「悪人」「怒り」に続き3作目
人知れぬ歌舞伎の世界を
舞台にした人間模様を描いた今作
いんや凄かった
なにせ歌舞伎役者を演じるのは
吉沢亮 横浜流星ら
いつもの俳優というところである
当然梨園の方の指導によって
作られていくのだろうが
実際に檜舞台での演目シーンの
緊張感が半端ないのである
そして撮影
ソフィアン・エル・ファニの
外国人特有のアングル
一体これは何を観ているんだ
という感覚にさせられるのである
歌舞伎が題材なのだから
梨園の歌舞伎役者がやってしまえば
きっとこんな感覚にはならない
それでいて訴えるものが
すさまじい
「鷺娘」「二人道成寺」「曽根崎心中」
有名な演目を「てんどん」する
ことにより得られるそれぞれの思い
の演出など歌舞伎のしている
本質を追求しようとする
素晴らしい完成度でした
親を殺された任侠の息子喜久雄の
女形の才能を見抜き引き取った
花井半二郎が息子俊介と芸を磨かせる
うちにたった7年で生まれた時から
しごいてきた俊介を
半二郎の芸の観点で抜いてしまう
そして突然訪れた半二郎の
曽根崎心中の代役に選ばれたのは
「磨き上げた"芸"で身体が勝手に動く」
喜久雄
「花井の役者の"血"が守ってくれる」
はずの俊介も心のどこかで喜久雄を
認めていたが
演じ切った喜久雄に衝撃と絶望
喜久雄の邪魔にならぬよう
身を引いた幼馴染春江と
失踪してしまう
こうしてこの映画は常に
舞台の上で与えられた
役者の演技の衝撃によってのみ
話が進んでいく演出が効く
やがて半二郎は糖尿病を患い
その名を喜久雄に譲ろうとする
周囲は当然異論を唱えるが
これは俊介の失踪もあるし
芸の側からの英断であった
そして白虎を襲名するが
襲名挨拶の場で壮絶に果てる
週刊誌はスキャンダルに走り
やはり暴かれる自身の任侠の過去
隠し子などで転落していく
そこへドサ周りをしながら
俊介が戻ってきて
若いころの喜久雄に
「その美しい顔に負けない役者に」
と告げていた国宝・小野川万菊の元で
歌舞伎をやり直すことに
立場は逆転してしまう
やはり最後は「血」か?
というと俊介は遺伝か父と同じ
糖尿病に侵され足を切断せざるを
得ない事態に陥ってしまう
ではやはり「芸」か?
というと才のある芸で人は魅せられ
花井家の父から子供に継がれる
道を壊してしまった悪魔の力である
喜久雄も俊介もその苦しみを味わい
迷うところで万菊は
「あなた 歌舞伎が嫌いでしょう」
「それでもいいの それでもやるの」
「それが役者なの」
という言葉は響く
役者の演じにはその役者の
人生や過去が乗り移るらないと
出てこないという事か
芸か血か
どれかだけじゃなく
どれも染みるほど苦しみを
味わってきた者こそ
日本一の最高の役者になっていき
国宝級になっているもの
なのかもしれない
不倫や不祥事などのイメージ失墜
だけでバタバタ消えていく
昨今の芸能人
果たして人前に現れていいのは
潔白な聖人だけなのでしょうか
そりゃ限度もあるが
禊はあってもいいと思う
それは芸の肥やしだから
でなければ誰も出なくなる
30年前上岡龍太郎は
芸人なんてものは
売れれば万歳
売れなければあとは哀れ
野となれ山となれ
そもそもまともな商売や
ないんです
最近のテレビ
女性も子供も安心て観られる
テレビなんて目指したら
芸人の居場所はありまへん
と言ってましたが
本当に今そうなってませんかね
もっと「棚」のある世の中で
いいんじゃないかと思う作品でした
見事に演じきり
この作品の真髄に本当に迫った
役者・吉沢亮や横浜流星らの
今後も期待ですな
順風満帆
脚本、撮影、美術、照明などそれぞれの完成度が高く圧巻の大作に仕上がっている。中でも際立って魅せられたのは、吉沢亮さんや横浜流星さんを始めとする俳優の皆さんの演技力だ。配役と向き合い演じきるために相当な努力をされたことがビリビリと伝わってくる。
異例の年齢で人間国宝になったときのインタビューで順風満帆の人生と評されていた。でも本人にとってはそんなことはまったくない。山あり谷あり、血に翻弄され自分ではどうにもできないことに苦しみながら人生の答えを探し求めていた。自分と近しい人にしかわからない真実。
最後の舞台では、舞台裏を歩いているときにこれまでの演目の小道具大道具が置かれていた。人生を振り返っているようだった。
エンドロールの後、劇場が余韻に包まれた。
すごいとしか言いようがない。
今まで見た映画で一番濃密な3時間だった。人生の中で一番かもしれない。最初からエンドロール終わるまで、隣の席のこと忘れて没頭。
Netflixに頼らなくてもすごいもの撮れるんだ。アイスクリームのように溶けていく日本映画ばかりの中で、歴史刻んだ。
脚本、編集、映画芸術としての舞台、役者の鬼気迫る演技。全てが素晴らしい。
李監督、スタッフ、役者さんのすべてに感謝したい。
凄まじい歌舞伎シーン
人間の狂気を描いた作品はとても好きなので期待してました
期待を超えてくる凄さでした
演技とか映像とか凄すぎて圧巻
約3時間と長いが次から次に展開が進んでいってあっという間に終わってしまった
ラストはもうなんかただただ画面からの美しさと覚悟と感動が一気に押し寄せてきて
言葉じゃ言い表せない感情になる
歌舞伎のシーンが凄まじい
吉沢亮の曾根崎心中のシーンとか歌舞伎の知識はほとんどないけれど衝撃を受ける
横浜流星の曾根崎心中も衝撃
1年半の稽古の努力が凄く伝わってきました
あとは田中泯の演技もとても存在感がありました
また、これは映画全体を通しても言えるが色味や、光と影の演出が素晴らしかった
序盤の方で東一郎が竹野にキレるシーンがあるけどその時の吉沢亮さんの演技が怖かった
狂気の世界と出会い別れ、苦悩が3時間の中に濃密に描かれていました
間違いなく世界で評価される作品でしょう!
歌舞伎に人生を捧げた彼らの壮絶な人生
歌舞伎に人生を捧げる理由
心が揺さぶれられっぱなしでした
日本人が知ってる様で知らない“歌舞伎”の世界 役者の“華”は簡単には作り出せない
当代の“人気役者(大河主演)”の吉沢亮と横浜流星が、“舞台”で演ずる舞に“美しさ”を感じた。
勿論、日舞の手習をしていた訳では無いのでその良さ・真髄がわかっている訳では無いが、それでもその姿に美しさや優雅さを感じたのなら、それが正解だと思う。
「歌舞伎を観た事が無い」と言う観客が観て、面白い、素晴らしいと感じたとしたら、それはこの二人に役者としての“華”があるからだ。それは、歌舞伎の御曹司が生まれもってきた“血”とは一味違う“役者としての素質”かもしれない。
その道のプロフェッショナルを演じる事は容易では無い。
ドクターしかり料理人しかり、それが実在した人物なら尚更だ。
「ボヘミアンラプソディ」のフレディ・マーキュリー、音楽はクイーンの音楽に吹き替えられていたがラミ・マレックの演技も作品も素晴らしかったし、「天皇の料理番」を演じた佐藤健の包丁捌きは目を見張るものがあった。一流料理人からすればまだまだとしても、あの包丁捌きは木村拓哉演ずる「グランメゾン東京」のシェフより見応えあったと思う。
本作でも、上方歌舞伎の名門・丹波屋当主の花井半二郎役を演じた渡辺謙は「僕らごときに歌舞伎ができるわけがないですから真似事でしかありません」と謙虚に語っているが、渡辺謙も大河主役は勿論のこと、ハリウッド作品やミュージカルの主演も務めた、日本を代表する“役者”だ。
歌舞伎の看板役者となると、月に25日昼夜3〜4時間の公演に、稽古が5日、それが12ヶ月でざっくり見積もって360日“歌舞伎”を演じている。当然、そんじょそこらの役者が真似したとしても、早々にその立ち居振る舞いが板につく訳無い。
それでも、この作品には映画としての面白さがある。
もしこの二人が梨園の御曹司だったら?さぞ世の話題をさらったであろうし、そんな二人が映画の中で舞い踊る姿には正直魅了された。
歌舞伎の演技監修・出演もした中村鴈治郎曰く「賛否両論があるでしょう。でも、歌舞伎の記録映画ではなく、歌舞伎を題材にした人間ドラマですから。絶対に映画として成り立っていると思います」
正に本作の本質だ。
歌舞伎のご贔屓さんから見れば恐らく粗だらけ、それでも歌舞伎どころか舞台を観に行った事が無い多くの人に伝わるものはあると思う。
本作は“歌舞伎”の映画版では無い、そして歌舞伎の世界を知ってる様で知らない、“歌舞伎”を観たことが無いであろう多くの観客に伝わる何かがあれば、それが大正解な作品なのだと思う。
繰り返し言うが、吉沢亮と横浜流星の“演技”する舞は、物心着いた頃から身につけてきたものでは無いし、通し狂言「菅原伝授手習鑑」の全五段上演時間だけで約7時間半の演舞ができるはずも無い。映画で演ずる演目・舞は極々一部に過ぎない、それでもスクリーンに映し出されたその姿に、魅力や美しさを感じる事が出来ればこの作品を観る価値は大いにあると思う。
そして、恐らく今年上半期邦画作品を代表する一作として日本アカデミー賞の候補にも上がってくるだろう大作となっている。
ただ、この作品に少し違和感を感じた事も事実。
縁があって六代目 中村 歌右衛門さん、四代目 坂田 藤十郎さん、五代目 坂東玉三郎さんなどいわゆる“人間国宝”と呼ばれる重要無形文化財保持者の方とお会いしている、まだ幼い時や小中学生の頃父に連れられ楽屋にお招き頂いた。そんなご縁もあり結構な演目を観劇させて頂いた。当時は、正直あの独特な台詞回しが分からずだったが、「菅原伝授手習鑑」や「仮名手本忠臣蔵」、夏に開催される納涼物などは立ち回りや舞台転換も多く、子供ながらに面白いと思った。
時には、客席の盛り上がりにつられて「成駒屋!」なんて掛け声を掛けると、“威勢のいいガキンチョの掛け声に”大向うのご贔屓さんが「〇代目!」なんて絶妙な間合いの掛け声がかかり、子供なりに楽しんだものだ。
本作も、吉沢亮と横浜流星が舞台で演ずるシーンで、満場の拍手はあるのだが大向うの掛け声が無い(正確には無い訳では無いが、普段舞台で感ずるほどの絶妙な間合いでは無いので何か物足りない)。
原作者も監督もテキトーな“屋号”をあてがう事を良しとはせず(丹波屋だけ)あえてそうしたのかもしれないが、映画の中の客席にいる“観客”が“出演者”になってしまっていた。
映画やテレビと違い、舞台空間を作り上げるのは役者だけでは無い。観客と共に一期一会な時と場を作り上げるのが舞台だ。
映画としての面白さはあったが、その劇中劇として描かれた“舞台空間”が描ききれなかったのはやや残念かもしれない。
(余談だが、大道具さんの雪は鳥肌ものに素晴らしかった、多少VFXで調整したのかわからないけどラスト「曽根崎心中」の“舞台映像”を相当引き締めていたのは間違いない)
それともう一点、気になったのはやはり台詞回し。歌舞伎では顔や姿も大切だが、あの口跡はやはりそう簡単に演じる事は出来ない。
その違いは、是非本物の舞台で肌で感じるのが一番良いかと思う、機会があれば是非生の“舞台”に足を向ける事をおすすめしたい。
因みに、本作では歌舞伎界の「世襲」が話しの大きな筋となっている。
2025年八代目尾上菊五郎襲名、中村屋ファミリーのドキュメンタリーや市川團十郎親子の姿が茶の間に映し出されると、ついつい「梨園は世襲が当たり前」
と思ってしまう人は多いのだろう。受け継ぐ主体が血縁者というのが“世襲”と言えるのは言うまでも無いが、歌舞伎界に於いては「家芸」の継承が最も重要視され、決して実子・血縁だけに受け継がれてきた訳では無い。
十四代目守田勘弥は実子を遠ざけ玉三郎を養子にしたのは家芸を伝承する為の選択肢だったのかもしれない。
坂東玉三郎は人間国宝となっている。ではその他の家はどうだろうか。
十三代目 市川 團十郎 白猿の祖父は、七代目松本幸四郎の長男十一代目市川團十郎だが、七代目幸四郎は役者と無縁な伊勢の土建屋の三男から養子縁組され大名跡を継ぐ迄に襲う。亡くなった中村屋の十八代目中村勘三郎の祖父は中村歌六という、元来高名では無い役者であったが兄の初代中村吉右衛門の活躍などにより家格が上がった。江戸時代は養子縁組も頻繁、現代でも女形は日常生活も“女性”であった一面もあり実子をもつことも減じられたりもした。
市川團十郎名跡の異色は、死後襲名した十代市川團十郎。銀行員の家系から九代目市川團十郎の長女実子と恋愛結婚、29歳にして歌舞伎役者に転向した、大成はしなかったが市川團十郎不在の市川宗家にあってその代つなぎとして絶えていた歌舞伎十八番を次々に復活上演。意欲的な舞台活動と研究によって市川宗家の家格を守り抜いた。五代目菊五郎には中々子供が授からず、養子を取り後継者として「菊之助」の名を名乗らせていたが、妾との間に実子が産まれると不仲となり名を捨て上方芝居の世界に、実子が六代目菊五郎、その養子七代目尾上梅香(人間国宝)は本作でも出演した寺島しのぶ・八代目 尾上菊五郎の祖父(父七代目菊五郎も人間国宝)にして、赤坂の芸者の三男として産まれている。
歌舞伎の名跡は、あくまで実子だ養子だなどという名前ではなく「芸に譲る」というのが基本だが、そうだとしても物心着いた時から芸に触れるという事は大きい。そして、名跡は決して一子相伝的なものでは無い、名前は勿論、家族・兄弟・友人・お弟子は元より会社やなんと言っても観客によって一人前として育て上げられる。そして、まだ若いうちは演ずる事、芸事の精進にひたすら努めれば良いのかもしれないが、座頭となれば当然如何に興行するかが重要になる。
ふと思い出す。
四代目市川猿之助・・・。
正に天才役者だ、華もあれば演技も別格だった。
ただ、澤瀉屋は歌舞伎界でも少し特殊な存在、初代は9代目市川團十郎の弟子だったが破門になり、やがて許されて復帰。
2代目も、新劇に出たりしながら松竹に反旗を翻したこともある。
3代目は23歳で猿之助を襲名したが、直後に祖父(2代目)と父が亡くなったので、「劇界の孤児」となった。後ろ楯のなくなった3代目猿之助は、大幹部の誰かに頭を下げて一門に加えてもらうしかなかったが、それを断り、自分で独自の公演を始めた。スーパー歌舞伎など独特な世界を作り上げたが、歌舞伎界の異端児的扱い(悪く言えば色物扱い)。そして、四代目は弟・4代目段四郎の子、市川亀治郎。実子の香川照之が9代目市川中車を名乗った頃から歯車は狂い始めていたのかもしれない。
四代目猿之助襲名時亀次郎は「ずっと亀治郎でいたい」、「生涯一役者として生きたい」と言っていたと言う。役者として、「猿之助の芸」は継ぎたかったが「一門の長」になる気は本当は無かったのかもしれない。
それでもさまざまな事情で、「猿之助」になってしまった。
その後の顛末は、世の多くの人が知っているだろう。
名跡を継ぎ、座頭になるという事はただひたすら“芸事に打ち込む”事だけでは済まされない事だ。そこには芸の上に、一門を率いるリーダーたり得る素質も必要とされる。
「天才であること」と「組織のリーダーであること」はときに矛盾する。
その両立ができず、己の矛盾が臨界点に達したのかもしれない、猿之助さんのあまりにも衝撃的な事件を思い出すと、この作品の見え方も変わってくる。
そして、一人の“人間”としての「人間国宝(重要無形文化財保持者)」。
その名が如何に偉大なのか感じずにはいられない。
今まで取り上げられそうで無かった「日本人が知ってる様で知らない歌舞伎界」の人間模様。中々見応えある作品だが、3時間近い時間があっという間に過ぎた。
(ただし、最後に一言「100年に一本」や「国宝級」はさすがに言い過ぎかと思う)
「ガラス玉のような目」に映った喜久雄の孤高の姿
小説を読んだ後に映画を観ましたが、あの壮大な物語を3時間余りに凝縮し、物語の核を鮮やかにすくい取った脚本と演出に心を奪われました。
人間国宝として認定された後の場面は、原作にはない映画独自の演出でしたが、喜久雄の到達点をより鮮明に示しており、その孤高の姿が胸に迫りました。
「ガラス玉のような目」に映し出されたものは、もう戻ることのない何かを知ってしまった人間の哀しみと、それでもなお芸の道を究めようとする凄みだったように感じます。
田中泯さんが演じた役どころも圧巻で、その一挙手一投足に人生の重みを感じました。
小説で喜久雄の良き理解者として存在を放っていた徳次が描かれなかったのは少し残念でしたが、その分、喜久雄という芸の求道者に焦点が絞られ、孤高の光が一層際立っていたと思います。
映画としての結末も、小説とは異なる角度からの喜久雄の到達点を示していて、作品全体に深い余韻を残したと思います。
目が感情を表していました。
田中泯さんが吉沢亮さんを踊らせた時、それまで光っていなかった目が踊り出すと同時に光出す。
音がない場面でしたが、芸は武器よりも強いことを凄まじく表現していました。ところどころ様々な俳優さんの目が強調され、その場面が伝えたい物の説得力を増していました。歌舞伎の足の音、小道具の音、それを実感するために、映画館で見るべきだと思います。
原作大ファンとしては
原作ファンあるあるで申し訳ないが、
国宝は吉田修一の最高傑作だと思っているので、その分期待し過ぎてしまった
期待のため初日に2回連続で見ました
不満な点は3つ
歌舞伎界に復帰してからの喜久雄の孤独と絶望が圧倒的に描き足りない
不幸を喰うと敬遠され周りを寄せ付けずひとり芸にのめり込んで孤高を極めていく姿がなかった
綾乃からのとどめの一言もあんな風に変えられてしまって、
映画だけ観た人には何が伝わったのかな
簡単に人間国宝になったみたいに感じられたのでは
原作で嗚咽するくらい泣いたラストシーンもどう描かれるか期待したが、まあ、そりゃ、解釈の違いでしょうけど、え?って
これで終わりなんだ…
春江のキャラも謎だった
高畑さんて大河でもそうだったけど若い頃演じる時に声高くするのやめた方が良いと常々思っているのだが、そのせいもあって春江の強さや決意が全く伝わらなかった
余談だが藤駒の若い頃の舞妓姿が似合わなすぎてびっくりした
田中泯さんが本当に凄かったのに、へんな演出(エフェクト)加えたのも冷めた
悪人の時と同様、「賞とる映画」って感じで、
3時間あっという間で流石っていう感想です
竹野役の三浦さんもすごく良かったです
三時間
たしかに
見ごたえのあるシーンもあったけれど
やっぱ三時間は長い…
正直尿意との戦いになってくる
(実際途中で抜ける人もそれなりいて、終わった後トイレが長蛇の列だったし)
中盤の吉沢亮の覚醒演技は
見ごたえはあったけど、
三時間の割には、
それを超えるものが
後半になかったかなぁ…とも
これならもう少し短くしてもよかった気もしないでもないけど、
雰囲気的には必要な長さなのかな?
ただ『歌舞伎』という普通じゃない世界が
普通に違和感なく見れてるのは
かなり苦労や工夫があるのは間違いないとは思う
そして全員演技が上手い
素人感はない(と素人の自分が思ったり)
自分にとっては映画は「面白いかどうか」「退屈しないかどうか」が
まず一番だからチョット評価低めだけど(アクションシーンが多ければ面白いとか単純なものではなく)
テキトーに歌舞伎やってみました作品ではないのは確かと思う
これほど美しい高みを私はまだ知らない。
本日観てまいりました。
全てが美しく完成され凄みと気迫に満ちた、映画自体が芸術だと感ずる圧巻の作品でした。
自身としては、この作品の妙は本物の歌舞伎役者が東一郎、半弥を演じなかったことにあると思う。
稽古の厳しさ、人生における理不尽、芸に取りつかれる姿、そういったものは今現役の歌舞伎役者の方が演じられたら、逆に完成され過ぎてしまっており、入れ込めなかったかもしれない。
吉沢亮さんはじめ、歌舞伎役者では無かったからこそ、“歌舞伎役者となり、人間国宝となっていく”過程に対してのある種の気迫があったように思う。
世の中には、完全体ではない者にしか生み出せない美というものは絶対的に存在すると強く感じる。
登場人物に話を移すと
東一郎の人生は幼少の頃目に焼き付いた景色を“美しい”と感じ入ってしまったことから、その人生が決まって行ったように思う。
私には万菊は“悪魔”のように、竹野は映画館にいる我々のごとく映った。
竹野には、芸に身を捧げる東一郎の姿が目に焼き付き、ビジネスという観点から離れ、人間として彼の姿に入れ込むようになっていたのではなかろうか。
この作品では、“血筋”というものが現実の梨園よろしく重要な言葉となっているように思うが、本来正当な筈の後継者であった半弥が、父と同じ病に倒れる部分は、東一郎と半弥の2人の明暗を分けることにも繋がり、とかく人の世はなんと苦しくままならぬものなのだろうと…言葉にならない思いが頭を駆け巡った。
それでも、(父は成し得なかった)“舞台を演じ切る”という命懸けの想いは、その作品と結びいてもおり、震えるほどの感動を呼び起こした。
嗚呼、役者というものは自分の命そのもので役を生きていくことなのかと腑に落ちた。
東一郎については、部屋子という立場であり、血筋というものがなく、後ろ盾もないからこそ、芸に没頭する自由をある種持っているようにも感じたが、
だからこそ自分の見た景色を追い求め、
徐々に修羅となり、芸の悪魔となっていく姿は、この世の人ならざる美しさであった。
元々顔貌の美しさを携えていたとはいえ、外側の部分だけでなく、彼の幼少期からの内側の積み重ねが1つの芸の頂点を極めたのだと感じ入り、様々なしがらみがある中でよくぞ…演じきったという想いでいっぱいになった。
クライマックスで、かつては自身が怪物と恐れた万菊の鷺娘の姿と重なるような東一郎の姿は、これを国宝と言わずしてなんであろうと思うほどの万感の情を引き起こした。
これほどの作品を、俯瞰的かつ機微を仔細に描いた監督にも天晴れである。
こうした骨のある美しい作品がまだまだあったのか…と驚きと感動で満たされた。
3時間ではまだまだ足りぬ、東一郎の生き様を最後まで目に焼き付けたいと思ってしまった。
私の観た邦画史上ナンバーワンの作品です。
何も言うまい
本当に素晴らしかった。
歌舞伎を観たくなった。
冒頭から引き込まれてそのまま最後まで。
映画館で嗚咽したのは枯れオヤジ56歳、生まれて初めてです。どうか、劇場で御覧になってください。
芸の世界の凄みを体感!
前評判がかなり高いので、期待していきましたが、見応えありました~。
出番前の緊張感、本番中の息遣い、かなりリアルな演出ですので、見終わった後はぐったりです。舞台の上の緊張感が(もちろん実際の比ではないでしょうが)味わえます。裏方目線のカメラワーク、すごいとおもいました。
私は歌舞伎は観たことありませんので、通の人からしたらどうなのかわからないけれど、役者さんたち、かなり凄かったと思います。子役も、渡辺謙も、横浜流星も、吉沢亮も圧巻の演技です。どれだけ稽古したのか、それを想像するだけで役者の世界の凄さを感じるし、それが歌舞伎の世界の凄みの表現に繋がっているとおもいます。
命を削って舞台に立つ。それがまったく大げさな表現ではなく、ほとんど狂気に近い、究極的には才能も血筋も超越した世界。「あんな風には生きれないよな」と三浦貴大がつぶやくシーンがありますが、選ばれた人だけが到達する世界なんだと思います。それがとっても美しく描かれていました。
惜しむらくは高畑充希演じる春江の描かれ方。二人にとって重要な人物で、高畑充希という演技派を使ってながら、ちょっと生かしきれてなかった感じがしました。少女の頃からかなり喜久雄(吉沢亮)寄りだった気がしましたので、俊介(横浜流星)にいってしまったのが、唐突な感じがして、「え?なんで?」という違和感が否めませんでした。たぶん、自分がいないとダメな方にいってしまう尽くすタイプの女性なのでしょうが、結局梨園の奥様におさまってしまうし、中途半端な人物像だと思ってしまいました。
あと、人間国宝のお許しが出て、喜久雄が歌舞伎に戻れるシーンがありましたが、それもなんか唐突な気がしました。だって、人間国宝なのにもう権力もなさそうだったし、「今さらなんで?」でした。原作ではその辺がもっと詳しく描かれてるのかもしれませんね。
まあ、でもこういう些細な違和感は歌舞伎のシーンの凄絶さで吹っ飛びましたので、それだけでも必見です!
年に1本しか見ないなら、コレを見よう
3時間近い長尺ながら、最初から緊張感のある場面、エピソードが続き、最後までスクリーンに釘付けされる映画である。
こんなのは滅多にないよ。年間100本見たとしても、あるかないか、のレベルだ。
ぼくは年に10~20本程度しか見ていない映画ファンだけど、数年に1本お目にかかれるかどうかという完成度だ、と思う。
吉田修一原作、李監督の過去作品も見ているが、過去作をしのぐ熱量だった。
役者の迫真の演技に加え、松竹が全面協力したんじゃないか、と思うくらい歌舞伎芝居の舞台裏の雰囲気もうまく出ていた。
映画の世界では、ライバルというべき東宝が配給だけれど、ミュージカルその他実演も多数手がける東宝だし、一時期は松竹に対抗して歌舞伎公演もやっていた。ある意味、歌舞伎の世界をこんな形で描いて、松竹の鼻を明かしたようにも映る。
純粋な歌舞伎ファン、演劇ファンが吉沢、横浜らの芝居をどう見たかは知らない。しかし、李監督による本作は、映画的にはかなり成功し、歌舞伎や日本舞踊の魅力をスクリーンを通して感じさせた。
主人公が「人間国宝」になる、というある意味ハッピーエンド、成功譚なのだが、それを編年体で追い、これだけの映像にまとめるのはすべてにおいて高い水準がないとできない仕事だ。
中途半端な映画をたくさん見るより、これ1本見ておけばよい、と言っておこう。
封切りから4日、休み明け月曜の昼間ながら、東京都心のシネコンは8割ほども客が入っていた。やはり映画好きはよい作品を知っている。
絶妙に惜しい感
原作読了済み
尾上右近がナレーションのAudible版がまるで壮大な映画のようで、ものすごく浸れたのもあり、
実際に映画になったらどんなかと、かなり楽しみに劇場へ
場内のお客さんはかなり年配の人が多めな印象でした。
もとより数十年のひとりの人生を描いた作品なので、三時間あるとはいえかなり省略しないと入りきらないのは当然なのはわかります。
が、歌舞伎の舞台部分を中心にして描いていた本作は、画像的な華やかさは勿論あって良かったのですが、もう少し各所に説明入れた方が話わかりやすくなったのかなぁ?と
なかなか難しいのはわかりますが、唐突に登場人物が出てきては居なくなるような感じで(原作もそういう面がないわけではないのですが)セリフというか、会話を控えめにしていたせいか、ちょっと原作未読だとこれわかりにくいのでは?と思うところが何回か。
朝ドラみたいに、第三者のモノローグとかもしかしてある方がわかりやすかったかなぁとは思いました。テレビじゃないから、現実的な演出ではないですが。
昭和のオリンピックあたりから始まる物語なので、時代的なことはただ年号でなく、時代を表すような絵をカットに挟むとかしたほうが、そういう時代なんだな、とか観て直感的に理解しやすかったかもな、とか、
なんとなく全般的にもう一声!って感じの残念さがありました。
時代背景も知っていて観るのとは受け取れる情報が違うかなぁって。
関西歌舞伎の凋落とか、地方巡業のこととか、そのあたりの説明も全部端折られてるので、歌舞伎に普段縁のない人には、どさまわりしてる時との小屋の違いもわかりにくかったのでは?とか。
なんとなくイロイロ思いながら観ておりました。
吉沢さんも流星さんもとても綺麗に舞を魅せてくれており、その辺は良かったと。
かなり稽古しないとなかなか所作全般大変だったろうなぁ!と。
小説では(映画では、ほぼ最初にしか出番なかった)トクちゃんが格好いい立ち位置なのですが、これはしょうがないけどほぼ出番なしだったのもやや残念。
長崎弁が大阪弁になるとか、そういうあたりも曖昧だったなぁとか。
歌舞伎演目に全振りしたのはわかるのですが、そのぶん登場人物たちの魅力が全員かなり浅くなってしまっていたかなぁと。
原作にある最後のシーン、普通に劇場内で終わったのはちょっと残念でした。
街中で状況をまったく知らない人々の中で無心に舞う姿とか、そんな演出で観てみたかったかなぁ。
うつくしい。
まず出てくる感想は、「傑作だ!」。
本作品、1960年代の長崎から始まり、大阪に舞台を移して2014年のラストまでの約50年間を描く大作。もちろん上映時間も175分と長い。
観る前は、その長さがちょっと不安だったのだが、まったく問題なし。
あっという間の3時間だった。
****
とにかく映像がきれい。特に歌舞伎の舞台を撮った場面は素晴らしい。
この美しい映像がこの作品の肝でしょうね。
そしてその美しい映像に映える吉沢亮のきれいな「顔」。
この作品、吉沢亮でなければ撮れなかっただろうな……
横浜流星も超絶イケメンだけれど、女形の姿では、吉沢亮の存在感が圧倒的。
登場人物のキャラ的には、配役が逆でもよかったのかもしれないが、女形の姿の美しさを見たら納得。素晴らしかった。
そもそも、この作品のテーマの一つは「美しさ」だと思う。
「美しさ」に魅了された人々が紡ぎだす狂おしいまでの物語。
吉沢亮演じる主人公、喜久雄は、実は劇中ほとんど感情の動きを見せない。
彼の感情が大きく動くのは、その尊厳が脅かされるときに示す激しい「怒り」と、「美しさ」に対する強い憧憬だけだ。
それ以外の感情はほとんど描かれない。
彼を突き動かしているのは、「美しさ」に対する強い衝動だけだ。
その衝動が、彼自身と彼に関わる人々の運命を翻弄してしまう。
****
物語の本筋は、吉沢亮と横浜流星が演じる2人の歌舞伎役者の人生をなぞるように進んでいく。
そこに横糸として織り込まれるのが、歌舞伎に関わる女性たちの物語だ。
寺島しのぶ演じる歌舞伎一家のおかみは、歌舞伎役者の妻であり母である立場で、運命の荒波に翻弄される。
この役も、寺島しのぶだからこそ、という快演だった。
おそらくは制作陣が歌舞伎一家の彼女を敢えてキャスティングしたのであろうが、見事に奏功していると思う。
妻であり母である彼女を襲う運命を見事に演じている。素晴らしい出来だ。
また、吉沢亮演じる喜久雄に関わる4人の女性たちも、歌舞伎役者である彼に関わったがゆえの運命の転変に翻弄されていく。
物語の終盤で、数十年ぶりに父である喜久雄に出会った娘のアヤノが口にした言葉がそれを象徴している。
「あなたはどれだけの人々の犠牲のうえに、今の地位に立っているのか」
しかしそれは、「美しさ」で人を魅了するためには避けられないことだった。
だからアヤノは言う。
「でも、歌舞伎役者花井半次郎(喜久雄)の演技を観ると、突き動かされるように全力で拍手を送ってしまう。……お父さん、本当に日本一の歌舞伎役者になったんやね」
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吉沢亮と横浜流星の少年時代を演じた2人の役者にも触れないわけにはいかない。
黒川想矢と越山敬達だ。
黒川くんは、「怪物」で主人公を演じ、その後も映画やドラマの出演が続く注目俳優。
この映画でも素晴らしい演技を見せていた。
女形の美しさでいえば、吉沢亮に引けを取らない。
末恐ろしい才能だ。
越山くんは、『ぼくのおひさま』で主演を務めた、こちらも注目俳優のひとり。
正直、背が高くなって感じも変わっていたから、同じ人物と気づかず、映画が終わってから調べて初めて分かった。
でも、後から納得。あの瑞々しい演技は得難い才能だ。
ちなみに『ぼくのおひさま』は、昨年観た映画のなかで僕の一押しの映画だ。
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間違いなく、今年の邦画の1,2を争う傑作だ。
映像美はもちろん、物語も秀逸。
一番のクライマックス、歌舞伎「曽根崎心中」のラストを描いた場面。
自然と涙がこぼれたし、劇中の歌舞伎の観客と一緒に、思わず拍手を送った。
映画を観ることの醍醐味を味わわせてくれる素晴らしい作品です。
吉沢亮は、今後の作品にこれ以上打ち込むことはできるのか?
みなさん不思議だとは思いませんか?
歌舞伎を見たことがないのに、
世襲制を身近に感じたことがないのに、
任侠の世界など知らないのに。
共通する言語がないはずの世界に、わたしたちは『よさ』を見出すことができたことに。
そこには、痛いほどにわかる〝人間味〟が共通言語として存在していたのではないでしょうか。
喜久雄のように、何かに夢中になったことがある者。
俊介のように、友に先を越された者。あるいは、人の期待に応えたいと願った者。
父・半ニ郎のように、容赦なく質を求めた者。
母・幸子のように、子を最も愛した者。
春江のように、脆い人を支えたいと寄り添った者。
藤駒のように、一途に想うことで満たされる者。
彰子のように、好きな人と一緒になることを選んだ者。
万菊のように、自分の背中に憧れを抱かれた者。
そのどれにも属さなくても、この3時間たっぷり観たはずです。竹野のように、だれか(喜久雄)を静かに見守ったことがある者。
この全ての登場人物は、観ている人のどこか重なる部分があるのかもしれない。
そこに我々は儚さや、希望、絶望、煌めきを感じたのかもしれない。
何かを全力で夢中に取り組む時間のすべてが青春だから。
もう青年期のように眩しくはない青春が、これからの我々の人生に尊さを味わわせてくれるはず。
俳優の凄みだけでなく、カメラワークも素晴らしいかったです。
観劇者から見る役者。
役者からみる観劇者。
様々な視点を映してくれたことで私たちは体感できました。
また、心中するシーンを習得するのに喜久雄はとても必死でしたが、喜久雄を追ってたときの春江はいつもその顔をしてました。一夜を共にし、明け方流した涙の顔は、心中をも覚悟する女の顔でした。
さらに、情景的描写の父が殺された日の雪、俊介が出て行くときの雨、舞台ではずっと煌びやかな紙吹雪。
その全てが、あの大きな拍手の音と重なって聞こえました。
そうそう、喜久雄らしいと思ったのは、彼が息子を残さなかったことです。彼らしい生き様でありました。
原作ではいるのかな。
読んできます。
ありがとうございます。
歌舞伎にささげたヤクザの一人息子の激動の人生。
SNSで評価がやばいと言って本当なのか気になって観に行きました。
中でも色彩感あふれる歌舞伎映画は初めてで凄かったです!
任侠一家の一人息子(吉沢亮)が抗争で父を亡くした後、歌舞伎一家に入りライバル(横浜流星)との友情、決別後のスキャンダルからライバルとの再会、そして最年少の人間国宝認定までの激動がヤバかったです。特にスキャンダル発覚後の自堕落な人生の中で舞が狂気すぎて衝撃を感じました。
追記:7月22日にイオンシネマ守谷で2回目の鑑賞してきましたが、こんなにも極上あふれる歌舞伎映画は二度と作れないかもしれません。
海外でも凄く評判が良いと言われているので今年度の米アカデミー賞の国際長編映画賞ノミネートそして日本の映画賞独占に興収100億円は絶対行ってほしいです!
歌舞伎をそこまで見せる必要あるのか
原作未読。映画を見に行ったつもりが、歌舞伎を見せられた印象。
半分以上を歌舞伎にあてているから、人間関係の堀りが浅い。3時間もあるのに何をしているんだか。
原作通りなら仕方ないが、役者の立場がコロコロ変わるのは解せない。(歌舞伎界逃亡からのあっさり復帰、歌舞伎界追放からのあっさり復帰)
吉沢君の演技は鬼気迫るものがあったが、だからといって高得点をつける理由にはならない。
映画館だからこそ我慢して見れたが、自宅では無理と思う。
「国宝」2回目を鑑賞
1回目鑑賞後にあちこち解説を見まくり、2回目を観てきました。
2回とも心が痛んだシーンは、2代目半次郎の舞台での吐血のシーン… 「俊ぼん、俊ぼん…」と息子の名を口にする師匠に対して呆然とする喜久雄の言葉「すいません、すいません」
本来なら3代目は俊介のポジション、でも俊介が出奔してしまって、その後の丹波屋と糖尿病で目が見えなくなりつつあった半次郎を支えてきた喜久雄。
でもどんなに頑張っても「息子」にはなれなかったのを思い知らされた瞬間…
舞台でのため息が出るような美しい女形の姿とは反対に、私生活は泥沼を這うようで、春江以外の女性に対しては不誠実な喜久雄だったけど、あそこまでやらないと、血筋のない喜久雄は国宝としての頂点を極められなかったと思う
現実の世襲の歌舞伎役者さんたちの大変さも少し理解できました
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