国宝のレビュー・感想・評価
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『国宝』と『宝島』の深層構造 カタルシスと反カタルシス
李相日監督『国宝』は、ヤクザの子・喜久雄と、歌舞伎役者の子・俊介のふたりで演じる「二人藤娘」「二人道成寺」が目を引くが、なにゆえ二人演目なのか。
物語中、喜久雄と俊介が歌舞伎舞台から上方を見て、「あそこから何やらずっと見てるな」と頷き合うシーンがある。
文化人類学者の山口昌男は、渡辺保『女形の運命』を参照し、こう書いている。
「歌舞伎の舞台においては、二人の役者が舞台のほぼ中央の一点との関係において作る三角形があり、この三角形の頂点は、舞台の空間あるいは観客の視線の力学上の中心点である。そしてこの『中心』には深層に通じる意味が匿されている。この『中心』の意味は、歌舞伎の最も『神話的な部分である』『三番叟』を見るとよくわかる。『三番叟』で翁になった一座の統率者(座頭)は、この『中心』である舞台正面へ来て平伏する。この礼は、観客は自分達に向けられたものであると誤解するが、実は、観客席の屋根の上にある櫓に対して行われたものである。櫓はいうまでもなく神降臨の場であり、この礼はいわば降臨する神への礼である」(「天皇制の象徴的空間」、『天皇制の文化人類学』所収)。
ふたりを見守っていたのは「神的な何か」であろうが、「天皇制の象徴的宇宙を形成するモデルは演劇の構造の中に再現される」(同書)。とすると、それは天皇制の中心にいる「天皇」にほかならない。
こう言ってよければ、喜久雄はヤクザ=周縁の出身だ。「賤(しず)の者」である。高貴な出身の者が、何らかの事情で身をやつして漂流し、しかし本来の身分が知れて復辟する「貴種流離譚」という物語類型があるが、喜久雄の場合、この逆である。だが、天皇制は、対立する極性を包括する構造を持っている。賤の者を貴い者へと転生させる。
喜久雄は、ある景色をずっと探していた。「鷺娘」の終幕で、光に包まれる喜久雄=花井東一郎は、「天皇」の威光の中で、その景色を見たかのようだ。だから「国宝」になれる。
日本のZ世代が、皇族を単なるタックスイーターだとしか思っていないのであれば、こうした「天皇ロマン主義」は雲散霧消し、天皇制は消滅するのかもしれない。だが、空白になった「統合の象徴」に、何がやって来るのか。
大友啓史監督『宝島』は、米軍統治下の沖縄で、米軍の物資を奪って民衆に分け与える「戦果アギヤー」と呼ばれる者たちを描く。
宜野湾市の売春街「真栄原新町」の誕生と消滅を追ったルポルタージュ『沖縄アンダーグラウンド』で、藤井誠二は沖縄ヤクザのルーツをこう語っている。
「沖縄ヤクザのルーツの一つは、戦後の米国統治下で『戦果アギヤー』と呼ばれた、衣類や薬品などの米軍物資を基地から盗み出し、沖縄や台湾や近隣アジア一帯に売りさばいていたアウトロー集団である。『戦果アギヤー』が扱う盗品は、拳銃や火薬など戦争で使用する武器弾薬類も含まれていた。
米軍の取り締まりが厳しくなると、彼らは特飲街の米兵相手のバーからみかじめ料を取ったり、酒場を経営したりしてシノギを得るようになる。彼らは不良米兵対策の用心棒としても重宝されていた。(中略)一九六〇年代に入ると県内各地でアウトローたちが新たに頭角をあらわすようになり、それがグループ化して愚連隊になっていく。那覇市を拠点とした『那覇派』と、コザ市(現沖縄市)を拠点とした『コザ派』が生まれ、縄張りなどをめぐって血みどろの抗争を繰り返すようになった。
コザ派は主に戦果アギヤーをルーツとし、那覇派は空手道場の使い手たちが用心棒稼業をはじめたことが母体となっている」。
戦果アギヤーのカリスマ的リーダー、オンの弟・レイは地元のヤクザになり、行方不明になったオンの情報を収集している。親友のグスクも警官になり、オンの行方を追う。オンの恋人・ヤマコも、彼を思い続けている。だが、オンは失踪後、亡くなっていた。沖縄の女性が米兵との間に身籠った子どもを養育していた時に、だ。その「アメラジアン」の子・ウタも死亡する。
『ウンタマギルー』で知られる高嶺剛監督の『パラダイスビュー』で、沖縄語(ウチナーグチ)の「ヌチ(命)」と「マブイ(魂)」について話すシーンがあるのだが、ヌチは動詞的に使用されることがあり、その意味は「殺す」であるという。してみると、「命どぅ宝(命こそ宝)」は、別の意味を帯びてくる。
『国宝』には、天皇ロマン主義的カタルシスがある。マージナル(周縁的)な存在が、「歌舞伎さえ上手うなれば、あとは何にもいりません」と悪魔と契約し、どん底から這い上がって芸道のてっぺんに上りつめる。そこに天皇制の機能を感じとることができる。
対して、『宝島』にカミはいない。カタルシスも生じない。重い問いを投げかけられるのみだ。前者は「ハレ」の映画、後者は「ケ」の映画。どちらも豊かな作品ではあるが、豊かさの質がちがう。
(参考文献)
藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』講談社、2018年。
山口昌男『天皇制の文化人類学』岩波現代文庫、2000年。
この歌舞伎映像こそ、国の宝として欲しい
そういえば、メイクのシーンから入る映画って、いくつか有ったと思う。思い出せる範囲では「ジョーカー」と、「カストラート」つまりヘンデルの時代とオペラ箇所の映画。「アマデウス」と同様、当時の舞台の再現が見物だった映画。
今回、歌舞伎の舞台を映画のために行われた映像化は、実に素晴らしかったと思う。どう考えてもカメラマンも一緒に舞台に上がっている筈なのに、観客からの視点では歌舞伎俳優しかいない。当たり前だけど、つまりは同じ舞台を何度も取り直す必要があり、それこそ国宝級の歌舞伎俳優さん達が協力してくださったこと。もちろんお客さんもコミで。
なんと有り難いことだろう。興味本位で歌舞伎の舞台の動画なんかを見ることはあっても、正直意味は判らないし、動きも優雅というか、ゆったりというか、荒事シーンなんかでも派手なアクションなどありえない。それでも、練習の風景から紐解いて、歌舞伎とは何なのかを鑑賞できたのは、とても素晴らしい体験でした。
女型の舞い踊りも、その美しさを理解出来たかどうかは、そこのところは正直ちょっと自信が無いです。特に、ご老輩の現役国宝さん、そして主役にして新生国宝さんのエンディング舞台「鷺娘」は確かに美しい。美しいとは思う。そう思えるかどうかは感性的なもので、その度合いを自分が感じ取れたかどうかは正直自信が無い。優雅さ・柔らかさに関して、やっぱり女性が上のような気がするし。
ただその舞台において、多くの補助役(よくあるイメージが黒子みたいな人)が早着替えを手伝ったり、主役だけじゃ無く、多くのいわばスタッフ達が段取りよく動き回り駆け回り縁者を助けて舞台を完成させる、その厳格さ、凄まじさ、緊迫感。むろん手違いは許されず、今回、劇中にあったような救急搬送するようなトラブルがあれば、そりゃあもう誰もが魂が抜けるほどに総毛立って慌てたことでしょう。そんな厳しさこそ、我々が軽々しくクチにして良いものでは無い、いわゆるジャパンクオリティなのだなと痛感します。
その他、歌舞伎の演技に関して、やっぱり「曾根崎心中」が凄まじい。無論、であるからこそ、絞り出すような台詞回しに腹を刺される思いがしましたが、それはやはり、渡辺謙さんの超弩級の厳しさで演技指導されてたお陰も有ったと思う。その厳しさ、大声で怒鳴りつけてお膳をひっくり返す激しさではあるものの、決して、自分が演じて見せようとはしないのは、そういう意図的な指導の仕方なのか、と思うのは想像のしすぎでしょうか。
そんな歌舞伎体験に加えて、劇中の役者の座を争うストーリーについてですが、これは実際の出来事に基づいているのかどうか。それは原作を参照するなどすれば判ることかもしれないけど、やはりこういう世界だからこそ、ありがちなことでしょうか。
そのストーリーについて、ひとつ着目したいのは「何故、自分の息子に後を継がせようとしなかったのか」。それは無論、持病の糖尿が自分の息子にも発症するだろう。それでは、芸の継承が絶えてしまう。だからこそ、血縁関係の無い主役を選んだのではないかと推察します。芸を後世に伝えるためなら、息子の面目をも犠牲にする。それも芸に生きる俳優の崇高なプライド、誇りなのでしょうか。
あくまで余談ですが、漫画「ガラスの仮面」を引き合いに出したくなりますね。前・国宝さんの「鷺娘」を新生・国宝が再び「鷺娘」を演じるあたり、まるで「紅天女」を受け継いでいるかのようで。
そのエンディングへと繋がるシーン、娘がカメラマンとして潜入して恨み節から入るのは、人生の総ざらえとして、とても素晴らしかった。そして最後にはその舞台を、芸を讃える。男として、父親としては最低だけど。そういえば、息子に後を継がせない先代の奥さんも散々怒ってましたねw まったく、芸事に生きる男はしょうがないなあ、って訳でしょうか。
(追記)
どうでもいいことですが、渡辺謙さんが劇中に食べていたのは、京都名物・客が薦められても食べてはいけないぶぶ漬けというヤツでしょうか。ホント、どうでもいいことですが。
ポップコーンを食べるのに、とんでもない緊張を強いられる映画
ところどころで登場する歌舞伎のシーンでは、館内が緊張と静寂に包まれる。
演者の心の機微や微細な表現の差異が、ビシビシと伝わってくる。
発せられる一音、指先の動き一つに至るまで、なんと精神的で繊細な芸能なのか。加えて、迫力と華やかさも。
「歌舞伎=古くて退屈」という先入観が、完全に覆された。面白い。
「血」と「芸」。
伝統芸能では世襲が前提。部外からの成り上がりは並大抵のことではない。。
・三代目襲名は既定路線と思っていたものをはく奪される俊介の辛さ。
・才能と実力で三代目になっても、家の力に押し返される喜久雄の辛さ。
双方の慟哭がスクリーンにありありと表れていて、胸が痛かった。
吉沢亮、横浜流星。一体どれだけ稽古したのだろう。本当に見事であった。役者って凄い。
『さらば、わが愛 覇王別姫』と似ているという噂もあったが①こちらはどちらも女形②双方に恋慕はない(たぶん)、という点で大きく異なる。ただ、伝統芸能において素人の俳優が本当に見事に女形を演じ切ったという点でレスリー・チャンと吉沢亮、横浜流星は共通していた。
「歌舞伎」「世襲・家」など日本の根源的な面を表現するのに、いままでにないダイナミックな表現だった。この感覚はどこか「PERFECT DAYS」と似ている。
一方、少年時代から人間国宝になるまでの長い時間軸を順に描いているせいか、伝えたいことがやや散漫になった印象もある。
原作ではどうなのか?その辺りをうまく言語化しているのでは?私には珍しく原作を読みたくなった映画であった。
※「国宝」という題名には違和感がある。まだ私が咀嚼できていないだけかもしれないが。
※少年時代を演じた彼の演技(特に女形の演技)も心を奪われるものがあった。渡辺謙が目が釘付けになるのも納得の演技であった。
※横浜流星の女形はちょっと怖いよ!顔のパーツがでかいからだな。
※永瀬正敏が演じたヤクザの親分が、しずるのLOVE PHANTOMネタの兄貴役にみえて仕方がなかった。ほんまごめん!
吉沢亮と横浜流星の贅沢なアンサンブルで魅せる、血筋と才能の残酷な相剋
吉田修一の原作は文庫本で上下巻、都合800ページほどで主人公立花喜久雄の15歳から還暦過ぎまでを描いている。時代背景も絡めつつ綴られた浮沈の激しい歌舞伎役者の一生を1本の映画に収めるのだから、細部の省略は当然ある。
それでも物語の本質的な魅力は全く損なわれていなかったように思う。それどころか、原作を読んだ当時歌舞伎の演目に関する知識があまりなかった私は、ああ視覚的にはこういう世界だったのだと、そこにかかっていた靄に気付かされたような、そしてその靄が晴れ澄んだ景色が見渡せたような気持ちになった。
吉沢亮と横浜流星は、個人的には世代でトップクラスの演技巧者だと思っている。どちらかひとりが出ている作品というだけでも食指が動くのに、二枚看板となればもう贅沢なものをありがとうございますとひれ伏すばかりだ。
実際、吉沢亮の喜久雄は圧倒的だった。半二郎から「曽根崎心中」の演技指導で厳しい駄目出しを受ける最中自らの頬をひとつ打ち、一瞬で一皮剥けたお初になる場面には息をのんだ。
行方不明だった俊介が帰って来てあっという間に晴れ舞台に戻る一方、「血」がないがためにドサ周りに落ちぶれた喜久雄が、汗と涙で化粧が流れた顔のまま悲痛な声をあげる姿に胸が締め付けられた。
そして、何と言っても舞台での華やかさ。どこか中性的な滑らかな輪郭の吉沢亮の面立ちに、女形の化粧が映えて眩しかった。
私には歌舞伎の舞台を観る嗜みがないのであの演技がどこまで本物の歌舞伎役者に迫ったものか、厳密に見極めることは出来ない。だが、彼がやろうとしていることは単純な舞台の再現ではなく、人間国宝になる役者の人生を映画で表現することなので、舞台場面のみを本物と比較して粗探しすることにはあまり意味がない気がする。
中村鴈治郎が歌舞伎指導を担当しているので、基本的なクオリティは担保されている。また、李監督は吉沢亮に、綺麗に踊るのではなく喜久雄としての感情を乗せて踊るよう指導したそうだ。歌舞伎をよく知らなくても難しく考えず、映画の観客として舞台場面ではただ東一郎と半弥、衣装や舞台芸術の美しさに酔い、二人の心情に思いを馳せればそれでいいのではないだろうか。
横浜流星も吉沢亮に負けない存在感を放っていた。助演とはいえ、W主演に近い演技力とエネルギーが求められる俊介という役を、吉沢に押し負けることなく、かといって主役の吉沢を食ってしまうこともなく、絶妙なバランスで演じていたと思う。このバランスが崩れると、喜久雄と俊介の関係性の表現は台無しになっていたはずだ。
血筋を持つのに父の半二郎に喜久雄の才能の方を選ばれ、喜久雄の舞台を見て実力の差を実感し家を出てゆくくだりでは、絶望に傾いてゆく俊介の心情が表情の変化から伝わってきた。
吉沢亮は稽古の段階で横浜流星の吸収の早さと役への気迫を感じ、彼に負けないことをモチベーションにして頑張ったとインタビューで述べている。一方横浜流星は、吉沢演じる喜久雄の踊りを見て俊介の踊りの個性をイメージしたとのこと。「仮面ライダーフォーゼ」で親友役だった二人のこういった関係も、どこか役柄の血肉になっている気がして面白い。
メインの二人以外で印象的だったのは、まずは寺島しのぶだ。演技は当然素晴らしいのだが、現実の彼女の境遇が、血筋と才能をめぐる物語に説得力を与えていた。彼女の場合は「血」はあったが、女であるがために弟の歌舞伎デビューをただ見ていることしか出来なかった。血筋を持つ俊介を守ろうとする幸子の姿には、寺島しのぶの母としての経験の他に、彼女が梨園の内側で見てきたものが反映されているように思えて仕方なかった。
田中泯にも驚いた。最初に白塗りの姿を見た時はその圧倒的な存在感に、一瞬本職の歌舞伎役者かと思ったほどだ。女形のしなやかさと威厳が同居する表情、そして洗練された手の動きはさすが舞踊家。
黒川想矢もよかった。喜久雄として最初に登場し半二郎を惹きつけるという、なかなか重要な役どころ。彼の墨染はとても可憐だった。
喜久雄と出会った頃は歌舞伎という業界を斜に構えて見ていた竹野が、最終的に喜久雄を救う立場になってゆく展開も描写はさりげないがなかなかアツい。
本作で全体的に女性キャラの扱いが小さく表層的なのは時代背景と業界の傾向に加え、原作での女性周りの描写が映画では削られているので(特に春江の心情描写はこれで大丈夫なのかというくらい端折ってあった)まあこんなものだと思っている。それでもちょっと残念だったのは、喜久雄の娘綾乃の扱いだ。
取材で喜久雄と再会した綾乃は娘であることを明かして彼に恨み節を言うが、最後に「舞台を見ているとお正月のような気持ちになる」等述べて舞台人としての彼を面と向かって肯定した。
これは、うーん……どうなんだろう。個人的には、ぽっと出のキャラが(子役としての綾乃は出てたけど)無難に綺麗事でまとめたように見えてしまった。肯定させる必要あったかな?
綾乃の使い方によっては、晩年の万菊に近いレベルで、喜久雄の美を背負う業のようなものが表現出来たのではないかと思えてしまう。偉そうにすみません。
才能で血筋を越えながらも血筋を持たない故に転落し、それでも才能で再び引き上げられた喜久雄。血筋を持ちながらも一度は才能で負けて家から逃げ、しかし血筋によって戻る場所を得られた俊介。入れ違いに過酷な運命に翻弄されながらも、最後まで穢れない彼らの友情もまた舞台に負けず美しい。
原作はちょっと長いがとても読みやすいのでおすすめ。鑑賞後に読めば映画で知ったビジュアルで想像を補いつつ物語のさらなる豊かな広がりに魅了され、美に魂を捧げた喜久雄の最後の姿に心を奪われるはずだ。
客席のエキストラのみなさんが作品価値をさらに上げている
もちろん主演の2人の作り込みや熱演は素晴らしく、映画全体としても力があると思うのだが、なによりも喜久雄の少年時代を演じた黒川想矢に目を奪われた。画面映りが突出しているというのもあるし、序盤の踊りのシーンも引きのカメラでじっくり映していて、そのパフォーマンス能力の高さに釘付けになる。『怪物』とかでは観ていたものの、よくもまあこんな逸材がいたものだと感心しきり。一緒に踊っていた相手役も、声の低さも含めてとてもいいコンビネーション。あと、実際に観客として入ってもらったという舞台のシーンのエキストラのみなさんのビジュアル、表情ともに実在感が凄く、こういうディテールに映画の神様って宿りますよねと吊られてテンションが上がりました。ただ映画の中の喜久雄の物語は、わりと早目にピークが来てしまう印象で、その後の芸に打ち込むしかない人生を描くのであれば、緩慢に感じるくらいもっと尺があっても良かったのかもしれない。
やはり素晴らしい
1回目から4ヶ月空けて2回目を見ました(前回8月だよ。レイトショーとはいえ、映画館で見れるとは!)。
流石に2回目はどうかと思いましたが、全く同じように感動しました。
吉沢亮の魂を揺さぶるような演技は素晴らしいし、全ての俳優が素晴らしい。脚本も素晴らしいし、映像も音楽も美しい。
しかし、なんといっても演出が凄い。特にラストの実子との再会に始まり、最後の演目で着物が赤に変わり曲が変調するところ、観客も消え吉沢亮の最後のセリフから暗転し、タイトルが出るシーン。この流れは鬼気迫るものすら感じた。
恐らく一生のうちに出会える素晴らしい作品の一つだと思う。
自己愛の果てにある物語
周りの人や身体を犠牲にしても芸を極めた人間にしか見えない景色がある…といった、自己愛性やナルシズムの果てにあるような内容で日本人は今こんな映画が好きなのか?と正直驚いてしまった。
それはもう表現したいものが芸ではなく、自分自身になってないか?と思うのですが。
バッドエンドとして描かれているのだとしたら話の筋は通っていると思いますが、バッドエンドして受け取らず、あれを美しい世界だと認識する人も多いのではと怖くなりました。
高評価に釣られて観たが…
この作品を情熱的に絶讃するレビューがあまりにも多いので興味が湧き観ました。吉沢亮、横浜流星の歌舞伎の舞台のㇱーンは綺麗でしたが、ストーリーは重いし端折っている感じで分かりにくく、主人公の妻となる女性との濡れ場も生々しくて悪印象が残ってしまいました。歌舞伎の世界にもあまり興味ないこともあり、あまり共感や感動は無かったです。
終わり方が素敵
演出面
始まり方がやや金切り音がうるさいが、劇場のスピーカーの関係もあると思うが
もう少し、あともう少しだけ抑えてゆるやかに始まるような演出が欲しかった。
桜舞う描写の伏線が、主人公の吉沢亮くんとカメラマンの女性が過去を反芻し、今に繋がる描写の演出としてとてもよかった。
全体の表現したいことに対してのこの長さにしたのは正解だが、でもやはり3時間以上は長い。いらないシーンがあったはず。カットする勇気は映画を作る上で重要なスパイスだと僕は思う。
涙がつつつーと最初に自然と流れたのは、壇上に恐ろしい化け物がぁ〜 て
何かが(ごめん細部はめんどくさくていちいち調べたくない)舞うところと、吉沢亮くんの客席での恐れおののき泣いている表情の対比のところ。圧巻だった。
濡れ場も情熱的な演技で、終わった後のリアルさもお見事。胸が熱くなった。
これは物語なのでこういうフィクション
にして正解なんです。実際の歌舞伎を知りたい人はこの作品を見て、あ、本当はどうなんだろうって思って自発的に調べたり見に行ったりするんです。
渡辺謙さんが渋くてかっこよかった。
高畑充希さんがキレイだった。
森七菜さんは可愛かった。
満足。
歌舞伎版クロスロード伝説
クロスロード、1930年代のブルースミュージシャン、ロバート・ジョンソンの伝説であり、また自信の代表的な曲。『十字路に行って悪魔と契約し、誰にも負けないギターの技術を手に入れた』って内容でウォルター・ヒルの同名の映画のモチーフにもなっている。
この映画の主人公喜久夫が、お参りの際に隠し子から『なにを神様にお願いしたの?』と聞かれ『悪魔と契約したんだよ』と返すくだりや、最後の娘との再会で『悪魔さんに感謝やな』と言われるあたり、明らかに意識してると思う。
ヒルの映画はつっこみどころ満載のなんだかなーな作品だったが、これは傑作。3時間に私の膀胱が耐えられるか心配だったが、意識しなかったためか、難なく乗り切った。
ストーリーの切り方がシャープで余計な補足がない分、唐突に感じられる転換もなくはないが、説明しすぎよりはいいか。
聞けば実写映画で日本最高興行収入だそうでそれも納得。
文化と美、人生を描いた作品
吉沢亮さん主演、横浜流星さん共演の映画『国宝』が、2025年11月下旬、公開172日間で、観客動員数1231万人、興行収入173.7億円を突破。『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』を超え、邦画実写歴代1位という歴史的快挙を達成と、22年間破られることのなかった記録を超えた。わずか2カ月で23.7億円を上積みするというペース。
2025年11月15日から『国宝』初となる入場者プレゼントが全国の映画館で配布されると聞き、再度鑑賞に。
歌舞伎役者の視点で語られる舞台裏や楽屋の様子、小道具へのこだわり、実際の踊りの稽古について。師匠の病気の悪化から、代役がまさかの展開で人間関係がリアルに見える数分間、扇子に込められた意味、女性の立ち回りの変化含め、年数を重ねた展開の変化が絶妙に心地よく、人生観を感じる。悪魔との取引と例える考え深いセリフにも魅了される。
美術、衣裳、舞台、音楽といった多岐にわたる制作のこだわり、吉沢さん、流星さんが撮影までどれだけ努力と稽古を重ねたのであろう。美しい歌舞伎に一瞬本物の歌舞伎役者⁈と感じるほど、俳優という文字を忘れるほど。
個人的には、持病の合併症が悪化し、プロは心身ともにバランスを整える事も運とタイミングの一つとメッセージ性を感じた。
1人でも鑑賞を楽しめる作品。
日本の文化、美をぜひ劇場で。
「血」を考えさせられる
圧倒された。吉沢亮、横浜流星、舞を身につけるのは大変だったろうなと思う。特に喜久雄の曽根崎心中と、最後の鷺娘の舞は圧巻だった。
曽根崎心中の「死ぬる覚悟」のセリフが喜久雄自身のものとして入った瞬間、鬼気迫る物を感じた。お初と徳が手を取って行く場面と、春江が俊介の手を取り、去っていく姿がリンクして対照的だった。
単なる歌舞伎役者としての成長物語だけではなかった。最初は、何故この映画がここまでヒットしたんだろうと思いながら観ていたが、「血」の残酷さや執念、気迫に圧倒される大作でもう一度観たいと思った。
あれだけ目をかけられた半次郎が、最期に呼ぶのは実の子の名前だった時の絶望感は辛かった。俊介が遺伝の病を発症したのも皮肉だ。
万菊さんの言うことには含蓄があって存在感ありすぎる。とても愛があって好きな役柄だ。「それでもやるの」というセリフは特に印象的。初めから喜久雄のことを目にかけていたんだと思う。
最後の場面はすごく綺麗で、すぐそこに本当にいるかのように見えた。映画館で見たほうがいいと言われていたのはこういうことだと思う。きっと喜久雄の見たかった景色がそこにあったのだろう。「しっかり見ておけ」と言って、誇りを持って死んでいった父の姿。その時の景色がずっと喜久雄の中にはあったと思う。
歌舞伎の血を持てないことを呪い、悪魔と取引をして芸のために真っ当でないやり方もしてきた。泥水をすすった経験をしたからこそ、父(自分の血)の生き方も含めて「綺麗」だと言えるようになった、ということか。あるいは父と同じ景色を見ることができている、ということかもしれない。
エンドロールで流れる、井口理の歌が作品の美しさにマッチしていてさらに感動した。
新記録になるのは間違いない映画でした
会社の上司から、日本人なら絶対に観ておくべき映画でしょ❗️と言われ…アクション映画、SF映画好きの俺としては、間違いなく眠くなる邦画だろうと…睡魔覚悟で邦画興行収入新記録映画🎬
【国宝】
鑑賞しました
「血」と「才」
「陰」と「陽」
「表」と「裏」
相対する二人の演者の鬼気迫る歌舞伎の熱演に度肝を抜かれました
眠たくなる事も、トイレに行きたくなる事も…全くなく、あっという間に3時間が過ぎてしまった…
これなら、確かに新記録になるのは間違いない
主役を演じた、吉沢亮さん、横浜流星さん…マジで凄いです
糖尿病って怖えーー!
すっごいよかった!
面白かった!
感情を揺さぶられて泣いたもん!
この映画、非常に評判良いでしょ?
大体そう言う映画って往々にして面白くないのよねー
でもね、この映画は違ったわ!めっちゃ良かった!
感情も揺さぶってきたし半端じゃない面白さだった!
大衆に迎合することを是としない私が良いと思ったから間違いなく良い!!
糖尿病で2人ほど死ぬけど、病って怖いね
目見えなくなって血吐いたり、四肢を切断したり演者としては致命傷だね
結局芸事の世界は血なんかね?先代が亡くなったら外様は、すぐに冷遇されるわ
世襲の嫌なところ大衆の嫌なところコミュニティの嫌なところ欲張りセットで楽しめたわ!
ほんとな、そりゃ1番欲しいのは血だわな
芸なんか身を助けんのんやな、狭きコミュニティは血であり伝統なんよな
あー老害どもめ!
上映3時間なので飽きたりするかなって思ったけどそんなことはなかったぜ!
頭からケツまで面白かった!飽きなかった!3時間退屈しなかった!
歌舞伎の演目は、はっきり言って退屈だったけど面白った!シュン坊が片足失ってからの「曽根崎心中」は本当に気持ちが乗ってて良かった!
物語前半で気持ちが乗ってないとか演技指導が入っていたが、物語後半でそれらを踏襲した気持ちのノリが入っていて良かったし!
足首にしがみつくキクちゃんの感情が分かりにわかって涙した!
シュン坊の足は汚い!糖尿病に侵され腐った足は見苦しい!しかし美しい!演目上のコノ一点においては堪らなく美しい!演技上この足にしがみつく!!
なんと烏滸がましいことかッ!
病を推して演じるシュン坊!
残り、変色し、いくばくもないことを悟らせるには十分な片足を見、それに演技とはいえ縋らなければまならぬキクちゃん!
キクちゃんの気持ち、シュン坊の気持ち、考えれば考えるほど泣いてしまった
「曽根崎心中」のセリフ、一挙手一投足が全て積み重ねてきた年月を思い望郷に至る
当たり前だ!こちらは上映時間の半分以上は見ているのだ、思いもひとしおである
「死ぬる覚悟が聞きたい」人としての死、演者としての死、差し迫ったシュン坊の情念が乗った良い芝居だった!
国宝!ただの伝統芸能アゲ映画じゃなかった!
本当に良い映画だった
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若干、キクちゃんの復帰からの展開が急すぎて冷めた、人間国宝の推挙からの復帰早すぎて若干の置いてけぼりだった。喜ばしくはあるが!
最終的に凄く泣いて、面白かったけど、この世界血だよね
芸とか関係ない!後ろ盾、血筋で決まってんだよね。
歌舞伎界、伝統芸能のクソさを感じたけど国宝という作品は素晴らしいものだった!
是非とも逆張りの諸君にも広く掲示してもらいたい!!!
まさに国宝
俳優陣みんな素晴らしかったが特に印象に残ったのが、万菊(田中泯さん)と彰子(森七菜さん)の2人。
万菊さんは、とにかく恐ろしい。全てを見透かしているかのような、まさに人間国宝の貫禄。「憎くて仕方ないんでしょう、でもそれでいいの、それでもやるの」は映画史に残る名ゼリフだと思う。
そして、鑑賞後もずっと心に残ったのは彰子。喜久雄が落ちぶれた時のあのやさぐれた若女将感。森七菜さんこんな演技もできる方なのかと感動。
彰子が報われるシーンがあればよかったのにとも思ったが、ないからこそ、描かれなかった部分にも思いを馳せ、国宝という作品がずっと心に残るに至ったのかもしれない。
美しくて一途
気迫がすごくて、1000円ちょっとで見せてもらってしまったことがありがたく、また申し訳ない気分になりました。歌舞伎のお話と映画のストーリーがリンクしていて、痛いほど登場人物の気持ちがわかるようになっており、そこに映像の美しさも加わって劇的な説得力でした。圧倒されました。
言葉ではないことば
人生一筋縄ではいかないことを噛み締める。
「国宝」と呼ばれる様になる男の人生。
歌舞伎に魅せられ、役者の底知れぬ深さと恐ろしさを感じつつも惹きつけられ演じることへの渇望と欲望が沸々と心の奥底から湧き出てくる若者たち。
唯一無二の役者を目指し人生を掛け昇ろうともがく姿がとても人間臭く、どんな境遇になろうと役者にしがみつき愛する芝居を捨てきれない姿が愛おしい。
ラストに向き合う娘との少ない会話がまた心に突き刺さる。
1回目の鑑賞時に乖離があり、もう一度見直したが…
1回目の鑑賞後に感想を書こうと思った時に、あまりに世間との差があり、何か見落としや解釈違いがあるんじゃないかと感じました。
そのため、解説や感想など様々な知見を得た上で再度観に行きましたが、やはり腑に落ちない点が多かったのでこの評価です。
演技はもちろん素晴らしく、カット割りも邦画ではなく洋画の感じになっていた点は新鮮でした。
ストーリーが事実ベースで淡々と進んでいくため、なんでここにあなたがいるの?とか、なんでこういう状況になっている?とか、全く説明がないので雰囲気で把握するしかないという分かりにくさ。
心情や葛藤の描写も表情だけで、セリフが全部薄っぺらく感じてしまいました。
糖尿病に関しても症状はリアルなんでしょうけど、御曹司とか散々ワードを出していたのに健康管理が杜撰になることなんかあるんでしょうか?
もちろん曽根崎心中と足のシーンが大事なのは分かりますけど、もう少し別の描き方があったのでは?と感じます。
原作小説を読みたくはなりましたが、やはり映画として満足できたかと言われると納得いかない部分の方が多いです。
あとは日本人としてですが、神社にお参りをする際悪魔のことを思い浮かべるのは怖いというか違和感がすごいです。
メフィストの悪魔の契約を暗示したかったのでしょうが、歌舞伎という日本の伝統芸能を描くのには不自然極まりないです。
気持ちが乗りませんでした、人間関係もふわふわしていて感動できた部分の方が少なかったです。
思ってたのと違いました
個人的にどこかに救いがない話が好きではないので家族や友人に勧められ見に行きましたが鑑賞中はとにかくずっと辛かったです
キクオの演技はそれくらい凄かった!
春江を奪った俊介がまさか死ぬとは思いませんでした
歌舞伎の血という得難いものを持ちながら若くして病に倒れるというストーリーはええええ何でそうなっちゃうの?と心の中で叫んでました
とにかく登場人物がみんな悲しい
ただやっぱり歌舞伎とか人間国宝(ヤクザの子なのに選出基準も謎)とかより春江のその後とか捨てられ新聞記者になった娘(芸妓の母も)がどういう人生を歩んでああなったのかとかが気になってそこは描かないの?とか物足りなかった
そこを物足りないと感じる時点で自分は見に行くべき層ではなかったんだろうなと思ってます
歌舞伎という題材上女性の扱われ方が腑に落ちないのは仕方ないんでしょうけど…映像と演技は息を飲む素晴らしさでした
田中泯さんの演技がすごくすごくよかった!
スクリーンに出てきた時からなんかこの人すげ〜と思って確かめたら田中さんで納得しました
普段から歌舞伎が好きな人や親しんでる方は見るべき映画だと思いました
人生の儚さ
人の人生、一生に一度きり。その中で一芸を極めるために歌舞伎にのめり込む吉沢亮演じる喜久雄、横山流星演じる大垣俊介。メインは喜久雄側の心情の追体験だったと思うが、吉沢亮の演技を受ける横山流星という俳優がいたからこそ成り立ったと思う。
2人が演じた曽根崎心中、心が共鳴していたように感じ、それに泣けた。
血筋という、目を背けられない現実。でもそれに向き合う喜久雄。最後のシーンは、救いのような、しかし、喜久雄にしか味わえない孤独さも感じて、なんとも言えない気持ちになった。この先に喜久雄、何を思って生きていくのかと…。
田中泯演じる人間国宝の歌舞伎役者・小野川万菊、国宝であるにも関わらず、最後は地味で簡素な部屋で最期を迎えるのかな、と感じるシーンがあり、人生の儚さを感じた。
King Gnu井口 理が歌唱参加する主題歌「Luminance」は、最初本当に誰の声か分からなかったが、本当に救いのような歌で、あの曲で観客も落としどころというか、ホッとして映画を見終えることができたのではないかと思う。
節目節目でまた観たくなる映画になった。
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