「優れた映画の原点は尺に無駄がない事に尽きる。無駄がなくしてこの長さ。圧巻である。」国宝 mark108helloさんの映画レビュー(感想・評価)
優れた映画の原点は尺に無駄がない事に尽きる。無駄がなくしてこの長さ。圧巻である。
この映画の醍醐味はカメラにある。構成は3つ。舞台、日常、そして映画である。私たちはこの監督にまず映画として切り取られた画面を見せられることになる。即ち非日常である。さらにその先にはそこで描かれた日常と、さらにその奥にはそれを超えた天上の舞台が描かれる。その天上の舞台の景色が恐ろしい迄にエロティックである。この画面の切り取りに胸がときめかぬ者がいたら教えて欲しい位である。ほとんど何も見せない切り取りの連続、時にインサートされるズームアウトのショットに一瞬気を取られるもすぐさま演者の目の前に引き戻される。汗が飛び息遣いが目の前で聞こえる・・・さながら猫じゃらしで弄ばれる猫よろしく、李監督のカメラワークに興奮のるつぼの中その視線は引きずり回される。この監督の凄さは日常がキチンと日常として描ける点にある。それが故に今回の作品のように天上の世界へいざなわれた時のトリップ感が半端ない。俳優陣の凄みのある演技は勿論であるが、それだけではどんな俳優を使おうともあの天上感は生まれない。何しろ描かれているものは国宝への道である。「国宝」とは何か?彼岸と此岸の架け橋である。神々が御住まう世界との身体の接点である。登場人物の二人は高校一年の時に醜くバケモノの住むこの世のものとは思えぬ美しい世界に触れるのである。触れたが最後血筋と芸に彩られた国宝への箱舟は歌舞伎と大衆演芸のふたつの道程を、魂を悪魔に売り渡してでも歩むものと、血筋の圧力と才の欠落に追い込まれながらも、病に果てる死に際に見た鬼畜の演技で袋小路を抜けるもの・・・この二つの対立軸に前者にゲーテの📖ファウストを、後者にダンテの📖神曲を見る思いがしたのは私だけであろうか?血筋に保証さえされていたならば見る事が出来たであろう神の恩寵の世界・・それを持たぬ者は全てをなげうちありとあらゆる醜悪な世界を渡り切ったその先に初めて目にする事の出来る世界、またそれを共に見るものをいざないスクリーンと言う世界で追体験する天上世界・・・これこそが「国宝」であると言わんばかりの演技と映像美・・・これはもはや病み付きの世界、この世のものとは思えぬ世界、これこそが多くのリピーターを生み出す原動力なのであろう。
映像の美しさを表現する為の切り取られ捨て去られたカメラアングルの他にもう一つの仕掛けの躍動に身も心も持って行かれるのもこの作品の魅力のひとつである。普段歌舞伎の舞台では見る事の出来ぬ二人演者のお題目の数々、そこで繰り広げられるユニゾンの妙。本作品ではこの若い二人のユニゾン演技を芸道の『共鳴・対立・融合の象徴』として使われている。そう、いわゆる芸事の成長プロセスの原理「序・破・離」である。そしてユニゾンとジョハリ(もしくはジョハキュウ)と来たら思い出されるものこそ🎦エヴァンゲリオンである。庵野は🎦シン・ゴジラにも狂言の立ち回りを取り入れるなど、数々の日本的精神要素をその作品に盛り込み、やもすると海外のファンからは難解すぎるとの評も多くあるが、フィヒテの「正・反・合」の概念もその作品には多く盛り込まれており、あらかじめ用意された真実への道しるべとまだ見ぬ世界の新たなる創造への道、この二つが見事に盛り込まれた庵野作品にも通じる所があるのではないだろうか?いずれも見たい世界、見ようとする世界、まだ見ぬ真実と歓喜の世界へ少年と少女、人間とクローンなどの対立の浄化をテーマとして誘う物語。それぞれの到達点こそ違うとはいえ、その最後の描写に人間の持つ身体性への到達・・それこそが究極の答えとして提示された点で高い共通性を見出す事が出来るのである。天上の世界に到達した人間の持つ身体性、現実を突き抜けた先にある天上界での象徴性。本作品の「国宝」というタイトルに込められた真の解釈こそがこの作品を唯一無二物へと押し上げている。
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