国宝のレビュー・感想・評価
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芸術作品
日本はもちろんですけど、世界中の人に見て欲しい!
私のこの感情を上手に文字にする事ができないのがとっても残念です。
妬み嫉み、友情、恋愛、家族愛。
芸事の厳しさ、挫折と成功して。
人間の醜さと素晴らしさをも見せつけられた気がします。
溢れてくる涙の正体が自分でも分からず、悲しい涙なのか、苦しい涙なのか、ただただ切ないだけなのか、もしかしたら感動してたのか、名前が付けれない涙がずっと止まらなかったです。
歌舞伎の知識は皆無です。知識があればもっと違った見方ができたのかもしれないです。
本物の歌舞伎の舞台をみてから、またこの国宝の映画を見たいなぁっておもいます。
◇血に焼き付けられた「演技」
人間国宝は、日本の文化財保護法に基づいて重要無形文化財の保持者として認定された人物を指す通称です。芸能、工芸技術等の無形の「わざ」を体得している人。
日本文化における「わざ」は身体の中に刻み込まれている所作の上に成り立っているように感じます。それは長い年月の試行錯誤と切磋琢磨によって何重にも折り返され積み重ねられた身体のリズム。
身体のリズムを形作るのは血です。血の流れの中に、「わざ」の動きの一つ一つが書き込まれて記録され巧みに再現されるのです。
歌舞伎界を巡る二人の役者の人生の浮き沈みを人間喜劇さながらに描くこの作品。秀逸なのは、幼い頃からずっと芸を鍛錬してきた歌舞伎役者のごとく、しなやかに動く身体の美しさです。
身体に刻み込まれた歌舞伎の動きを役者として身体の血に染み込ませて演じているように感じました。もはや演じているというよりは演技そのものが憑依しているようでした。
身体の奥に感じる血のリズムが共鳴し始めるとき、感動の渦が深淵からじわりじわりと湧き上がってくるのを止められませんでした。
悪魔に魂売って奈落から這い上がり役者へと
吉沢、横浜両者の演技は秀逸。随分と練習したんだろうなと感じさせる名演技でした。
浮世絵ばりのカメラのアングルや大首のカットが良い。
ただ年月追いかけるので、尺長くちょっとだれる。
歌舞伎のどろどろとした内幕をもう少し掘り下げてほしかった。競い合う2人の挫折が同じなのには?
話題になってたので
【瀧内公美のまたファンになってしまった】
演目「曽根崎心中」は知ってた方が楽しめる
作り手たちの熱量に圧倒される作品
映像の美しさ、胸を打たれるストーリー、そして作り手たちの熱量に圧倒される作品。もし喜久雄が身近にいたら、彼に人生をめちゃくちゃにされる人は多いだろう。芸を突き詰めることが人生の第一優先事項で、人に対する情が薄いように見える。だから彼のそばにいることに疲れたり、諦めたりして、離れていく人(女性)は多いけれども、そのことに対しても喜久雄は激しい感情を表したりはしない。
でも、何も感じていないサイコパスのような人という印象は不思議とない。
それは彼の生い立ちや成長過程が丁寧に描かれ、様々な困難や理不尽に苦しんだり失望したりしながら「芸の他には何もいらない」と心に決めた姿、実父や師匠の生き様を目に焼きつけた姿を見ているから、喜久雄はそういう覚悟を持って生きている人なのだろう、と感じさせるのだと思う。
それでも身近な人にとっては、彼は紛れもなく身勝手であるはずだ。けれども、そうまでして彼が追い求めるものが「歌舞伎」の芸であることが、殊更私たち日本人にとっては、その重みを共通の理解としているからこそ、その身勝手さを受け入れてしまう。芸の肥やしなどという言葉が受け入れられない昨今であっても、この作品を見て喜久雄に悪感情を抱く人は少ないのではないだろうか。
ほとんど誰も、彼のようには生きられない。歌舞伎界の御曹司である俊介でさえも。だからこそ喜久雄は国宝になりえたのだ、ということが、説得力をもつ。
そこに真実味を与える脚本や美術なども素晴らしいのだけれど、やっぱり主演の吉沢亮、ライバル役であり盟友役である横浜流星をはじめ、役者陣が本当に素晴らしい。歌舞伎の稽古の中で「その役を生きていないから、そんな表現になるんだ」という趣旨の台詞が何度か出てくるのだけれども、まさにこの映画の俳優陣は、この役を生きたのだと思う。
伝統芸に挑む若手俳優の演技が国宝級
「悪人」「怒り」に続いて吉田修一の小説の映画化作品である。原作は未読であり、歌舞伎も見たことがない。17 世紀初頭に出雲阿国が始めた踊りが歌舞伎の発祥とされ、江戸時代に発展して隆盛を極めた。先日、出雲大社に参詣した際に、すぐ近くに出雲阿国の墓があったが、京都の大徳寺にもあるらしい。
初期の歌舞伎は、上演終了後に役者が客を相手に買春行為をしていたため、風紀の乱れを幕府に咎められて、女優は舞台に上がれなくなった。これによって、女形という日本独特の芸風が誕生し、演目も増えて歌舞伎の型といった文化が形成された。男の役者が買春行為を続けていたが、幕府はそれには文句を言わなかった。
歌舞伎役者は、当初河川敷に演劇小屋を張って興行していたせいで、「河原者」や「河原乞食」という蔑称で呼ばれて、カタギの人間との婚姻が極めて難しかったため、自分らの身内で結婚して子供を作るしかなく、これが世襲制の本来の理由である。現在では自分らの世界を「梨園」などと呼称して、むしろ一般人より優越な立場にあるかのように振舞っているが、そもそもは逆の立場だったのである。数は少ないものの、世襲でない役者もいて、片岡愛之助などはその一例である。
伝統的な型によってがんじがらめにされている現代の歌舞伎は、音楽で言えばクラシックのようなもので、同じ演目を何度も見て来ている客は目も耳も肥えてていて、少しでも役者が型からはみ出ると未熟者と蔑まれるらしい。歌舞伎界からは人間国宝が6人輩出しているが、あくまで芸に対する評価であって、役者本人の人間性は二の次のような印象を受ける。特に女性関係にだらしのない役者が散見されるが、よほどのスキャンダルを起こさない限り、年数が経てば人間国宝の声が掛かるらしい。
この映画は、歌舞伎の名優の子として生まれた者と、血縁はないものの、師匠に芸を見込まれた者の互いの葛藤を中心にした話が展開される。いずれも過去を引きずりながら生きていて、背負ったものの重さと質が大きく異なっているが、二人は基本的に仲良しである。それが成長と共に、互いの関係性も複雑化して行く。
全編約3時間を要する大作であるが、弛緩した部分はひとつもなく、見せ場が連続する。主役の二人を歌舞伎役者が演じたら面白くも何ともない作品になってしまっただろうが、吉沢亮と横浜流星という歌舞伎とは縁もゆかりもない二人が演じたことで、緊張感が半端ない作品に仕上がっている。大御所役の渡辺謙や田中泯も歌舞伎の演目を演じるシーンがあり、それが素人丸出しでは映画の出来を大きく損なってしまうに決まっている訳だが、見事に演じているように見えた。1年半ほどの稽古であそこまで見せるというのは物凄いことだと思った。
ロケ先も由緒正しいところばかりで、歌舞伎座は言うまでもなく、冒頭の長崎の宴会場は、坂本龍馬もよく訪れた「花月」のように見えた。シーンの背景の隅々まで、尋常でない注意が払われているように思えた。ただ、原作をかなり削ぎ落としているようで、もっと見せるべきシーンがあったはずだと思った。例えば、敵討ちに向かうシーンは、その後の展開が台詞のみで語られるだけであったが、あれは他の尺を削ってでも見せるべきだったと思う。
横浜流星は、昨年度のアカデミー主演男優賞を同じ監督の「悪人」で受賞しているが、今作の吉沢亮はそれを上回っているように思えた。吉沢の飲酒トラブルで公開が危ぶまれたが、無事に公開されたのは良かったと思う。これがお蔵入りになっていたら日本映画の大損失になるところだった。関係者も胸を撫で下ろしていることだろう。
音楽の原摩利彦は見かけない名前だったが、若手の作曲家で舞台音楽等も手掛けている人らしい。歌舞伎の音曲とオーバーラップしても音響を損なわない曲想を聴かせていて見事だった。映画館で見るべき映画である。
(映像5+脚本4+役者5+音楽5+演出5)×4= 96 点。
原作が読みたくなった
珠玉のエンタメを満喫しました
踊り、歌、衣装、役者さんのカッコ良さ、全てが美しく最高で、丁寧におもてなしをされた気分でした。
人間の業の強さから目をそむけず、悪いところも良いところも、納得感のある形で描かれ演じられているところが印象的でした。
名作と呼ばれる作品が誕生しました。
美しさのその先
順風満帆
映画として
役者全員がその人物そのものにしか見えない
皆が口を揃えて言う3時間の長さが全く苦じゃなくむしろ足りない、もっと観ていたい作品。
これ気になるなぁ、配信で観れば良いかと思ってる人にはとにかく時間を作って映画館で観て欲しい。出来れば大きなスクリーンで。観ればわかる。
歌舞伎シーンはもちろん圧巻の出来、でも舞台以外もめちゃくちゃいい!刺さる!泣ける!
全員素晴らしいけど、吉沢亮くんと横浜流星くんは桁違いだしキャリアハイだと思う。
観終えるとまた観たくなる作品はそんなに多くないからこの国宝は自分にとって凄く貴重。
今後数年はこれ以上の作品に出会えるのか不安なくらいの作品。
糖尿病を舐めてはいけない
2人の生き方
才能と血族の相剋、重層的な象徴構造
伝統芸能を極める過程での、才能と血族の相剋が半世紀のタイムスパンで美しく描かれた大作。歌舞伎という閉じられた世界の内側や舞台裏を覗かせてくれますが、それがとても真摯な視点からなのが素晴らしい。華やかな異界を現出させるために、多くの裏方さんや下積み役者さん、家族がいて、それらが歴史に裏打ちされた所作や作法・礼法により裏側でも整然と進行していく美しさ。そして勿論、看板役者になるための厳しい鍛錬と更なる高みに登るための非凡なる生き様が、切磋琢磨し合う二人と血族を絡めて描かれています。至芸を成立させるために多くの人々の死屍累々の犠牲があると見るか、唯々自己の修練と精進こそが最後の要なのかは見る人の立場により捉え方が違うかもしれません。この手の物語にありがちな、あからさまな悪事や意地悪をして主役を蹴落とそうという人が出てこないのが清々しかったです。誰もが各々の立場で必死に生きながらお互いに関わり合っていました。
歌舞伎、能狂言、華道、茶道など、芸事の中でこれほど強力な血族のしがらみがあるのは世界の中でも日本だけなのではないでしょうか? それがコンプラ全盛の現代で最後の聖域というか、功罪半ばであることは確かですが、それによって生み出され継承発展されている芸があることも事実です。でも本作の結論は才能は血族を超克できるということと感じました。おそらくはその方向性は海外へ発信する際には必要不可欠でしょう。本作では血族により守られ、引き継がれるもの(芸も、肉体的欠陥も)と共に、排除されるものと、それを乗り越えるものが生々しく描かれていました。
そして行き着く先の至芸の世界、孤独な境地の象徴として、田中泯が演じる万菊の圧倒的な存在感が重しになっていました。彼の「メゾン ド ヒミコ」でのあるコトバで肩を震わせて嗚咽したことがあるのですが、本作でも短いコトバの一つ一つがストーリーの重要な鍵になっていました。終盤、何故場末の木賃宿にいたのかは原作を読めばわかるのでしょうか? 至芸を見極める目力の凄みとの対比が強烈でした。枕元の人形は孤高の象徴でしょうか?
「2人の女方が向き合っている」プロモーション写真は、直ぐに「覇王別姫」を想起させましたが、あちらは壮大な歴史と政治のうねりに翻弄される伝統芸能、こちらは至芸の境地に至るまでの才能と血族の相剋で、全く内容が異なりました。求められる演技レベルは本作は人間国宝ですから自ずと高くなりますが、万菊、喜久雄共にシネマティックな感興を見事に達成していたと思います。
最新映画館のハイレベルな音と映像が、リアルな劇場体験を彷彿とさせ、色々な視点からの撮影が、歌舞伎の魅力を見事に表出しています。出だし長崎の料亭での縁側を花道として使う演出もその後の展開を象徴していたり、橋、河原、舞台袖、稽古場、同演目等、複数回登場するシーンが、時代により違う意味を持つ重層的な象徴構造になっているのも面白かったです。本物の歌舞伎の情報量は桁違いですので、これを機に是非歌舞伎座や劇場に足を運ばれる良いきっかけになればと感じました。
あまりの出来事に何が起こったのか……
圧倒されて泣いたのは初めて
全708件中、261~280件目を表示
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