「純粋な少年が「主体性」を獲得する旅」国宝 劉志信さんの映画レビュー(感想・評価)
純粋な少年が「主体性」を獲得する旅
主人公の喜久雄は、主体性のない少年である。任侠の家に生まれて、父・権五郎の男ぶりに憧れて自らも背中に彫り物をしてしまう。やくざ稼業に対する冷めた目や批判的な目をまったく持ち合わせていないのだ。さらには、母親の道楽に付き合って、素人歌舞伎の女形の訓練も熱心にやり、父を訪ねてきた歌舞伎俳優・花井半二郎に「なかなかのもの」と認めさせてしまう。昭和の九州で、女の姿になれといわれて素直に従う精神は、母への依存的な愛が存在することを前提にしなければ、理解できないだろう。
喜久雄は父母に対する反抗などがない少年だが、父の死で任侠への憧れは中断してしまった。そのとき、半二郎に引き取られ、今度は憧れの的は義父である半二郎に変わる。同じく父・半二郎に憧れる御曹司の俊介と、競い合う兄弟付き合いを始める。ただ、二人の憧れを比べると、喜久雄の憧れ方は我が身を投げ出すような強いそれであり、跡目が約束されているはずの俊介の憧れは、そこまで高まっていない。
半二郎の代役を立てなければならなくなったとき、半二郎は喜久雄の献身的な憧れ方に懸けてみようと思ったのだろう。それは一度限りかもしれない代役ならば、熱量にまさる喜久雄のほうが、観客を落胆させないかもしれないと考えたのか。
俊介はショックを受け、喜久雄の幼なじみ・春江とともに旅に出る。春江も喜久雄に憧れてともに入れ墨をした仲だったが、自らが芸道にいないだけに、半二郎へ身をささげる喜久雄よりも、目標を失って苦しむ俊介に自分の姿を投影したのかもしれない。俊介はドサ回りで、跡目を約束されているから歌舞伎をやるのではなく、自分が歌舞伎を好きだからやるのだと気づき、帰ってくる。
一方、喜久雄は半二郎に憧れて襲名し、いよいよ半二郎の後を追っていこうとしたときに、半二郎が亡くなり、憧れる対象を失い、おそらく芸の光も失われて端役へと落ちていく。大御所・吾妻千五郎に近づき、大御所の娘・彰子を自分のものにして、足がかりを得ようとするが、憧れることが原動力の喜久雄が、安っぽい上昇志向のテクニックを使っても、うまくはいかない。
そして、喜久雄も彰子とともにドサ回りをするが、そこで喜久雄も憧れのあるなしと関係なく、歌舞伎と向き合うことになる。そのなかで、人間国宝の女形・小野川万菊と再会し、孤独な老後を送る万菊を見て、その姿に憧れるのではなく、好きな歌舞伎と向き合う自分と同じ気持ちを読み取り、はじめて主体的に歌舞伎に取り組む決意をして、芸の世界に戻っていく。
喜久雄は、かつて芸者に産ませた娘と思わぬ再会を果たす。憧れに近づきたくて「悪魔と契約したんや」と娘に話した父のままであったら、娘は今の喜久雄を許せなかったかもしれないが、そうした取りつかれた姿をすでに捨てて、正面から歌舞伎に向き合っている父を見て、娘は許す気になれたのだろう。むしろ、誇りに感じたのかもしれない。
一つだけ、この作品に注文があるとすれば、歌舞伎の上達具合をガイドするせりふが少なかったことである。心情的によりそった観客は喜久雄と俊介がなんとなくうまくなっていくことに納得したかもしれないが、例えば半二郎の弟子たちに「〇〇ができるようになったら、大したもんや」と言わせて、喜久雄や俊介がそれを達成していく姿を見せてほしかった。アクション映画で主人公が肉体を鍛える場面を入れることで、強くなったことに納得させられるのと同じだ。
わかりやすくする演出は、名作よりも単純な娯楽作品に近づけてしまう欠点があるのかもしれない。でも、わたしは敵を倒した主人公がそっと去っていく深い演出よりも、主人公が群衆から喝采を受けながら、恋人と口づけを交わすような演出が好きである。それだけのことだ。
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