国宝のレビュー・感想・評価
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若き才能に感服、邦画の星たち
私は観たい作品のチラシは必ずゲットし鑑賞記念にしていますが、本作は敬遠しておりました。歌舞伎に興味ないし難解なのかなと・・・・。
しかし周囲で推す声があまりに多く、妻と鑑賞しました。公開2ヶ月後、田舎のシネコンは他の作品なら早々に終了になっているが、その日は平日にもかかわらず(夏休みではありますが)、スクリーン前の数列以外、ラストの横並び席を買えました。高校生の男子が友人同士で何組も居ました。
シネコンスタッフに聞いたら昼の回はこんな感じが続いているそうです。いつのまにか前列のあの見づらい3列も全て埋まっていました。
・生あくびすら出ない
・3時間があっという間
・脚本の見事さ
・映像美
・カメラワーク
そして吉沢さん、横浜さん、謙さんの演技の見事さ。邦画のこの二人の若き才能が居る、そのこともまさに邦画の宝です。「踊る~」を抜くのは無理かな、でも抜いてほしい。まだの方、是非是非!!!
吉沢亮さん、貴方は天才です。
今年の映画大賞はこの作品。
少なくとも今年、この作品を超える力作は出てこないと思う。
制作側の熱量と本気、覚悟を感じた力作。
予告編だけで結構仕上がってるのは分かって、「これの稽古大変だわ」と感じた。
吉沢亮君、横浜流星君の2人は、歌舞伎の家に生まれてもいないのに、2年ない稽古期間でよくここまで頑張ったと思う。
田中泯さんの、空中を滑るような足捌きはさすがだと思った。
役者にとって、作品は出会い。当たり役に出会えるのは幸せだと思う。
称賛の言葉なんて、血の滲む稽古の苦しさに比べたらほんのオマケかもしれないけど、でもこの作品、出演者は間違いなくやってよかったんじゃないかと思う。
また個人的には、エンドロールにKing Gnuの井口理が起用された事は誇らしく…、ここはアップルや髭ではなく、ちゃんと選ばれたと思う。彼がコントラルトである事が、女形の要素と通じるところが、制作側にも分かっていたのかと思うと、そんなところも最後の最後まで拘って作った作品だと思った。
映画史に残る大作の、誕生に拍手。
鬼気迫る演技に心を掴まれる
元々見る予定は無かったが、評判が良いので劇場に足を運んでみて正解だった。パーフェクトデイス以来の感動だった。出演者の一人一人に味があり、主役の二人の舞台に立つプレッシャーもさることながら、それらを演じることのプレッシャーは相当のものであっただろう。2人の演技のぶつかり合いは鬼気迫るものがあった。ストーリーも立場が二転三転し、一体どうであることが幸せなのか、幸せなどないのかもしれない。極めることが幸福なのだ。田中泯が演ずる国宝の末路が何とも物悲しく、全体的には暗いトーンだが、一切飽きずに引き込まれた。特に吉沢亮の演技は素晴らしかった。アイリスのCMと同一人物とは思えない。何でもこなせるのが引く手あまたの理由であろう。自分にとって間違いなく今年ナンバーワンの邦画である。多くの外国のひとにも観てもらいたい。次は予告で流れていたキムタクの映画を観に行ってみよう
心中と芸の道を結びつけた、見事な成長劇
この映画で1番重要なシーンは、冒頭で喜久雄(吉沢亮)の父親が死ぬシーンだと思った。
『国宝』は、「見る人」と「見られる人」が交互に出てきて、物語を展開する構図になっている。もう少し細かく言うと、「見ている人」が変わっていくことで、ストーリーをドライブしている。
冒頭、ヤクザの新年会から始まるシーン。喜久雄は、渡辺謙が演じる半次郎に演技を見せた後に、父の死にざまを「見る人」となる。
その際に、父親から「よぉく、見ておけよ」という呪いの言葉を受けることになる。これが、映画の核でありラストシーンにも繋がってくる。
その後、数年の時を経て、喜久雄は芸の道を歩むことになる。そこから、喜久雄は「見られる人」となり、様々な登場人物に視線を送られることになった。
半次郎、歌舞伎の興行を手掛ける三友の社長、観客と喜久雄を見ている人たちが変わっていき、喜久雄が順調にステップアップしていくことを映画では描いていく。
一方、喜久雄は何を見ていたのか。それは、間違いなく「死」であると思われる。半次郎の事故の後、「曾根崎心中」のお初を演じることになった喜久雄は、半次郎との稽古を通して「死」の矜持に近づいていく。
稽古の合間に、喜久雄は春江に会いに行くが、喜久雄は春江を全く見ない。視線が交わらせずに行なったプロポーズを春江が拒否したのは、映画の構図からも必然だった。喜久雄はあくまでも「見られる人」であり、この時に見ていたのは目の前にいる春江ではなく、お初の心情「死」だった。
喜久雄は、ここから終始どこを見ているのか分からない視線を繰り返す。それは、増村保造の映画『曽根崎心中』でのお初の目線を思い出させる。
芸の道を極めることと、心中をリンクさせて、骨太な芯をつくり演出仕切った手腕が見事だった。
演技、映像!
光は見せたが、境地は描けず
映画『国宝』は、人間国宝という称号に至る芸道の苦しみと、その背後にある人間的な業を描き出す意欲作である。吉沢亮をはじめとする俳優陣の演技は迫真に満ち、舞台シーンには息を呑む迫力があった。
小さな注文をつけるならば、義母(寺島しのぶ)、義父(渡辺謙)、そして小野川万菊(田中泯)へとつながる人間関係が簡略化されていた点は惜しい。ただし、尺の都合上やむを得ない部分もあっただろう。
しかし看過できなかったのは、隠し子との対面という局面で娘が父に向かって発する「役者としての賛辞」である。あまりに安易で説明的であり、業を背負いながら舞台に立ち続ける人間国宝の姿を象徴的に描ききるはずのラストを、陳腐な和解と感動の演出へと引き寄せてしまった。
さらに言えば、業の深さを超えた先にある「国宝にしか辿り着けないはずの」澄み切った境地を、光一本の暗示にとどめるのではなく、確かな像として描き出してほしかった。
俳優陣の努力と舞台シーンの緊張感は確かなだけに、ラストの安易な謝辞と境地描写の不足が、作品全体の美しさに水を差した。業の深さそのものは見事に表現されていたが、それを超えて芸道に昇華する崇高さが、最後まで届かない。その不在こそが、本作を惜しくさせる最大の要因である。
3時間はさすがに...と思っていたけれど
伝統と挑戦のドラマ
日本の伝統である歌舞伎の世界に、圧倒的な熱量と美意識を注ぎ込んだ渾身の人間ドラマでした。まず印象的だったのは、女形を演じる吉沢亮さんの姿。「まるで役そのものが宿っている」と感じるほど魂が乗った演技に、こちらも心を揺さぶられました。
そして、横浜流星さんとの競い、支え合う関係にも胸が熱くなりました。家の力と才能の間で揺れる2人の切ない対比は、互いの存在が道を照らす鏡のようで、美しかったです。
また、本作は上演時間が約3時間に及ぶ大作ながら、まるで1時間半のように感じるほど引き込まれ、観終わった後には魂が震える余韻が残りました。
加えて、本作に込められた「芸を追うことの過酷さ」と「美しさ」は、まさに“芸道もの”の真髄。この映画を通して、日本の伝統がいかに深く、そして時代を超えて普遍的な感情を揺さぶるものであるかを再認識しました。
最後に、本作が公開から73日で興行収入100億円超という〝大ヒット〟を達成した事実にも納得。これは、ただの娯楽ではなく、未来に受け継がれる価値を描いた作品だからこそだと感じました。
歌舞伎の素晴らしさ
何がこの映画を特異にしているか
2回目の鑑賞(前回は8月1日)。1回目は主人公の喜久雄に感情移入していたようで、最初の道成寺で泣き終えて、そのあとはやや感動の押し売りの感がしたが、今回はシュン目線でも観れたせいだなのか、後半も泣けた。
>>『国宝』は若いアイドル的な俳優が主演とあって、若い観客層を動員している
そういう地域もあるらしい。わたしが見た回は2回とも間違いなく50代以上がほとんどだった。(ブログの書き手にとっては50代は若いんだろ、との忠告も頂いた。確かに。)
嘘つきや裏切り者に罰があって観る側は満足するわけで、裏切りがあるとすれば万菊と春江になる。2人への罰を望むむきはまずないだろう。この作品の何が観客に満足を(満たされない現実生活の救いとなるものを)与えているか。そこを考えるときに、ワイドショーの観客インタビューにあるような映像の美しさとか役者の芸達者ぶりということを書くつもりはない。
自分が役を獲るために、息子に役を与える為に、権謀術数をめぐらしライバルを蹴落とすことがない。登場人物にさまざまな障害が降りかかるが、陥穽にはまるわけではない。おかみさんは菊ちゃんをキタナイと言うが息子に対してもキタナイと言う。
この映画は、嘘も策略も皆無ながら観客を飽きさせないという意味で、清廉潔白だと言えるだろう。「てな感じで言ったら(怒ったら)オモロいんやけどな」の台詞のとおりに、僻むにしてもありきたりな僻みはない。勧善懲悪を目指すドラマティックな展開と一線を画している物語の清浄さが多くの人を魅了して飽きさせないモトなのかもしれないと思った。
人生、決める瞬間や変わる瞬間が 何度もあるんだという学びでした。 ...
血と芸と犠牲と惚れと…
跡取りとすべきなのは血か芸か?
母性で考えると圧倒的に血一択。
父は死ぬ間際に息子の名前を連呼していたので、やはり本音では血が本命であるものの、糖尿病を患い敢えて、血を選ばなかったのか?
万菊も血が本命ではあるが、糖尿病の遺伝を見越して3代目を呼び戻したのか?
物事を極める時、周りの人は犠牲になっても仕方ないのか?
圧倒的に極める時、犠牲になった人さえ惚れてしまうのか?
極めたものにしか見えない景色がここにある。
人生こそ見世物のようで
原作未読のまま、ようやく観た。
原作者と監督のこのコンビは「悪人」や「怒り」いらい信頼している。
芸道にまい進する主人公の、憑りつかれたような尋常ならざる生き様を追う、ともとれるが、主人公はそもそももう帰るところがないのだ。退路を断たれているのなら何があろうと進むしかなく、様が鬼気迫るものだとしてしかるべしと観た。
その道が芸道という特殊さが本編の華であり、映像美も相まってヒットにはうなずくほかない。
その二転三転するような道筋はのっけから観る者にとって非日常の連続で、劇中劇形式であればこそ作中の現実さえ芝居の一部のように見え、いやこれは主人公にとっての現実なのだと思えばまるで主人公の人生こそ見世物のようで、翻弄されるままの彼はまさに観客を沸かせる悲壮が滑稽なピエロ、そう感じられてならなかった。同時に、一部始終が芝居のシナリオかと疑うようだった市川猿之助さんの事件を思いだしている。
多くの人の前に立ち、惹きつけ、とてつもないプレッシャーの中でこなす時、何か尋常ならざる領域を出入りするのか。深淵をのぞくのか。常人には理解できない行動のとっかかりを、もしかしたらありうるかもしれない、という感覚を作品の中に見たような気がしている。
年齢ごとに役者が変わると途中、すっ飛んだ風に感じることが多い中、本作はうまくスライドしていて違和感がなかった。年を追うごとに全員、老けてゆくのだが、時間経過も分かりながらわざとらしくなくて、これまたよい。
もし2度目見たなら、冒頭の学生服の主人公二人にこれからのことを思い、泣いてしまうかもしれない。
血の話、実力の話、ない物ねだりは合わせ鏡が切ない。
和楽器と重なる劇中BGMの効果も、歌舞伎を極力親しみやすく変えていたと思う。
これで若い人も歌舞伎に興味を持ってくれたならいいのにな。
原作が良すぎる分どうしても…
原作を読む前に一回鑑賞をし、原作を読んでから二回目の鑑賞をしたレビューになります。
どうしても、モヤモヤが消えないのが正直な所です。やっぱり徳次がいない、彰子がいなくなる、客席との境界が消える、喜久雄が俊介のような時期を過ごし、歌舞伎から離れているような描写がある、そこから復帰、足の切断までが早すぎる、喜久雄の辿り着いた先が違うなど、原作との相違点が多すぎてしまい、作品に没入出来ませんでした。
やっぱりNetflixなど、資金を投じてドラマで見たい、それか原作のように上下で分けて欲しかったです。徳次がいたから喜久雄はやっていけていましたし、彰子さんは喜久雄を支え続けていますし、何なら綾乃との関係も無くなっていません。原作のネタバレになるので控えますが、喜久雄はもっと歌舞伎に身を捧げて、ずっと躍り続けます。それが無くなってしまっているのが一番寂しかったです。
色々と書きましたが、それでも歌舞伎のシーンは素晴らしいです。徳次のセリフも、他のキャラが言っていたり、暖簾にも徳次の名前があったりということはありましたし、三時間で徳次は無理だったんだろうなとは思いました。
本当に演技なりセットなり音楽なりと、様々な熱量が素晴らしい分、脚本が気になってしまうというのが正直な今の感想です。
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