国宝のレビュー・感想・評価
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圧巻の舞台シーンに目が潤む! が、2~3の稚拙演出シーンが惜しい。 後半ネタバレ ★4.0
舞台で "役" を演じる。 只それだけのシーンでこれほどスクリーンに見入り、目が潤んだ事は初めてかも・・。
おそらく、吉沢亮は来年の「日本アカデミー主演男優賞」を獲るだろう。
とにかく、吉沢亮と横浜流星この二人の舞台演技はずば抜けていた!
本物の歌舞伎ファンでも "納得" 以上の物を感じたのではないかと思う。
演舞以上に、女形独特の発声も全く違和感なく、本物の歌舞伎役者かと感じるぐらいに洗練されていて、
監督の舞台の魅せ方も巧いと感じた。
その舞台に臨むまでの紆余曲折が物語りで描写されているのだから、いっそう感涙に繋がる。
この原作を書いたのは、実際に歌舞伎で「黒衣」をされていた方が書いたようで、
その独特の世界観や舞台裏なども詳細に描写されている。
渡辺謙も過去視聴した中で一番の演技をしていて、
序盤での謙さんの絶妙表情は特別な存在感を放っていた。
さらにビックリしたのは、女形の国宝重鎮(万菊)役。
「はぁい、よぉろぉしぃく・・」とそのハンナリとした台詞は、
この人だけ本物(歌舞伎役者)を使っているのか?と感じたくらいで、
それを 田中泯さん が演じていたと、視聴後チェックで知って尚驚くことに♪
物語の序盤は説明描写的で心が動かないが、1時間経過した位の「曽根崎心中」の舞台から、
心に訴えるシーンが続き圧巻に繋がる。
稽古シーンで、「そんなので、命を賭すか否かが伝わるか!」的な叱責に吉沢亮が女形台詞を言い直すのだが、
3度目には本当に魂が入ったように表現されていて、相当な修練の賜を感じた。
ただ鍛錬・洗練されている舞台描写とは全く逆の、安易で稚拙なシーンも2~3あり、特に序盤は長く感じた。
それはネタバレに記す事に。
まあとにかく舞台シーンは圧巻です。
上映舞台挨拶で監督・役者とも、「とにかく観て下さい」と語っていたのが頷けます。
超力作・必見♪
私が感じた甘い描写 ↓ ネタバレ
序盤の宴会襲撃シーンは稚拙過ぎて、あきれた。
あのシーンにそれほど予算を掛けれなかったのかもしれないが、
よそ者が殴り込んで来ているのに、その数分後でも親分が自席に座っているのはあり得ない。
周りの若衆が、より安全な奥部屋へ連れていって当然。
それが、いつの間にか親分一人になって、銃で撃ってくれと言わんばかりに日本刀を掲げるポーズで・・・。
この時点で、これが★4.4か?・・と落胆・・。
あのシーンにもっと本格的殺陣を取り入れていたら、さらに高評価に繋がったと視聴後は惜しく感じた。
さらに後半、喜久雄が落ちぶれて旅館のステージ後に観客との一悶着シーンも、
まるで過剰な映画演出を感じて違和感たっぷり。
この監督は、激しい動きシーンは自然に撮れないのかと勘ぐってしまう・・。
監督の過去作をチェックすると、「フラガール」のみ観ていた(私も高評価)が、
イーストウッドの名作「許されざる者」のリメイク版は平均★3.3とかなり低い。
やはりアクションは苦手なのかも♪
脚本的には、かなり慎重な性格を表している喜久雄が、他の女性との関係を持つ点の、心境変化の描写が簡素な事や、
2度の舞台上でのアクシデントも、また?と感じてしまった点も惜しい。
まあ、現代作品に「黒沢明作品」のような完璧を求めるのは私ぐらいと思うので、
★は私なりの高評価 4.0 に♪
映画の花道を堂々と練り歩く
作品の世界に引き込まれました。
はじめから最後まで作品の世界に引き込まれました。
3時間近くの上映時間にでも途中、集中が途切れずに作品世界に没入できたのはいつ以来かなぁ。
喜久雄を演じる吉沢亮さん、俊介を演じる横浜流星さんの気迫が圧巻でした。
田中泯さんの万菊もすごい良かったです。劇中、日常の所作から女形を演じられていたのが印象的で感服しました。
任侠、昭和、歌舞伎世界のそれぞれを違和感なく、印象的に表現された美術、映像、音声が素晴らしかった。
作品は喜久雄が歌舞伎の世界に入るキッカケから頂点に立つまでが語られますが、長期間密着したドキュメンタリー作品を観ているようでした。それだけ歌舞伎シーンはじめ、画にリアリティが会ったのだと思います。
是非、雑音で集中を邪魔されることの無い映画館で観て頂きたい作品です。
『百年に一度の壮大な芸道映画』でした!
奇々怪々な部分が多い映画でコンペティション部門に出品ならず
ネタばれ含むので、映画鑑賞が未だの方は絶対にお読みにならないように...
奇々怪々と感じた部分は、歌舞伎役者でない役者が歌舞伎役者を苦労して演じてはみたもののやはり本物の歌舞伎役者の技量にはかなわない不自然さが目に付くとかそういう部分ではない。自分は歌舞伎や能はよく見に行くが、歌舞伎役者であろうとなかろうと、やはり美形が演じる女形のほうが圧倒的に美を感じるものなのだと、つくづく納得した。渡辺謙の毛ぶりはなかなかであったし、たとえ多くの不自然さが目立たないように撮影・編集されていてもそれは当然だろう。
原作を読んでいないので、原作にはきちんと描かれているのかもしれないが、
喜久雄とともに生きるために自らも背中に彫り物をしたほど喜久雄を愛した春江が、俊介のあとを追い、そのまま二人で姿を消してしまう春江の心情がきちんと観客に伝わるように描かれておらず、なぜ二人で消えた??? その???でしばらく頭がいっぱいになった。
あと、この映画を初日に観た理由は、自分が崇拝して止まない世界的ダンサー田中泯が出演しているからなのだが、その『鷺娘』の踊りに全く感動できなかった。玉三郎の『鷺娘』の足元にも及ばない。残念である。国宝を演じているわけだから、これではまずいだろうと思う。
あと、みすぼらしい狭い部屋で万菊が横たわり、喜久雄と再会するシーンで、「ここには美しいものがない。」と語り、美から解放されたという境地が、国宝であることからのストレス開放なのか、芸を極めたもののみが達することができる境地なのか、どちらなのか???理解できずにまた???であった。それに加えて、どうして歌舞伎の舞台に立てずにドサ回り中の喜久雄をその芸の上達も直接見ることなく万菊が「ようやく認める気になったのか」まったく理解できずに??だった。
それから、最後のシーンで喜久雄が国宝として観た景色がわけのわからない雪吹雪のような桜吹雪のようなものが散って、日本的美で誤魔化されてしまったような気分になって映画は気まずく終わった。
ここまで説明不可能な奇々怪々なシーンが次から次へとあると、
日本のメディアのプロパガンダにだまされてしまうことなく、
この作品がコンペティション部門で出品されなかった理由がはっきりする。
邦画の監督たちの映画の論理的思考や論理的構築の欠如があらわになった作品だと思う。
正直な感想です。ごめんね。
日本人が知ってる様で知らない“歌舞伎”の世界
当代の“人気役者(大河主演)”の吉沢亮と横浜流星が、“舞台”で演ずる舞に“美しさ”を感じた。
勿論、日舞の手習をしていた訳では無いのでその良さ・真髄がわかっている訳では無いが、それでもその姿に美しさや優雅さを感じたのなら、それが正解だと思う。
その道のプロフェッショナルを演じる事は容易では無い。
ドクターしかり料理人しかり、それが実在した人物なら尚更だ。
「ボヘミアンラプソディ」のフレディ・マーキュリー、音楽はクイーンの音楽に吹き替えられていたがラミ・マレックの演技も作品も素晴らしかったし、「天皇の料理番」を演じた佐藤健の包丁捌きは目を見張るものがあった。一流料理人からすればまだまだとしても、あの包丁捌きは木村拓哉演ずる「グランメゾン東京」のシェフより見応えあったと思う。
本作でも、上方歌舞伎の名門・丹波屋当主の花井半二郎役を演じた渡辺謙は「僕らごときに歌舞伎ができるわけがないですから真似事でしかありません」と謙虚に語っているが、渡辺謙も大河主役は勿論のこと、ハリウッド作品やミュージカルの主演も務めた、日本を代表する“役者”だ。
歌舞伎の看板役者となると、月に25日昼夜3〜4時間の公演に、稽古が5日、それが12ヶ月でざっくり見積もって360日“歌舞伎”を演じている。当然、そんじょそこらの役者が真似したとしても、早々その立ち居振る舞いが板につく訳無い。
それでも、この作品には映画としての面白さがある。
もしこの二人が梨園の御曹司だったら?さぞ世の話題をさらったであろうし、そんな二人が映画の中で舞い踊る姿には正直魅了された。
歌舞伎の演技監修・出演もした中村鴈治郎曰く「賛否両論があるでしょう。でも、歌舞伎の記録映画ではなく、歌舞伎を題材にした人間ドラマですから。絶対に映画として成り立っていると思います」
正に本作の本質だ。
歌舞伎のご贔屓さんから見れば恐らく粗だらけ、それでも歌舞伎どころか舞台を観に行った事が無い多くの人に伝わるものはあると思う。
本作は“歌舞伎”の映画版では無い、そして歌舞伎の世界を知ってる様で知らない、“歌舞伎”を観たことが無いであろう多くの観客に伝わる何かがあれば、それが大正解な作品なのだと思う。
繰り返し言うが、吉沢亮と横浜流星の“演技”する舞は、物心着いた頃から身につけてきたものでは無いし、通し狂言「菅原伝授手習鑑」の全五段約7時間半の演舞ができるはずも無い。映画で演ずる演目・舞は極々一部に過ぎない、それでもスクリーンに映し出されたその姿に、魅力や美しさを感じる事が出来ればこの作品を観る価値は大いにあると思う。
そして、恐らく今年上半期邦画作品を代表する一作として日本アカデミー賞の候補にも上がってくるだろう大作となっている。
ただ、この作品に少し違和感を感じた事も事実。
縁があって六代目 中村 歌右衛門さん、四代目 坂田 藤十郎さん、五代目 坂東玉三郎さんなどいわゆる“人間国宝”と呼ばれる重要無形文化財保持者の方とお会いしている、まだ幼い時や小中学生の頃父に連れられ楽屋にお招き頂いた。そんなご縁もあり結構な演目を観劇させて頂いた。当時は、正直あの独特な台詞回しが分からずだったが、「菅原伝授手習鑑」や「義経千本桜」、夏に開催される納涼物などは立ち回りや舞台転換も多く、子供ながらに面白いと思った。
時には、客席の盛り上がりにつられて「成駒屋!」なんて掛け声を掛けると、“威勢のいいガキンチョの掛け声に”大向うのご贔屓さんが「〇代目!」なんて絶妙な間合いの掛け声がかかり、子供なりに楽しんだものだ。
本作も、吉沢亮と横浜流星が舞台で演ずるシーンで、満場の拍手はあるのだが大向うの掛け声が無い。
映画の演出上そうしたのかもしれないが、映画の中の客席にいる“観客”が“出演者”になってしまっていた。
映画やテレビと違い、舞台空間を作り上げるのは役者だけでは無い。観客と共に一期一会な時と場所を作り上げるのが舞台だ。
それは“舞台は生物”と言われる所以でもある。
映画としての面白さはあったが、その劇中劇として描かれた“舞台空間”までも映画になってしまったのはやや残念かもしれない。
それともう一点、気になったのはやはり台詞回し。歌舞伎では顔や姿も大切だが、あの口跡はやはりそう簡単に演じる事は出来ない。
その違いは、是非本物の舞台で肌で感じるのが一番良いかと思うので、機会があれば是非舞台空間に足を向けるのが良いのかと思う。
因みに、本作では歌舞伎界の「世襲」が話しの大きな筋となっている。
2025年八代目尾上菊五郎襲名、中村屋ファミリーのドキュメンタリーや市川團十郎親子の姿が茶の間に映し出されると、ついつい「梨園は世襲が当たり前」
と思ってしまう人は多いのだろう。受け継ぐ主体が血縁者というのが“世襲”と言えるのは言うまでも無いが、歌舞伎界に於いては「家芸」の継承が最も重要視され、決して実子・血縁だけに受け継がれてきた訳では無い。
十四代目守田勘弥は実子を遠ざけ玉三郎を養子にしたのは家芸を伝承する為の選択肢だったのかもしれない。
坂東玉三郎は人間国宝となっている。ではその他の家はどうだろうか。
十三代目 市川 團十郎 白猿の祖父は、七代目松本幸四郎の長男十一代目市川團十郎だが、七代目幸四郎は役者と無縁な伊勢の土建屋の三男から養子縁組され大名跡を継ぐ迄に襲う。亡くなった中村屋の十八代目中村勘三郎の祖父は中村歌六という、元来高名では無い役者であったが兄の初代中村吉右衛門の活躍などにより家格が上がった。江戸時代は養子縁組も頻繁、現代でも女形は日常生活も“女性”であった一面もあり実子をもつことも減じられたりもした。
市川團十郎名跡の異色は、死後襲名した十代市川團十郎。銀行員の家系から九代目市川團十郎の長女実子と恋愛結婚、29歳にして歌舞伎役者に転向した、大成はしなかったが市川團十郎不在の市川宗家にあってその代つなぎとして絶えていた歌舞伎十八番を次々に復活上演。意欲的な舞台活動と研究によって市川宗家の家格を守り抜いた。五代目菊五郎には中々子供が授からず、養子を取り後継者として「菊之助」の名を名乗らせていたが、妾との間に実子が産まれると不仲となり名を捨て上方芝居の世界に、実子が六代目菊五郎、その養子七代目尾上梅香(人間国宝)は本作でも出演した寺島しのぶ・八代目 尾上菊五郎の祖父(父七代目菊五郎も人間国宝)にして、赤坂の芸者の三男として産まれている。
歌舞伎の名跡は、あくまで実子だ養子だなどという名前ではなく「芸に譲る」というのが基本だが、そうだとしても物心着いた時から芸に触れるという事は大きい。そして、名跡は決して一子相伝的なものでは無い、名前は勿論、家族・兄弟・友人・お弟子は元より会社やなんと言っても観客によって一人前として育て上げられる。そして、まだ若いうちは演ずる事、芸事の精進にひたすら努めれば良いのかもしれないが、座頭となれば当然如何に興行するかが重要になる。
ふと思い出す。
四代目市川猿之助・・・。
正に天才役者だ、華もあれば演技も別格だった。
ただ、澤瀉屋は歌舞伎界でも少し特殊な存在、初代は9代目市川團十郎の弟子だったが破門になり、やがて許されて復帰。
2代目も、新劇に出たりしながら松竹に反旗を翻したこともある。
3代目は23歳で猿之助を襲名したが、直後に祖父(2代目)と父が亡くなったので、「劇界の孤児」となった。後ろ楯のなくなった3代目猿之助は、大幹部の誰かに頭を下げて一門に加えてもらうしかなかったが、それを断り、自分で独自の公演を始めた。スーパー歌舞伎など独特な世界を作り上げたが、歌舞伎界の異端児的扱い(悪く言えば色物扱い)。そして、四代目は弟・4代目段四郎の子、市川亀治郎。実子の香川照之が9代目市川中車を名乗った頃から歯車は狂い始めていたのかもしれない。
四代目猿之助襲名時亀次郎は「ずっと亀治郎でいたい」、「生涯一役者として生きたい」と言っていたと言う。役者として、「猿之助の芸」は継ぎたかったが「一門の長」になる気は本当は無かったのかもしれない。
それでもさまざまな事情で、「猿之助」になってしまった。
その後の顛末は、世の多くの人が知っているだろう。
名跡を継ぎ、座頭になるという事はただひたすら“芸事に打ち込む”事だけでは済まされない事だ。そこには芸の上に、一門を率いるリーダーたり得る素質も必要とされる。
「天才であること」と「組織のリーダーであること」はときに矛盾する。
その両立ができず、己の矛盾が臨界点に達したのかもしれない、猿之助さんのあまりにも衝撃的な事件を思い出すと、この作品の見え方も変わってくる。
そして、一人の“人間”としての「人間国宝(重要無形文化財保持者)」。
その名が如何に偉大なのか感じずにはいられない。
今まで取り上げられそうで無かった「日本人が知ってる様で知らない歌舞伎界」の人間模様。中々見応えある作品だが、3時間近い時間があっという間に過ぎた。
その道と芸を極めた者を“国宝”と呼び、それを魅せてくれた映画を“至宝”と呼ぶ
李相日監督の作品は必ずその年のマイベストの一つになる。それくらい現在の日本映画界で絶対的信頼の名監督。
原作が吉田修一となれば尚更だ。
そんな二人の『悪人』『怒り』に続く3度目のコラボレーション。
なので映画化発表の時から超期待していたとは言え、その期待を越えてきた。
すでに見た方々がタイトルに絡めて絶賛しておられる通り。
まだ2025年上半期も終わってないが、今年一番は決まったかもしれない。
歌舞伎。
古くから伝わる日本の伝統芸能。
今尚多くのファンを魅力し、受け継がれ、その人気は国内のみならず海外にも。
多くの名門、人気役者。その芸と道を極めた者は“人間国宝”にもなる。
日本文化にとっては“至宝”の一つ。
しかし、なかなかに特殊な世界。敷居も高く、好きな人は好きだが、興味無い人は全くの無関心。
専門的な言葉や演目を始め、知らない事の方が多い。
自分もだが、歌舞伎を見た事がない人は伝統芸能でありながら日本国民の大半を占めるだろう。
そんな歌舞伎初めましての人でも見れ、引き込まれ魅了される作品になっているのが見事。
私の勝手なイメージ。歌舞伎は世襲制。歌舞伎の家に生まれた者が代々受け継ぐ。
勿論そうではない役者もいるだろう。本作は“異例”の世界から。
人気歌舞伎役者の半二郎はある宴の席に招かれる。
任侠の組長が主催の宴。その組長は歌舞伎好き。
宴の余興で、組長の息子が女形を演じる。
歌舞伎の世界の生まれでもないのに、組長の息子・喜久雄の美しさと才に半二郎は驚く。
その宴の席で、敵対組との抗争が。喜久雄は目の前で父を亡くし…。
仇討ちを決意するが失敗に終わり、行く当てもない天涯孤独の喜久雄を引き取ったのは、半二郎。
あの悲劇の一夜が新たな人生の始まり。かくして喜久雄は歌舞伎の世界へ…。
無論招かれざる存在。
半二郎の妻・幸子は“極道もん”とあからさまに邪険にする。
が、半二郎は喜久雄の才に確かなものを見ていた。
半二郎には息子・俊介がいた。いずれは跡取りとして次の三代目半二郎を襲名し、御家の名門・丹波屋や歌舞伎界を背負って立つ。
俊介も何処ぞの馬の骨か分からない奴を白い目で見る。
歌舞伎のプリンスと部屋子。天と地の全く違う立場ながら、半二郎は平等に厳しい稽古を付ける。
日々の厳しい稽古を共にし、いつしか二人に友情が育まれる。
稽古に、若者二人の友情と青春に。切磋琢磨。
やがて二人は才能を開花させ、若き女形コンビとして注目と人気の的に。
二人の歌舞伎役者人生を決定付ける初の大舞台。
これを見事成功させ、歌舞伎界のニュースターへ。
任侠の世界から歌舞伎の世界に鳴り物入りで入った喜久雄は見る。見た事ない景色を。
順風満帆だった。
ある時、半二郎が交通事故に遭い、舞台に立てなくる。しかも、大事な舞台の直前。
代役は…? 遂にこの時が来た。跡取りとして。
誰もがそう思っていた。
が…、半二郎が指名したのは、まさかの喜久雄だった。
思わぬ事に動揺する喜久雄。俊介も。
これをきっかけに、二人の運命と歌舞伎人生は大きく変動していく…。
吉沢亮と横浜流星。人気のWイケメン。それだけに留まらない。
演じた役が歌舞伎界を背負って立つのなら、二人はこれからの日本映画界を背負って立つ若手実力派。いや、若手と言うのも失礼なくらいの頼もしさ。
この二人の共演も見たかった理由の一つ。
にしても、同性から見てもお美しい二人。女形は大正解。
勿論ビジュアルだけじゃない。二人共、超売れっ子。過密スケジュールの中、一年半にも及ぶ歌舞伎の訓練。
たかだか一年半の訓練だけで舞台に立てるような世界ではない。人間国宝となった歌舞伎役者であっても修行に勤しむ。芸の道に終わりは無い。
本来歌舞伎役者でもない、訓練の期間も限られている。それでも歌舞伎役者になりきり、魅せた役者魂!
あの流し目一つ、表情一つ、振り一つ、発声や歌舞伎演技全てに、引き込まれる…。
プロから見れば至らぬ点多々かもしれないが、素人から見ればベタな言い方だが本場の歌舞伎役者にしか見えない。本当に役者の才や力量に驚かされる。
序盤の演目でさえ魅了されるが、共にさらに芸を身に付け、紆余曲折あって熟練。クライマックスで披露する演目は真に迫るほど圧巻…。
歌舞伎役者になりきっただけじゃなく、本来の役者としての複雑な内面演技も見て欲しい。
喜久雄と俊介。性格は真逆。
喜久雄は物静かで真面目。真摯に芸や修行に打ち込む。
一方の俊介はパーリーピーポーな性格。芸と修行の合間、遊び歩く。
私たちが抱く歌舞伎役者のイメージは喜久雄だが、ゴシップやスキャンダルを提供した人気歌舞伎役者もいたね。奥さんと出会って改心し、奥さんを亡くし、二児の父親として今は落ち着いたけど。
当初はそんな性格と印象だが、あの衝撃の代役を受けてから、二人の性格と印象も二転三転し、それを巧みに演じ切る。
尚、少年時代の二人を演じた『怪物』黒川想矢と『ぼくのお日さま』越山敬達の順調なキャリアも嬉しい。
世襲は当たり前。そんな中、赤の他人。
俊介のショックは計り知れない。突然家に上がり込んで、何もかも盗んでいって、泥棒と同じ。喜久雄の胸ぐらを掴んで、怒りをぶつける…フリをするが、内心は本心だろう。
喜久雄とて胸中は穏やかではない。寧ろ、俊介以上に動揺。何故、自分が…?
歌舞伎の家に生まれた訳じゃない。任侠の家に生まれた。自分の中には任侠の血が流れている。
生まれは関係ない。才なのだ。
喜久雄はただただ、女形の才があった。それだけなのだ。
酷でもあるし、妥当でもある。しかし、そういう世界なのだ。
歌舞伎の世界だけじゃない。あらゆる各業界全て。才と実力が生きる。
半二郎の判断は間違っていなかった。さらに厳しい稽古を経て、喜久雄は大役を成功させる。
本番直前。手の震えが止まらない喜久雄。自身の生まれや弱音を吐く。
俊ちゃんの血が飲みたい。自分には歌舞伎の血が流れていないから。
勇気付けたのは俊介。芸があるやないか。
俊介に代わり、名実と共に半二郎の後継者となった喜久雄。
俊介は喜久雄の演技を見届け、歌舞伎の世界から去る。その傍らには、俊介に同情した喜久雄の恋人・春江が…。
喜久雄にさらに名誉。俊介が襲名する筈だった三代目半二郎の襲名。
半二郎は白虎を襲名するが、その身体は病魔に蝕まれていた。
それでももう一度舞台に立ちたい…。
が、口上の途中で吐血して倒れてしまう。
その時、半二郎が求めたのは…
俊坊…俊坊…
師から才を認められたのに、師が最期に求めたのは“血”だった…。
半二郎の死。悪い事は続く。
喜久雄にスキャンダル。任侠の生まれ。部屋子時代に出会った芸妓との間に隠し子。
名門丹波屋が傾き、喜久雄は端役しか与えられない。スポットライトを浴びた舞台から一転して、奈落の底へ…。
そんな時、思わぬ人物が帰って来る。
俊介。春江との間に一児を設け、どさ回りなど苦労を経験し、一回り人間的にも成長。
後ろ楯には、かつて喜久雄も俊介も圧倒された日本一の女形で人間国宝の万菊。
一方の喜久雄は大御所歌舞伎役者の娘・彰子と付き合っていたが、父親に取り入る為だった事が発覚し、さらに立場を悪くする。
喜久雄は丹波屋を去る。傍らには、父親から縁を切られ、騙されたと分かった上でもついていくしかない彰子が…。
かつての俊介と立場逆転となったが、これから行く道の険しさはまるで違う。
真面目そうに見えて、女癖の悪さ。本人の性分か、本来の血か…?
去る間際、俊介と相対する。あの時の俊介と同じく怒りをぶつける…フリをして、本当にお互いの感情が爆発。取っ組み合い、殴り合いに…。
一度去った血筋の者が戻り、才を認められた筈の血筋じゃない者が去る。
喜久雄は吐き捨てる。結局、血やないか。
その後の喜久雄の姿は見てられない。
落ちぶれ、荒み、どさ回り中チンピラに絡まれる。TVには再び歌舞伎界のスターとなった俊介の姿。
彰子との関係もぎくしゃく。
あるシーンの虚ろな目と表情は今の喜久雄を物語る。
自分に未熟な所はあった。
それでも血だけじゃない事を信じ、芸に打ち込んできた。
自分はここまでなのか…?
あの時の代償か…?
いつぞや神社にて手を合わせた。神様に願ったのではなく、悪魔と取引…。
悪魔が栄光を見せた後、地獄へ叩き落としたのか…?
が、芸の神様は見捨ててはいなかった。
万菊から声が掛かり、喜久雄は再び歌舞伎の世界へ…。
二人の若き天才歌舞伎役者の人生がドラマチックに展開。
難点もある。時代ものだから時々展開が早い。俊介も喜久雄も歌舞伎の世界に戻ってからあっという間。多少のベタな設定やご都合主義もある。そこら辺、800ページ以上に及ぶ大長編の原作小説には細かく書かれているのであろう。
本作に限った事じゃないが、原作小説の全てを映像化する事は到底無理。省略や纏め上げ、壮大な大河ドラマに仕上げた奧寺佐渡子の脚本も見事。
時に観客視線、時にクローズアップで役者の一挙一動を逃さない。フランスのカメラマン、ソファアン・エル・ファニによる映像美。
歌舞伎を完全再現した種田陽平による美術、衣装や化粧・床山も本格的。
言うまでもない李相日の名演出。
厳しい師/父親であり、初の大舞台に挑む二人に優しい言葉をかけ、自身も当代きっての歌舞伎役者として舞台に立つ事を望む。渡辺謙の存在感。
圧巻は万菊役の田中泯。出番は少ないが、前衛舞踏家としての本来の面が女形に活かされ、バケモン級の凄みと、狂気すら感じる演技と、完成された美しさと佇まい。
この万菊が人間国宝でありながら、晩年はボロアパートで孤独に病に伏せっている姿は衝撃でもあった。
歌舞伎は男の世界。なので、高畑充希、森七菜、見上愛、瀧内公美(ラスト近くのシーンは特筆)、寺島しのぶら実力派/注目株の女優陣が揃えられながら、脇に留まってしまっているのは致し方ないとは言え、残念。
が、皆が名アンサンブル。熱演。
映画だが、歌舞伎もたっぷり見せ、あたかも本場の歌舞伎を見ているような錯覚さえも。
全てが超一級。堂々たる3時間。
歌舞伎の世界に戻った喜久雄。
俊介との女形コンビの復活に、世間は沸く。
が、またしても…。
俊介が糖尿病となり、片足を切断。舞台に立つ事も後進に稽古を付ける事も出来なくなり、俊介の息子の稽古は喜久雄が付けていた。鳴り物入りで歌舞伎の世界に入った若者は指導する立場に。
舞台に立つ事を絶たれたかに思えた俊介だが、それでももう一度舞台に立つ事を望む。
二人で挑む『曽根崎心中』。歌舞伎の演目はほとんど知らないが、『曽根崎心中』はほんの少しだけ。劇中披露される演目がその時の心情とリンクしているのが巧み。
演技中、俊介は体力の限界で倒れる。喜久雄は聞く。やれるよな? 俊介は答える。当たり前や!
当初歌舞伎の世界を冷ややかに見ていたがいつしか魅了されていく興行主の二代目の台詞が見る者全てを代弁する。こうは生きられない…。
あなたにも、私にも、こんなにも打ち込めるものはあるか…?
文字通り、その道に生き、その道に死ぬ。
実の父を亡くしても、
血筋じゃなくても、
犠牲や傷を負わせた者が居ても、
悪魔に魂を売っても、
師を亡くしても、
どん底に落ちても、
ライバルであり親友を亡くしても。
天からの授かり物。この世界で生き続ける。
いや、自分で選んだ。もう一度見たかった。見た事ない景色を。
その生きざま。
芸。才。ただひたすらに一つのものに打ち込み、極め続け、頂きに達した存在を“国宝”と呼ぶ。
そしてそれを打ちひしがされるほど魅せてくれた映画の事を我々は“至宝”と呼ぶ。
いろいろな意味で力作
とにかく撮影が美しい。役者も子供時代役も含めて相当な訓練を積んだと思われる。歌舞伎界についてはゴシップレベルしか知識もなくその芸の凄さもわからないが、そうした素人にもスジをわからせられるだけの演出と演技だった。ストーリーも長尺だがダレることなく大河ドラマを堪能した。満足感。実際の歌舞伎界がどのようなものかはわからないが、関係者が多数協力していることから、大きく外れていることはないのだろう。森七菜も大人になったなあ。田中泯、顔が美しいのは役者にとってマイナスなんてセリフもあっなあ。
圧巻な
国宝級の映画
しばらく余韻に浸っていたい!
だけどエンドクレジットが意外と短くて、もう2分くらい長くても良かったのに…なんて思うくらい良質な作品でした。
よくよく考えたら、歌舞伎の世界という世間一般の中では限定的で狭い世界の話なのに、受け取った世界観はとても深くて広くて奥行きのあるものでした。
たぶんそれは人間の生み出す〝虚構〟フィクション(※)の力をまざまざと見せつけられるから。
※ユヴァル・ノア・ハラリさんの『サピエンス全史』などの著作で目から鱗の考察を知ることができます。ホモ・サピエンスがネアンデルタールやその他同時代の異種人類との決定的な違いとして、虚構や共同主観を作り出す力があることにより、いかに地球の支配者になったのか。極めて説得力ある説明でしかもめちゃくちゃ面白く学ぶことができます。
何百人という観客が、役者が演じる人物の心情を同じ空間で同時に体験させられる。
そこには芸術として磨き上げられてきた洗練、それを守り抜いてきた血統への信頼、役者たちの稽古の積み重ねによる圧倒的な臨場感が存在する。それらが舞台の上での虚構の物語であるにも関わらず、見るもの・聴くものに対して現実的な情動の揺らぎを体感させる。
トップアスリートや有名なアーチストのパフォーマンスを見ることで、勇気や希望をもらえることがあるのも、きっと虚構を生み出す想像力の賜物なのだと思う。イチローや大谷選手ほどの才能は無くても、同じような努力が出来れば今よりは高いレベルの舞台で活躍できるかもしれない。だから頑張ろうと思うことができるし、結果的に望んだような活躍が出来なかったとしても、虚構を現実に変えていく道筋みたいなものをそれぞれの感性が掴み取っていく。未来へのレールはそこで掴んだ自分の感覚でしか描けない。
夢(虚構)を夢のままで終わらせてしまう人のほうが多いけれど、悪魔に魂を売ってしまうほどの狂気で手に入れた現実は、時には至高のもの=国宝となって、次の虚構に魅せられる者たちを育てていく。
虚構を現実にしようともがく人の繋がりが伝統を作っていくということなのかも知れない。
凄絶なまでに美しく、醜い
人間国宝も軽く見られたもんだ
歌舞伎は1か月に1回位は観ている。ファンには悪いがいくらエンタメとはいえ、これは書かねばならないと思った。原作を読んでいないので映画だけの感想。
冒頭に、半次郎が喜久雄の踊りを素晴らしいと誉めるのが物語の始まりだが、この踊りがちっとも良くない。声もひどい。喜久雄がもっと小さくて踊れてスゴイと見込むならまだ理解できるが、15歳でこの程度なら踊れる役者は大勢いる。その1番大切な部分がおざなりだから、シラけてしまった。
そしてスポ根場面。今より体罰も許された時代だから、そういう指導者もいたかもしれない。しかし、よく年配の役者さんが「稽古が厳しかった」というのは、こういう意味では無いと思う。そして事あるごとに御曹司は血が守っていると言うが、それこそ歩き始めた頃から稽古をする精進の賜物なのにその様な説明が無い。まるでDNAにアドバンテージがあるかのように誤解させる。
半次郎が事故に遭いその代役でチャンスを得るが、「曾根崎心中」で渡辺謙が「お初」を演じる筈だったという設定はかなり厳しい。渡辺謙はどう見ても立役。一体全体、どういう個性の役者に描きたかったか不明。
喜久雄は途中舞台を離れヤサグレても結局人間国宝になるのだが、これまた説得力が薄い。彼の努力は取り立てる程ではなく、お客様を大切にするシーンは皆無で、芸の為に生活を律して何かを我慢した訳でもない。努力したのは高校生の時と、不遇の時代に芸ではなく卑劣な方法で上に取り入ろうとした時、悲しみを芸の肥やしにしてあとは才能で国宝になりましたとさ。それは現在の多くの役者、何より人間国宝に対して随分と失礼じゃないだろうか。
吉沢亮と横浜流星の女形はとても綺麗で頑張ったとは思う。しかし歌舞伎を観慣れた者にとって舞台シーンは至極普通。初めて早替わりを観た人は感激したのかもしれないが全然珍しくない。それなのに道成寺や曾根崎心中のワンシーンを演じただけで、すごいでしょの押し売りされても、唯一無二の特別感は伝わらない。画面が綺麗というだけで、どうして「人間国宝」の舞踊として観ていなければいけないのだろうかと、その違和感で変な気持ちになった。これは国宝じゃ無い。偽物だ。
任侠出の俳優の出世物語なら、それに相応しいタイトルを付ければ良い。その方が腑に落ちたし、エンタメとしてずっと楽しめた。
どうしても「国宝」というタイトルを付けたいのなら、役者が日夜どんなに地味に努力しているのかを、もっと丁寧に描くべきだった。歌舞伎役者と他の役者と、何がどう違うのかという事にも、監督は全く興味が無かったようだ。国宝というタイトルには程遠い、随分と薄っぺらい内容。これ観て喜んでいる日本人は、富士山、芸者と言って喜んでいる外国人の感覚なのだろう。
名作、そして役者魂を感じた。
息をする間もないくらいずっと圧倒され、終わった後は6時間くらい観ていたような疲労感でした。
いつもは映画を観ながら他のことを考えてしまうこともあるのですが、そんなこともできないほどの映画でした。
とにかくすごいものを観た、映画ってこういうものだよねというのが率直な感想。
予告で観たときは、歌舞伎も簡単にサラッとやるだけだろうなと思っていたのですが、そんなことはなくかなり本格的に様々な演目があり驚きました。
最近は毎週映画館に足を運んでいますが、久しぶりにこのような名作を観ました。吉沢亮と横浜流星の役者魂も感じ、役者ってすごいなと感動しました。伝統芸能である歌舞伎を本格的に演じるのは、並大抵なことではなかったと思います。恐らくアカデミー賞、最優秀も獲るのではと。
学生時代の役者も良かったですが(怪物に出ていた黒川くんとか)、この役を市川染五郎と市川團子で観たかった。さすがに本物の歌舞伎役者では難しいのかな。でも、寺島しのぶが出ていたのはよかった。
エンディングの曲もよかった。
薄っぺらく感じない映画を久しぶりに観たので、本当に良かった。とにかく圧巻。
ここ数年稀にみる名作だと思う。
スクリーンに展開される美に圧倒された
二人の歌舞伎役者の半生を追った物語。
始まりは高度成長期が終わろうとする1960年代後半。
それから50年間。
2014年までの日本社会の変遷を背景に
歌舞伎役者の子と、その父の目にとまり部屋子として引き取られた少年。この二人の友情と葛藤を軸に物語は進行します。
興行主の気まぐれや、不慮の事故に伴う代役として大抜擢され
失敗するかもしれないという究極の恐怖と戦いながら着実に実績を重ねてゆく二人。
お互いの存在が心の支えだった若き日を過ぎて
大人として芸の道を歩み始めたとき、二人の前に立ちはだかる壁。それは血統と才能でした。
文字通り芸に命を賭けているからこそ
それぞれが自分が持たないものに対して血を吐くほどの苦しみを味わいます。
挫折や葛藤を繰り返し、二人の立場や評価は二転三転して入れ替わり、どん底の境遇で辛酸を舐める経験もします。
けれど、それでも歌舞伎以外の道を選ぶことがなかった二人。
そして梨園の頂点、人間国宝にまで上り詰めたときその目に写ったものは…
鷺娘、娘道成寺、曽根崎心中など素人でも粗筋だけは知っている演目に助けられて
予想よりもはるかに長い劇中劇ともいえる歌舞伎の舞台を楽しむことができました。
そして、通の目から観たら色々とあるのでしょうが、歌舞伎ド素人のわたしの目には主役二人の歌舞伎の舞台は輝くばかりの艶やかさで、改めて役者さんて凄いなぁ~という感嘆の念を抱きました。
3時間という長さを全く感じさせない、スクリーンに展開される美に圧倒された時間を過ごしました。
☆5じゃ足りないんよ
芸の肥やし
映画が小説を上回ったと感じたのは、春江と万菊。
観ました、国宝。
上映前からのプロモーションや配役の投資額が並大抵ではなく、絶対に失敗は許されない映画という印象。
李監督はじめ、プロデューサーの方々は相当プレッシャーだったのでは。
まず、圧巻の一言。
何度も胸が締め付けられた。
吉沢亮と横浜流星が見事だったし、若き頃の俊ぼんと喜久雄ももっと長く観ていたかった。
175分と言えども小説の上下巻をそのまま映画にする事は不可能なのか、ストーリーはだいぶ端折られていた。
この物語はただ歌舞伎を魅せるだけでも、ライバルの友情を語るだけのものでもない。
映画だけでなく小説も読んでおくと、年月が動いた際の背景が見えてくる。
映画が小説を上回ったと感じたのは、春江と万菊。
高畑充希の声のトーンがとても良かった。あの声のおかげで、なぜ俊ぼんについて行ったのか、愛する喜久雄に応える事が出来なかったのか、読み取れた気がした。
万菊は、小説以上に万菊。
声の出し方、所作、目線。全てが不気味で妖艶。素であんな人がいたらゾッとしてしまう。
印象的なのは喜久雄が屋上で白粉を落とさずに狂ったように踊るシーン。主役の座から降ろされ、出演出来る舞台もなく、からっぽ。
そんな状態であっても、踊ってしまうんだな。芸に魂を売った人間は。何と非情な事だろう。
ぜひ、映画館で見て欲しい。
映像も音楽も素晴らしい。
特に映画館内で地面から鳴るような、重低音に注目して欲しい。あの音がさらに胸を締め付けてくる。
終始、胸を締め付けられていたのだが、最後のluminanceの歌詞に心が救われた。
喜久ちゃんは、人間国宝で良かったんやんな。
圧巻の演技 吉沢亮の凄み
吉沢亮の演技に圧倒されました。
綺麗な顔は化粧をしても隠せず、仕草は女形の色っぽさがあふれ、最後まで夢を見せるような演技で息をのむシーンが沢山ありました。
子供時代の役者さんも目でも演技が凄くて、どこの子と思ったら怪物の子役と知ってこれからが楽しみになりました。
柳楽優弥みたいだと思いました。
横山流星もボンボンの演技良かったです。3時間近くが長く感じず最後まで集中して見れました。
残念かもと思ったのは女子の描写。
心情の移り変わりがあまりでてなかったのと、最後に向けて少しキュッとした印象でした。
国宝になる前の孤独と突き詰めた結果の国宝認定になった描写があれば最後もっとグッと来たかも。
ともあれ、本当に皆さんすごい演技で、魅せられました。
吉沢亮の代表作になるのは間違いないと思いました。
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