国宝のレビュー・感想・評価
全540件中、1~20件目を表示
この歌舞伎映像こそ、国の宝として欲しい
そういえば、メイクのシーンから入る映画って、いくつか有ったと思う。思い出せる範囲では「ジョーカー」と、「カストラート」つまりヘンデルの時代とオペラ箇所の映画。「アマデウス」と同様、当時の舞台の再現が見物だった映画。
今回、歌舞伎の舞台を映画のために行われた映像化は、実に素晴らしかったと思う。どう考えてもカメラマンも一緒に舞台に上がっている筈なのに、観客からの視点では歌舞伎俳優しかいない。当たり前だけど、つまりは同じ舞台を何度も取り直す必要があり、それこそ国宝級の歌舞伎俳優さん達が協力してくださったこと。もちろんお客さんもコミで。
なんと有り難いことだろう。興味本位で歌舞伎の舞台の動画なんかを見ることはあっても、正直意味は判らないし、動きも優雅というか、ゆったりというか、荒事シーンなんかでも派手なアクションなどありえない。それでも、練習の風景から紐解いて、歌舞伎とは何なのかを鑑賞できたのは、とても素晴らしい体験でした。
女型の舞い踊りも、その美しさを理解出来たかどうかは、そこのところは正直ちょっと自信が無いです。特に、ご老輩の現役国宝さん、そして主役にして新生国宝さんのエンディング舞台「鷺娘」は確かに美しい。美しいとは思う。そう思えるかどうかは感性的なもので、その度合いを自分が感じ取れたかどうかは正直自信が無い。優雅さ・柔らかさに関して、やっぱり女性が上のような気がするし。
ただその舞台において、多くの補助役(よくあるイメージが黒子みたいな人)が早着替えを手伝ったり、主役だけじゃ無く、多くのいわばスタッフ達が段取りよく動き回り駆け回り縁者を助けて舞台を完成させる、その厳格さ、凄まじさ、緊迫感。むろん手違いは許されず、今回、劇中にあったような救急搬送するようなトラブルがあれば、そりゃあもう誰もが魂が抜けるほどに総毛立って慌てたことでしょう。そんな厳しさこそ、我々が軽々しくクチにして良いものでは無い、いわゆるジャパンクオリティなのだなと痛感します。
その他、歌舞伎の演技に関して、やっぱり「曾根崎心中」が凄まじい。無論、であるからこそ、絞り出すような台詞回しに腹を刺される思いがしましたが、それはやはり、渡辺謙さんの超弩級の厳しさで演技指導されてたお陰も有ったと思う。その厳しさ、大声で怒鳴りつけてお膳をひっくり返す激しさではあるものの、決して、自分が演じて見せようとはしないのは、そういう意図的な指導の仕方なのか、と思うのは想像のしすぎでしょうか。
そんな歌舞伎体験に加えて、劇中の役者の座を争うストーリーについてですが、これは実際の出来事に基づいているのかどうか。それは原作を参照するなどすれば判ることかもしれないけど、やはりこういう世界だからこそ、ありがちなことでしょうか。
そのストーリーについて、ひとつ着目したいのは「何故、自分の息子に後を継がせようとしなかったのか」。それは無論、持病の糖尿が自分の息子にも発症するだろう。それでは、芸の継承が絶えてしまう。だからこそ、血縁関係の無い主役を選んだのではないかと推察します。芸を後世に伝えるためなら、息子の面目をも犠牲にする。それも芸に生きる俳優の崇高なプライド、誇りなのでしょうか。
あくまで余談ですが、漫画「ガラスの仮面」を引き合いに出したくなりますね。前・国宝さんの「鷺娘」を新生・国宝が再び「鷺娘」を演じるあたり、まるで「紅天女」を受け継いでいるかのようで。
そのエンディングへと繋がるシーン、娘がカメラマンとして潜入して恨み節から入るのは、人生の総ざらえとして、とても素晴らしかった。そして最後にはその舞台を、芸を讃える。男として、父親としては最低だけど。そういえば、息子に後を継がせない先代の奥さんも散々怒ってましたねw まったく、芸事に生きる男はしょうがないなあ、って訳でしょうか。
(追記)
どうでもいいことですが、渡辺謙さんが劇中に食べていたのは、京都名物・客が薦められても食べてはいけないぶぶ漬けというヤツでしょうか。ホント、どうでもいいことですが。
ポップコーンを食べるのに、とんでもない緊張を強いられる映画
ところどころで登場する歌舞伎のシーンでは、館内が緊張と静寂に包まれる。
演者の心の機微や微細な表現の差異が、ビシビシと伝わってくる。
発せられる一音、指先の動き一つに至るまで、なんと精神的で繊細な芸能なのか。加えて、迫力と華やかさも。
「歌舞伎=古くて退屈」という先入観が、完全に覆された。面白い。
「血」と「芸」。
伝統芸能では世襲が前提。部外からの成り上がりは並大抵のことではない。。
・三代目襲名は既定路線と思っていたものをはく奪される俊介の辛さ。
・才能と実力で三代目になっても、家の力に押し返される喜久雄の辛さ。
双方の慟哭がスクリーンにありありと表れていて、胸が痛かった。
吉沢亮、横浜流星。一体どれだけ稽古したのだろう。本当に見事であった。役者って凄い。
『さらば、わが愛 覇王別姫』と似ているという噂もあったが①こちらはどちらも女形②双方に恋慕はない(たぶん)、という点で大きく異なる。ただ、伝統芸能において素人の俳優が本当に見事に女形を演じ切ったという点でレスリー・チャンと吉沢亮、横浜流星は共通していた。
「歌舞伎」「世襲・家」など日本の根源的な面を表現するのに、いままでにないダイナミックな表現だった。この感覚はどこか「PERFECT DAYS」と似ている。
一方、少年時代から人間国宝になるまでの長い時間軸を順に描いているせいか、伝えたいことがやや散漫になった印象もある。
原作ではどうなのか?その辺りをうまく言語化しているのでは?私には珍しく原作を読みたくなった映画であった。
※「国宝」という題名には違和感がある。まだ私が咀嚼できていないだけかもしれないが。
※少年時代を演じた彼の演技(特に女形の演技)も心を奪われるものがあった。渡辺謙が目が釘付けになるのも納得の演技であった。
※横浜流星の女形はちょっと怖いよ!顔のパーツがでかいからだな。
※永瀬正敏が演じたヤクザの親分が、しずるのLOVE PHANTOMネタの兄貴役にみえて仕方がなかった。ほんまごめん!
吉沢亮と横浜流星の贅沢なアンサンブルで魅せる、血筋と才能の残酷な相剋
吉田修一の原作は文庫本で上下巻、都合800ページほどで主人公立花喜久雄の15歳から還暦過ぎまでを描いている。時代背景も絡めつつ綴られた浮沈の激しい歌舞伎役者の一生を1本の映画に収めるのだから、細部の省略は当然ある。
それでも物語の本質的な魅力は全く損なわれていなかったように思う。それどころか、原作を読んだ当時歌舞伎の演目に関する知識があまりなかった私は、ああ視覚的にはこういう世界だったのだと、そこにかかっていた靄に気付かされたような、そしてその靄が晴れ澄んだ景色が見渡せたような気持ちになった。
吉沢亮と横浜流星は、個人的には世代でトップクラスの演技巧者だと思っている。どちらかひとりが出ている作品というだけでも食指が動くのに、二枚看板となればもう贅沢なものをありがとうございますとひれ伏すばかりだ。
実際、吉沢亮の喜久雄は圧倒的だった。半二郎から「曽根崎心中」の演技指導で厳しい駄目出しを受ける最中自らの頬をひとつ打ち、一瞬で一皮剥けたお初になる場面には息をのんだ。
行方不明だった俊介が帰って来てあっという間に晴れ舞台に戻る一方、「血」がないがためにドサ周りに落ちぶれた喜久雄が、汗と涙で化粧が流れた顔のまま悲痛な声をあげる姿に胸が締め付けられた。
そして、何と言っても舞台での華やかさ。どこか中性的な滑らかな輪郭の吉沢亮の面立ちに、女形の化粧が映えて眩しかった。
私には歌舞伎の舞台を観る嗜みがないのであの演技がどこまで本物の歌舞伎役者に迫ったものか、厳密に見極めることは出来ない。だが、彼がやろうとしていることは単純な舞台の再現ではなく、人間国宝になる役者の人生を映画で表現することなので、舞台場面のみを本物と比較して粗探しすることにはあまり意味がない気がする。
中村鴈治郎が歌舞伎指導を担当しているので、基本的なクオリティは担保されている。また、李監督は吉沢亮に、綺麗に踊るのではなく喜久雄としての感情を乗せて踊るよう指導したそうだ。歌舞伎をよく知らなくても難しく考えず、映画の観客として舞台場面ではただ東一郎と半弥、衣装や舞台芸術の美しさに酔い、二人の心情に思いを馳せればそれでいいのではないだろうか。
横浜流星も吉沢亮に負けない存在感を放っていた。助演とはいえ、W主演に近い演技力とエネルギーが求められる俊介という役を、吉沢に押し負けることなく、かといって主役の吉沢を食ってしまうこともなく、絶妙なバランスで演じていたと思う。このバランスが崩れると、喜久雄と俊介の関係性の表現は台無しになっていたはずだ。
血筋を持つのに父の半二郎に喜久雄の才能の方を選ばれ、喜久雄の舞台を見て実力の差を実感し家を出てゆくくだりでは、絶望に傾いてゆく俊介の心情が表情の変化から伝わってきた。
吉沢亮は稽古の段階で横浜流星の吸収の早さと役への気迫を感じ、彼に負けないことをモチベーションにして頑張ったとインタビューで述べている。一方横浜流星は、吉沢演じる喜久雄の踊りを見て俊介の踊りの個性をイメージしたとのこと。「仮面ライダーフォーゼ」で親友役だった二人のこういった関係も、どこか役柄の血肉になっている気がして面白い。
メインの二人以外で印象的だったのは、まずは寺島しのぶだ。演技は当然素晴らしいのだが、現実の彼女の境遇が、血筋と才能をめぐる物語に説得力を与えていた。彼女の場合は「血」はあったが、女であるがために弟の歌舞伎デビューをただ見ていることしか出来なかった。血筋を持つ俊介を守ろうとする幸子の姿には、寺島しのぶの母としての経験の他に、彼女が梨園の内側で見てきたものが反映されているように思えて仕方なかった。
田中泯にも驚いた。最初に白塗りの姿を見た時はその圧倒的な存在感に、一瞬本職の歌舞伎役者かと思ったほどだ。女形のしなやかさと威厳が同居する表情、そして洗練された手の動きはさすが舞踊家。
黒川想矢もよかった。喜久雄として最初に登場し半二郎を惹きつけるという、なかなか重要な役どころ。彼の墨染はとても可憐だった。
喜久雄と出会った頃は歌舞伎という業界を斜に構えて見ていた竹野が、最終的に喜久雄を救う立場になってゆく展開も描写はさりげないがなかなかアツい。
本作で全体的に女性キャラの扱いが小さく表層的なのは時代背景と業界の傾向に加え、原作での女性周りの描写が映画では削られているので(特に春江の心情描写はこれで大丈夫なのかというくらい端折ってあった)まあこんなものだと思っている。それでもちょっと残念だったのは、喜久雄の娘綾乃の扱いだ。
取材で喜久雄と再会した綾乃は娘であることを明かして彼に恨み節を言うが、最後に「舞台を見ているとお正月のような気持ちになる」等述べて舞台人としての彼を面と向かって肯定した。
これは、うーん……どうなんだろう。個人的には、ぽっと出のキャラが(子役としての綾乃は出てたけど)無難に綺麗事でまとめたように見えてしまった。肯定させる必要あったかな?
綾乃の使い方によっては、晩年の万菊に近いレベルで、喜久雄の美を背負う業のようなものが表現出来たのではないかと思えてしまう。偉そうにすみません。
才能で血筋を越えながらも血筋を持たない故に転落し、それでも才能で再び引き上げられた喜久雄。血筋を持ちながらも一度は才能で負けて家から逃げ、しかし血筋によって戻る場所を得られた俊介。入れ違いに過酷な運命に翻弄されながらも、最後まで穢れない彼らの友情もまた舞台に負けず美しい。
原作はちょっと長いがとても読みやすいのでおすすめ。鑑賞後に読めば映画で知ったビジュアルで想像を補いつつ物語のさらなる豊かな広がりに魅了され、美に魂を捧げた喜久雄の最後の姿に心を奪われるはずだ。
客席のエキストラのみなさんが作品価値をさらに上げている
もちろん主演の2人の作り込みや熱演は素晴らしく、映画全体としても力があると思うのだが、なによりも喜久雄の少年時代を演じた黒川想矢に目を奪われた。画面映りが突出しているというのもあるし、序盤の踊りのシーンも引きのカメラでじっくり映していて、そのパフォーマンス能力の高さに釘付けになる。『怪物』とかでは観ていたものの、よくもまあこんな逸材がいたものだと感心しきり。一緒に踊っていた相手役も、声の低さも含めてとてもいいコンビネーション。あと、実際に観客として入ってもらったという舞台のシーンのエキストラのみなさんのビジュアル、表情ともに実在感が凄く、こういうディテールに映画の神様って宿りますよねと吊られてテンションが上がりました。ただ映画の中の喜久雄の物語は、わりと早目にピークが来てしまう印象で、その後の芸に打ち込むしかない人生を描くのであれば、緩慢に感じるくらいもっと尺があっても良かったのかもしれない。
顔が綺麗
普段ドラマばかり見ている友人が「見た方がよい」と絶賛していたので、見に行った。
朝方だったからか、高齢者が大半で、歌舞伎のような伝統文化がテーマだと、こういった層が観覧に訪れるのだとしみじみ考えた。
内容は語ることができない。曖昧模糊な感じで、つかみどころがなかったように思う。
だから、「顔」の話をしたい。本当に吉沢亮は顔が綺麗だ。映画館の大きなスクリーンで見ると、なおのこと感動してしまう。彼の造形を彫刻にして展示してくれないだろうか。
ただ、女方は「俊坊」を演じる横浜流星に分があったように思う。
鼻筋がすらーっと通っていて、若干面長の輪郭が凛とした印象を与えている。
所作も女性らしさがあって、なんとも艶っぽかった。
友人は「森七菜」が魅力的だった(注:表現をぼかしている)と週刊誌の見出しに書いてあるようなことを言っていたが、確かに「幼さ」が一気に抜けた感じがする。
総括すると、ストーリーも興味深くはあるが、どちらかといえば、顔の造形や扇子を床に置くなどの身振り、歌舞伎の演目、鳴物などの演出などなど...
今の自分が作品からなんらかの「美しさ」を享受できれば、良いのではないだろうか。
そういった観点で言えば満点星5なのだが、本サイトでレビューをするにあたって、
私は内容の面白さを絶対的な基準にしているため、星3.5に落ち着いた。
歌舞伎のシーン、すごい…。
ロングランヒット中で気になって観に行った。
役者陣の熱演、そして歌舞伎のシーンなどは本当にすごい作品だと思った。
ただ、そうは思うものの、私にはなぜかあまり刺さらず…。
その理由含めて消化不良感の原因を考えて記録したい。
大きな一因としては、本作のメインテーマというか主軸になってるのって「歌舞伎の芸に身を捧げる者の狂気と業と悲哀」だと理解したのだけど(ちなみに原作は未読)、そこを堪能する前に色々個人的に感じるノイズが多かったせいかなと思った…。
まず思うのは伝統芸能・歌舞伎の世界、闇が深い…!
(本作はフィクションだけど、この辺割とリアルに描かれてる気がする)
明らかな男性優位社会だし、血統主義だし、今は他にもたくさんの良質なエンタメがあるから、正直私には良さがよくわからない…。
最終的に喜久雄は人間国宝になるとはいえ、この血統主義の慣習のせいで中盤はあまりに不遇。
俊坊との対比でさらにエグさが浮き彫りになってて辛い…。
そしてこの作品に登場する女性、もれなく全員不遇…。(でも春江の選択はあれどういうことなの…。)
喜久雄と俊坊の関係性はかなりスリリングで好きだったので個人的にはここを作品のメインでいってほしいくらいだった。
(実際序盤はそこに集中して観てたから、そこは主軸じゃないんだ…と途中から拍子抜けした。)
2人学校帰りに歌舞伎を練習するシーン、美しかったな…。喜久雄が二代目の代役に抜擢されて、本番前に化粧部屋で緊張してるところに俊坊が来て化粧しながら言葉を交わすシーンも良かった。
(私の中ではこの作品のハイライトはここ)
そんな感じで心から楽しみきれなかったものの、すごい大作だとは思った。
「芸のためなら女も泣かす」役者の魂は、救われるのか?
「芸のためなら女も泣かす」…「浪花恋しぐれ」(都はるみ、岡千秋)の一節です。
この歌は破天荒な落語家の初代・桂春団治を歌った曲ですが、この映画の主人公喜久雄の生き方も、自分の人生すべてを芸の為に捧げる生き方です。実際、喜久雄も女を何人も泣かせます(汗)
しかし、そのある種極限のストイックな生き方にそこまで主人公・喜久雄を突き動かす衝動はなんなのでしょうか。見ていて今ひとつそれがわからなかった。喜久雄曰く「きれいな景色を見たいから」とのことですが、その理由はあまりにも抽象的かつ具体的でない。おそらくそれは自己満足や自己実現といったレベルのものではないでしょう。
最後まで見終わって僕が思ったのは、喜久雄は「歌舞伎の魂あるいは、連綿と連なる怨念のようなもの」に取り込まれているということではないかということです。
伝統芸能に対する高尚な理解や素養など持ち合わせていない僕などは、歌舞伎とは『オワコン』であって、衰退するのみの『古くさい過去の遺物』位にしか思っていませんでした。世の中の大多数の人にとってはそうでしょう。しかし、江戸時代から連綿と時代が変わっても消滅しないのはなぜなのでしょうか。
おそらく僕が思うに、歌舞伎に関わってきた役者たちの、あるいはそこに夢と熱狂と共に観た人々の、情念もしくは怨念のようなものが織り重なり、それが得体の知れない妖怪のように膨れ上がり、不可視であり明確な意識を持たずとも決して消滅するまい・その存在を消すまいと渦巻く歌舞伎のレーゾンデートル、「怨念もしくは集合的無意識のような力」になっているのではないかと思うのです。
喜久雄は、劇中で神社で自身の子供とお参りをするシーンで、奇しくも「自分は悪魔と取引をした」と言っています。なぜ「神」ではなく「悪魔」なのでしょうか。「神」は見返りを期待しないが「悪魔」は見返りを要求するものだからです。(諸説あります)
喜久雄は「悪魔」と取引をした。「悪魔」とは上記の「歌舞伎の集合的無意識」であり、そこに取り込まれることを喜久雄は自ら望んだのだということでしょう。「そのために他の何もいらない」つまり、その為には「すべてを差し出す」と言う。
「歌舞伎の集合的無意識」には意識や人格のようなものはないでしょう。その意味では悪魔とは違います。しかし、歌舞伎に自身を捧げるものからすべてを吸い取る。人間が人間たる人間性や、あるいは人並みの幸福も。その代わりに歌舞伎の集合的無意識は、芸の魂を分け与えるのです。言わば、人身御供。役者の魂を吸い取りながら、決して消滅することなく、孤高に閃き続け存在し続けるのが、歌舞伎の「悪魔」のレーゾンデートルであり、それこそが存在し続けることができる所以なのです。
もし役者自身が捧げるものが中途半端であるのなら、その魂の「内なる熱」が足りないなら、役者の魂は「悪魔」に吸われ尽くして「死ぬ」のです。その魂の熱が役者の中から湧き続ける限り、歌舞伎の集合的無意識と取引し続けることができるのです。無尽に湧き出る熱を持つ者のみが芸を磨き続け国宝となりうるのです。
喜久雄には全てを差し出す意思と潔さと、芸に対する内なる無尽蔵な熱があったということです。ですから、国宝となり上り詰めた喜久雄には、他人は、芸以外何も期待してはいけないのです。
もはや喜久雄は、歌舞伎の集合的無意識に自らを差し出し・逆に力を吸収し続けたその果てに、集合的無意識と合一してもはや同じ存在となった。そこで初めて「きれいな景色」を見ることができたのでしょう。喜久雄は、歌舞伎の「悪魔」そのものになり、全てを捨て人外のモノとなった。それでこそ見れる世界だったのでしょう。
…あんまり期待していなかったのですが、面白い映画でした。スピーディーな展開で飽きさせない工夫もありつつ、ドロドロとした情念に溢れた僕好みの映画で、1回は歌舞伎を鑑賞したくなリました。この映画のヒットで歌舞伎に足を運ぶ人が増えたらこの映画を苦労して作った甲斐があるでしょうね。…そうしたら、歌舞伎の「悪魔」もニヤリと笑うかも知れません。
Thank's, all Cast and Staff ! :‑D
東宝はプロモーションがうまいね
3時間近い長編ということで、大福3個食べて観賞に臨んだ。その効果があったのかどうかははっきりしないが、最後までトイレに行きたくならなくてすんだ。大画面で見られてよかった。
日頃、歌舞伎に興味がないわたしでも、初の大舞台の『二人道成寺』のシーンはハラハラしながら見た。渡辺謙に変わって『曽根崎心中』の舞台に立ったシーンは緊張感が伝わってきた。後でお初を横浜流星が演じるシーンでは、前もって『曽根崎心中』を見せてもらっていたおかげで、展開がよく理解できた。これは脚本の妙だと思う。
歌舞伎の演目名がその都度画面に字幕で出てくるのはダサいけど親切だなと思った。後で調べられますし。しかし、最後の『鷺娘』ではやっぱり歌舞伎のシーンに飽きてきて、少し意識が遠のいてしまった(トイレ我慢しなくてすんでたのも要因かもしれないけど)。吉沢亮の「きれいやなー」というセリフでハッと気がついたが、そのままエンドロールになってしまった。吉沢亮が見たかった景色というのはなんだったのだろう。不覚なり。
ストーリーは、孤児だけど圧倒的な才能をもつ主人公と、血統書付きのサラブレッドだけど才能はそこそこのライバルという、武道や伝統芸能を題材にした話では何度か見たパターン。そのライバルが、血筋だけではなく、糖尿病のリスクという遺伝的な形質(いやこれこそ血筋というべきか)も親から引き継いでいましたとさ、というのは皮肉だけどなるほどと思った。
個人的には田中泯の演技が鳥肌もんだった。芸を極めると妖怪のようになるのだ。そういう意味では、人間国宝となった後の吉沢亮には幽玄さが足りなかった。美しくはあったのだけれど。
原作は見ない方が良いかも…
話題の映画だったので期待して観に行きました。3時間は長いですが、出演者の熱演に飽きることなく最後まで観れました。歌舞伎シーンは圧巻で引き込まれます。ただ、ストーリー展開の唐突さ、現実感があまり感じられない点や、なぜそういうことになったのかという疑問点があまりにも多すぎ、面白かったものの、ここまで高評価なのが不思議でした。
ただ、何とも言えない余韻を感じたのは確かで、気付けば原作本を購入し、読みふけっていました。原作は文句無しの面白さ。ただ、原作ファンはこの映画を見て怒るんじゃないかな、と思うくらい原作と映画は別物。映画では、原作での重要人物の一人がほぼ登場せず、そのことによって原作ではしっかりと描かれた主人公と周辺人物との関係性もおかしな感じになっているし、そもそも様々なエピソードが雑に統合されたり、別の人物のエピソードに変更されていたりという改変により、膨大な疑問点を生み出しているように思います。長編小説を映像化すると仕方ないのかもと思う反面、原作を観たからこそ、こんな映画になるならやらなくてよかったのに、とすら思いました。原作未読だと疑問まみれだし、原作ファンにとっては噴飯ものの作品になったしまったのではないでしょうか。
「本物の歌舞伎に触れる、魂揺さぶる物語」
【正反対の運命を背負った二人の青年】
物語の軸となるのは、吉沢亮さん演じる喜久雄と、横浜流星さん演じる俊介。
喜久雄は長崎に暮らしていた15歳のとき、目の前でヤクザの義父を殺され、そのまま大阪の歌舞伎一家に預けられ、意志とは無関係に厳しい修行を受けることに。一方、俊介は生まれながらにして歌舞伎一家に育ち、歌舞伎をやるのが当たり前という環境に身を置く青年。
まったく異なる出自の二人が、血縁と才能という逃れられない運命に翻弄され、互いに刺激しあいながら、役者として成長していく姿が描かれます。
【それぞれの魅力と演技の違い】
喜久雄はもともと女方の素質があり、飲み込みが早い。一方で俊介は、生まれながらに歌舞伎役者という「恵まれた立場」に甘んじつつも、自分の進む道に苦しみながらも懸命に努力するボンボン的存在。
横浜流星さんは、映画『正体』でも見せた「可哀想な子」を演じる才能が今回も存分に発揮されており、「ほんまもんの役者になりたいんや」というセリフには心を打たれました。
俊介の父・半二郎(渡辺謙)が、自身の跡継ぎを血の繋がらない喜久雄に託すという、歌舞伎界のタブー中のタブーを描いた展開も衝撃的。その選択に葛藤しながらも、最期に息子・俊介の名を呼ぶシーンには深い愛が感じられました。
【圧巻の歌舞伎シーン!亮と流星の努力の結晶!】
とにかく、歌舞伎のシーンが素晴らしい!
吉沢亮さん、横浜流星さんは、他の仕事も抱える中、1年間かけて歌舞伎の踊りと演技を習得したそうです。もともとの素質では亮さんが一歩リードしていたそうですが、流星さんは持ち前のガッツと努力でそれを追いかけ、見事に演じ切っています。
劇中に登場する演目では「二人道成寺」では手ぬぐい、笠、鈴太鼓などを使った妖艶な舞、「曽根崎心中」の緊迫した感情表現など、どれも素人が見ても圧倒される完成度でした。
【撮影現場で体感した「本気の現場」】
今回、私は京都・南座や上七軒の歌舞練場(芸子、舞妓の訓練場)、大阪の昔ながらのキャバレーなどでエキストラとして撮影に参加しました。普段は入ることのない場所に足を踏み入れ、歌舞伎の世界を映画で表現しようという壮大な挑戦に触れられたのは、一生の思い出です。
現場では、俳優陣(亮さん、流星さん、渡辺謙さん、寺島しのぶさん、高畑充希さんなど)をはじめ、李監督、カメラ、照明、方言指導など多くのスタッフが一丸となって映画づくりに挑んでいました。
朝5時から夜9時まで、衣装・髪型・小物のチェック、食事の用意、300人近いエキストラの管理…。ものづくりの裏側に、これだけの人と労力があることを知って感動しました。
印象深いのは、俊介が観客として喜久雄の「曽根崎心中」を見つめるシーン。俊介の心の揺れが物語の分岐点になる重要な場面で、監督の演出も非常に熱が入っていました。
【推しのために全国から!エキストラたちの熱量】
エキストラの多くは亮さん、流星さんのファン。北海道から九州まで、交通費も宿泊費もすべて自費で駆けつけていました。
観客役だったため、舞台で演じるお二人を堂々と見られるという特典付き。花道の近くでは「生の素足と爪が見えた!」とファンが歓喜する場面もww。
そして、映画『国宝』の評価は――
評価は、文句なしの5.0。SSSトリプルSのランクです。世界に誇れる映画だと現場でも確信しました。
エンタメ性、芸術性、ストーリーの分かりやすさ、衣装、音楽、映像…。どれを取っても素晴らしく、全体の完成度が非常に高い作品です。
一つの作品が出来上がるまでに、どれだけの人の情熱と時間が注がれているのか。
それを肌で感じたこの映画、ぜひ多くの人に見てほしいと心から思います。
そして、映画ならではの映像による歌舞伎体験を、ぜひ劇場で味わってほしいと思います。
※あとがき
記念品とともに心に残る時間。
ボランティアエキストラなのでもちろん報酬はありませんが、映画のタイトル『国宝』と監督の名前が刻まれた記念品をいただきました。
ちなみに、記念品はステレンスボトル、扇子、傘の超吸水ポーチ、保冷バッグなどなど。
まさに自分にとっての『国宝』。
以上
久しぶりに映画観に行けた
吉沢亮と横浜流星の見分けが難しくて何度か間違えて観ていた・・・白塗りするとますます見分けが付かない。あと何故か横浜流星の方が主演だと思い込んで観ていたので、途中であれって・・・
永瀬正敏気が付かなかった!
渡辺謙が女方って、なぜ?!と思ったけど白塗りして舞台に立つとそんなに違和感はない。でも渡辺謙は白塗りしてても渡辺謙だと分かるなぁ。
田中泥さんが良かった。
吉田修一は悪人や怒りの人だから・・・吉沢亮が渡辺謙に毒を持ったのかと思って観ていて、横浜流星にも毒を?!と思ったけど違うようだった。悪魔と取り引きしてたからてっきりもっとドロドロした話なのかと・・・
横道世之介も吉田修一だった。
歌舞伎の上手い下手は正直分からないけど、音響や演出の工夫がされていて、舞台シーンは迫力があった。
スクリーンで観られて良かった!
いやすごいけど
すごいけど、まじで昭和元禄落語心中と話にすぎません?!途中であれなんでこんなに似てるんだと考えて、どっちらかパクリ?とあることないこと考えてしまった😓でもやっぱ歌舞伎は難しいなあ、感情理解も、セリフを理解するのも、一回観に行きましたが、イヤホンの説明がないと何もわからない感じだった。こんなこと言うのはなんなんだが、本当に人をこんなに辛くさせられるものってそんなに大事かと思ってしまった。
死の間際に実の息子の名を呼ぶのはある意味普通
死の間際に実の息子の名を呼ぶのはある意味普通だ。芸より血だと思っているんだとしかあの場では思えなかったし、実際本音としては実の息子に襲名させたかっただろう。家継続の為にはもう待てない。自分は我慢して目の前で頑張っている喜久雄に継がせよう。その我慢が限界を超えた瞬間が襲名披露の壇上だったのは不幸だったけど。それでも死ぬときは預かった息子ではなく、0歳から育ててきた息子の方の名を呼ぶのは役者としてではなく、父としての自分の心から、飾りなしに出た言葉だった。と思う。
喜久雄が俊介と違うのは、父を二回看取っていること。実の父と歌舞伎の父。それだけでも業が違う。俊介が帰ってきて隅に追いやられた時間は人生の休み時間であり、俊介がいない間に握っていたバトンを一時返していただけ。そして俊介が死んだあとは孫にバトンを渡す役目を遂げたはず。立派につないだのだ。
最後、国宝=国の宝にはなれた。見たかった景色を見つけた。けれども本当に喜久雄は国宝になりたかったのだろうか。それよりも、どこかのたった一人の一番の宝物になったほうが、人間としては幸せだったのかもしれない。死ぬときに混濁する意識の中で、「喜久雄」と必死で自分の名を呼んでくれる。そんな人はこの世界にいるのだろうか。芸に魂を売った結果、そんな人はいないかもしれない。わかっていてその寂しさをも抱きしめながら生きる喜久雄と、国を背負う全ての芸の人に心より感謝と敬意を表したい。
何で高評価?
当初、本作は観ないと決めていたのですが、私の周りで観てきた方々が皆さん絶賛するので、重い腰をあげて観てきました。
結論から言うと何でこんなに高評価なのかさっぱり分かりませんでした。
まず、踊りの場面については、私自身が歌舞伎を観た経験がないため、上手いのかどうか判断がつかず、頑張っているようには見えましたが、感動するまでには至りませんでした。ただ、映像的には早変わりの場面など、観客に分かりやすいような工夫がみられ、その点は評価できると思います。
また、ストーリーについては、後継ぎを一度決めてしまったら戻せないと、半二郎の妻がさんざん騒いでいた割には状況次第でころころ変わるし、主人公の恋人にしても、いつの間にかあっさり俊介の恋人になっていて、どっちでもいいの?って言う感じで、同情なのか愛情なのか、心の内が伝わって来ませんでした。
極めつけはラストのカメラマンが、偶然にも実の娘だなんて都合良すぎでしょう。
(追記)
歌舞伎は女性の役を男性が演じ、宝塚は男性の役を女性が演じるわけですが、何でわざわざ異性の役を演じるのか、私にはその良さが理解できず、違和感しか感じません。
原作の良さを活かしきれていないのでは…
映画化が決まる前に大変面白く一気読みしていました。
映画の前評判が、かなり高く「映画館で見るべき映画」との口コミも多かったので期待して見に行きましたが、残念ながら映画の方は期待外れでした。
原作の魅力は、細かい人間ドラマや時代背景によって、メインの歌舞伎の世界で生きる喜久雄と俊介エピソードに深みを与えているところにあるかと思うのですが、3時間の映画ですので、かなり端折られています。
原作を未読の人は話が分かるのかな?と、鑑賞中に心配になるレベルでした。他の方もレビューされていますが、かなりぶつ切りで、すぐに時間軸も飛ぶので、感情移入はかなり困難です。
歌舞伎のシーンは確かに美しく、俳優さん達の歌舞伎シーンを成立させるための苦労や努力は、とてつもなかったかと思いますが、それが映画としての面白さには直結していないと感じてしまいました。歌舞伎シーンを見るためなら、歌舞伎そのものを見た方が良いのではないでしょうか。
映画制作のリソースを歌舞伎シーンではなく、ドラマ部分に費やしてほしかったです。そして、2部作にすべきだったと思います。
確かに面白かったんだけど…
美術のセットも凄く画面全体にエネルギーを感じる凄い作品ではありました。
歌舞伎てこういう世界なんだな。と教養を得た気分にもなれます。ただ、一旦集中力が途切れてしまうと続きを見るのはしんどくなるかな。映画で見るからこそ迫力で楽しめたと思います。歌舞伎ファンに限らず、歯を食いしばって舞台に挑むっていう所はスポ根が好きな人も楽しめそうですね。
生き様を醜く美しく描き切った
1人の男の人生を描き切るタイプの映画
時系列はそれゆえに長めで、1つ1つのイベントは意外に淡白に、何年後、何年後、と進んでいく
思いつくあたりでは、
市民ケーン、スカーフェイス、アイリッシュマン、ラストエンペラー、ウルフオブウォールストリート、ソーシャルネットワーク
などと同じ構造
好きな構造
(ただどうしても長く・暗くなってしまうものだから、映画好きは好きでも今の日本でこんなにヒットするとは正直びっくり)
ただ今回は芸術的な美しさや迫力が、映像や音楽からひしひしと伝わってくるところがある
その分かりやすさと凄みがヒットした理由なのかも
大抵こういう構造の話は、男が何らかの高みを目指して(大抵は地位や名誉、富など目指して)、あらゆるものを犠牲にしながら人生を過ごし、最終的に孤独や虚無感で終わるパターンが多い
それゆえにその当初の目的よりも、何らかの別の大切さ(rosebudのような、愛のような)があったのではと示唆する
ただ今回は目指しているものが、芸術の美しさ。
歌舞伎という芸能の素晴らしさ、高揚、その先の景色。
それを決して映画内で否定しない。
あらゆる犠牲のもとでもその価値を疑わせない。
視聴者をもその虜にさせる。
主人公の感じる執着に、視聴者も願ってしまう。
ブラックスワンをはじめとするダーレンアロノフスキー作品を一生という時系列で描き切ったとも取れるし
芸術への価値観としてはセッションをはじめとするデイミアンチャゼル作品にも似ている。
一つ一つのシーンとして印象的なのは、登場人物たちの死に様
ヤクザの父も壮絶に、しかしその肉体の迫力のもとに死んでいく
渡辺謙も生への執着を見せながら、強烈なインパクトを残して死んでいく
横浜流星も人生のピークで華々しく散るように死ぬ
万菊も静かに、みすぼらしく、しかしそれ故に印象的に死んでいく
吉沢亮だって、万菊とリンクさせるように描かれているのだから、きっとこのまま孤独に死ぬことになるのだろうと示唆される
良い作品
これが日本でヒットしたというのも何だか嬉しい
凄まじい演技と演出。
周りの強い推しの声におされ、映画館に足を運ぶ。
確かに、これは、映画館で見るべき作品。
そして、人間の生き様を描いたもの。
役者の演技、表情も凄まじいものがあるが、
息遣い、足音、緊張感の演出にも、強いこだわりを感じる。
伝統芸能を背負う者達の、重圧をも感じることができる。
観ているものの感情に強烈な印象を植え付ける。
個人的に、
「血がほしい」といった彼の表情と心境、
化粧が崩れた状態で舞う屋上のシーン、
様々な経験を得た二人が揃う花道のシーン、
が、印象に残っている。
主人公2人の演技に賞賛の拍手を送りつつ、
伴侶の支え、周りの助けの有難さにも、
改めて、感謝したいと思える作品。
私的、弱点と凄みを感じさせる、今年の代表的な作品の1つだと
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと、今作の映画『国宝』を面白く観ました。
ところで個人的には、李相日 監督の作品は、多くの作品で弱点と凄みがあると感じて来ました。
おそらく、今作を絶賛する人がほとんどでしょうから、まず私的感じた弱点から‥
今作の映画『国宝』に私的感じた弱点は、1つ目は、主人公・立花喜久雄(吉沢亮さん)が、花井半二郎(渡辺謙さん)のトラック事故により花井半二郎の代役で「曽根崎心中」を演じるのですが、その時に観客にいた大垣俊介(横浜流星さん)と福田春江(高畑充希さん)の関係性に疑問を感じた所です。
大垣俊介は、父・花井半二郎の代役を演じられなかったいたたまれなさで、主人公・立花喜久雄の「曽根崎心中」の観劇から中座します。
そして、福田春江も、観客席から中座した大垣俊介を心配して追って観客席を後にし、その後、大垣俊介と福田春江は駆け落ちし、歌舞伎の世界から(一旦)いなくなります。
ところが、1観客の私は、主人公・立花喜久雄と幼馴染だった福田春江が、彼にとって重要な花井半二郎の代役の「曽根崎心中」の舞台に集中せず、大垣俊介の方に気を取られ大垣俊介の後を追った、彼女の心の動きに違和感を持ったのです。
その理由は、主人公・立花喜久雄と福田春江の関係性はそれまで描かれて来た代わりに、大垣俊介と福田春江の関係性(モンタージュの積み重ね)がほぼ描かれてないのが理由だと思われました。
これは、李相日 監督が、女性との関係性の積み重ね描写にそこまで関心が薄いのが理由だと、僭越思われました。
例えば、映画の終盤で、三代目・花井東一郎となった主人公・立花喜久雄は、カメラマンとなった娘・綾乃(瀧内公美さん)と再会します。
そして、娘・綾乃の父への語りは感動的な場面だったと思われます。
しかしながら、娘・綾乃が、自分と母・藤駒(見上愛さん)を捨てた父・三代目・花井東一郎を非難する時に、観客は、母・藤駒の、捨てられて苦労した沈痛な表情のモンタージュを思い起こすことは出来なかったと思われます。
なぜなら、母・藤駒から向けられた、主人公・立花喜久雄への関係性と表情を、それまでしっかりと描いてなかったのが理由だと思われました。
観客はその代わりに、娘・綾乃が父・三代目・花井東一郎(立花喜久雄)を非難している時に、三代目・花井東一郎が同様に苦労をさせた、彰子(森七菜さん)の表情をそこに重ねたと思われるのです。
李相日 監督は、様々な登場人物のそれぞれの立場から作品を描くというより、(もちろん全てではないですが)主要な登場人物からの一方的な描写で描き通すスタイルがあるように感じて来ました。
なのでその弱点として、福田春江と大垣俊介との関係性や、娘・綾乃の母・藤駒からの立花喜久雄への関係性の、描写の欠落が起こってしまっていると思われたのです。
あとの細かい今作の弱点としては、広いロケシーンで、ピンボケとはいえ、遠景に現代的な建物や構造物や車などが映っているのは気になりました。
李相日 監督は、”全てやり直せ!”と暴君的に振舞っても許される立ち位置に既にいる監督だとは思われます。
出来れば、このレベルの作品であれば、遠景の背景は全てCGで描き直す要求をして欲しかったとは思われました。
そして例えば、花井半弥(大垣俊介)の義足の足先が動いてしまっている場面もあったと思われたりもしましたが、李相日 監督ならその点で周りに完璧さを求めることも可能だったと思われます。
また、歌舞伎のシーンでは、扇子の位置や手や首の角度に至るまで、互いにシンクロするレベルでの要求が可能だったのではとも思われました。
それほど、李相日 監督への期待値の高さがあり、国宝の歌舞伎という題材ではなおさらあったように思われました。
しかしながら今作に私的感じた弱点はそれぐらいで、あとは圧倒される場面と映像とそれぞれの俳優陣の圧巻の演技の数々の積み重ねの凝縮があったと思われます。
上で、様々な登場人物のそれぞれの立場から作品を描くという意味では、李相日 監督には弱点があると書きましたが、逆を言えば一方で、主要な登場人物の描き方の強度と凝縮さは、圧倒的な今回も凄みがあったと思われます。
その迫力は、特にそれぞれの役者陣の演技に関しては、特に主演と助演の男優賞は、今年、今作が総なめにするのではないかぐらいの驚愕さがあったと思われます。
圧巻の演技と迫力の場面の積み重なりにより、結果的には今作は(私的感じた弱点など遥かに超えて)傑作だ、との評価をせざるを得ない、重さある優れた作品になっていたと、僭越思われました。
騙されたと思った(F1からの国宝は失敗した、という話)
あの日、友達とF1を観たあと爽快感でいっぱいだった。
「(F1)面白かったね〜」と、二人とも観る前より遥かにテンションが上がっていた。大満足なのは、多くを語らなくてもわかった。そして友達は「国宝はとにかく、踊りがとっても綺麗だった〜国宝も絶対観た方がいいよぉ」と国宝を勧めた。それで調子に乗って、翌日に朝イチで国宝を観に行った。ほぼ満席で最前列まで埋め尽くされていったので、「木の上の軍隊」みたいに、凄いことになってる感があった。
しかし、F1でドーパミンが出てフワフワした感じだったのに、国宝の湿っぽさというかドロドロ感、救いのない話もあって、一気に真逆のダークサイドに引き摺りこまれたのだった。一週間くらいはF1の高揚感にひたっておくべきだった。それが今年の夏の過ちで、10月なのにまだ引きずっています。
「踊りが綺麗だったぁ」と目を輝かせていた友達に悪気は無いんだよね…。確かに踊りは綺麗だったよ、でも、踊りだけじゃないよね。監督が描きたかったものは。もっと解釈が欲しかった。友達に騙された…でも国宝に関しては調べなかった私が悪い、それに尽きる。
才能のある主人公(吉沢亮)が努力も惜しまず真面目に稽古に励んで、血筋を蹴散らし、死にそうなプレッシャーも乗り越え、大好きな芸の華を咲かせる。と、ここまではいい話しなのに、悪魔と契約し友達(横浜流星)の大切なものを奪って、そして愛してくれた女達が不幸になるなんて。で、やっぱり悪魔に蝕まれて落ちていくんだよね〜、自業自得。でも落ちるとこまで落ちて行ったら可哀想って思えてくる。そしたら人間国宝(田中泯)に救いあげられて、改心して真の人間関係(友情)を築いて成功する。っていう王道のストーリーで感動させられるという。
田中泯さんの最後、控え室みたいな簡素な部屋に煎餅布団みたいな…。悟りを開いてたけど、それがいちばんぐっときたかな。
瀧内公美さんは重要な役割を任されてましたね。ぽつぽつと話す記者で、もしや捨てられた娘やあらにと思っていたら、横顔で瀧内さんだとわかった時は「うわぁ」と思って、娘の感情が入って来て泣けました。
騙されたのは、ただ単に綺麗なだけではない。人間の醜い部分と美しさは紙一重ってことか…うかつだった。踊りが綺麗なだけではここまでの現象は起きないよね。
「踊る大捜査線」も超えるんだろうなーーー。
俳優陣の演技も圧巻で、総合的に素晴らしい映画であることは言わずもがなです。
全540件中、1~20件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。











