「「芸のためなら女も泣かす」役者の魂は、救われるのか?」国宝 Immanuelさんの映画レビュー(感想・評価)
「芸のためなら女も泣かす」役者の魂は、救われるのか?
「芸のためなら女も泣かす」…「浪花恋しぐれ」(都はるみ、岡千秋)の一節です。
この歌は破天荒な落語家の初代・桂春団治を歌った曲ですが、この映画の主人公喜久雄の生き方も、自分の人生すべてを芸の為に捧げる生き方です。実際、喜久雄も女を何人も泣かせます(汗)
しかし、そのある種極限のストイックな生き方にそこまで主人公・喜久雄を突き動かす衝動はなんなのでしょうか。見ていて今ひとつそれがわからなかった。喜久雄曰く「きれいな景色を見たいから」とのことですが、その理由はあまりにも抽象的かつ具体的でない。おそらくそれは自己満足や自己実現といったレベルのものではないでしょう。
最後まで見終わって僕が思ったのは、喜久雄は「歌舞伎の魂あるいは、連綿と連なる怨念のようなもの」に取り込まれているということではないかということです。
伝統芸能に対する高尚な理解や素養など持ち合わせていない僕などは、歌舞伎とは『オワコン』であって、衰退するのみの『古くさい過去の遺物』位にしか思っていませんでした。世の中の大多数の人にとってはそうでしょう。しかし、江戸時代から連綿と時代が変わっても消滅しないのはなぜなのでしょうか。
おそらく僕が思うに、歌舞伎に関わってきた役者たちの、あるいはそこに夢と熱狂と共に観た人々の、情念もしくは怨念のようなものが織り重なり、それが得体の知れない妖怪のように膨れ上がり、不可視であり明確な意識を持たずとも決して消滅するまい・その存在を消すまいと渦巻く歌舞伎のレーゾンデートル、「怨念もしくは集合的無意識のような力」になっているのではないかと思うのです。
喜久雄は、劇中で神社で自身の子供とお参りをするシーンで、奇しくも「自分は悪魔と取引をした」と言っています。なぜ「神」ではなく「悪魔」なのでしょうか。「神」は見返りを期待しないが「悪魔」は見返りを要求するものだからです。(諸説あります)
喜久雄は「悪魔」と取引をした。「悪魔」とは上記の「歌舞伎の集合的無意識」であり、そこに取り込まれることを喜久雄は自ら望んだのだということでしょう。「そのために他の何もいらない」つまり、その為には「すべてを差し出す」と言う。
「歌舞伎の集合的無意識」には意識や人格のようなものはないでしょう。その意味では悪魔とは違います。しかし、歌舞伎に自身を捧げるものからすべてを吸い取る。人間が人間たる人間性や、あるいは人並みの幸福も。その代わりに歌舞伎の集合的無意識は、芸の魂を分け与えるのです。言わば、人身御供。役者の魂を吸い取りながら、決して消滅することなく、孤高に閃き続け存在し続けるのが、歌舞伎の「悪魔」のレーゾンデートルであり、それこそが存在し続けることができる所以なのです。
もし役者自身が捧げるものが中途半端であるのなら、その魂の「内なる熱」が足りないなら、役者の魂は「悪魔」に吸われ尽くして「死ぬ」のです。その魂の熱が役者の中から湧き続ける限り、歌舞伎の集合的無意識と取引し続けることができるのです。無尽に湧き出る熱を持つ者のみが芸を磨き続け国宝となりうるのです。
喜久雄には全てを差し出す意思と潔さと、芸に対する内なる無尽蔵な熱があったということです。ですから、国宝となり上り詰めた喜久雄には、他人は、芸以外何も期待してはいけないのです。
もはや喜久雄は、歌舞伎の集合的無意識に自らを差し出し・逆に力を吸収し続けたその果てに、集合的無意識と合一してもはや同じ存在となった。そこで初めて「きれいな景色」を見ることができたのでしょう。喜久雄は、歌舞伎の「悪魔」そのものになり、全てを捨て人外のモノとなった。それでこそ見れる世界だったのでしょう。
…あんまり期待していなかったのですが、面白い映画でした。スピーディーな展開で飽きさせない工夫もありつつ、ドロドロとした情念に溢れた僕好みの映画で、1回は歌舞伎を鑑賞したくなリました。この映画のヒットで歌舞伎に足を運ぶ人が増えたらこの映画を苦労して作った甲斐があるでしょうね。…そうしたら、歌舞伎の「悪魔」もニヤリと笑うかも知れません。
Thank's, all Cast and Staff ! :‑D
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