国宝のレビュー・感想・評価
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2000円払う甲斐はある
たった一年か二年で、歌舞伎演目をあれだけ舞ったのは凄い努力なのだと素人目でも分かる。
国宝級の着物に舞台装置、鴈治郎の演技指導。これだけの舞台でやり切った吉沢亮と横浜流星のお二方の役者としての転換点になるんだろうなと思いながら観た。
3時間はむしろ短い。前編後編6時間やる位で、周りの人間関係や女性から見た国宝。という立場が描けたのかなとも思う。とにかく男性目線というか、人間らしい描写を悉く短く濃縮して、救いがある様でない様な、役者◯カとはこういうものだよね。。な3時間だった
興行主の息子?の「こんな生き方俺にはできんわ」
に私もそう思う〜。とため息が出た。
業を極める覚悟と孤独、美しさ
歌舞伎の舞台は美しく、1年前から踊りの稽古をして臨んだという吉沢亮さんの演技は素晴らしく、ちょっとみる目が変わりました。
業を極める人物像、その覚悟と孤独、美しさが花井父(渡辺謙)や万菊(田中泯) 、立花父(永瀬正敏) の生き様と通じる、という描かれ方でした。
ただ、ちょっと、脚本なのか原作なのか。
いやおうなく歌舞伎の世界で生きる事になった喜久雄(吉沢)がどう歌舞伎に向き合っていくのかその辺の葛藤がわかりづらく、その後の展開にちょっと違和感が残りました。
喜久雄にとって悪魔と取引してまで芸を極める意味はなんなのかとか、
血縁(俊介)を妬み憎みながらも生まれながらにそれを手にする俊介個人の苦しみに思いを馳せることができる「生い立ちの割にはまっすぐ」な人格設定とかにどう繋がっているのか、がわかりにくかった。
ノンプロットの凄み
今さらといえば今さらですが、雰囲気見た方が良さそうだったので笑 祝日に鑑賞。
結論、いやぁ素晴らしかった!
「言葉で説明できるなら音楽をやる必要はない。そしたら説明して帰りゃいいんだから」
これはかの有名な甲本ヒロトさんの名言ですが、言葉に落とし込めない迫力を存分に詰め込んだ映画でした。迫力、幽玄、演じ手の凄み。あらゆるシーンに言語化し難い緊張感が漂っていて、受け手にとってはそのエネルギーを感じている間に三時間が終わってしまう感覚。
ノンバーバルという言葉がありますが、まさしくこの映画の魅力はノンプロット。私は映画を観ていて常々「あ、このストーリーはこういう展開がありうるかな」的な考えを巡らせる隙がない映画が素晴らしい映画なんじゃないかと思っているので、果たしてこれは素晴らしい映画だったと思います。
プロットも、悪い、という話では全くない。
不勉強にして未読ですが原作ものと言うことで、恐らくもっと色々詰め込まれていたんでしょう。絵が持つ「迫力」を邪魔しないように、丁寧に「削った」んだと思います。
背景がわからないシーンや展開が早いなっていうシーンもありましたが、多少の取りこぼしを経ても没入感を失うことなくついていけたのは、この「大枠のわかりやすさ」の作り方にあったのではないかなと思います。前半部のフレンドシップストーリー、後半部のスキャンダラスな展開。良い意味で「今起こってるのはこんなことで、これからこんなことが起こるんだな」という読みやすさがあった。ここを複雑にしてしまいすぎると、ただの難解な映画になる。このバランスが優れていたからこそ、この映画は3時間という時間枠を退屈に感じさせない、大衆性と芸術性を併せ持った映画になったんだと思います。
そして語るべくもないですが、主演2人の「演じの演技」。ストーリーにはいくつか、演じ方自体の質が変わってないと話自体が成立しないシーンがある。役者さんにとってはやり甲斐である一方、相当なプレッシャーだろうなぁ。若い頃と年月を経てから。教えを受ける前と後。ノンプロットでプロットを動かすだけの演じの質の差がありました。
総じて、参りましたという印象。いいもの見たなぁという感覚と共に映画館を後にすることができました。
浅草キッドを観たことない人達が絶賛しているのでは?
二人の若者の紆余曲折
歌舞伎の裏世界を扱った秀作
喜久雄と俊介を通じて、歌舞伎役者の世界や芸の世界を、観客を引き込む展開の中で、ていねいに映画化した作品。
この「国宝」を観て、前評判だおれで失望させられることはない。今年、観るに値する作品の一つ。
ただ、上映時間が長いので、途中でトイレに行く人が老若男女5〜6人もいた。直前の水分は控え、事前にトイレを済ましておくことをお勧めする。
✳️映画「流浪の月」でも、李相日監督の人間描写は、人を引き込ませるものがあったが、「国宝」も人間の内奥や歌舞伎役者の世界を深く掘り下げて映像化している。
圧倒的な凄みと美しさ
邦画史上最高傑作まである
主演二人の壮絶な演技は特筆すべき。だが
総合芸術としての日本映画の最高峰
まさに「国宝」
脚本良し、撮影は美しく、音楽も秀逸、編集がまた最高でエンドクレジットの井口理さんの歌まで完璧な作り。
3時間はあっという間で長さを全く感じない。
あの原作をよくこの3時間にまとめたと思う。
(原作には原作の良さ、映画には映画の良さがある)
総合芸術としての日本映画の最高峰だと思う。
李監督恐るべし。
キャストも素晴らしい。
全員適役。
特に吉沢亮さん、横浜流星さん、田中泯さん、寺島しのぶさんには圧倒される。
強いて(あくまでも強いて)言えば渡辺謙さんに「曽根崎心中」のお初は厳しいのではと思うくらい(見てみたかった気もする…)。
この映画を作って下さった全ての方々に感謝したい。
役者の業
役者ものって、最終的に「役者って業が深いね」にいきついちゃうのね。
ガラスの仮面しかり。うーん・・・
別に長嶋茂雄みたいなあっけらかんとした役者がいたっていいじゃない。
私、若い時お芝居やってたんだけど、だからか逆にお話に入り込めなかった。
演技ってはっきりした尺度がないんですよね。
早いボール投げられるとか、点数王とか、4回転ジャンプ跳べるからすごいとか。
営業成績がいいとか、高く買ってもらえる絵を描けるからすごいとかみたいな。
だから、演技のためにどこまで人間を捨てられるか、どこまで役に入り込めるかみたいな根性論、精神論に陥りがち。役者バカが称賛されがち。
でも人間としてやっぱりそれちがう。歌舞伎役者、奔放に遊びがちだけどそれちがう。
何が違うんだって言われてもうまく言えないけどそれちがう。まず人並でいようよ。
だからかなあ、全然入り込めなかった。
ナウシカ歌舞伎くらいしか見たことないけど、歌舞伎シーンはよかったと思う。
少なくとも全く素人っぽく見えなかった。
歌舞伎の音楽に映画の音楽かぶせるのはやめてほしい。もっと歌舞伎に集中したかったぞ。
なんなら人間ドラマもっと減らして歌舞伎の尺増やしてもよかったと思う。ガラスの仮面の二人の王女のところくらいに。
吉沢亮が最後の方で一回だけ男役をやるんですが、女が男装してるようにしか見えなかった。マジ女顔。
途中から置いてけぼり
映像、俳優陣の演技には文句の付け所がない。
特に歌舞伎シーンは少なくとも素人である自分を騙しきるだけの説得力があった。
演出面で言うと歌舞伎にBGMを被せるのだけは辞めて欲しかったかな。
個人的に感情を震わされたシーンは2つのみ。
東一郎の曽根崎心中を見つめる半弥のシーンと
曽根崎心中を演じる半弥の右足が壊死していたシーン。
これ以外、特に後半は無理やり物語を進めるために奇々怪々な行動を淡々と見せられるだけで置いてきぼり。
東一郎の演技を見て逃げ出す半弥とその姿を見て駆け落ちする春江まではわかる。
花井白虎他界後、後ろ盾を失い台詞のある役すら貰えない中で白虎の残した借金まで抱えて数年間耐えてきた東一郎に対して「春江の顔も見てやってくれ」と言える半弥の厚顔無恥さ。
それを平然と受け止める東一郎。
そして、その後追い出される東一郎を止めることすら出来ない半弥と春江。
引き上げる発言には自分も失笑せざるを得なかった。
土下座して詫びろ。
その後、人間国宝の万菊に引き上げられた東一郎が半弥との二人道成寺を引き受けた理由はわかる。
「歌舞伎を憎んでいても〜」という台詞が事前にあったから。
その後、息子に稽古をつける東一郎。
意味がわからん。馬鹿なんじゃねーの?こいつら。
どの面下げて頼める。なんでそれを引き受ける。
仮にこの映画が人間味皆無な化け物東一郎が国宝に邁進する中でその周囲の人間を描く作品なのだとしたらギリギリ理解できるが、
東一郎は極力感情を表に出さないものの白虎が吐血した際に息子の名前を口にしているのを見て「しんじまえ」と口に出したり、戻ってきた半弥がすぐに役を貰えそうなのを見て慌てて強攻策を取る程度には感情のある人間なんだから尚更それ以外の行動が理解出来ない。
白虎の死後、あっという間に干された筈なのに後先長いように見えなかった万菊に引き上げられた後は特に何もなく異例の早さで国宝に選ばれた東一郎。
常にスポットライトが当たり続けたというインタビュアーの台詞には自分たちは今まで何を見せられてきたのかというクエスチョンマークしかない。
ちょくちょく謎のカットインがあったものの
唐突に最後の最後に出てきた意味不明な「見たい景色」と言う発言と感動要素で娘を出して無理やり終わらせた感じしかない映画でした。
説明し過ぎなのは良くない。
映像から汲み取るのも映画の見方だというのはわかるがそれが突拍子無さすぎると話にならない。
3時間の一本で纏めたのが失敗だったのだろう。
無理やり纏めるならせめて芸姑と娘はカットすればよかったものの。
俳優陣の努力に☆+1で☆3つ。
白虎が倒れるまでのクオリティで最後までやりきって欲しかった。
ある種のホラー映画であり、ある種の悲劇的恋愛ものでもある
既に多くの方が観て、多くの方がレビューを書かれており書く必要はないかとも思いましたが、今更ではありますが先ほど観たので、自分の心を整理するために書いておきます。それでもよろしければ、ご高覧ください。
演技、音響、脚本、演出等、それらについては多くの方が書いているので特に書くことはございませんでした。素晴らしいの一言に尽きます。
ここからは、わたしが印象に残ったところだけ抽出して書かせていただきます。
冒頭、ヤクザの頭領だった父親が死ぬ場面で、「よく見ておけ」と独り言じみた「意志の継承」を行うシーン。雪の白と父親の血の朱が紅白のコントラストを描いていて、単純に美しいと思わされました。主人公の喜久雄もそれに魅入られるように、父親の死の悲しみと同時に雪の美しさの向こうに目を奪われてしまっていて、「この人はこの瞬間から死に憑りつかれてしまったのかも知れない」と思いました。恐らく、この時に喜久雄の中で「美=死」という方程式が出来上がったように思います。ちなみに、わたしはこの雪と血の紅白を見て、「紅白幕」を思い浮かべました。つまり、「祝福」のメタファーを感じたということです。
それ以降、喜久雄は歌舞伎役者である花井半二郎に拾われて役者への道を歩む中で少しずつ歌舞伎にのめり込んでいきます。ここで「美=歌舞伎」という方程式が出来上がり、3段論法的に「死=美=歌舞伎」という関係性が出来上がったのかな、と思いました。
そんな喜久雄も、人並みの幸せを手に入れようと幼馴染の春江にプロポーズしたり、自分に目を掛けてくれた藤駒と子供を作ったり、頭を下げてまで役を貰おうと藻掻きますが、すべて上手くいかず、一度、地に堕ちることになります。
その底まで堕ちたと思われるシーンで、一緒に駆け落ち同然で着いてきていた彰子から「どこを見ているの?」と問われ、「どこを見ていたんだろう?」を自嘲しながら空を見上げて舞う様子はまるで歌舞伎の演目の一つを観ているようで心がギュッとなりました。ここで、喜久雄はようやく、自分が目指していたもの=悪魔と取引してまで手に入れようとしていた「景色」が人並みの心を持ったままでは手に入れられないものであることに気付いたように思えました。
その後、人間国宝となり引退した小野川万菊に呼び寄せられ、もう一度歌舞伎の舞台に戻ることになる訳ですが、その時、狭いボロアパートのような一室で病床に臥せっている万菊が「ここには何も美しい物がない。でも、ようやく安心できた。もう美しくなくても良いと言われているようで」というようなセリフを言います。つまり、万菊にとって人間国宝であること以前に歌舞伎で女形として美しくあることは苦しみであり、呪いであったことがうかがえます。その後、万菊は喜久雄に「舞ってみなさい」と扇子を渡しますが、これもまた上記の父親同様に「意志の継承」が行われたように思いました。つまり、この映画において継承とは「遺言」でもあることが想像できます。同時に、わたしにはこれは上記万菊の台詞から見てもこれが「呪いの継承」でもあるように思えました。
また、この映画では、喜久雄に何かを継承する人は、その直後に死ぬ運命を辿っているように思え、おまけにそのシーンはどこか舞台の上である印象を受けました。半二郎も襲名披露の舞台で吐血して退場、半弥もある種、舞台で「曾根崎心中」という演目の中において命を賭して喜久雄と一緒の舞台で役を演じ切っているところからも、舞台という美の集大成が結実する場で死に往くという形式が取り入れられており、やはりどこか「美=死」という方程式がチラつく感じがしました。
加えて、喜久雄は幕が落ちるとほぼ必ず一人になっている様子がゆっくり描かれており、彼の孤独と「演じる」という行為が同居しているとともに、彼が「悪魔と取引した」というその代償として、彼が歌舞伎の腕を上げるほど、周囲が消えていくという呪いになっているように思えて切なくなりました。要するに、彼は「歌舞伎の舞台」に愛されてしまったことで、人としての幸せから遠ざかっていく運命を背負っているように思えるということです。その孤独が分かっていたのは、万菊だけだったのかも知れません。
なので、わたしはこの作品は「歌舞伎という名の女性を愛してしまった男が、その女性に振り回されながらも最後は結ばれる話」であると解釈しました。だから、喜久雄の周囲からは人間の女性が多く寄せ付けられるものの、最後は喜久雄の傍からいなくなっていくのだと思いました。
また、ラストの演目である「鷺娘」の最後、喜久雄が舞台の上で一人となり、劇場に誰もいなくなった場所で自分を照らす光を見つめて「綺麗やな」と呟くシーンも、「これは結婚式であり、最後に、喜久雄は自分の花嫁を見付けたんだな」と思うと、自然と腑に落ちました。
そんなことを思った結果、わたしはこの作品を、「悪魔との契約によって、人並みの幸せをすべて失うという呪いに掛けられたホラー」であるとともに、「人間国宝になってしまうまで歌舞伎という女性を愛し、最後はその女性と結婚できた」という悲劇のような恋愛話という重層的構造を持った作品だと思いました。
真剣な取り組みは必ず答えてくれる
血のしがらみでがんじがらめの世界で、好きでたまらない部外者であった人が悪魔と取引してまで役者の頂点に立ちたいを願う。全てを失っても芝居を捨てず、芸を究極まで磨き、いつしか誰も無視できない存在となって国宝となる。
努力するとはこういうことだし、好きとはこういうことだと思います。
こういうひたむきな精神性が日本人の心にフィットしたと思います。
応援したくなるんです。例え過ちがあっても。
喜久雄は二人の女性をいわば踏み台にし、自分の願望を最優先しました。
夜叉になり、極限の中で芸を磨き、人の限界を超えて至高の領域に立ち、喜久雄は人ならざる存在になったのです。
捨てた自分の子供に、親と思ったことはない、でもあなたは綺麗だと言わしめたのは、そこに命懸けの真剣な取り組みを垣間見させたからだと思います。
この作品のため、吉沢さんは他の仕事を断り、1年半真剣に舞踊の稽古をされたそうです。
この短期間に道を究めた方に並び立つことなど到底出来ようがありませんが、どれだけ真摯に取り組んだのか想像できる常人離れした美しい身のこなしでした。
この役を演じるのに、喜久雄を理解するのに必要な過程だったのだと思います。
ここまでやる方、特に若い方は本当に少ないと思います。今後の作品が楽しみです。
PGばかりで残念です。IMAX上映をお願いいたします。
吉沢亮=国宝
ただのイケメンではない2人の共演。横浜流星の演技良かったです!でも、でもでも吉沢亮が良すぎました!演じてません!他も豪華なキャストですが、吉沢亮だからこそ成り立つ映画です、本当に!(監督さすが!)
女性陣だと森七菜ちゃんがとても印象に残りました!分かりやすすぎる恋心からの濡れ場、転落感、見事にこちらも演じてる感なく演じていました!
報われぬ覚悟の美学
歌舞伎という閉じた世界を題材にしながら、芸術と人間の宿命を描いた力作。長崎に生まれ育った青年が、血縁のしがらみもない名門に身を寄せ、やがて人間国宝と呼ばれる境地に至るまでを3時間近くにわたって描くのは、近年の邦画として異例の挑戦。公開初週こそ空席が目立ったが、口コミが観客を呼び込み、2003年公開の「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」以来、実写の邦画作品としては22年ぶりに興行収入100億円を突破した。内容が評価されて伸びていく実写邦画は久しくなかっただけに、観客の支持が数字に直結するという原点を見せつけられた格好だ。
では、なぜこれほどまでに支持されたのか。ひとつには、俳優陣の演技が作品の重厚さを支えている点が大きい。吉沢亮の鬼気迫る表情、横浜流星の葛藤に揺れる佇まい、渡辺謙の圧倒的存在感――舞台芸術の緊張感を映画という媒体に落とし込む力量は特筆に値する。観客は「虚構の中の虚構」である歌舞伎の演目をスクリーン越しに覗きながら、それが同時に役者たち自身の人生の断面でもあることに気づく。その入れ子構造が、単なる芸道ものを超えて、普遍的な人間の営みへと昇華している。
ただし、手放しで絶賛するのは容易だが、いくつか課題も浮かぶ。まず尺の長さである。175分という長尺は、観客に緊張感と没入を与える一方で、中盤の展開の冗長さや説明不足を助長している。原作小説で描かれた人間関係や背景が端折られたために、感情移入できずに置いていかれる観客も少なくない。また、歌舞伎という文化的素養が前提になっているため、芸能に馴染みの薄い層には難解に映る場面もある。興行的な成功と裏腹に、作品の門戸は決して広くはない。
一方で、この映画が日本の労働観や組織観とも地続きである点に注目したい。芸道にすべてを捧げるという姿は、サラリーマン社会における「会社人間」の宿命と重なる。血筋や序列に翻弄され、時に不条理に打ちのめされながらも、信じる道を突き進む。報われる保証もなく、それでも積み重ねを辞めない。その姿勢が、芸の世界でもビジネスの世界でも共感を呼ぶの。『国宝』が単なる歌舞伎映画の枠を超えて社会的な広がりを持ち得たのは、観客一人ひとりがそこに自分の姿を重ねられたからではないだろうか。
総じて、『国宝』は2025年を代表する邦画となる可能性を秘めている。日本アカデミー賞での受賞も視野に入り、海外映画祭での評価も期待できる。課題を抱えつつも、それを凌駕する熱量とテーマ性がある。芸術とは何か、人間とは何か――その根源的な問いを正面から観客に投げかける勇気を持った映画が、ここまで多くの人の心を動かしている事実自体が、この国の文化にとって大きな意味を持つのではないか。
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