国宝のレビュー・感想・評価
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ストーリーがイマイチ
吉沢亮と横浜流星、メイン2人の演技がとても素晴らしくて圧巻だったのですが、何も把握しきれないまま場面や状況が変わったり、登場人物の思考が全く理解できないまま話が進んだりするので、見てる側を置いてけぼりにするタイプの映画だと感じました。
3時間あればもっと綺麗にまとまったのでは?と思うし、オチもよく分からず、ひたすら鬱々とした雰囲気が続くようなそんな映画でした。
制限があるが故の美に、なぜこんなにも人は惹かれるのか。
予告編を観て、あまりにもエモーショナルで、本編を早く観たいと思いました。
歌舞伎は一度も鑑賞したことがありませんが、直感が面白い!と告げていました。
期待にたがわず、3時間、夢の中にいるような美しい世界でした。
まず、少年時代の喜久雄を演じた黒川くんが素晴らしい。
そして、寺島しのぶさん!
圧巻の存在感です。
俊介に対する母としての想いも、すごく共感しました。
きっと、ご本人も含め周囲の方々の胸に、一度はよぎったのではないでしょうか。
「しのぶさんが男だったなら、きっと稀代の女形になっていたはず」と。
天皇家の問題しかり、いつのタイミングでこれらの縛りが外れるのかなと思います。
青年期の喜久雄の短気さ、後先考えなさは、人格形成期まで極道の家で過ごしていたから。
父の代役を務めた喜久雄の演技を見て、劇場から逃げ出す名家に生まれた俊介と好対照です。
俊介の遺伝子は、半分母親からですし、必ずしも才能を受け継ぐわけではありません。
歌舞伎の家に生まれ、幼少期から鍛錬することで、芸事が引き継がれていくのでしょう。
しかし、特に芸術の世界では、努力は才能を上回ることができないのかもしれません。
俊介が、父親から受け継いだであろう糖尿病で、舞台を降りるのは、皮肉です。
喜久雄の舞台を観ている時に、何度か涙が出ました。
ストーリーや吉沢亮さんの演技に感動したわけではなく、ただ、喜久雄の姿に、心が震えました。
舞台の上で生きて死ぬことを繰り返せば、いずれ妖怪のようになっていくよなと納得です。
晩年の喜久雄も観てみたかったです。
題名に惹かれ、「罪名、一万年愛す」を読んで、作家・吉田修一さんにはまっています。
今読んでいる「パークライフ」の後に、「国宝」を読みます、楽しみです。
そしてもうひとり、演技している横浜流星さんに、「正体」で沼りました。
「べらぼう」の蔦谷重三郎もいいけど、「国宝」の俊介の方がささりました。
追いつめられる彼の演技が好きなんて、我ながらサドだと思いますが、今後も応援していきます♪
芸に溺れる
耽美であるが物語ではない。
良くも悪くも歌舞伎に耽溺した作りとなっており、監督もまた歌舞伎の芸の中に身を沈めており、映画はほぼ役者の芸事の描写の強靭さに支えられていました。そこに物語はほぼなかった。それ故、歌舞伎の見せ場は極めて情感高く眼も眩む光景に。
一方、芸事の描写以外のできごとや物語はというと、やはりちぐはぐといった感じもする。半弥と半二郎の曽根崎心中のがらみのエピソードも所詮半径5mの出来事だったりする。
自分のベスト10映画の一つ「さらば、わが愛/覇王別姫」も非常に似たような題材構成である。しかし、その物語は、社会の中に時代の中に布置され、運命に翻弄されながらも抗う愛と友情を京劇の題材に描いている。「国宝」には、そういった映画的地平とか余韻というのものが乏しい。例えば、「覇王別姫」は、抗日戦争中の進駐日本軍とのエピソード、文革でのエピソードなど、いずれも壮絶であり、製作国が返還前の'93香港とはいえ相当の覚悟を持って作り上げたであろうことは想像にかたくない。
とはいえ、役者部の演技合戦は見事に尽きる。
歌舞伎といえば、松竹でしょう、と思いきや配給は東宝だったり、製作幹事はソニー配下のアニプレックスのミリアゴンスタジオ(ロールモデルはインド映画らしい)で、一つの目標が本作のカンヌ出品だったらしい。で、見事に監督週間に選出されたとのこと。
ただ、おそらくは、上記のようなスタンスの違いで、覇王別姫はコンペティション部門出品でパルム・ドール受賞('93でピアノレッスンとダブル受賞)という違いなのだとも感じた。
辛口ですみません。
これらのわたしが感じた少々の不満は、プロデューサーの定めたパースペクティブと資金のマージナルであり、その中で想いを醸成し舞台装置を作り上げた監督に由来するものであって、舞台にあがった俳優部の方々は考えうる限り最上級の演技をなしたため、観た皆さんは心を動かしているのではないか。そう思う。
誰も、勤まりゃしない
天上天下唯我独尊と云う言葉があります。直訳すると、世界で私が、いちばん尊い、と、なります。我を崇めよ的な意味で、使われますが、あのお釈迦様が、そんなこと言いますかね?。
「サブスタンス」もそうですが、美を追求するヒトの思いは、狂気と紙一重なのか、と。
…本物より綺麗に描こうとするなんて、あんた、まともじゃない。
かわぐちかいじの「心」のセリフです。「ヴィーナスの誕生」で有名なボッティチェッリが、酒場の女主人に言われています。
そう、まともではない。でも、綺麗なものを求めてしまう私がいます。綺麗と引き換えに、何かを売り渡してしまうヒトも、います。
季節に合わせ、花は咲きます。綺麗なものです。でもその綺麗を造花にすると、埃だらけの花となります。ヒトの追い求める綺麗とは、造花に積もった埃程度のものなのかも。それでも私は、美を否定しません。世界は移ろいゆくもの、私の思い通りにならない。空虚なものです。ただその刹那に、美を求めるヒトの思いを否定する程、私は達観する気はありません。
美は醜悪であり、醜悪もまた、美なり。
…どんなに世界が広くとも、あなたは、世界で唯一無二。他に代わりはいない。それは、素敵なことだと、思いませんか?。
先ほどの、天上天下唯我独尊を、こう訳した方がいます。私は、喜久さんにも、俊さんにもなれません。そんな存在に、憧れるけど、国宝級の生き方はしてません。先日、数年前の母の日に、私が贈った紫陽花に、小さな花が咲きました。母が地味に管理していたようです。母に感謝ですね。綺麗ですよ。地味だけど。そう思える今の私に、国宝級の賛辞を捧げたくなります。
私が喜久さんや、俊さんにならないように、喜久さんも、俊さんも、私にならない。私の代わりなんぞ、誰も勤まりゃしない。そう、私こそ、唯我独尊なのだから…。
国宝とは、何のことだと思います?。
「さらば、我が愛」
変わらない京劇の舞台から、変わりゆく中国を描いた、稀に見る傑作。「国宝」に、通ずる何かがあります。併せご覧下さい。
「ビューティー」
小さな村の、小さな奉納歌舞伎が舞台です。どんなに格好悪くても、どんなに笑われても、舞台を降りない。その思いに、共感できたら、ラストは号泣一直線です。独立系の映画なので、視聴困難やも知れませんが、オススメします。
影の主役は糖尿病
歌舞伎については海老蔵ぐらいしか知識がない歌舞伎初心者だが、この映画の歌舞伎シーンの完成度には驚いた。
本物と見紛うばかりの迫力で、特に吉沢亮と横浜流星の歌舞伎の演技は圧巻の一言。
まるで『ミッション:インポッシブル』シリーズでトム・クルーズのアクションを目当てに観るように、この映画は二人の歌舞伎シーンを堪能するためにあると言っても過言ではない。
吉沢亮ファン、横浜流星ファン、歌舞伎ファンなら大絶賛間違いなし。
個人的には、渡辺謙の老いた演技も非常に印象的だった。
一方で、歌舞伎シーン以外のドラマ部分には物足りなさを感じた。
物語をドラマチックになるように繋げているだけ。
話に深みがなく、やや陳腐に映った。
ドラマが収拾しそうになると糖尿病が暗躍し始め、物語が大きく動き始めるという構造。
糖尿病の恐ろしさは十分伝わった。
吉沢亮演じる喜久雄が「歌舞伎が上手くなるなら他は何もいらない」と語る場面があったが、恋人からのプロポーズを断ったのならまだしも、実際は逆で、さらに別の女性と子供をもうけていて、彼の言葉に説得力を感じられなかった。
才能があっても成功しない歌舞伎の世界って酷いと感じたが、夢が思い通りにならないことの方が普通なわけで、例え地味な活動になったとしても、献身的に支えてくれる女性がいるだけで十分幸せなのではないか、と感じてしまった。
波瀾万丈な物語の末にたどり着いた状況を見た時、「最初からそうすれば良かったのでは?」という思いが頭をよぎった。
クライマックスの歌舞伎シーンは、『侍タイムスリッパー』を彷彿。
この場面は序盤の「ドスで親の敵討ち」の場面との関連性を示唆しているようにも思えたが、「だから何?」と感じてしまった。
李相日監督の作品には毎回濡れ場が登場する印象があるが、本作の濡れ場には必然性を感じられなかった。
まるで女優のエロいシーンを撮りたいだけのように見えてしまい、残念だった。
ラストで滝内公美が「国宝」についてディスり始めた時は、「国宝が題材の映画でこれは斬新」と驚いたが、家族を捨てた人物をあっさりと許してしまう展開には、思わず「はあ?」となってしまった。
「天才は何をしても許される」という考えが嫌いなので。
さすが李監督
壮絶な芸への想い
見るにも痛々しいほどの芸事の世界。
養子の立場で実子を差し置いて舞台に立つ時に、プレッシャーで震えが止まらず、歌舞伎役者の息子の血を飲みたいと言わせるほどの切迫。そして義父から言われた、「血を分けた親がいなければ、首がないのも同じ」といわれ、それでもその世界で生きる主人公。美しい、雅な歌舞伎の世界の映画と思って観にいきましたが、壮絶としかいえないくらいの苦しみをみました。
そして冒頭の雪の長崎のシーンは息を呑むほど美しいです。
邦画だから配信待ち、は損。
邦画は時代劇と一部例外を除いては
テレビドラマの延長のような作品が多いので
劇場スルーが多いのですが
今作は予告やテレビでの役者のインタビューに惹かれ、
このサイトでの異常な評価の高さから、早速観賞してきました。
役者の演技、存在感、ビジュアル
どれも劇場観賞にふさわしく、配信待ちでは
本作の魅力は確実に1/3くらいになると思われます。
大スクリーンで上映している早めの観賞を。
歌舞伎の演技については詳しくないので感想を述べられませんが
中村鴈治郎さんが監修し、原作にも関わっているそうなので
かなりレベルの高いものでしょう。
日本が誇れる文化を、
ベストなスタッフとキャストが揃った今のタイミングで
映像化できたのは奇跡の賜物ですね。
長い上映時間なので
コーヒーとミントガムを用意して眠気対策をしましたが
まったくの無用でした。
100年に一本のコピーに偽りなし
大傑作と思う。
原作を読んでいたので、この作品の映画化はハードルは高いと心配していた。
主演の吉沢亮のプレッシャーも相当のものだったに違いない。
その心配を吹き飛ばすような出来栄えだったと思う。
上下二巻の長編小説を3時間にまとめるのだから、半分ぐらい端折った部分があったように思うけど、小説では表現しきれない、映像だからこそできる演出が随所に用意されていて大満足。
まさか、大首の浮世絵を実写で見ることができるとは思わなかった。写楽の浮世絵に江戸庶民が熱狂した訳がわかったような気がした。
森七菜ちゃんの登場が、小説ではちょうど折り返し下巻(花道編)の冒頭附近になるのだけど、欲を言えば、そこから後が少々走りすぎた感じがしたことだろうか。でも5時間越えの作品になっちゃうね。
是非映画館で見て欲しい作品です。
国宝
映画化が決まってから、原作は何度も読み返しました。
映画の予習だけのために、歌舞伎座に道成寺を観に行きました。
つまり、相当ハードル上げてました。
役者さんたちの演技は素晴らしいです。
お話も、俊介が戻るあたりまでは納得できました。
その後からは、場面やセリフはあちこちつぎはぎ。
尺の都合でしょうがないのだろうけど、この流れでこのシーン、このセリフはいかがなものだろうか、と思うところばかり。
また、原作にない場面は陳腐で説明的。
なんといっても、ラストシーン。
小説なら地の文で説明できるところを、映像と演技でどこまで表現してくれるのだろうと期待して見ていたのに。
あれ?終わっちゃった…。
あの世界は映像化できないと、監督があきらめたとしか思えない。
気がつけば、前半は涙をこぼしながら見ていたのが、後半まったく泣けなかった。
役者さんの演技が素晴らしかっただけに、なんとも残念です。
期待度○鑑賞後の満足度◎ 良く出来た小説の映画化は本当に難しいと改めて思う。だが映画という媒体の力を駆使して“「映画」の中で見事に歌舞伎の世界が構築されている”と思う。
《原作既読》
①映画を観る前に原作を読んで、喜久雄と俊介の役はいっそ若手歌舞伎役者にやらせれば良いのに、と思った。
たとえ映画(TV)俳優が撮影前の練習でどれだけ頑張ったとしても、長い修行・稽古を積んできた役者には叶いっこないと思ったから。
でも其れは映画好きにも関わらず映画の力を信じていなかった己の不明を知らされることになった。
②吉沢亮も横浜流星もよくやっていると思う(横浜流星は正直どこが良いのかと思っていたが『べらぼう』を観て少し私の中で評価が上がってます)。
決して歌舞伎通ではないけれども、歌舞伎通の目から見れば、二人の芸自体は 本物に比べたら真似事にしか見えないかもしれない。
しかし、その足りない部分をカメラの動き・画面の構図/構成・編集という映画のマジックで見事に「映画という虚構の世界の中で存在する"歌舞伎"」になっていると思うがどうだろうか。
③大河小説と言っても良いくらいの原作の質量とものボリューム。
特に後半の中年以降の芸の道を極めていく辺りを若い俳優が演じきれるのか、との不安も有った。
そこを映画は「花道編」の部分をかなり刈り込んで「青春編」に比重を置いている。原作で印象的だったキャラクターも外されていたり、外されていなくても一場面のみの登場になっていたりする。
でも其れは仕方ないと思うし、其れで良いと思う。
勿論、芸の道を極めていく中年以降の喜久雄を映像で観たかったという気持ちもあるが、原作の芯のようなものは十分残っていたように感じる。
小説の世界では、読者自身の想像力の及ぶ限りの範囲で好きな様にイメージを脹らませ想像しながら読んでいける。
一方映画は写実に具体的に映像として観客に提示しなければならない。
然しながら今回は実写版として観ても殆んど違和感は無かった。
既に観たことのある演目はともかく、観たことのない演目については「実際はこんな舞台なんだ」とわかって有り難かった。
逆に、俊介の出奔と「曽根崎心中」の舞台とを平行して描いたところなど、上手い、と思ったし映画でなければ出来ない表現・手法だと思う。
④主役の二人も良かったが何よりも圧倒的な存在感・オーラを放つ万菊に扮する田中泯が素晴らしい。
歌舞伎役者ではないけれども、こちらもダンスという“芸”に一生精進・努力を続けてきた人。その佇まいは年輪は演技で出せるものではなく、さ何より指先の動きから所作、佇まいまでまんま歌舞伎の立女形としか見えない(少なくともこの映画の中では)。
『鷺娘』の舞も、カメラワークもあるのだろうが、本作に数々出てくる躍りの中ではピカ一である。
『それで良いの。それでもやるの。』という印象的な台詞も田中泯ほど説得力を持っていなかっだろうし、この映画を芸道映画として成り立たせているのも田中泯がいてこそと思う。
賞などどうでももよいのだが、助演男優賞(それとも女優賞か)ものである。。
⑤渡辺謙も白虎が亡くなる前の老いを露にした演技に凄みを見せる。
瀧内公美もワンシーンの出演ながら脚色でバッサリ切られた原作後半の部分を集約したような台詞を放ち鮮やかな印象を残す。何より正体を告げる前に撮影のために上着をそれとなく整えるところにで、置き去りにした父への恨みと愛情をさ無言でりげなく表現する。
寺島しのぶに関しては、今の日本映画界でこれ程この役に他に似合う人は居ないだろう。却って当たり前すぎるキャスティングなのが痛し痒し。
冒頭シーンのみの登場だが、永瀬正敏もそこに居るだけで役に成りきっている安定感・存在感が半端ない。
⑥原作の、至福感溢れる、然し浮世離れした幻想的な幕切れは小説だから可能であって、映画の場合、最初からファンタジー映画と謳っているなら兎も角、本作のように基本リアリスティックな描写をしている映画では難しい。
どういう幕切れにするか期待と不安と相半ばで観ていたが正直「こうするしかないよなぁ」という感想であった。
⑦惜しむらくは、
これは映画館で見た方が絶対に良いと思う
吉沢亮演じる喜久雄が歌舞伎の世界で人間国宝となるまでの一代記。そして、その中で、横浜流星演じる歌舞伎名門の跡取り息子・俊介との友情が物語の芯となっています。
喜久雄はとある事情で歌舞伎名門・花井半二郎(渡辺謙)の家に引き取られ、俊介と共に厳しい指導を受けながら役者として育っていきます。二人は、子供時代、同志として切磋琢磨しながら一緒に育っていくのです。ドロドロした部分はほとんど描かれないので、見ていて実に気持ちが良いのです。
印象的なシーンはたくさんあるのですが、私が最も感心し感動したのは、1回目の曽根崎心中、喜久雄の大役デビューのシーン。曽根崎心中は半二郎の体調不良により代役として喜久雄が立つことになったのでした。代役が跡取り息子の俊介ではなく喜久雄。複雑な感情が二人によぎります。
俊介が喜久雄の楽屋に入っていくと舞台化粧に手間取る喜久雄の姿。「始まるのが怖いねん。震えが止まらんねん。俊坊、怒らんと聞いて欲しい。今、俺が一番欲しいのは俊坊の血やわ」と涙ながらに言う喜久雄。「(あれほどに修練してきた)芸があるやろ」と優しく答える俊介。あれほど厳しい修行に耐えた喜久雄の、頂点を目指す人間しか味わうことのできない怖ろしいまでの緊張。それがわかる俊介。この二人のやりとりには本当に感動しました。素晴らしかった。
今、1回目と書きましたが、当然、2回目があります。それもまた良いのです。この二人の関係性、友情と言うよりも同じ戦場で戦ってきた戦友です。俊介は糖尿病で左足を切断。それでも曾根崎心中をやりたいと言います。近い将来、右足も切ることになるからと。相手役を喜久雄が務めますが、右足にすがりつくシーンで足先が変色しているのを見ます。喜久雄、涙が出てしまいます。私ももらい泣きしてしまいました。
吉沢亮さん、横浜流星さん、両者とも本当に素晴らしかったです。歌舞伎のできばえは素人だからわからないのですが、発声・舞踊・所作など凄いですね。相当の努力・研鑽を積まれたことくらいはわかります。
全体としてほぼ3時間の大作ですが、本当に良いものを見せていただきました。
この映画は映画館で見た方が絶対良いですね。テレビ画面だと感動が伝わりにくいかもしれません。
少し途中で飽きた
中盤まではこう、イケメン二人が切磋琢磨してて、えづらが華やかでいいな、と見れてたが、中盤以降見るのがだれてしまった。
適当なレビューでごめんね。まあ、メッセージ性のある映画ではなくて、小説、物語、娯楽だった。小説が好きな人にお勧め、僕には3時間は長すぎた。90分ぐらいが良かったかな。
あとは蛇足だけど、歌舞伎の面白さ、凄さを表現するために観客が拍手するシーンが多用されて、それがやだった。直接的に観客に歌舞伎の良さが伝わらないのを制作側知ってるから、間接的な拍手シーンばっかりなのかなって。歌舞伎凄いアピールいらない。女形のシーンとか感動できなかったよ。
普段、歌舞伎見る時も、翻訳ラジオみたいなやつ借りて聞いてるから、何言ってるかわからないので。それぐらい心の距離あるから普通に。
悪魔との契約後も努力し続けることを止めない『ファウスト博士』
予告編を見、荒筋を読んだ限りでは、
「氏より育ち」が「梨園の家格」を凌駕するお話か、
真逆の「血は水よりも濃し」の落としどころかと思っていた。
なぜなら歌舞伎の世界での
血筋に重きが置かれることは論を待たず。
先代が廃業し後ろ盾のない『獅童』や
養子である『愛之助』の立場は耳にするところ。
更には「高麗屋」と「成田屋」の
昔からの関係も同じ文脈。
浮世絵に描かれている両家の役者を見れば、
特徴的な鼻の形の区別がつかぬ時さえある。
そんな中で異色は『玉三郎』か。
1950年の生まれで早くして人間国宝に。
梨園の出ではなく、高身長に左利き、
養父も随分と若い頃に亡くしている。
にもかかわらず今の地位。
どれだけの研鑽を積み、いかほどを犠牲にしたのかと、
頭を垂れる思い。
本作の主人公が女形とのこともあり、
『玉三郎』の姿が投影されているようには見える。
もっとも劇中で、血と芸についての言及がないわけではない。
御曹司を守ってくれるのは血筋だし、
部屋子を守ってくれるのは身体に染み付いた稽古の結果だと
いみじくもふれられる。
とは言え、二人の主人公が、堕ちるところまで落ちても、
最後のよすがになるのが芸への執念なのは
もっとも感銘を受けるエピソード。
その線上で『寺島しのぶ』のキャスティングは興味深い。
当初は梨園の慣わしについて素で演じられることが眼目かとも考えたが、
ストーリーが進むに連れ異なる思いも湧き上がる。
『菊五郎』の子供に生まれながらも
女であるばかりに歌舞伎役者にはなれない。
加えて母親は易々とは越えられない高い壁の『藤純子(緋牡丹のお竜)』。
が、身体を張った演技で数々の賞をものにし、
今では一枚看板に。
彼女の生き方もまた本作に重ねて見えてしまう。
歌舞伎の世界でも四肢を失ってなお舞台に上がった役者が
江戸時代には居たよう。
しかしより最近の例としては『エノケン』を思い起こす。
脱疽で右足を大腿部から切断しても
義足で舞台に立った気概には感銘を受ける。
『吉沢亮』と『横浜流星』の努力は認めつつ、
舞踊家『田中泯』の演技と踊りが
二人を凌駕していたのも事実。
とりわけ劇中での〔鷺娘〕は、
短い尺ながら自家薬籠中としている。
できればフル尺で観たいものだが・・・・。
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