国宝のレビュー・感想・評価
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普通
昭和の街並みや歌舞伎の扱い(旅館の出し物になるほど身近だったこと等)、ドサ回りでやる場合と本格的な歌舞伎座でやる場合の舞台裏が見れたのは良かった。
ストーリー序盤、観客を引き込むシーンになるはずの、関の扉で主人公が才能があると感じるシーン、人間国宝(おじいちゃん)が演じる鷺娘の凄さを感じるシーンで凄さが感じられず置いてかれる気分になった。
おじいちゃんの鷺娘だけ分かりやすくCG入れてるのも演出感溢れてて若干覚めました。
それよりは二人藤娘の笠の扱い(あんなクルクルクルクルしてて綺麗に収まっててすげえ)、二人道明寺のすり足で歩きながらも全くブレない上体の方が分かりやすく歌舞伎役者すげえになりました。
動き?セリフ?の少ない鷺娘を人間国宝という最高峰の人が演じてくれても一般人は凄さを感じられないんだ…
あと全体的に顔面アップ多いかも。曽根崎心中はどっちもアップだからこそ感情に訴えるものがあってめっちゃ良かったですが、他はそんないるかな…
多分夜景のライトを目指す景色と重ねたかったんだろうけど、きくちゃんがビルでクルクルしてるのとかもうちょい引きの映像あっても良かったと思う。役者の狂気を表すには薄い。もっと前半部から執念を積み上げて欲しかった。学生時代がちょっと爽やか過ぎたのかもしれない。
歌舞伎単独だと盛り上がりを示すの難しいのは分かるけど、盛り上げたいシーンでとりあえずオーケストラ入れて音量上げて直後無音にすれば良いやろ感も感じた。もうちょいアングルとか魅せ方にこだわって頂きたかった…
しゅん坊ときくちゃんの関係性はとても良かった。認め合って支え合って尊敬しつつでもお互いに欲しいものを持ってて憎みこそしないけど羨ましさと悔しさが滲む、みたいな。
あきちゃんの献身と虚無も良かった。
きくちゃんが丹波家を出てく時の女将さんの居ないもの扱いするムーブも良かった。鳥肌立ちますね。
本筋とは関係ない部分のストーリーの投げっぱなし感は気になる。関の扉を一緒に演じて一緒に復讐に行った兄ちゃんどうなったとか、一緒にドサ回りして支えてたあきちゃん何処行ったとか、花井半次郎(渡辺謙)にデカイ借金ってなんや?とか、瞬く間に丹波家没落してたけどどういうこと?とか、竹野いつの間にそんなきくちゃん気にかけるようになった?とか、人間国宝(おじいちゃん)寝たきりなのにどうやってきくちゃん戻した?あの状態で発言力あるのか?とか、芸事でトップになるのが復讐になる話どこいった?とか……思いのほか気になる点多いな
あとは初期の組長亡くなる時の殺陣、どうにかなりませんでしたか…歌舞伎に力入れてるのはわかるけどドス持って囲みながら1人ずつ突撃は流石に笑ってしまう
実写で役者の凄さを表す難しさを感じた。漫画1話だけ読んだけど2次元は凄さが盛りやすくて分かりやすいなあ。という感想です
彼の痛み
周囲の評判が高く、「映像が美しいから絶対映画館で観た方がいい」と勧められ、足を運びました。
演技力に対しての評価は★5です。
ただし、作品そのものに対しては、正直★1をつけようかと悩んだほどです。
物語の中盤、あまりのしんどさに途中退室を考えた瞬間もありました。
一番深く傷ついていたのは、喜久雄のはずなのに。
なぜか周囲の人々のほうが、彼以上に「傷ついた表情」を浮かべ、「怒り」を向けてくる。
誰も、彼の痛みに触れようとしない。
誰一人として、「どうしてそんな選択をしたのか」を見ようとしない。
傷つける側だったのではなく、ずっと“傷つき続けてきた人間”だったのに。
喜久雄が口にした「悪魔との契約」という言葉は、
彼の覚悟の言葉のように感じました。
悪人になりたかったわけじゃない。
狂人になりたかったわけでもない。
ただ、
純粋に歌舞伎を愛せる自分がいて、
どんな自分でも無条件に支えてくれる人がいて、
つらいことがあっても乗り越える度に笑い合える日常が欲しかっただけ。
でも現実は絶望の果てに立っていて、悪魔と契約するしかなかった。
結果だけを見れば、「映像が素晴らしい作品だった」「喜久雄が世界一になってよかった」と言う人も多いでしょう。
でも、この作品に刻まれていた
孤独と痛みの深さを、
一体どれだけの人が本当に感じ取っているのでしょうか。
面白かった
マンガで少し読んでいたがそれはイマイチでやめてしまったが、ヤクザの息子が何故か歌舞伎の世界に入りそこの息子と歌舞伎の世界で生きていくという何となくのストーリーは理解していた。
鑑賞の結果、これはホントに面白かった!1人の歌舞伎役者の人生を俯瞰で見させてもらった満足感はある。歌舞伎に成功するのに悪魔と契約したと娘に語ったシーンあったがまさにその通りの人生なんだろうな。
幼馴染の女の子、芸者の結婚した女性、その女性との間の女の子、先輩歌舞伎役者の娘、色んな人たちに迷惑かけて人生狂わせてまで生きてきた、最後は人間国宝までなった人生を体験させてもらった。
吉沢亮は顔立ちが綺麗なせいか歌舞伎の女がたには向いていたが、空手やってたせいか横浜流星は顔立ちがゴツゴツで少し違うかなーってのは感じた。
ずーっと緊張
悪魔との契約?
芸に生きる対照的な2人の男性の物語りで、3時間があっという間に過ぎて飽きないストーリー展開です。体感60分位に感じる作品でした。
映像も衝撃的で糖尿病の怖さが脳裏に焼き付きました。映画を見終わったその時から甘いものを食べるのがちょっと恐ろしくなりました。
ただ、お話の途中唐突に挿入された悪魔との契約の話で、荒井由実さんがラジオで話されたらしい逸話を知り、こちらもちょっと怖くなりました。ジュゼッペ・タルティーニの「悪魔のトリル」がバックで流れればもっと印象深い作品に成ったかもしれませんね。
メガネマンの国宝級変貌ぶりキックが印象に残るなんて
あまりにもつまらなくて合わな過ぎてビックリした。
落ちぶれ描写すら金持ち道楽の世界で、まずそれが嫌。
あの宿の食堂の小さいステージとかさ。「歌舞伎座の立派な舞台に立っていたきくおは今やこんな小さい舞台、お客もまばらでちゃんと見てくれないような舞台にしか立てないのです」の意味であの演出なんだろうが、いやすごいだろ。あそこが旅館だとして小ステージ付き食事付きとして一泊いくらするんだよ。金持ちじゃなきゃあんな場所に行けねえだろ!そこに立てるだけで、役者として仕事があるだけで超すげえだろうが!
続いて同じく落ちぶれ描写のなんかざわざわしたパーティ会場みたいな場所も、あんなに客がいて、あんな小綺麗なホールで。あんな場所で食事できるのもある程度以上の収入がなきゃ無理だろ。ステージに近づく変態メガネマンにすらなれねえんだよ、こっちはよ!
本当に、平気で金持ち道楽の世界を描いてるんだよな。そこに自覚もないと思う。
そして。とにかく遅い。序盤からこれみよがしにゆっくりゆっくり演技を見せてクソみたいに無駄な間が多い。
「この間がポイントなんだよ。舞台の空気と役者の演技をじっくり感じるんだ!これが格調高い映画のあかし!」とでも言うかのように序盤からとにかくおっせー!早くしろクソバカ野郎!と何度も心の中でとなえた。
俺は子供の頃から何をやるにも遅くて頑張って急いで急いでなんとか周りに合わせてきたから。フィクション内でノロノロされると許せないのよ。
あんなにノロノロするなら全画面に字幕や解説を文字情報としてびっしり入れて欲しかったぐらい。よく分からねー金持ちの舞台ゲームに対する金持ちどもの大げさなリアクションを見せられている感じがしてすげえ嫌だった。
俺にとっては昭和のクソ文化のフルコース、日本映画の悪いところの詰め合わせの極悪映画だったわ。
嫌なところ、合わなかったところ
- とにかく間が長い。あと5日で本番というタイミングでパパが事故で入院!代役どうする?ってタイミングでもノロノロしてて「あと5日しかねえんだからもっとあせろや、クソ野郎ども!」と俺が心の中で映画内の渡辺謙以上にキレていた
- きくおが小さい頃からヤクザの親分の息子で大事にされてて、復讐を手伝ってくれるよき友人もいて、一緒に背中に刺青入れてくれる彼女までいて、さらに演技の才能まであって歌舞伎の家に住めるようになって、さらに吉沢亮の顔までついてて!「持たざる者」ポジションに見せかけて序盤から色々持ちすぎなんだ、この野郎!
- しゅんすけの方もしゅんぼうと言われて可愛がられてるし、そもそもこっちも演技が上手いのでなんできくおが選ばれたのかが分からない。素行の悪さ的なところか?こっちは少なくともパパ入院時点ではもっと下手な方が対比できたんじゃないの。
- 舞台上で渡辺謙が吐血したり、しゅんぼうの足が糖尿病で壊死して足切断で義足になったり、結局病気でストーリーを盛り上げようとする姿勢が嫌
- 昭和の大人キャラがどいつもこいつも偉そうで不快すぎる、渡辺謙も寺島しのぶも田中国宝もぶん殴りたくなるほど偉そうで不快過ぎ、クソ嫌な昭和の再現がうますぎた。「俺の娘を」デブ親父もひたすら嫌、キレ芸だけは面白かったけど
- タバコを吸いまくるのもきちんと昭和を再現してるからこそ不快で嫌過ぎた。役者のいい演技がかすむレベルで不快
いいところもあげる。心の中で笑ったポイントな。
- 序盤のこれみよがしに少年の汗ばんだ肌をアップで映す、一部の層にウケそうな執拗なカット
- 春江が大きくなって高畑充希にメタモルフォーゼするすごい成長具合。骨格から変わってない?似てないよな。国宝級の成長ってこと?
- きくおが代役に選ばれた時のしゅんぼうとの橋の上のやり取りで後方で安定した走りを見せる自転車
- 8年ぶりにきくおとしゅんぼうが再会する場面で無駄に豪華そうな部屋で会うところ。高そうな壺を3つくらいテーブルに並べて!そんなに高級な工芸品をアピールしてえのかよ、クソバカ野郎!
- 日本映画、ドラマの悪いくせ、役者のアップが多すぎる。身体全体の演技がものをいうこの題材ですら顔芸祭りにするその面白さ
- 大事なことは白塗りで言うよ!な姿勢をつらぬいてる。田中国宝が初対面きくおに「その美しい顔にくわれる」的なことを言うホラー演出
- 渡辺謙パパが吐血した後に白塗りのまま息子の名前呼んでショックを受ける白塗り吉沢亮
- 屋上で失意のダンスをする際も粗い崩れた白塗りを忘れない
- 役者の後ろについてぬいだ履き物まで向きをなおしてくれる後ろの人、着物早替えもこの後ろの人の力が大きく、この後ろの人達の動きを映したところにこの映画の意義があるとすら思った
- 襲名のパレードの金満ぶり。あんなことやってたの?本当、金持ちの世界の楽しみなんだな
- 終盤に2014年に人間国宝になったきくおがインタビューの後に車に乗る場面の無音時間。隣にいたポップコーン食いニキも音をたてることが出来なかったぞ!意味深な無音を作って緊張感演出する、この無駄な緊張感たまらねー!
- 渡辺謙の扇子で子供を叩きながらキレ指導する昭和稽古に笑う
- 病室で代役のきくおの演技にキレて食器を床にぶちまける渡辺謙の面白キレ具合
- デブ親父の「俺の娘を!」と言いながらきくおを襲撃するキレ具合
- 序盤でヤクザの殴り込みにあいテーブルの盾である程度応戦するも、「きくお、よく見ておけ」とカッコつけて刺青アピールする割に速攻で撃たれて死ぬ永瀬パパ
- 舞台近づきすぎ変態メガネマンがきくおの刺青を見た瞬間にキレて「この偽物が!」と言いながら蹴りを入れる豹変ぶり。あれは国宝級の変貌ぶりだった。女に見えた役者が実は男で刺青まで入っていたらむしろ怖いと思うのだがあの変態メガネマンは謎に強気だった。やっぱりあいつにはなれねえわ。
俺は歌舞伎を実際に観に行ったこともあるんだよ。一番安い席で、色々解説がつく初心者向けの公演だった。色々解説がないと何がすごいのか分からねーんだよな。動きのひとつひとつにどういう意味があるのか分からない。理解したいという気持ちはあるんだよ。
吉沢亮は仮面ライダーメテオの頃から知ってたから。なんなら舞台『プロデューサーズ』まで観に行ったことがある。今回も、大ヒットやったじゃん!おめでとう!な気持ちでわざわざ混んでる映画館に来たところがあるのよ。
まさかここまで合わないとは思わなかった。残念過ぎる。役者の演技の素晴らしさをもってしても俺には合わなかった。せめてもう1時間短かったらまだ印象は良かったと思う。
みんなはこんな俺のクソ感想を無視して映画館に足を運んでアニメ以外の実写映画も盛り上げて欲しい。
でもこういう映画がヒットすると「格調高く見せたくてひたすらノロノロ意味深な間でつなぐクソつまらねえ邦画」がまた増えそうで、それはそれで嫌。
みなさんは、どう思いましたか?
このお話は、人間国宝小野川万菊が、自らと同じ境地の人間(次の「国宝」)を生み出すまでの話だったのではないでしょうか?
映画のはじめの方で喜久雄少年が、万菊の歌舞伎を見て「怪物(だか化け物だか)」と言っていた。その怪物万菊に憧れた喜久雄が、万菊と同じ「怪物(だか化け物)」になっていくまでの物語に見えました。
そして、俊介と喜久雄の人生に要所で手を差し伸べ(いや、いたずらに狂わせ)、両者を追い込み、突き放し、切磋琢磨させ、次の怪物(「国宝」)を生み出そうとした万菊が影の主役だったのではないでしょうか?
万菊にとっては、俊介でも喜久雄でもどちらでもよかったのではないか?自身と同じ境地に立つ人間(「怪物」=「国宝」)が育ちさえすれば。
二人に対して残酷な手引をした万菊の人生も、映画の中では語られていなかった(と思う?)が、相当なものだったのだろうと推察されます。
それぞれの生い立ちや才能の違い、人生の流れ(や万菊の手引に)翻弄され、清濁を併せのみ到達された境地、自分を恨んでいるであろう娘にさえ拍手を送らせるほど圧倒的高みにのぼった芸の力、を「国宝」という言葉で表現しているのだと感じました。
一点の曇も許さいない風潮がある現代社会に対するアンチテーゼにも思えました。
「好きだから続ける」だけで極めたらどうなるの?という疑問に答えてくれる
ドキュメンタリーのように見えてぜんぜん堅苦しくない。
何を見せられるかというと「役者とはどういう生き物なのか?」という業の話。
稽古熱心な主人公で、才能を開花させ努力もして認められてもいるが、お家の血筋が通っていないという理由から様々な苦難を強いられる。
育った環境のせいか人付き合いも下手みたいで、純粋に歌舞伎が好きでそれだけやっていたいんだろうな、と。
歌舞伎についてのウンチクを学ぶようなシーンはゼロ。映像と心理描写だけで魅せてくる凄み。
そして普段見られない舞台裏が映っていて「簡単に良いもの見られた感」がある。
間口が広い。
あとカメラが良かった。なぜか飽きのこないカメラワーク。
この角度で撮ったら新鮮だろうとか、
ここは皺が見えるくらいズームしても見ていられるだろう、といった巧さを感じる。
おじいさんの皺がずっと映っていても「すごい人の皺だからいいか」と納得させられてしまう。
バッドエンドではないが「怒り」と同じ監督で心を抉りにくるのでそこは要注意。報われなかった人もいる。自殺や他殺は無いが出血はある。
少なくとも主人公は報われて良かったねと思える最後だった。
ダメなところじゃないが「やりすぎでは?」を取り上げると、
太宰治の「人間失格」的な空気がずっと漂うので映像の9割くらいが不穏。この人次の瞬間には死ぬんじゃないのか…?というくらいに不穏。
技術だけが高みに至ったがゆえ、耐え難い孤独がつきまとう。
それが「国宝」の道の謂われなら、ただ納得できるのみで後は目を伏せたい領域である。
伝統芸能の美しさと狂気さに魅了されたあっという間の3時間
歌舞伎シーンがすごい。
歌舞伎を見るのは初めてでしたが、指先まで細部にこだわる美しさに魅了されました。
吉沢亮さん、横浜流星さんをはじめとする、出演者が稽古に費やすことができた準備期間はわずか1年半です。
本来なら幼少期から数十年に渡り習得する歌舞伎を、1年半でここまで仕上げたのは、圧巻です。
本当に幼少期から歌舞伎をやっていたのではと、疑ってしまうレベル。気迫と努力が滲み出る歌舞伎シーンでした。
綺麗なお顔に喰われちまいました
「その綺麗なお顔は役者にとって邪魔も邪魔。お顔に喰われちまいますからね。」とは、人間国宝の万菊が喜久雄にかけた言葉。しかしこの台詞て吉沢亮本人を連想した方も多いのではないか。
駆け出しの頃は顔が目立ちすぎるとエキストラに選ばれず、端役を得ても顔が良すぎるとメガネをかけさせられ、オーディションは顔が役に合わないと落とされ、キラキラスイーツ系映画なのに下手したら共演アイドル女優より美しい始末。
吉沢本人も、演技を見て欲しいのに顔のことしか言われないと吐露することもあったようだ。
そして作中ではたびたび前髪を伸ばし、メガネをかけ、視線を落とし、背中を丸めた。まるで自らの美貌にリミッターをかけるように。今回「この世ならざる美貌の歌舞伎役者」という役を得たことにより、それらのリミッターは完全に取り払われた。
本作は主人公喜久雄の少年時代から始まる。子役の黒川想矢の演技で最も印象的だったのは、人間国宝万菊が踊る鷺娘を見つめる目であった。「美しいバケモンや」と言いながらも、その目は輝いており、視線は舞台に釘付けで、芸という魔物に魅入られてしまっていた。後の「悪魔はんと取り引き」の伏線になっている。
そして月日が流れ、お待ちかねの吉沢亮と横浜流星が登場。化粧前も化粧中も化粧後も絵になるのは流石。
二人道成寺では、舞台に立つ二人に対して、二代目半二郎から声がかかる。俊介は血が守ってくれる、喜久雄は踊りが骨に染み付いていると。本作にも出演している寺島しのぶのインタビューでは、舞台に立つ前に、自分には受け継がれてきた血があると己を奮い立たせることがあるとのことであった。実際に血とは大きな心の支えなのだろう。二代目半二郎の精一杯の優しさは、図らずしも、喜久雄に血を持たざる者という烙印を与えてしまった。
舞台では喜久雄が恋の手習いを、俊介が振り笠を用いた舞を披露するが、歌舞伎においては、演技巧者の方が恋の手習いを踊るのが通例だとか。ここも後の伏線になっていたのかもしれない。
物語は二代目半二郎が怪我により舞台出演を断念し、代役に俊介ではなく喜久雄を指名することで、大きく転換していく。184cmの堂々たる体躯の渡辺謙が曽根崎心中のお初役というのはかなり無理があるが、そこには目を瞑ろう。
二代目半二郎の病室で稽古が始まる。まずは喜久雄の発声に驚かされた。素人の耳にはいかにも歌舞伎の女形らしい発声で、吉沢亮はこんなことができるのかと驚かされる。
しかし二代目半二郎からは叱責される。死への恐怖も、愛する男と死ねる喜びも感じない。お初として生きていない、と。歌舞伎とは単なる様式美ではなかったのか。しかし稽古を経て、喜久雄はお初を掴んでいく。
舞台当日、喜久雄は楽屋で一人重圧に震える。直前まで酒を飲んでいても、楽屋に来れば甲斐甲斐しく世話を焼いてもらえる俊介との違いが切ない。楽屋を訪ねた俊介に対して、喜久雄は目にいっぱい涙を溜めながら、俊介の血が欲しいと訴える。血がありながら芸で選ばれなかった俊介の心には思い至らないのが喜久雄らしい。
俊介は複雑な思いが入り混じる中、「芸があるやないか」と優しく語りかける。ここで俊介に大きく心を掴まれた。
そして舞台に現れた喜久雄お初は、遊女としての色香と退廃的な美貌で観客の度肝を抜いた。愛する徳兵衛が奸計に落ち、最早自死でしかその汚名をそそげないと理解したお初。その覚悟があるのかと問うお初の気迫は、先日の病室で初めに見せた芝居とは全く別物であった。技術の巧拙ではない。役に生きるという点で、俊介は完全に喜久雄に負けたのだ。堪えきれずに席を離れた俊介を追ったのは、なぜか喜久雄の恋人の春江。この展開は予想できなかったが、伏線らしきものはある。
本作は映画であるため、当然時間と予算に限りがある。そこで喜久雄の一代記という点に焦点を当て、長編の原作を再構築している。喜久雄を取り巻く女性達の心情を丁寧に説明することは難しい。
吉沢亮は、以前のインタビューで、ナンパをするならどうやって声をかけるかと問われ「『顔見て』って言います笑」とジョークで返していた。まだ10代の春江が「喜久ちゃんがいないと生きていけない」と大阪まで追ってきたのも、藤駒が「2号、3号でも」と子を成したのも、説明はいらない。顔を見れば良いのだ。だって吉沢亮だから。何という割り切り。
しかし喜久雄の美貌に魅せられ、愛情を一身に注ぐ女性達は、いずれ気づく。ただでさえ言葉少なである喜久雄の心は芸で占められており、どんなに愛しても、喜久雄とは心が通わないと。もちろん喜久雄に愛がないわけではない。自分を追ってきてくれた春江とは結婚すべきだろうと考えている。しかしそれは愛というよりむしろ義理である。恋人として暖簾に腕押しするような愛を注ぎ続けることより、ご贔屓として応援することを春江は選んだ。だから俊介にも「わかっとうよ」と言えたのだろう。
この辺りから物語の構成は原作と大きく異なっていく。演目も大胆に変更されているが、これにより歌舞伎の知識がない観客でも「さっきの演目だ」と理解できる。数を絞ることで、一つの演目に時間と予算をよりかけることができる。映画化に当たっての英断である。
後半で驚いたのは、森七菜演じる彰子の登場だ。突然「喜久にいちゃん!」と馴れ馴れしく現れた女の子が、程無くして大開脚で喜久雄と絡むのだから。
恍惚の表情で「お嫁さんにしてね」と囁く彰子に「覚悟は決めてんで」と返す喜久雄の表情はどこか冷たい。喜久雄の決めた覚悟とは、愛する人を生涯守るという覚悟ではなく、役に繋がるなら籍くらい入れてやるという悪魔との契約だったのだろう。だから、大物役者である彰子の父親の激昂にも、喜久雄と出て行くという彰子の宣言にも、激しく狼狽する。
そこからの二人は多くの屈辱を経験する。しかしどんなに辛くても、喜久雄の体には何千回、何万回と稽古した踊りが骨まで染み付いている。喜久雄が見たい景色も生の実感も舞台の上であり、喜久雄は舞台でしか生きられない人間なのだ。屋上での狂気の舞はそのことを痛感させる。
周囲の手助けにより、喜久雄は再び俊介と舞台に上がる。しかし糖尿病という血の病により、俊介は片足を失う。それでも再度舞台に立ちたいと選んだ演目は、あの曽根崎心中であった。初の立役姿もまた美しい。
かつて喜久雄が演じたお初は、恋の業火に身を投じる激情を纏っており、仇敵九平次に向ける視線に込められた殺気からは、喜久雄の任侠の血が感じられた。一方俊介のお初は、残る片足にも壊死が見つかったことと相まって、自分の運命を受け入れるような諦観を感じる健気なお初であった。
出色は心中の場面。お初の表情からは、既に悩み苦しみ恐れを通り越して、あの世で徳兵衛と一緒になれるという喜びすら感じた。そこに「喜久ちゃんに引導渡してもらえるなら本望や」という俊介の声が聞こえてくるようであった。徳兵衛の落涙には、愛する女に手をかけなければならないという辛苦を感じた。そこに「俊ぼん…なんちゅう顔で見とんねん…」という喜久雄の声が聞こえてくるようであった。
歌舞伎役者に歌舞伎を演じてもらうのではなく、俳優に歌舞伎役者を演じてもらい、その上で歌舞伎を演じる。李監督の采配がピタリとはまった名場面である。
最後に人間国宝となった喜久雄が踊るのは、少年の日に魅せられた鷺娘である。大量の紙吹雪の中、恋に身を焦がし舞う白鷺。その目は何を見ているのか。悪魔と契約した人間は、次第に人ではいられなくなっていくのだろう。長い睫毛に留まった紙吹雪が動きと共に舞い落ち、やがて白鷺は力尽きた。
目を開けた喜久雄が見たものは、空っぽの客席とあの綺麗な景色。喜久雄はどこへ行ったのだろう。
この作品で吉沢亮は、自分の綺麗な顔に食われてしまう役者から、自分の綺麗な顔で見るものを喰いちぎる役者へと飛躍を遂げた。
初めて鑑賞したときは、ただただ何か凄く美しいものを見たと圧倒され、なぜか勝手に涙が流れていた。きっと私は吉沢亮の綺麗な顔に喰われちまったのだ。
一つのことを極めるためには
原作未読で尚且つ歌舞伎をよく知らない状態で鑑賞。
歌舞伎の演目のシーンは、観客席からのショットのみならず、役者の後ろ姿を捉えたショットなど様々な方向から演目を見ることができる。そのため、歌舞伎を平面的ではなく立体的、多角的に見ているという感覚に陥った。また、役者の顔や指先、足先などのクローズアップを多用することで、動き一つ一つのしなやかさや、美しさが強調され思わず見入ってしまうと同時にこんなにも歌舞伎は面白いのかと感動を覚えた。
そして物語においては、一つのこと(この映画で言えば歌舞伎)を極めるためには多くの犠牲が必要であり、その犠牲を顧みず、一つのことに全身全霊をかけて向き合った者だけが見ることのできる景色があるということを伝えたいのだろうと私は解釈した。そして私は一つのことを極めた経験がないため、あらゆる物を犠牲にする喜久雄に共感できなかった。しかしその共感しにくさが、喜久雄を孤高な存在へと押し上げると同時に彼に尊敬の念を感じざるを得ず、物語終盤の歌舞伎の演目では雲の上の存在を間近で見ている感覚に陥り、鑑賞後高い満足感と幸福感に包まれた。
非常に美しい作品だった。
原作の人間模様が好きだったんだ。
原作を読み歌舞伎と人間国宝をどう表現するのか気になって視聴。
前半30分で徳次が切られて気持ちが切れた、花ちゃんが徳次ポジにすげ替えられてるけどお前居なくなんじゃん!と思いながら苦痛を堪えながらの3時間だった。
主人公が紆余曲折あって人間国宝になりました終わり。中身薄すぎて無感情でした。
原作を予習したのが良くなかった。が原作を見なかったら観たのかと言われれば多分観なかった。本読まずに観たら多分星3位なのかなと。
語彙を失う
今度は、およそ3時間を長く感じさせる事はほぼ無かった。
あらすじに惹かれ観てみたが、想像とは異なる形で
魅力を存分に魅せられた。
本当にこのタイトル通り、どう表現したらいいのか
分からんくらいの気持ちになる。
あえて言葉にしておきたい事を書き起こすならば…
壮絶なる嫉妬と憎愛、生き様、ヒトの両面性
大画面に耐えうる美しき顔立ちと表情、目力や所作
ハッと正気に戻ったような瞬間も、それさえ芸の内
歌舞伎は見た事なかったけど、ずっと景色と音楽と
ヒトの舞が美しく、こんなに観てられる(魅入られる)
ものかと、すごい贅沢な擬似体験を味わった気分。
エンドロールの井口理の歌声さえも最後の最後まで
味わい尽くした174分であった。
これは、観てよかった。
因みに泣いた箇所は、前半と中盤の2箇所。
白く塗れ
歌舞伎にほぼ関心のない私には、この映画をどう面白がればいいのか、よくわからなかった。
まず背中に刺青があっても歌舞伎界に入れるのかなあと疑問に思い、白塗りで隠せるからいいのかと怪訝に思っていたら、渡辺謙扮する花井半二郎が急逝したタイミングでスキャンダルが噴出して、突如失脚する。それまでも楽屋の周辺に出入りする者にはバレていたはずなのに、今さら?その後の場末のどさ回りへの急展開も不自然で、輝かしい名声は世間の誰も覚えていなかったみたいだ。
歌舞伎界の重鎮の万菊が安アパートに蟄居しているのもナゾだし、その後喜久雄がいきなり表舞台に復帰するのも唐突感が否めない。
主人公の出世の節目で、近しい人物が都合良く怪我したり病気になったり死んだりする。おそらく原作小説をそれでも3時間程度の尺に収めるために、かなり物語を急ぎ足でつまんでいるのだろうと推測する(原作未読)。
舞台の場面が適宜挿入されているのでメリハリがついているが、それ以外の場面はやたらと怒鳴ったり殴りあったりの手垢のついた描写が多くて、閉口する。
役者が天才的な歌手というキャラクターを演じる場合、歌だけプロの歌手が吹き替えるケースがあるが、歌舞伎の所作となるとスタントも無理と見えて、主役の二人は1年半をかけて習ったという。ただ、ラスト“国宝”に擬せられた演技となると、1年半の修業で培った成果がほかの何十年と修業してきた本当の歌舞伎役者より上首尾ということになり、そのあたりが微妙だ。
交通事故で舞台に上がれなくなった半二郎の代演で喜久雄が演じた「曽根崎心中」は、それまでの「藤娘」や「道成寺」が舞踊だったのに対し、本格的な台詞入りの演目ということでなかなか迫力があった。一方で、かつての梶芽衣子の面影も甦ってきた。
「からかい上手の高木さん」の西片くんが達者な芝居をしていたのにはびっくりした。
同じ「国宝」のタイトルで、今度は五街道雲助師匠のドキュメンタリー映画を作ってほしい。
映像美
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