国宝のレビュー・感想・評価
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『国宝』と『宝島』の深層構造 カタルシスと反カタルシス
李相日監督『国宝』は、ヤクザの子・喜久雄と、歌舞伎役者の子・俊介のふたりで演じる「二人藤娘」「二人道成寺」が目を引くが、なにゆえ二人演目なのか。
物語中、喜久雄と俊介が歌舞伎舞台から上方を見て、「あそこから何やらずっと見てるな」と頷き合うシーンがある。
文化人類学者の山口昌男は、渡辺保『女形の運命』を参照し、こう書いている。
「歌舞伎の舞台においては、二人の役者が舞台のほぼ中央の一点との関係において作る三角形があり、この三角形の頂点は、舞台の空間あるいは観客の視線の力学上の中心点である。そしてこの『中心』には深層に通じる意味が匿されている。この『中心』の意味は、歌舞伎の最も『神話的な部分である』『三番叟』を見るとよくわかる。『三番叟』で翁になった一座の統率者(座頭)は、この『中心』である舞台正面へ来て平伏する。この礼は、観客は自分達に向けられたものであると誤解するが、実は、観客席の屋根の上にある櫓に対して行われたものである。櫓はいうまでもなく神降臨の場であり、この礼はいわば降臨する神への礼である」(「天皇制の象徴的空間」、『天皇制の文化人類学』所収)。
ふたりを見守っていたのは「神的な何か」であろうが、「天皇制の象徴的宇宙を形成するモデルは演劇の構造の中に再現される」(同書)。とすると、それは天皇制の中心にいる「天皇」にほかならない。
こう言ってよければ、喜久雄はヤクザ=周縁の出身だ。「賤(しず)の者」である。高貴な出身の者が、何らかの事情で身をやつして漂流し、しかし本来の身分が知れて復辟する「貴種流離譚」という物語類型があるが、喜久雄の場合、この逆である。だが、天皇制は、対立する極性を包括する構造を持っている。賤の者を貴い者へと転生させる。
喜久雄は、ある景色をずっと探していた。「鷺娘」の終幕で、光に包まれる喜久雄=花井東一郎は、「天皇」の威光の中で、その景色を見たかのようだ。だから「国宝」になれる。
日本のZ世代が、皇族を単なるタックスイーターだとしか思っていないのであれば、こうした「天皇ロマン主義」は雲散霧消し、天皇制は消滅するのかもしれない。だが、空白になった「統合の象徴」に、何がやって来るのか。
大友啓史監督『宝島』は、米軍統治下の沖縄で、米軍の物資を奪って民衆に分け与える「戦果アギヤー」と呼ばれる者たちを描く。
宜野湾市の売春街「真栄原新町」の誕生と消滅を追ったルポルタージュ『沖縄アンダーグラウンド』で、藤井誠二は沖縄ヤクザのルーツをこう語っている。
「沖縄ヤクザのルーツの一つは、戦後の米国統治下で『戦果アギヤー』と呼ばれた、衣類や薬品などの米軍物資を基地から盗み出し、沖縄や台湾や近隣アジア一帯に売りさばいていたアウトロー集団である。『戦果アギヤー』が扱う盗品は、拳銃や火薬など戦争で使用する武器弾薬類も含まれていた。
米軍の取り締まりが厳しくなると、彼らは特飲街の米兵相手のバーからみかじめ料を取ったり、酒場を経営したりしてシノギを得るようになる。彼らは不良米兵対策の用心棒としても重宝されていた。(中略)一九六〇年代に入ると県内各地でアウトローたちが新たに頭角をあらわすようになり、それがグループ化して愚連隊になっていく。那覇市を拠点とした『那覇派』と、コザ市(現沖縄市)を拠点とした『コザ派』が生まれ、縄張りなどをめぐって血みどろの抗争を繰り返すようになった。
コザ派は主に戦果アギヤーをルーツとし、那覇派は空手道場の使い手たちが用心棒稼業をはじめたことが母体となっている」。
戦果アギヤーのカリスマ的リーダー、オンの弟・レイは地元のヤクザになり、行方不明になったオンの情報を収集している。親友のグスクも警官になり、オンの行方を追う。オンの恋人・ヤマコも、彼を思い続けている。だが、オンは失踪後、亡くなっていた。沖縄の女性が米兵との間に身籠った子どもを養育していた時に、だ。その「アメラジアン」の子・ウタも死亡する。
『ウンタマギルー』で知られる高嶺剛監督の『パラダイスビュー』で、沖縄語(ウチナーグチ)の「ヌチ(命)」と「マブイ(魂)」について話すシーンがあるのだが、ヌチは動詞的に使用されることがあり、その意味は「殺す」であるという。してみると、「命どぅ宝(命こそ宝)」は、別の意味を帯びてくる。
『国宝』には、天皇ロマン主義的カタルシスがある。マージナル(周縁的)な存在が、「歌舞伎さえ上手うなれば、あとは何にもいりません」と悪魔と契約し、どん底から這い上がって芸道のてっぺんに上りつめる。そこに天皇制の機能を感じとることができる。
対して、『宝島』にカミはいない。カタルシスも生じない。重い問いを投げかけられるのみだ。前者は「ハレ」の映画、後者は「ケ」の映画。どちらも豊かな作品ではあるが、豊かさの質がちがう。
(参考文献)
藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』講談社、2018年。
山口昌男『天皇制の文化人類学』岩波現代文庫、2000年。
この歌舞伎映像こそ、国の宝として欲しい
そういえば、メイクのシーンから入る映画って、いくつか有ったと思う。思い出せる範囲では「ジョーカー」と、「カストラート」つまりヘンデルの時代とオペラ箇所の映画。「アマデウス」と同様、当時の舞台の再現が見物だった映画。
今回、歌舞伎の舞台を映画のために行われた映像化は、実に素晴らしかったと思う。どう考えてもカメラマンも一緒に舞台に上がっている筈なのに、観客からの視点では歌舞伎俳優しかいない。当たり前だけど、つまりは同じ舞台を何度も取り直す必要があり、それこそ国宝級の歌舞伎俳優さん達が協力してくださったこと。もちろんお客さんもコミで。
なんと有り難いことだろう。興味本位で歌舞伎の舞台の動画なんかを見ることはあっても、正直意味は判らないし、動きも優雅というか、ゆったりというか、荒事シーンなんかでも派手なアクションなどありえない。それでも、練習の風景から紐解いて、歌舞伎とは何なのかを鑑賞できたのは、とても素晴らしい体験でした。
女型の舞い踊りも、その美しさを理解出来たかどうかは、そこのところは正直ちょっと自信が無いです。特に、ご老輩の現役国宝さん、そして主役にして新生国宝さんのエンディング舞台「鷺娘」は確かに美しい。美しいとは思う。そう思えるかどうかは感性的なもので、その度合いを自分が感じ取れたかどうかは正直自信が無い。優雅さ・柔らかさに関して、やっぱり女性が上のような気がするし。
ただその舞台において、多くの補助役(よくあるイメージが黒子みたいな人)が早着替えを手伝ったり、主役だけじゃ無く、多くのいわばスタッフ達が段取りよく動き回り駆け回り縁者を助けて舞台を完成させる、その厳格さ、凄まじさ、緊迫感。むろん手違いは許されず、今回、劇中にあったような救急搬送するようなトラブルがあれば、そりゃあもう誰もが魂が抜けるほどに総毛立って慌てたことでしょう。そんな厳しさこそ、我々が軽々しくクチにして良いものでは無い、いわゆるジャパンクオリティなのだなと痛感します。
その他、歌舞伎の演技に関して、やっぱり「曾根崎心中」が凄まじい。無論、であるからこそ、絞り出すような台詞回しに腹を刺される思いがしましたが、それはやはり、渡辺謙さんの超弩級の厳しさで演技指導されてたお陰も有ったと思う。その厳しさ、大声で怒鳴りつけてお膳をひっくり返す激しさではあるものの、決して、自分が演じて見せようとはしないのは、そういう意図的な指導の仕方なのか、と思うのは想像のしすぎでしょうか。
そんな歌舞伎体験に加えて、劇中の役者の座を争うストーリーについてですが、これは実際の出来事に基づいているのかどうか。それは原作を参照するなどすれば判ることかもしれないけど、やはりこういう世界だからこそ、ありがちなことでしょうか。
そのストーリーについて、ひとつ着目したいのは「何故、自分の息子に後を継がせようとしなかったのか」。それは無論、持病の糖尿が自分の息子にも発症するだろう。それでは、芸の継承が絶えてしまう。だからこそ、血縁関係の無い主役を選んだのではないかと推察します。芸を後世に伝えるためなら、息子の面目をも犠牲にする。それも芸に生きる俳優の崇高なプライド、誇りなのでしょうか。
あくまで余談ですが、漫画「ガラスの仮面」を引き合いに出したくなりますね。前・国宝さんの「鷺娘」を新生・国宝が再び「鷺娘」を演じるあたり、まるで「紅天女」を受け継いでいるかのようで。
そのエンディングへと繋がるシーン、娘がカメラマンとして潜入して恨み節から入るのは、人生の総ざらえとして、とても素晴らしかった。そして最後にはその舞台を、芸を讃える。男として、父親としては最低だけど。そういえば、息子に後を継がせない先代の奥さんも散々怒ってましたねw まったく、芸事に生きる男はしょうがないなあ、って訳でしょうか。
(追記)
どうでもいいことですが、渡辺謙さんが劇中に食べていたのは、京都名物・客が薦められても食べてはいけないぶぶ漬けというヤツでしょうか。ホント、どうでもいいことですが。
ポップコーンを食べるのに、とんでもない緊張を強いられる映画
ところどころで登場する歌舞伎のシーンでは、館内が緊張と静寂に包まれる。
演者の心の機微や微細な表現の差異が、ビシビシと伝わってくる。
発せられる一音、指先の動き一つに至るまで、なんと精神的で繊細な芸能なのか。加えて、迫力と華やかさも。
「歌舞伎=古くて退屈」という先入観が、完全に覆された。面白い。
「血」と「芸」。
伝統芸能では世襲が前提。部外からの成り上がりは並大抵のことではない。。
・三代目襲名は既定路線と思っていたものをはく奪される俊介の辛さ。
・才能と実力で三代目になっても、家の力に押し返される喜久雄の辛さ。
双方の慟哭がスクリーンにありありと表れていて、胸が痛かった。
吉沢亮、横浜流星。一体どれだけ稽古したのだろう。本当に見事であった。役者って凄い。
『さらば、わが愛 覇王別姫』と似ているという噂もあったが①こちらはどちらも女形②双方に恋慕はない(たぶん)、という点で大きく異なる。ただ、伝統芸能において素人の俳優が本当に見事に女形を演じ切ったという点でレスリー・チャンと吉沢亮、横浜流星は共通していた。
「歌舞伎」「世襲・家」など日本の根源的な面を表現するのに、いままでにないダイナミックな表現だった。この感覚はどこか「PERFECT DAYS」と似ている。
一方、少年時代から人間国宝になるまでの長い時間軸を順に描いているせいか、伝えたいことがやや散漫になった印象もある。
原作ではどうなのか?その辺りをうまく言語化しているのでは?私には珍しく原作を読みたくなった映画であった。
※「国宝」という題名には違和感がある。まだ私が咀嚼できていないだけかもしれないが。
※少年時代を演じた彼の演技(特に女形の演技)も心を奪われるものがあった。渡辺謙が目が釘付けになるのも納得の演技であった。
※横浜流星の女形はちょっと怖いよ!顔のパーツがでかいからだな。
※永瀬正敏が演じたヤクザの親分が、しずるのLOVE PHANTOMネタの兄貴役にみえて仕方がなかった。ほんまごめん!
吉沢亮と横浜流星の贅沢なアンサンブルで魅せる、血筋と才能の残酷な相剋
吉田修一の原作は文庫本で上下巻、都合800ページほどで主人公立花喜久雄の15歳から還暦過ぎまでを描いている。時代背景も絡めつつ綴られた浮沈の激しい歌舞伎役者の一生を1本の映画に収めるのだから、細部の省略は当然ある。
それでも物語の本質的な魅力は全く損なわれていなかったように思う。それどころか、原作を読んだ当時歌舞伎の演目に関する知識があまりなかった私は、ああ視覚的にはこういう世界だったのだと、そこにかかっていた靄に気付かされたような、そしてその靄が晴れ澄んだ景色が見渡せたような気持ちになった。
吉沢亮と横浜流星は、個人的には世代でトップクラスの演技巧者だと思っている。どちらかひとりが出ている作品というだけでも食指が動くのに、二枚看板となればもう贅沢なものをありがとうございますとひれ伏すばかりだ。
実際、吉沢亮の喜久雄は圧倒的だった。半二郎から「曽根崎心中」の演技指導で厳しい駄目出しを受ける最中自らの頬をひとつ打ち、一瞬で一皮剥けたお初になる場面には息をのんだ。
行方不明だった俊介が帰って来てあっという間に晴れ舞台に戻る一方、「血」がないがためにドサ周りに落ちぶれた喜久雄が、汗と涙で化粧が流れた顔のまま悲痛な声をあげる姿に胸が締め付けられた。
そして、何と言っても舞台での華やかさ。どこか中性的な滑らかな輪郭の吉沢亮の面立ちに、女形の化粧が映えて眩しかった。
私には歌舞伎の舞台を観る嗜みがないのであの演技がどこまで本物の歌舞伎役者に迫ったものか、厳密に見極めることは出来ない。だが、彼がやろうとしていることは単純な舞台の再現ではなく、人間国宝になる役者の人生を映画で表現することなので、舞台場面のみを本物と比較して粗探しすることにはあまり意味がない気がする。
中村鴈治郎が歌舞伎指導を担当しているので、基本的なクオリティは担保されている。また、李監督は吉沢亮に、綺麗に踊るのではなく喜久雄としての感情を乗せて踊るよう指導したそうだ。歌舞伎をよく知らなくても難しく考えず、映画の観客として舞台場面ではただ東一郎と半弥、衣装や舞台芸術の美しさに酔い、二人の心情に思いを馳せればそれでいいのではないだろうか。
横浜流星も吉沢亮に負けない存在感を放っていた。助演とはいえ、W主演に近い演技力とエネルギーが求められる俊介という役を、吉沢に押し負けることなく、かといって主役の吉沢を食ってしまうこともなく、絶妙なバランスで演じていたと思う。このバランスが崩れると、喜久雄と俊介の関係性の表現は台無しになっていたはずだ。
血筋を持つのに父の半二郎に喜久雄の才能の方を選ばれ、喜久雄の舞台を見て実力の差を実感し家を出てゆくくだりでは、絶望に傾いてゆく俊介の心情が表情の変化から伝わってきた。
吉沢亮は稽古の段階で横浜流星の吸収の早さと役への気迫を感じ、彼に負けないことをモチベーションにして頑張ったとインタビューで述べている。一方横浜流星は、吉沢演じる喜久雄の踊りを見て俊介の踊りの個性をイメージしたとのこと。「仮面ライダーフォーゼ」で親友役だった二人のこういった関係も、どこか役柄の血肉になっている気がして面白い。
メインの二人以外で印象的だったのは、まずは寺島しのぶだ。演技は当然素晴らしいのだが、現実の彼女の境遇が、血筋と才能をめぐる物語に説得力を与えていた。彼女の場合は「血」はあったが、女であるがために弟の歌舞伎デビューをただ見ていることしか出来なかった。血筋を持つ俊介を守ろうとする幸子の姿には、寺島しのぶの母としての経験の他に、彼女が梨園の内側で見てきたものが反映されているように思えて仕方なかった。
田中泯にも驚いた。最初に白塗りの姿を見た時はその圧倒的な存在感に、一瞬本職の歌舞伎役者かと思ったほどだ。女形のしなやかさと威厳が同居する表情、そして洗練された手の動きはさすが舞踊家。
黒川想矢もよかった。喜久雄として最初に登場し半二郎を惹きつけるという、なかなか重要な役どころ。彼の墨染はとても可憐だった。
喜久雄と出会った頃は歌舞伎という業界を斜に構えて見ていた竹野が、最終的に喜久雄を救う立場になってゆく展開も描写はさりげないがなかなかアツい。
本作で全体的に女性キャラの扱いが小さく表層的なのは時代背景と業界の傾向に加え、原作での女性周りの描写が映画では削られているので(特に春江の心情描写はこれで大丈夫なのかというくらい端折ってあった)まあこんなものだと思っている。それでもちょっと残念だったのは、喜久雄の娘綾乃の扱いだ。
取材で喜久雄と再会した綾乃は娘であることを明かして彼に恨み節を言うが、最後に「舞台を見ているとお正月のような気持ちになる」等述べて舞台人としての彼を面と向かって肯定した。
これは、うーん……どうなんだろう。個人的には、ぽっと出のキャラが(子役としての綾乃は出てたけど)無難に綺麗事でまとめたように見えてしまった。肯定させる必要あったかな?
綾乃の使い方によっては、晩年の万菊に近いレベルで、喜久雄の美を背負う業のようなものが表現出来たのではないかと思えてしまう。偉そうにすみません。
才能で血筋を越えながらも血筋を持たない故に転落し、それでも才能で再び引き上げられた喜久雄。血筋を持ちながらも一度は才能で負けて家から逃げ、しかし血筋によって戻る場所を得られた俊介。入れ違いに過酷な運命に翻弄されながらも、最後まで穢れない彼らの友情もまた舞台に負けず美しい。
原作はちょっと長いがとても読みやすいのでおすすめ。鑑賞後に読めば映画で知ったビジュアルで想像を補いつつ物語のさらなる豊かな広がりに魅了され、美に魂を捧げた喜久雄の最後の姿に心を奪われるはずだ。
客席のエキストラのみなさんが作品価値をさらに上げている
もちろん主演の2人の作り込みや熱演は素晴らしく、映画全体としても力があると思うのだが、なによりも喜久雄の少年時代を演じた黒川想矢に目を奪われた。画面映りが突出しているというのもあるし、序盤の踊りのシーンも引きのカメラでじっくり映していて、そのパフォーマンス能力の高さに釘付けになる。『怪物』とかでは観ていたものの、よくもまあこんな逸材がいたものだと感心しきり。一緒に踊っていた相手役も、声の低さも含めてとてもいいコンビネーション。あと、実際に観客として入ってもらったという舞台のシーンのエキストラのみなさんのビジュアル、表情ともに実在感が凄く、こういうディテールに映画の神様って宿りますよねと吊られてテンションが上がりました。ただ映画の中の喜久雄の物語は、わりと早目にピークが来てしまう印象で、その後の芸に打ち込むしかない人生を描くのであれば、緩慢に感じるくらいもっと尺があっても良かったのかもしれない。
惜しい
吉沢さん、横浜さん始め役者さんの演技はとてつもなく素晴らしいです。主要キャラクター全員どうしようもない部分もありつつも(私見です)、共感でき、ひたすら芸に突き進む描写も見事ですし、作中ひたすら苦しくて泣きました。一点だけ、ラスト近くの娘の一言で、ああ、男性が作ったファンタジーだな、と思って萎えました(当方女です)。娘にそう言わせる何かが小説にあったのかもしれないですが、描き切れないならカットして映画内では娘には許されない存在であるべきと感じました。
美しさと人生
演出と歌舞伎の技術は本当に素晴らしく、圧倒的で美しかった。
しかし、描かれる人間の身勝手さや、救われない関係性が観ていて苦しく、好きな物語ではなかった。
それでも、芸事を中心に据え他人と関わり続ける喜久雄の人生を通して、人の生き方について強烈に考えさせられる良い作品だと思う。
大人向けな内容でした
公開から半年以上も上映を行うロングランヒットを続けており、実写邦画歴代ランキング首位を獲得した今作。私の周りで鑑賞した方は多くはいませんでしたが、面白かったとのコメントを聞いていました。
ずっと見たいとは思っていたものの、なかなか見に行けなかったところ、本日鑑賞しました。評価が高いのは確かに納得ですが、結構大人向けな内容でした。吉沢亮と横浜流星をちゃんと見分けていないとどっちがどっちだか分からなくなりかけましたが、芯の通ったストーリーでした。渡辺謙の養子を優先してしまう職人気質な生き様と寺島しのぶの実の子を優先する親心が、より内容に深みを与えていた印象を受けました。
気になったのは、本作の一部の過激な描写から年齢制限はR15が妥当ではないでしょうか。PG12であり、小学生でも鑑賞は可能な作品ではありますが、小さなお子さんを連れて家族で鑑賞していた方の気持ちを思うと居た堪れなさを感じます。
やっと観た
次々色々ありすぎて流石に小説過ぎる(小説です)と思ったけど特に最後しゅん坊の病気と死で終わったのがちと残念…邦画て若者の病死ネタ多い
プライベートが壮絶な人生を描いた映画よりただただ芸の道での切磋琢磨や苦しみの人生を描いた映画が観たかったのかも(面白いかは分からないけど)
後、最後の初老の吉沢さんが特殊メイクも含めて流石に無理がある!!てなった
ただ途中の藤一郎と半弥のお互いの芸と血筋に対する苛立ちとか嫉妬とかどうにもならない描写は心揺さぶられた
2025年ベストムービー!⭐️⭐️✨✨
2025年12月31日大晦日、東京・歌舞伎座での舞台挨拶中継付きの上映を鑑賞した。
この作品、劇場がいつも一杯なのでそのうち観ようと思っている内にもう半年も過ぎてしまっていた。今回、TOHOシネマズの“プレミアム・シアター”ど真ん中の席で観ることが出来た。鑑賞前は水分を摂ることを控えていたので、終了までストレスなく鑑賞出来て良かった笑
で、作品なんですが…。
個人的には、渡辺謙が血反吐を吐きながら、息子の名前を叫ぶシーンがもうドツボでした笑
色んな情念が渦巻いてほとんどホラーでしたね、あれは…。
かなりゾクゾクしました笑
*女性カメラマンが実は“娘”で、恨み節と称賛の入り混じった複雑な感情を“父”である東一郎に吐露しますが、あの場面は要らなかったのでは?…と個人的には思いました。なんだか(“スプリング・センテンス”な)三文週刊誌でも読まされてるような、陳腐な展開の場面でした。
*結局のところ、糖尿病という病を利用して誰も悪者にならずに済んだという物語の展開は、ちょっと面白くないなと思いました…ゆえに「国宝」にもなることが出来たというか…まぁ、ロバジョンよろしく「“悪魔”と取引をしたから」と思えば、それで良いんでしょうけど笑(まぁ、これもよくある展開でつまらないと言えば、つまらない…「悪魔との取引き」は、やっぱり“クロスロード”でしてもらわんとあかんのです笑)。
舞台で、命が手渡されていく映画
この映画は、物語を直線で追う作品ではない。
時間は線ではなく輪のように連なり、舞台によって何度も命が燃やされ、引き渡されていく。
初代・半二郎(白虎)から、弟子である喜久雄(のちの半二郎)、そして半弥へも。
そこにあるのは血縁でも家系でも名跡でもなく、ただ舞台で燃え尽きる覚悟と、それを見届ける者のまなざしだけだ。
物語の核にある『曾根崎心中』の舞台は、役を演じることが「生きる」ことであり、
同時に何度も「死ぬ」ことでもある儀式として立ち上がる。
観る側もまた、その生と死の循環に立ち会わされる。
心に強く残ったのは、お初を演じ切った半弥に、喜久雄がかけた「ようやった…」という一言。
それは同じ地獄をくぐった戦友としての祝福だった。
「代役やったるからな」という宣言は、お前が生んだ命(役)を、俺がこの世に呼び戻してやるという、役者同士の烈しい愛の言葉に聞こえた。
また、半弥が去り、満身創痍で戻ってきたときに連れていた子を、血縁ではなく「命の連なり」として受け止める感覚にも、この作品の核心があるように思う。
終盤、『鷺娘』を舞う白髪の半二郎の身体には、白虎も、半弥も、春江も、藤駒も、そして去っていったすべての魂が宿っている。
彼はもはや「自分」を表現していない。
舞台に焼かれ、舞台に生まれ直した命の記憶そのものになっている。
舞台は、死ぬ場所であり、同時に、生まれ直す場所でもある。
そして舞台を去った者たちに向けて、いつまでも扉を開けておく場所でもある。
観終わったあと、言葉より先に、静かな祈りの感覚だけが残る映画だった。
微妙
大作だと思います
歌舞伎の美しさも存分に堪能できます
両役者の悩みも伝わります
でもなんでか、素晴らしいってならなかった
ところどころ良くわからない
親の敵討ちで何らか起こしたハズなのに、院とかにはいらないで普通に生活?
なんで一流になるまでバレない?(どろどろなら、引き取った時点で誰かがリークするのでは?)
墨入れあった仲の女性との関係が希薄では?その世界であり得る?
舞台で血吐くとか、足踏み外すとか、あり得る?
追放みたいになったのに、何事もなく復帰できる?
世間は、そんなに心広い?
そんな過去持ちで国宝なんてなれる?
などなど、色々気にさせられて、今ひとつでした
あと、途中、どっちがどっちかわからくなってしまった苦笑
皮肉な血
満を持してやっと観れました。しかも満員。
さて、歌舞伎という伝統芸術において、血なのか、芸なのかという話なのですが、
血という部分においては、確かに流星くんに圧倒的アドバンテージはありますが、糖尿まで受け継いでしまう点が皮肉に感じました。
「血がお前を守ってくれる」
「俺が欲しいのはお前の血や」
その血が流星くんの命を奪います。
原因は、父親なのですが、血という観点から言うとブレまくりの父親です。(笑)
実際は、母親とか周辺はもっとキツく反対するんじゃないかな。
二人とも純粋に芸を突き詰める姿勢は同じです。その生き方の対比がこの物語の肝なのでしょう。
どちらも若きに最盛を極め、そして落ち、再度頂点に登り詰める。
しかしながら、逃げた流星くんの落ちた姿は描かれてませんが、主人公の落ちた姿はまるでジョーカーのように細々と描かれます。高畑さんは流星くんに着いていきましたが、森さんは逃げます。
真面目に高畑さんに一途な流星くんに比べて、主人公は女遊びも激しい。(笑)
隠し子七人?
「女は芸の肥やし」を自で行きます。コンプライアンス!
世間を騒がすようなことした人もカムバックして、人間国宝になれるというのも、タイムリーな新井浩文さんとかには勇気づけられる話なのでは。
現代のコンプライアンス的にはどうなのかと思いますが。
二人は、似て非なる人生です。
流星くんの落ちた姿まで描くなら、ネトフリ配信のドラマでも良かったかな。
結論としては、芸を極めようとした者が、求めていた景色を見ることができたというところで終わります。芸の勝ちです。芸が良ければ人間性は関係ない、という昭和な感じですかね笑。
映画館で観るべき迫力のある歌舞伎のシーンは、確かに素晴らしいとしか言いようがありません。ただ、私には歌舞伎リテラシーがないので、良く分かりませんでした。素晴らしいと思う人はぜひご教授ください。
面白いとか面白くないという言葉で言い表わすのは、何か違う感じがしました。「骨太の良い映画を観れた」というのが正しいかな。
ただ、若い時を若い俳優にさせているので、年をとった時もどなたかにさせても良かったのかなと。
あんな格好いい人間国宝いないでしょ(笑)
今年の最後を飾るにふさわしい映画でした。
順風満帆な人生ですね
人間国宝になった主人公が取材陣に言われるセリフがこんなかんじ。いやいや、順風満帆なわけないでしょ。今までの人生ダイジェストを見ていた人は思う。
これは『立場』の映画だったと思う。主人公が出会う様々な人々が色々な視点からものを言い振る舞う。その集大成が表題のセリフだった。
偉業を成し遂げる人の人生が山なし谷なしなはずもなく。芸に狂い悪魔になったからこそ完成された舞台に背筋が凍るのを感じた。
映像の美しさ,役者の演技、音響のリアル感。全てが素晴らしかった。
素晴らしい
圧巻。主役が吉沢亮で相手役も横浜流星で本当によかった。また演出、音楽が非常に素晴らしかった。舞台は舞台で観るのが一番だと思っていましたが映像しかできない演出で感動に誘われました。人の死でもなく悲しい展開にでもなくホッコリでもない芸に対して感動し号泣するという稀有な作品でした。
本当に日本自体がコネ社会、二世大好きで世襲タレント世襲議員を見ない日がない。
芸術も伝統も企業も政治も世襲とコネが大事にされてきた。よそ者を入れるリスクもあり実力はある下品な人間も少なくはないが。
「どうせ世襲制の世界、よそ者は辛い目にあうだけ」というセリフを吐くのが二世俳優というのも皮肉だ。
リアリティから言うとさすがに背中に紋のある極道の息子は跡継ぎにしないだろうとか、跡継ぎに襲名されたなら後ろ盾を失おうと後援会だのタニマチだのいてある程度守られるはずでは?とか、ボンボンはドサ回りしないしホステスと結婚はしなさそうとかはあった。喜久雄に対しては身をひいたかのような春ちゃん弱ってるボンボンと駆け落ちして苦労しただろうが結果うまくのし上がったなとか。
俊介が喜久雄をよそ者だと虐めることもなく仲良くなり葛藤はあっても決裂はせず生涯の友となるのはよかった。
男が主役の世界だから女性が魅力的に扱われないのは残念。娘が横にいても日本一の歌舞伎役者になれたら何もいらないと言い捨て歌舞伎界に返り咲いても藤駒と娘には何もしてなかったようで冷たさに辟易。彰子もその後は出てこないし使い捨てたのだろう。
よく女性が初めた歌舞伎がそのまま残っていたらと思う。宝塚は西洋化されすぎているし日本の伝統芸能で女性が表舞台に立つものはほぼ無い。
世襲制家父長制で、面倒なことお金の心配は妻母親に任せ幼少期から芸事遊びに邁進する特殊な育ちをする男性たち、スーパー歌舞伎は生まれても今も女人禁制の世界についていけないものがあり歌舞伎を観たいと思うことはなかった。
この映画も3時間というし観るのを迷っていたが「世襲じゃない役者の苦悩」に惹かれ観た人たちから「3時間あっという間だった」と聞いて観に行ったが、本当に劇場で観られてよかった。素晴らしかった。
歌舞伎って面白い!今度観に行ってみるか、とは・・・
面白かったです。3時間と言う時間も気にならないほど。
映像も素晴らしかった。美しいと思いました。
だから今度は実際に歌舞伎を観に行こう!・・・とまではならないかなあ・・・
だってカメラワークがスゴいんだもの。アップでロングで。右から左から。上から下から。なんなら舞台奥から観客をバックに。
こんな見方は歌舞伎を観に行っても絶対体験できないんだよなあ・・・
映画は面白かったです。小説は未読ですが、徳次が活躍してるとか衝撃のラストとか噂を聞きまして、今度機会があれば読んでみたいかなと。
映画の作りはさすがに尺的に仕方の無いこともあるでしょうが、ダイジェストをつなぎ合わせた感じで終始進んで行きますね。
伏線が丁寧に回収されているなと言う印象です。綾乃の「悪魔はんに感謝やな」というセリフは良かったなあ。
ではいくつか気になる点を挙げます。
まず最初、喜久雄の父が撃たれて死ぬシーンを見る少年喜久雄。今まさに撃たれて倒れる父親を見ているはずなのに、目線が一切動かない。落ちない。
普通倒れる父親を見るなら目線が下に下がりそうなものだが、ずっと一点を見ているような全体を見ているような。
名監督がこの違和感に気付かないはずは無いので演出意図なのでしょう。
父親の死ですら全体の一部でしか無いというのか。これが未来の人間国宝の天才性の表現なのか。
喜久雄は一時歌舞伎界を追放されてドサ回りをして客に殴られたりしてるくらい落ちぶれていたのに、なんであんな簡単に復帰したんでしょうね?尺の問題で実際の流れを切り取って省略してるからでしょうけど、実にあっさりと戻った印象です。
人間国宝の絶対的権威者である万菊が呼び戻しただけでしょう?
ということはですよ?二代目半二郎(渡辺謙)が「芸がお前を守ってくれる」みたいなことを言ってましたが、結局は喜久雄が自分で言ってたように歌舞伎の世界は「芸より血(名前)」だってことなんですかね?
「芸の力」より「人間国宝の権威」が重要?
私、なかなか人の顔が覚えられない奴でして、喜久雄がボロボロになりながら屋上で舞ってたシーンで彰子が「もうやめよう!」と言った後去っていったので、てっきり「ああ、二人はここで別れたのだな」と思ったんですがそんなこと無かったんですね。人間国宝になった後も彰子はちゃんといたんだとか。
喜久雄には綾乃という隠し子がいますが、正妻の彰子との間には子供がいないんですね。とことん血に嫌われてる人なんだなあ。悲しい。
二代目半二郎(渡辺謙)がスゴく悪い奴に見えます。諸悪の根源じゃないですか。
周りの反対を押しのけて喜久雄を代役に指名するとか、名跡を継がせるとかしておいて、自分は後ろ盾になるでも無くさっさと死んでしまう。喜久雄にしたら「そりゃないよ」ってところですよね。
二代目半二郎は芸の鬼だということなんでしょうけどねえ。最高の芸を舞台に乗せることが最優先という考えなのでしょうが、死んじまってはそうもいかない。実際追放されちゃってますし、喜久雄。気の毒。
しかし糖尿病で喀血するもんですかね?他の病気にもなってたのかなあ?わからない。
化け物と評されていた万菊や、主役の喜久雄、俊介は実際の歌舞伎役者から見てどうなんですかね。私には見る目が無いので分からないですけど。高レベルだったとしたらいいなあと思いました。
隠し子がいたり背中に入れ墨が入っていても人間国宝になれるものなんですかね?
藤駒という舞子が初めて芸者遊びに来た喜久雄に「二号でも三号でもいい」とか言ってたけど、正気の沙汰じゃないよね(笑)
って言うか見る目有り過ぎでしょう。
喜久雄が人間国宝になったことに対するインタビューで「順調に人間国宝になった」みたいなことをインタビュアーが言ってましたが、追放されてドサ回りでぼろぼろになっていた期間があるはずなのに無かったことみたいになってるのはなんでなんだろう??
あ、そうそう、少年喜久雄が父親の仇討ちに失敗したと言ってたけど、武器を持って突っ込んでいったところでシーンが切り替わりましたよね?どうもケガもしてないし警察に捕まってもいないように見えますが、あそこからどういう展開があったんでしょう?
走り出してはみたものの、途中で止まってバレないうちに引き返してきたってことかなあ?変なの。
大人になった綾乃がカメラマンとして喜久雄の前に現れて「あなたを父親と思ったことは無い」みたいな恨み節を言っておきながら最後に「お父さん、ほんまに日本一の歌舞伎役者になったね」みたいに笑顔で肯定するのはなんか違和感でしたねえ。いい話でまとめようとしてる?とも思いましたが。
まあそれが「芸の圧倒的な力」が「人間としての絆」や「普通の良心」などをすべてねじ伏せてしまうというこの映画のテーマなのかも知れませんね。芸の狂気と言いますか。
うん、やはり原作小説が気になりますね。是非そちらを読むことでこの物語の補完を試みたいと思ってます。
総集編を観てるような感じがした
そんなに人気があるなら、
映画館でやってるうちに一度は見よう!と思って
やっと観てきました。
※ちなみに原作は未読
自分の印象だと評価は★3くらいかな。
映画館でリピートはない…
喜久雄役が吉沢さんじゃなかったら
ここまで跳ねてないんじゃないだろうか?
というくらい
吉沢さんはハマり役だったと思います。
(なぜかは言語化できないんだけど…)
まず印象的だったのは、
セリフが少ない、というところ。
そして終始、
淡々とした雰囲気だということ。
殴ったり怒鳴ったりのシーンもあるんだけど
それもなんか淡々としてるって感じ。
状況描写が流れていて
そこに時折言葉が差し込まれるような構成で、
何が起こってるのかは分かるんだけど、
キャラクターが何を感じてるのか?
なにを考えてるのか?
観る側が察するしかない。
なので、かなり感受性を要求される??
と思いました。
あと、この映画を通して強く感じたのは、
なんだか総集編を見せられてるような、
ハイライトだけをつなげて見せられている感覚。
特に歌舞伎のシーンは顕著で、
稽古の泥臭さや積み重ねはものの数分。
見栄えのするシーンだけ
切り取られて次々と展開していく。
たしかにこれだったら中だるみは感じにくく、
「気づいたら終わっていた」
という感想が多いのも納得しました。
俊介の歌舞伎人生を揺るがす一大事については
めちゃくちゃサラっとしか描かれてなくて
正直「そんなにあっさり!?」と
ツッコミを入れそうになるレベルでしたが、
まあこの映画が『喜久雄の物語』なんだとしたら
サラっとならざるを得ないのかな…
歌舞伎のシーンは
衣装や舞台美術、映像の美しさは圧巻でした。
観客席からは絶対に見えない角度や
近距離のカメラワークが多用されているので
良質なМVのような
舞台のライブ映像っぽいものを
観ている感覚に近かったです。
この映画で一番気になったのは
「春江」の行動でしたが、
映画内の春江の言動から考えると
春江は究極の「推し活」女である、
とするのが一番つじつまが合うような気がします。
映画を観終えてから
つらつら考えてるうちに、
「何かに人生を賭けた人間の生き様」
みたいなものを
喜久雄の人生をメインとして
三者三様に描いていたのかなあと思いました。
そこに喜久雄と俊介の血統の違いなどが
味を添えてる、という感じ。
おそらく原作小説を読んだら
映画では描ききれていない心情や
人間関係が補完されて
だいぶ印象が変わりそうな気がします。
しかし、3時間は長かった!
残り20分、くらいのあたりから
腰やら背中が痛くてけっこうつらかった…
登場人物の行動原理が分からない
映像キレイで、俳優の演技もうまいと思う。なのに、登場人物の行動原理が分からず、だれにも共感できないまま3時間が過ぎる。
・主人公:喜久雄…奥さん子どもがいながら(おそらく役欲しさのために)別の若い女性と不倫関係に(それとも奥さんじゃなくて愛人だったから不倫ではないというロジックなのか)。幼い子供の前で歌舞伎がうまくなるなら何もいらない(暗にお前もいらない)と言う(女の子は歌舞伎の跡継ぎに慣れないからかと勘繰ってしまった)。必死に手を振る娘が不憫で、その後落ちぶれた姿も全く同情できなかった。さらにあそこまで落ちたのに、死にかけている人間国宝の一言で歌舞伎の世界にあっさり舞い戻れるのも不明。最後のシーンで娘と妻のことを忘れていないと言っていたが、観客席に満足げに座っているのは不倫相手だった女性(おそらくそのあと正式に結婚している)。明確に俊介に勝った描写なく、ラストの競演では死が迫っている俊介に競り負けているような印象すらある。あの共演シーンの後だと、国宝になれたのは、ライバルが途中退場したからでは?という感想になってしまう。
・俊介…初見で喜久雄を嫌がっているような描写があったのに、場面が切り替わるとなぜか旧知の親友のように距離感がゼロになり、面喰う。大人になってからはべろべろに酔って本番ギリギリに舞台にくるなど、歌舞伎をなめているのかと思わせる描写がありながら、父代役で舞台に立った喜久雄の演技にショックを受けて途中退場。「自分は逃げてない、役者になりたい」と言いつつも、明らかに劇場から逃げる。その時なぜか喜久雄の恋人もつれていく。数年間音沙汰なし、たぶん父の見舞いも葬式も行ってないのにいきなり復帰し、なぜか評判も上々。喜久雄と共演したと思いきやいきなり舞台で倒れ、病気を売りにしたくないといいつつも、半死半生で舞台に立つ。
・春江…一番の謎。子どものころから喜久雄を好いており、一緒に墨を入れる仲。喜久雄がいなくなったら生きていけないといい、追いかけて上京までしている。それなのにそれほど距離が縮まっている感もないまま俊介と逃げて子供まで作る。再会後も、喜久雄との絡みほとんどなし。俊介と逃げたのは裏切りでは?と思うが、謝ったり、申し訳なさそうな描写は見られない。
・半次郎…喜久雄に夢中になりすぎて、奥さんと俊介の気持ちは全無視なのか。そもそも代役の話の際に、俊介に頼んでおけばここまで話はこじれなかった。その上、喜久雄にも配慮が足りないため、自分が死んだあとは喜久雄は一気に窮地に陥り、借金まで抱える始末。親として仕方ないとは思うが、死の間際に目の前にいる喜久雄は無視して俊介の名前だけ呼ぶのもいかがなものか。
・喜久雄の娘…私があの子の立場なら、最後のセリフは絶対に言わない。自分と母を顧みず、若い女と逃げて、名誉だけ手に入れた男の舞台など見たくないし、仮に舞台に見ほれたとしても、そのことを本人の前では絶対に言わない。
歌舞伎の血筋でないものとサラブレットが芸でしのぎあっていくという歌舞伎版『ガラスの仮面』を期待した私にとっては、芸事で競うシーンは少なく、ただただ理不尽な人間関係が繰り返された印象で終わってしまった。歌舞伎のシーンのみごたえがあれば、このよく分からないキャラクターたちに観客は違和感を抱かないのだろうか。不思議だ。
私には刺さりませんでした
前評判がかなり良かったので、母と一緒に観に行きました。
俳優さんの演技の熱量は物凄く感じられるのですが…。
設定をあれもこれも詰め込みすぎていて、特に人間の醜さの描写が多く、三時間という長さの中で昼ドラの様なドロドロした展開が進み気持ち悪くなりました。
何故この作品がここまで評価されるのか、自分には分からなかったです。
現実の歌舞伎の世界がここまで汚いとは思いませんし、よくもまあここまで他人を犠牲に出来るなあと感じました。
下品な描写の恋愛模様はそこまで必要無かったのではないかと思います。
人間としては最低だけれど『国宝』。
それはそうなのでしょうが、汚いもので固めて成り上がった先の結果、誰かの犠牲の上で得た結末を、私は『国宝』だとは到底思えませんでした。
ただ歌舞伎の舞は俳優さんが魂を込めた、と仰っていた通り見惚れるくらいに素敵でした。
物語のバランスがもう少し歌舞伎の演目よりで有れば、自分の見方も変わったかも知れません。
やはり素晴らしい
1回目から4ヶ月空けて2回目を見ました(前回8月だよ。レイトショーとはいえ、映画館で見れるとは!)。
流石に2回目はどうかと思いましたが、全く同じように感動しました。
吉沢亮の魂を揺さぶるような演技は素晴らしいし、全ての俳優が素晴らしい。脚本も素晴らしいし、映像も音楽も美しい。
しかし、なんといっても演出が凄い。特にラストの実子との再会に始まり、最後の演目で着物が赤に変わり曲が変調するところ、観客も消え吉沢亮の最後のセリフから暗転し、タイトルが出るシーン。この流れは鬼気迫るものすら感じた。
恐らく一生のうちに出会える素晴らしい作品の一つだと思う。
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