「「国宝」の輝きと自己実現の危うさと」国宝 Takeyan555さんの映画レビュー(感想・評価)
「国宝」の輝きと自己実現の危うさと
前半から飽きさせない展開で起承転結の「承」では、2人の友情が育まれているのが楽しく、後の展開への布石としてもワクワクして見ることができた。歌舞伎役者としてのステップアップも捗り順風満帆な様子。
そこで「転」である。あらすじでは、襲名するのが実子ではないことが分かっていたので、「転」からが本格的なスタートとなる。ここから、高畑充希とは夢のために別れ、シュンスケとも仲違いになり、渡辺謙も居なくなり、と立て続けに大切な人を失っていく。
既視感のある展開だと思ったら、これは「夢を叶えるには何かを失わないといけないという物語」と気づく。私の好きなセッションやLALALANDもそうなのだけど、国宝が違うのは「悪魔との取引」という点だろう。
実の娘に対する無関心、女性への自己中心的な扱いは、彼の女性軽視的な部分は共感できるものではない。しかも彼は謝罪を述べることは無い。後悔がない。必要な犠牲。男として、というか人として最低である。
ということで、キクオが悪魔との契約を明かすシーンは今作の白眉だろう。彼はしっかりと「国宝」を目指していた。そんなに分かりやすくテーマを語らせるのだろうかという疑問も起こらないでは無いが、そう解釈した。また、それが自己実現の持つ究極的な虚しさである。
その意味で彼がラストシーンに見た美しい光景というのは甘美な幻覚に過ぎず、物語の最後に作者が用意した作り物に見えてしまう。彼は基本的に他人のために生きてはこなかった(シュンスケに役を譲ったりもしたけど)。最後の最後に美化して良いのか、というのがこの作品への疑問というか共感できなかったところではある。なぜか娘に許し的な内容を語らせることも。まあいいけど。
「映画内での芝居を本当に死ぬかもしれない設定でさせるとリアリティが増す」というメソッドも侍タイムスリッパーで見たばかりだけど、とても効果的。死期悟った者が演じる曽根崎心中は見応え抜群。役者の持つ迫真性というものが劇場を包むときに観客はその臨場感空間に引き込まれる。これこそがロシアのスタニフラフスキーが生んだメソッド法で言うところのプラーナ(気)の作用であり、演劇の持つ力なのだなあと改めて感心させられた。それを体現せしめた俳優の方々、製作陣は素晴らしい仕事をしていた。
ただ終盤からトイレ行きたくなって、そしたら映画の長いこと長いこと。だから娘のセリフも長く感じたのかも。
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