国宝のレビュー・感想・評価
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歌舞伎を観てない人にも、観ている人にも楽しめる
☆気に入ったところ
・冒頭の、映画的昭和感たっぷり場面、特に永瀬正敏さんが圧巻、最高
・´主演のおふたり´が、同じ台詞を舞台で披露する場面、その対比の鮮やかさと話の絡み
・本物の歌舞伎役者を派手に起用すると台無しになりかねない危険を、うまく回避している
・浄瑠璃と三味線の扱い、音を大事にしている
★ 「もっとこれ以上」が欲しいと感じたところ
・後半で主演のひとりが酷い目に遭う場面と、主演のおふたりが激しく揉める場面。この2カ所は、暴力に頼らずに表現していただきたかった。´普通の映画・ドラマ感´が出てしまい、もったいなかった。
・舞台上で主演のおふたりの迫真の表情近接撮影場面、それと、衣装の早替え、あそこは少し引きの画(1階席やや前方で舞台を観ている観客目線の)が観たかった
その方がより歌舞伎らしく映える表現になると思うので
・クライマックス、ここで西洋音楽を使う必然性は感じません。音楽と場面とが急に混濁したように感じたので、通常の歌舞伎の伴奏のみで良かった。
栄光の影で涙を流す人たちがいる
上映時間が3時間と聞いて尻込みしてましたが、周囲の方から「観た方がいい!」とお勧めされ鑑賞。
吉沢亮さん、今年度の日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞獲るんじゃないでしょうか。横浜流星さんも、助演で。
本当に2人のお芝居が素晴らしかったです。
喜久雄と俊介、2人の対比が面白かった。
喜久雄は芸の才能を持って生まれたが、歌舞伎の血を受け継いでいない。
俊介は血こそ受け継いでいるが、才能では部屋子の喜久雄に劣る。
春江が俊介について行ったのが最初理解出来なかったけど、喜久雄と一緒になっても幸せになれなかっただろうからあれで良かったんだと思う。
春江はわかってたんじゃないかな。
喜久雄は芸の為なら悪魔に魂を売る事すら厭わない男で、実際家庭を顧みなかった。
襲名披露の時、駆け寄ってきた娘を無視する喜久雄。あれでもう藤駒さんも諦めたんじゃないかな。見ているこっちも凄く心が痛かったです。
捨てるなら最初から子供なんてつくるな!と思ったけど、もしかして男児だったらまた違ったのかな。
何にせよ歌舞伎役者としては素晴らしいけど、1人の男としては全然だめ。役のために彰子に手を出したり、最低最悪。
よく彰子は喜久雄を捨てずについていけたな。
でも最後彼女の姿が見えなかったから結局ダメになったという事だろうか。
人間国宝となって、捨てた娘と再会。
「貴方を父親と思った事はない」「どれだけの人間を犠牲にしてきたか」娘は喜久雄に言うが本当にその通りだと思った。
それでも、喜久雄は何を犠牲にしても、生涯孤独になったとしても日本一の歌舞伎役者になりたかった。
ラストシーン、1人きりで舞台で舞う喜久雄。
見たかった景色を見る事が出来た彼はきっと幸せなのだと思う。でも、独りだ。
彼もいつか歳を取り、独りで寂しく死んでいくのだろう。
その時何を思うかな?
捨てていった家族を想い涙するのだろうか。それとも歌舞伎役者としての輝かしい日々か。
きっと後者だと思う。
原作にリスペクトはあるのだろうか
とても前評判が高くネットで調べたところ、そもそも小説が素晴らしいとのことで小説を読んだ
個人的にラストはそこまで好きではなかったものの、全編を通して素晴らしかった。
満を持して映画を見た。
何これ?
大作を3時間に収めるので、ある程度端折る事は仕方がない。
そこは腕の見せ所。
それなのに
とにかく不要なシーンを付け足す。
そして必要だと思われるシーンを端折る
父親を殺した人間が、芸の道に斡旋したことをなぜ変える?この存在が無いから話の芯が欠けてしまっている
春江との濡れ場からの結婚しようとの流れ必要?
春江のキクオの一番の贔屓になってペルシャ絨毯買うたる、って小説でのトクジのセリフを春江に変更して、それ言った春江が俊ぼんと結婚したらお贔屓になんかなれないじゃん
キクオが歌舞伎に熱中しすぎて春江を相手しなかったからこそ、裏でシュン坊とできてしまったんだろうに、映画だと春江がただ悪い女に見える。
女将さんの幸子は、初見では親にはなれんし、いつまでも置いとけんみたいな話はするも、どうせ仲良くなるから、今日明日で喧嘩終わらせとき、みたいな粋な言葉をかけたりする
映画以上に人情味のある女将さん
あきことの濡れ場も必要?
親父に殴る蹴るされたら、何をしたか十分伝わる。
子供がお父ちゃんって、追っかけるシーンも要らない
キクオが悪魔に何も要らんから歌舞伎を上手くして欲しいってお願いしたと子供に伝えるシーン
子役の表情がとても良かった。それだけで十分伝わるのに、なぜわざわざ追っかけさせた?
俊ぼんが、何を頑張って復活したか、キクオが何をどうやって復活したか
端折りすぎてて二人の努力が全く伝わらない。
代役の曾根崎心中、ラストの2人での曾根崎心中は、本当に見応えがあり、歌舞伎を知らない人間だけれども、歌舞伎の映像には感動した
それだけに、とにかくストーリー全般が原作から端折りすぎてて、とっても薄く感じた
もっと原作に深い愛情があれば、もっと良い映画になったであろう、
誰か原作を深く愛する監督さんに、上、下の2作で完全版として取り直して欲しい
等価交換
何かを得るには代わりに何かを差し出さなきゃならない
一般人には分からない芸事の世界の裏側を垣間見る様なお話でした
良くも悪くもそういう世界で我々はその断片しか見ていないのかもしれない
そこにリアル感を加える役者陣の鬼気迫る演技を固唾を呑んで見守ったあっという間の3時間でした
主人公の半生を辿る映画なので、登場人物が歳をとるのだけど、しっかり歳相応に見せるメイクも凄かったです。
1つ気になったのは、森七菜さんの役が、パッと出てきてパッと居なくなってしまった所、本人の演技は素晴らかっただけにもう少し背景を描いてあげて欲しかった。
心中と芸の道を結びつけた、見事な成長劇
この映画で1番重要なシーンは、冒頭で喜久雄(吉沢亮)の父親が死ぬシーンだと思った。
『国宝』は、「見る人」と「見られる人」が交互に出てきて、物語を展開する構図になっている。もう少し細かく言うと、「見ている人」が変わっていくことで、ストーリーをドライブしている。
冒頭、ヤクザの新年会から始まるシーン。喜久雄は、渡辺謙が演じる半次郎に演技を見せた後に、父の死にざまを「見る人」となる。
その際に、父親から「よぉく、見ておけよ」という呪いの言葉を受けることになる。これが、映画の核でありラストシーンにも繋がってくる。
その後、数年の時を経て、喜久雄は芸の道を歩むことになる。そこから、喜久雄は「見られる人」となり、様々な登場人物に視線を送られることになった。
半次郎、歌舞伎の興行を手掛ける三友の社長、観客と喜久雄を見ている人たちが変わっていき、喜久雄が順調にステップアップしていくことを映画では描いていく。
一方、喜久雄は何を見ていたのか。それは、間違いなく「死」であると思われる。半次郎の事故の後、「曾根崎心中」のお初を演じることになった喜久雄は、半次郎との稽古を通して「死」の矜持に近づいていく。
稽古の合間に、喜久雄は春江に会いに行くが、喜久雄は春江を全く見ない。視線が交わらせずに行なったプロポーズを春江が拒否したのは、映画の構図からも必然だった。喜久雄はあくまでも「見られる人」であり、この時に見ていたのは目の前にいる春江ではなく、お初の心情「死」だった。
喜久雄は、ここから終始どこを見ているのか分からない視線を繰り返す。それは、増村保造の映画『曽根崎心中』でのお初の目線を思い出させる。
芸の道を極めることと、心中をリンクさせて、骨太な芯をつくり演出仕切った手腕が見事だった。
血と技と犠牲と惚れと…
跡取りとすべきなのは血か技か?
母性で考えると圧倒的に血一択。
父は死ぬ間際に息子の名前を連呼していたので、やはり本音では血が本命であるものの、糖尿病を患い敢えて、血を選ばなかったのか?
万菊も血が本命ではあるが、糖尿病の遺伝を見越して3代目を呼び戻したのか?
物事を極める時、周りの人は犠牲になっても仕方ないのか?
圧倒的に極める時、犠牲になった人さえ惚れてしまうのか?
極めたものにしか見えない景色がここにある。
0から感想を思うままに
8月2日に鑑賞。
公開から約2ヶ月たち、大衆鬼映画の襲撃に合うも、箱はほぼ埋まってた。
隣のじゃがりこガリガリ食う女と、前のスマホを触って何度も落とすババアと、濡れ場で馬鹿みたいに反応するキモじじい、スマホの通知音が何度かどこかで鳴ってる、
とてもとても最悪な環境での鑑賞でした。
本当にざんねん。
国宝すごい!面白い!
という声が多く、一緒に見に行った知人の強い希望で鑑賞しました。
知ってた前情報は、
吉沢亮と横浜流星と渡辺謙が出てくる。
歌舞伎の話
吉沢は血が繋がってない弟子で、横浜は血のつながりがある。
というくらい。
公開前のポスターで、役者とか見ないでなんとなく歌舞伎のドキュメンタリー的な作品なのかな?
と思ってたくらいの情報のなさ。
日本アカデミー総ナメレベルとの声を聞きちょっとは気になってはいたけど……
見終わって、シンプル感想が、
・ホワキンジョーカー
・怪物くんはやはり怪物的
・長すぎ、客への信頼0?技術は文句なし
ってかんじだったかな、細かく思い出すと
言いたいこと沢山あって、まとめるのが難しいです。
この3つを主に、細かくつらつらと。
こういう解釈あるよ、ってのはコメントで教えて欲しいです。
1ホワキンジョーカー
まさに、屋上で舞うシーンはホワキンジョーカーそのものすぎません?頭によぎりませんでした?
白塗り、真っ赤なアクセント、
それがよれて、笑ってるのか泣いてるのか分からない狂気じみた表情。
この映画が歌舞伎のドキュメンタリーじゃない時点で、歌舞伎すげー!ではなく、国宝となる人は他の人とは違ってどこか狂ってる!これが喜久雄の生き様!がメインテーマとなると思う。
だから、ここのシーンは歌舞伎での地位的なのが無くなり、血に縛られてない人間として別の道で生きるのもできただろうに踊り続けた喜久雄の心が 狂おしく美しかった。
屋上から落ちるんじゃないか、このまま死ぬのか?とか、なんか恐怖があった。
そこできた森さんとのやりとり。
なんかこのセリフ達がアドリブだったと言う人がいるけど、そうなんですか?
もしアドリブならば、森の演技力というか役と作品の理解力すごい。
あのセリフの有無で最後の答え合わせが変わってくると思うから、あのセリフなしは考えられない。
つまり、アドリブなら森の大勝ちで脚本家の大負けである。
(最後の答え合わせはまた後ほど)
ホワキンジョーカーが評価されて、あの狂演を、
吉沢はやってのけた。
和製ジョーカーの誕生であり、吉沢の演技力が眩しい。
全体的に歌舞伎の演舞は吉沢も横浜も凄いとは思います。
でもそれは役だから出来なきゃ話になりませんし…
そして歌舞伎がすげーが映画の本題じゃないので、この感想は割愛で。
2怪物くんはやはり怪物的
怪物くんとは、「怪物」で演技光りまくってた、
黒川想矢さん。
怪物級に今回も演技が凄かった。
怪物の時のスピーチで、2つの自分と戦ってる。と言った、かっこいい心の持ち主で、
黒川さんの演技の実力が今回確定となったと思う。
女形として衣装を着てるとき、顔立ちが綺麗すぎて見惚れた。
父親が襲撃にあった時、橋の下で覚悟を決めてる時、墨を入れてる時、全部の表情が良すぎた。
初めて舞台の裏側に行く時のセットに触れながら歩いてるキラキラした表情と、親の仇を失敗したと言った時の重い苦い表情と、田中泯さんの舞踊を見て感動してる時の表情と、、、
惹かれる表情が多すぎる、つい目で追っちゃうんだよなあ。
かわいいなあ、かっこいいなあ、
というか、任侠の世界での頭の血縁でも歌舞伎の真似事みたいなやつやらされるの?下っ端だけどやらされるもんなの?
任侠の世界と歌舞伎の世界、繋がりあるんか…そりゃあるか……
高畑ともなんだかんだ一緒にいるんだし、一緒に仇打った相方も実は裏で繋がってて欲しいな…なんて。でも失敗したってのは、そうじゃないんでしょうか?
頭がないと困るのは、任侠時代も味わってたのか、喜久雄くん…
とまあ、色々考えるとキリないですが。
私の中で主演賞でも、助演賞でも、受賞できるくらい黒川さんは凄いと思ったし、
テレビドラマやチープな映画に安売りするような人にはならないで欲しいなと願います。
3長すぎ、客への信頼0?技術は文句なし
3時間くらいあるんですよね。この作品。
長すぎませんか?
繰り返すけどこの映画のテーマの国宝になる人間とは?喜久雄の生き様とは?な訳で、
カットできる、いらないシーン沢山詰めすぎ。
原作があるらしく、おそらく削ったシーンは沢山あるのでしょう。
それでももっと短く出来たでしょうに…
まず、国宝となった吉沢のインタビューが、
私の中での「最後の答え合わせ」だと思うんです。
2つの質問をインタビューされてるシーンです。
1若くして国宝となり順風満帆でしたね?
国宝になったのはみなさんのおかげです。
2何を目指しているのか?
見たい景色があるんです。言葉じゃ表せないけど。
こう質問されて、こんなような感じで答えていました。
これがこの映画の答えでしょう。
と、私は思いました。
側から見たら順風満帆。
実の息子を差し置いて3代目を襲名し、
渡辺謙、田中泯、横浜流星、の死後
一門を(トップとして)支えて、国宝となる。
本当は任侠の人間だった事や、隠し子、森とのスキャンダルで一時は歌舞伎を離れていた事…
世間はすぐに忘れてしまう。
森パパの言うとおり、世間一般からは、順風満帆に見えるでしょう。
そして、決まった文句で、皆さまのおかげです。と。
皮肉だよ。
皆さんを蹴落としてきた。捨ててきた。おかげです。
怖いですね。
それから二つ目の質問の答え。
見たい景色があるんです。
ほんと、森の例のセリフのように、
何を見てるの?だよ。
何が見たくて、何を見てるんだよ。
見たい景色なあ。。。
もし、例のセリフが森のアドリブならば、
この後のカメラマンの女のグダグダな説明は仕方ないのかもしれない。
アドリブじゃないなら、いらない!カットして良い。
客を信じてカットするべきだ。
カメラで写真を撮るよと言うのに、全然外を眺めてる。
見たい景色は、カメラマン(娘)ではない。
カメラマンが娘と同じような年頃で、全然カメラを向かない、服を直すために触れてもなお外に目をやる…
それだけで、このカメラマンの女は娘なんだろうな
ってのがわかるのに、
わざわざ、わかる?みたいに聞かんでええ。
忘れられても憎んでも歌舞伎を見てると感動するよ、なんてわざわざ言わんでええ。
外に目をやってるだけで、カメラマンとして歌舞伎役者の父を写真におさめるだけで、分かるから。
ぐだぐだ、最後にいらん解説的シーンをわざわざ入れられて興醒め。映画の良さを殺しにかかってる。
ドキュメンタリーじゃねえんだよ。
それと、ついでに
森さんの濡れ場もいらんやろ。あんなはっきり写さなくてもいいやろ。
森パパに役の交渉をして、森にお兄ちゃんお兄ちゃんって可愛く声かけられて、森パパに殴られる
それだけでいいだろ。森が色っぽすぎたから?
高畑と比べて、ドキっとしたから?高畑くらいサラッとでいいのに。
雨の日に高畑のアパートに雨宿りした横浜のシーンくらい、ニュアンス?とかでもいいのに、
あのシーンのせいで、キモいおじさんがなんか唸ってた。気色悪い。
強引的駆け落ちに説得力持たせたいのか知らんけど、
カットしても理解できるよなあ。
他のシーンで、色々出来たんだし、わざわざここのシーンを入れるのはもったいないような気もする。
とまあ、この映画みたく長々とつらつらと書いてきたけど、
総じて楽しかったし、
ホラー映画みたいな人間の怖さと醜さの恐怖を感じたし、
吉沢と横浜と黒川の狂演が拝めたのでよかったです。
きれいだなぁ
ごめんなさい、
全然分からなかったです泣
歌舞伎を知らないからですかね??
でも、あれが吉沢亮かと思うと、本当にすごくて綺麗でした。
特に吉沢亮と渡辺謙の演技が素晴らしかったです。
横浜流星もうちょっと関西弁がんばってーって思ってしまった笑
他は素晴らしいんですよ?めちゃくちゃよかったです!
途中に出てきた、黒縁メガネの関東の人、
今までずっと関西弁聞いてたので、急な関東弁にぞわーってしました笑
いい意味で。
高畑充希さん役と森七菜さん役が謎でした。
私も心から好きなことがあるので、
稽古は厳しいけどそれ以上にわくわくが勝つことや、寝る時間も稽古したい気持ち、
悪魔の取り引き、すごくよくわかります。
本当にすごかったんだと思うんですが、
私にはストーリーがぜんぜん刺さらず、
なかなか苦痛の3時間でした泣
そして、公開から結構経つのに満席でした。
すごいですね!!
今回初めて、こういう映画で満席を経験し、鑑賞マナーがすごく気になりました。
隣のおじさんずっと鼻や喉を鳴らしたりゲップしたり、ため息(息を深く吐く)ついたり、うるさいし気持ち悪くて嫌でした。
おじさんってこういうの多いから本当に嫌です。
また、会場内で5回くらいスマホ鳴ってました。
平均年齢上がるとこうなるんですか??
鬼滅なんてぜんぜんなんとも思わないですが、おじいおばあの方がなんとかしてほしい。
重すぎるハッピーエンド
何も持たない、才能だけ持った人が、辿り着きたかった場所に辿り着いた物語なのかな。
と、思った。
辿り着きたかった、
手に入れたかった、
主人公はそこに辿り着いたけど、
手に入らなかったもの達がありすぎて苦しい。
中盤、
何処を見てここまで来たんだろう。
と、涙を流す姿が苦しい。
親代わりに思った師匠も、親では無く、
親友も、隣にはいてくれず、
結婚したかった子も、親友のものになり、
実子との距離も取り、
何もかもより選び取った景色が明るく綺麗で、
苦しみだらけの中、
たったひとつ最初から持ってた自分自身が見せた景色で、
そこにあるなんもかんもを飲み込んだように見えて、
苦しかった。
重たかった。
泣いちゃった。
よいものをみました。
共鳴するのは難しかった
あまり喋らない同僚が熱烈にオススメしていたので観劇。
色々あってポップコーンを買いそびれてしまったのですが3時間比較的集中して観ていたので、その展開の怒涛さと作り手の熱意に、すごいな、と思いました。
◆
歌舞伎という超特殊な世界に縛られて生きる横浜流星に、「血が羨ましい」という主人公、なんでそんなこと思うのでしょうか。
歌舞伎が好きかなんて人それぞれなのに、生まれる前から歌舞伎役者になると決まっていて、自分の意思では逃れられない人生、なんと大変なことでしょうと私は思ってしまいます。
◆
他人を犠牲にしてまで、歌舞伎で日本一になりたい理由って何?
そこが自分には共感できませんでした。
黒川想矢時代の主人公は、満開の桜をの中を自電車で駆け抜ける時の気持ちのように、ただただ歌舞伎が好きで、心の底から歌舞伎を楽しんでいるように感じました。
好きなものをまっすぐと追い求める姿が眩しかったです。
吉沢亮時代になって、三浦貴大に「血で苦しむのはお前」と言われて、私がついていけないほど、激高している主人公は、その言葉が図星中の図星だったのでしょう。このあたりですでに、歌舞伎で一番になることに執着始めているように感じられました。
半二郎を襲名するとき、「芸術は剣や鉄砲より強くなれる」と先代に言われた主人公は、
かつてなくした父の仇を、自らの芸でとろうという思いが芽生えます
しかし、昔の傷跡によって世間からバッシングをくらい、役を降ろされた主人公は、
かつての地位に戻ることを焦り、無関係な他者を欺き、凌辱することになります。
人の心を失った主人公の目は怖すぎましたね。
もうここまでくると、歌舞伎が好きとかうまくなりたいとか夢中とかそんな綺麗な気持ちは
1mmもなくなってしまったように見えます。
青春時代のすべてを苦しい稽古に費やしてきた主人公にはしがみつくものがそれしかなかったのでしょう。
クライマックスのシーンで、舞台で、紙吹雪に包まれる主人公は、かつて父を亡くした雪の日の景色とそれを重ね合わせます。そして一言、「綺麗」と。
ここまでの人生で背負ってきた、殺された父親への想いが成仏されたのだと解釈できます。
少年時代に自転車から見た純粋な桜が散っていく景色にも受け取れます。
少女の純粋な愛も、また散っていきます。
◆
芸術作品をも見るということは、私にとって、自分と共鳴する部分を見つけ、
言葉に起こすことで、自分自身を掴みなおす作業なのだと思う。
今回、主人公と私は違いすぎて、共鳴できる部分が少なかった。
私は何年も毎日厳しい稽古をするなんて考えられない。
だらだらとしょうもないことをするのが好きで、飽きたらすぐ移り変わる。
いやなことからは極力逃げて、好きなことだけをしていたい。
父親は生まれたときからカタギで、殺されたこともない。
かといって家柄がいいとか、御曹司とか、伝統とか、そういうもの無縁。
背中は真っ白くまっさら。
暴力大反対、人が殴られているのを見るのも、映画で見るのも大嫌い。
例え人生で何か実現したいことがあっても、他者を不当に不必要に傷つけるならやりたくない。
他者を犠牲にしてまでやりたいことなんて、思いついたこともない。
自由で、くだらなくて、しょうもない人間。
それでいい、それがいい。
だから、いろんなものを背負ってしがみついて主人公と違いすぎて、共感ができなかった。
ただ別の人間がいる、ということを再確認した時間だった。
これに共感できる人はどんな人生を送ってきたのだろう。
シンプルに話を聞かせてもらいたい。
◆
おばあちゃん、でなくおじいちゃんの、
「この部屋には美しいものが何もない。それがいい」
というセリフは共感した。
雨の日でも、晴れの日にはない美しさがある。
雲に隠れた月も、いつも得るのだろうというワクワクをもたらしてくれる。
ボロボロによれたTシャツの方が寝心地がいい。
主人公は雨が許せなかったのだろう。
あるいは女でしかそれを紛らわす方法を知らなかった。
そして、誰かを犠牲にした。
◆
大人になったあやのが、「お正月が来たみたい」と父に言う。
お正月しか返ってこなかった(そしてついに帰ってこなくなったであろう)、父への皮肉にもとれる。
お正月に父に会える希望の時間は、成長するにつれて絶望へと変わっていった。
あやのは父を許したのか。
あやのの強さに心打たれた反面、
そんな簡単に、きれいごとで解釈してはいけないことだとも思う
◆
私は、暴力が嫌いだ。
少女が利用され乱暴されるシーンは同じ女性として心が痛くなるばかりだった。
他のシーンに共鳴できない分、そのシーンの辛さには悪い意味で強く共鳴してしまい、
後半数十分はあの子かわいそう、、、、というつらい気持ちにひたすら覆われながら映画を見ることとなった。
辛いシーンを見せたなら、その辛い気持ちをなくすくらい、爽快な逆転劇を見せてほしい
が、ただただ「どこ見てんのよ」と言って泣きながら去っただけだった。
ものすごく、嫌な気持ちになった。
◆
1回見ただけでは解釈しきれない部分も多かったと思うので、また見てみたいと思う。
ただ、例の乱暴シーンが胸糞だったので、多分もう見ないと思う。
ちょっと散らかってる
伝統芸能やその奥の深さ。
それを守っていく人。
最後技能が認められてって話でしたが。
とっ散らかってた印象。
芸に打ち込む一途さとかそこからくる挫折とか。
惹かれる部分は多いけど、女性をああいうふうに扱うのは。
時代といえば時代だけど、う~~ん手感じ。
花井東一郎の隠し子が男の子だったらどうなってたかが疑問。
二人道成寺も二人藤娘も惹かれましたが、もとの話知らないや。
これほど美しい映像表現にはなかなか出会えない
陰湿な物語だった。
主人公が性格悪い。
結局のところ主人公は周囲の人間にした仕打ちについて全く反省していない。人に対する責任感がなく、人との関わりを全て自己陶酔に繋げてしまうナルシスト。
物語はそんな主人公を落ちぶれさせることによって「表面上」非難しているだけ。ラストの娘との再会のシーンは、娘を主人公を飾り立てるだけの舞台装置としか扱っていないことがわかる。
結局のところ犠牲者は主人公の人生の飾りだったと伝えたいのかと解釈してしまった。
原作ではもう少し血の通った物語であると聞いたため、ここまで陰湿に仕上がったのは脚本と監督の手腕のせいだろうと思う。
映像は終始美しかったが、ちょうど飽きてきたところで瓶を叩き割ったり、殴り合いのシーンが始まるのが嫌だった。
こちらが無理やり叩き起こされている気分になって精神的に疲れた。
面白いけど今年一番だとかは思わない。
めちゃ気合いの入ったいい作品だと思いますが、少なくとも100年に一度の名作とか、そんなレベルではないですね。
世間の異常な盛り上がりようが逆に冷めます。
吉沢亮の演技は確かに鬼気迫るものがあって素晴らしいんだけど。
なんかところどころぼやけるんだよね。
主人公が中盤舞台を追われるところ、世襲制であるが故に冷遇されたのが間接的な原因だと思うけど、そのこと自体には主人公は全然憤ってる感じがない。
さらっと受け入れてしまってるというか。
これは作り手の中にもそういう感覚が全然ないんですよね、きっと。
自分はもっと怒って、抗ってほしいと思う。
現実とか、社会とか、何かしら歪んでいるものに自分の道を阻まれたとき、それを飲み込んで進まなければならないんだとしても、ただ受け入れるんでなくて、少なくとも心の中ではノーと言っていてほしい。
終盤で突然娘が出てきて、あなたは立派になられたみたいなこと言うんだけど、あそこもそう。
そんなわかったようなこと言うなと言って欲しかった。
わかりやすいやり方でなくてもいいけどとにかく否定して欲しかった。
・・・もしかして、あれは娘の言ってることが正解ってことなのか?
この映画の結論としても、なんだかんだあったけど、こうして人間国宝になって、立派になられました、良かった、なのか?
まさかね。
でもあの娘のセリフは、この映画としては肯定的な意味合いですよね。
その辺もどうも違和感がある。
様々な現実を飲み込んで、それでも芸を、その中にある美しさを追い求めた。
それはいい。
そういう話なんだから。
ただなんかそこに、なんというか、飲み込むことのネガティブさが足りない気がする。
なんか悪魔に魂売ったみたいなこと言ってたしなー。
日本の伝統芸能の話で、神社にお参りしてる場面なんだから、そこは悪魔じゃなくて鬼とかそういうのなんじゃない?
なんかいまいち、ピントが合ってないんだよなあ。
ピントがそこだけ完全にあってたのは田中泯さんですね。
この映画のテーマとして描くべきものを、一人で体現しまっていたように思います。
映画館で見てよかったー!
2人が主人公かと思って鑑賞したけど、吉沢亮が美しくて凄かった。彼が主人公だったのね…
展開が早く飽きさせないので、3時間見入ってしまった。かなり外国の興行を意識した映画なんだと思う。最初のヤクザとか。歌舞伎の世界は日本人でも分からないことが多いと思うけど、ストーリー自体は分かりやすい。どうしても「さらば、わが愛/覇王別姫」が頭に浮かんでしまいます。
プレッシャーと緊張で震えてる吉沢亮に、横浜流星がメイクしてあげるシーンと、壊死したつま先に頬擦りするシーンで涙が出ちゃった…
あと2人が殴り合うのを、車の中で見てるアキコのシーンとか、なんか胸にきた。希望と喜びもあるけど、悲しくて絶望も感じてるやつ。無音の車の中から、見てるだけしかできないという…
鬼気迫るシーンを音楽とカットで魅せる映画、久々に映画館で見てよかったと思った。心が動かされました。よかった!
映像の強さが素晴らしい。タイトルの意味を考える。
国保は邦画(というか、日本)でしか描けない画面とストーリーラインが素晴らしい映画だった。
何よりも素晴らしいのカメラワークだ。
歌舞伎の舞台の映像も素晴らしいが、練習や喜久夫が放浪しているときの、屋上での踊りの映像は息を呑む。
さて、個人的なポイントを忘備録がわりにここに残しておきたい。
この映画タイトルは「国宝」なんだけど、ふつうに考えたら「人間国宝」を意味している。
「国宝」というタイトルは人間を失った物質的なニュアンスがあると感じた。
つまりはこれは人間失格・国宝合格みたいな話で、人間を辞めていく話なんだろう。
ラストシーンについて。
あれは、喜久夫は死んでいるんだと思う。
何故なら、作中で亡くなった人はみんな畳の上で死んでない。舞台の上で死んでいる。ならば、喜久夫もまた舞台で死ぬのが必然だ。証拠はないが物語上そう解釈せざるを得ない。
師匠半二郎と半弥はともに舞台で死んでいる。
国宝としての先輩の万菊は、その立場に相応しくない粗末な所で最期の時を過ごしている。
この描写は不自然ではあるが、「役者はまともな死に方できない」という物語の必然を表すためだと思う。
そして、ラストシーン直前に私生児の綾乃とともに話す「歌舞伎が上手くなるなら、何も要らない」という「取引」の話から、国宝になって歌舞伎が上手くなった喜久夫は悪魔の取引により、何かを奪われているはずだ。それ以前もさまざまなものを失っているが、最後に奪われるものは、もう命しかないだろう。
そして、次のテーマの血である。
表面上は半二郎と半弥の親子の血とそれを持たない喜久夫の対比的テーマに見えるが、また、喜久夫もまた血に囚われてしまう。
一つは極道の息子という血。
これは物語中盤にスキャンダルとして現れてしまう。これは半弥が親子の血を大切にしていたゆえに、半二郎が代役を喜久夫にしたときの葛藤と同じく逃れられない運命として現れる。
そして、喜久夫は極道の息子として、親の仇を討つという運命も持っている。そもそも半二郎のところに行く動機の一つに仇討ちに失敗したからだというのがある。もし、仇討ちよりも芸事の関心が高ければ、仇討ちを試みずに直接、半二郎のもとに向かうはずだ。
そして、劇中で、半二郎から「芸は刀や鉄砲よりも強い。芸事で仇討ちしろ」という趣旨のことを言われている。ある程度、弟子になってから後のシーンだったので、喜久夫の中に親の仇という運命はずっと燻っていたのだろう。
「悪魔の取引」をしてまで、歌舞伎に没入していくのは、喜久夫が歌舞伎が好きだというのも、もちろんあるが、それと血による運命もあると思う。
半二郎と半弥の血のつながりは美しい繋がりと一見見えるが、これもまた負の側面がある。
それは病気だ。半弥は若くして糖尿病で足が壊死してしまい、それが原因で死んでしまうが、父、半二郎もまた糖尿病で目が見えなくなってしまう。これもまた逃れられない血の運命を象徴している。
また、背中の入れ墨のミミズクについて。
劇中では恩を忘れないという説明がされている。
これは少年時代の極道の息子として入れ墨を入れているから喜久夫の信念のはずだ。そして、ミミズクの説明したときに、半弥に「ヘビやらネズミやらお返しするんや」と言って「そんなの嫌だ」と返事されている。これは喜久夫の生き様を象徴していて、恩を返すつもりが実際には望んでないものを返してしまうという喜久夫の生き様が表れている。悪魔の取引とすれ違いのミミズクの恩返し。これが喜久夫の波乱を根底にある。
あと芸事に対して飛躍するのは、舞台や稽古だけでは務まらないというのもなんか意味のあるテーマかもしれない。半弥も喜久夫もどっちもドサ周りして、真の芸を身につける。半弥も失踪した後に、急に帰ってきて「プリンスの帰還」みたいな扱いは受けるが、若い頃のぬるさがドサ周りで解消されたから、のちに白虎を襲名できるほどのレベルに達したんだろう。一方で、喜久夫はあの屋上で、森七菜演じる彰子を失ったところで覚醒する。あれも「悪魔の取引」だが、半弥も同じような経緯を辿っていることをみるに、日陰や歌舞伎界を離れての経験がなければ、国宝レベルの芸は身につかないんだろう。それを示唆するものは僕では読み取れなかったが、また見たときにそれを読み解きたい。
あと、超蛇足だけど、この作品は昭和時代の描写が多いし、歌舞伎が女性を排除してきた歴史的経緯もあり、男性中心的な作品になっている。
女性の描写も個人を掘り下げるよりも、道具や物語上の構造に置かれているというポリコレ的、フェミニズム的批判もたぶんあるんだと思う。そういうことをいう人がいそうな映画ではある。
ただ、そういうこと言いたい現代的な感覚もわかるが、これは歌舞伎時代がかなり無理な構造で成立していて、そしてそれが次世代に続かないであろうことも示唆されている。半弥の息子が歌舞伎にそこまで関心を持たないことから、おそらく丹波屋も血筋の継承は途絶えるであろう。よって、ポリコレ的にどうなんだという批判は、この映画自体が、歌舞伎のポリコレ的限界による苦境を表している映画だと思う。
総じて良かった
今は、独り者なので、書き込みさせてください。
皆さんがおっしゃるように、映像美は素敵です。表現スタイルはオーソドックスで、古い感じもあります。脚本で残念なのは、ヤクザにピストルとドスで仕返しに行っても1年後は歌舞伎の道に行く点。未成年で未遂だったとしても落とし前はどうしたの?後ろ盾を無くしてごめんなちゃいでは済まないはず。演出で残念なのはラストシーン。舞台で横たわる後ろ姿、呆然とした立ち姿、最後の一言が全部、男。素に戻った自意識の吐露はわかるけど、舞台の上では女形に徹して。後は直接関係無いけど、猿之助が気になった。世襲に反旗を翻し始めて大当たりするも東大卒の息子に事実上殺され、因縁のようなものを感じた。生き延びた息子はどんな思いでこの映画を見たか。
いや大河ドラマやないかい
いやいや大河俳優2人がダブル主演だからというわけではなくて、フィクションなのにまるで伝記映画のように少年時代から、初老の老人になるまで描ききってるからで。しかしまさか人間国宝になるまでやるとは。途中何回か「ここで終わってもええのになぁ」っていうところがいくつかあって、「せやったらネトフリのミニシリーズで観たかったわ、知らんけど」と関西弁で文句の一つも言いたくなってしまった。映像はすばらしかったです。時代背景は現代じゃなくて少し前の時代なのですが、素人目には明らかにおかしいようなところもなく物語に没入できました。
劇中の歌舞伎は観客目線ではなくて、どちらかというと裏方というか、歌舞伎を作ってる人側からのショットが多くてなかなか興味深い。それから劇場を舞台側から見上げるショットがまたすごい。エキストラで下の席から最上階まで埋まってます。役者も普通歌舞伎ってバストショットでドアップってありえないと思うけどこの映画の中ではやたらに出てくる。白塗りでシワだらけの田中泯さんとかちょっと「ウヘー」って思ってしまった(泯さんごめんなさい)。つまり歌舞伎そのものではなくて歌舞伎役者とその周辺にいる人たちの思いみたいなものを描いているのだと思いました。
ただ演技の良し悪しを客観的に表現することは難しくて、稽古のシーンとかやはりピントこない感じはやはりいかんともしがたいなぁと思いました。アニメ推しの子シーズン2も意味不明なイメージシーンを多用して苦労のあとがうかがえたけど。
最後にメインのストーリーについて。キク坊もシュン坊もそれぞれ2回ずつぐらい挫折して辛酸を舐めて奇跡の復活をする。そういえば人間国宝インタビューでインタビュアーが順風満帆な人生とか言ってたのはネタなのか?めちゃめちゃ波乱万丈やろがい!お前週刊誌読んでへんのかいと思ってしまった。
結論。糖尿病はやっぱ怖いよ(最終的にそれなんかい)。今作のヒットは糖尿病予防啓発映画という意味でも非常に意義深いのではないかと思った次第です(知らんけど)。
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