「映像の強さが素晴らしい。タイトルの意味を考える。」国宝 バーネットさんの映画レビュー(感想・評価)
映像の強さが素晴らしい。タイトルの意味を考える。
国保は邦画(というか、日本)でしか描けない画面とストーリーラインが素晴らしい映画だった。
何よりも素晴らしいのカメラワークだ。
歌舞伎の舞台の映像も素晴らしいが、練習や喜久夫が放浪しているときの、屋上での踊りの映像は息を呑む。
さて、個人的なポイントを忘備録がわりにここに残しておきたい。
この映画タイトルは「国宝」なんだけど、ふつうに考えたら「人間国宝」を意味している。
「国宝」というタイトルは人間を失った物質的なニュアンスがあると感じた。
つまりはこれは人間失格・国宝合格みたいな話で、人間を辞めていく話なんだろう。
ラストシーンについて。
あれは、喜久夫は死んでいるんだと思う。
何故なら、作中で亡くなった人はみんな畳の上で死んでない。舞台の上で死んでいる。ならば、喜久夫もまた舞台で死ぬのが必然だ。証拠はないが物語上そう解釈せざるを得ない。
師匠半二郎と半弥はともに舞台で死んでいる。
国宝としての先輩の万菊は、その立場に相応しくない粗末な所で最期の時を過ごしている。
この描写は不自然ではあるが、「役者はまともな死に方できない」という物語の必然を表すためだと思う。
そして、ラストシーン直前に私生児の綾乃とともに話す「歌舞伎が上手くなるなら、何も要らない」という「取引」の話から、国宝になって歌舞伎が上手くなった喜久夫は悪魔の取引により、何かを奪われているはずだ。それ以前もさまざまなものを失っているが、最後に奪われるものは、もう命しかないだろう。
そして、次のテーマの血である。
表面上は半二郎と半弥の親子の血とそれを持たない喜久夫の対比的テーマに見えるが、また、喜久夫もまた血に囚われてしまう。
一つは極道の息子という血。
これは物語中盤にスキャンダルとして現れてしまう。これは半弥が親子の血を大切にしていたゆえに、半二郎が代役を喜久夫にしたときの葛藤と同じく逃れられない運命として現れる。
そして、喜久夫は極道の息子として、親の仇を討つという運命も持っている。そもそも半二郎のところに行く動機の一つに仇討ちに失敗したからだというのがある。もし、仇討ちよりも芸事の関心が高ければ、仇討ちを試みずに直接、半二郎のもとに向かうはずだ。
そして、劇中で、半二郎から「芸は刀や鉄砲よりも強い。芸事で仇討ちしろ」という趣旨のことを言われている。ある程度、弟子になってから後のシーンだったので、喜久夫の中に親の仇という運命はずっと燻っていたのだろう。
「悪魔の取引」をしてまで、歌舞伎に没入していくのは、喜久夫が歌舞伎が好きだというのも、もちろんあるが、それと血による運命もあると思う。
半二郎と半弥の血のつながりは美しい繋がりと一見見えるが、これもまた負の側面がある。
それは病気だ。半弥は若くして糖尿病で足が壊死してしまい、それが原因で死んでしまうが、父、半二郎もまた糖尿病で目が見えなくなってしまう。これもまた逃れられない血の運命を象徴している。
また、背中の入れ墨のミミズクについて。
劇中では恩を忘れないという説明がされている。
これは少年時代の極道の息子として入れ墨を入れているから喜久夫の信念のはずだ。そして、ミミズクの説明したときに、半弥に「ヘビやらネズミやらお返しするんや」と言って「そんなの嫌だ」と返事されている。これは喜久夫の生き様を象徴していて、恩を返すつもりが実際には望んでないものを返してしまうという喜久夫の生き様が表れている。悪魔の取引とすれ違いのミミズクの恩返し。これが喜久夫の波乱を根底にある。
あと芸事に対して飛躍するのは、舞台や稽古だけでは務まらないというのもなんか意味のあるテーマかもしれない。半弥も喜久夫もどっちもドサ周りして、真の芸を身につける。半弥も失踪した後に、急に帰ってきて「プリンスの帰還」みたいな扱いは受けるが、若い頃のぬるさがドサ周りで解消されたから、のちに白虎を襲名できるほどのレベルに達したんだろう。一方で、喜久夫はあの屋上で、森七菜演じる彰子を失ったところで覚醒する。あれも「悪魔の取引」だが、半弥も同じような経緯を辿っていることをみるに、日陰や歌舞伎界を離れての経験がなければ、国宝レベルの芸は身につかないんだろう。それを示唆するものは僕では読み取れなかったが、また見たときにそれを読み解きたい。
あと、超蛇足だけど、この作品は昭和時代の描写が多いし、歌舞伎が女性を排除してきた歴史的経緯もあり、男性中心的な作品になっている。
女性の描写も個人を掘り下げるよりも、道具や物語上の構造に置かれているというポリコレ的、フェミニズム的批判もたぶんあるんだと思う。そういうことをいう人がいそうな映画ではある。
ただ、そういうこと言いたい現代的な感覚もわかるが、これは歌舞伎時代がかなり無理な構造で成立していて、そしてそれが次世代に続かないであろうことも示唆されている。半弥の息子が歌舞伎にそこまで関心を持たないことから、おそらく丹波屋も血筋の継承は途絶えるであろう。よって、ポリコレ的にどうなんだという批判は、この映画自体が、歌舞伎のポリコレ的限界による苦境を表している映画だと思う。
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