「― 芸術という狂気に生きた者たちの、静かで壮絶な神話 ―」国宝 ビンさんの映画レビュー(感想・評価)
― 芸術という狂気に生きた者たちの、静かで壮絶な神話 ―
映画『国宝』は、ただの芸道ドラマではありませんでした。
それは、“芸術に殉じる”ということが、どれほど非人間的で、時に残酷で、そして美しいかを描いた静かな神話のような作品でした。
特に心を奪われたのが春江という人物です。
彼女は一見すると、主人公・喜久雄のかつての恋人であり、後に彼を裏切って俊介と駆け落ちする“裏切り者”のように映ります。しかし物語を追ううちに、その行動が表面的な愛憎ではなく、喜久雄を“国宝”に仕立て上げるための冷徹で戦略的な自己犠牲だったのではないかと思うようになりました。
俊介との関係も、純粋な愛情というよりは、喜久雄の才能を開花させるための“装置”だったのではないかと感じます。俊介の老いと病、そして没落──春江はそれを見越しながらも、あえてその道を選んだ。そこには、芸のために他者すら犠牲にできる恐ろしい覚悟が見えました。
一方、主人公・喜久雄もまた、まさに“芸に人生を焼かれた男”です。
彼は春江の離別や裏切りを糧に、次第に“人間”を脱ぎ捨て、“芸の怪物”へと変貌していきます。その過程には苦悶も孤独もありましたが、それこそが春江の意図した試練だったのかもしれません。つまり、春江と喜久雄は、互いに理解し合い、芸のために共犯者となった関係とも言えるのではないでしょうか。
俊介もまた、芸に殉じた者の一人です。喜久雄と対になるように描かれる彼の晩年には、芸の限界、衰え、そしてそれを見守る春江の非情なまでの沈黙が、強烈な印象を残します。そこにもまた、「芸」とは何か、「人間」であり続けることと引き換えに得られるものは何か、という問いが投げかけられていました。
この映画が描いたのは、単なる芸道や愛の物語ではなく、芸術という名の神に人生を捧げた者たちの、静かで凄絶な神話です。
“愛”や“裏切り”という感情ですら、芸術を燃やすための燃料にすぎなかった──そう思わせるほどに、登場人物たちは人間を超えた存在として描かれていたように思います。
春江の恐ろしさ、美しさ、そしてそこに宿る静かな狂気。
喜久雄の孤高さと、燃え尽きるまで芸を追い続ける姿。
俊介の哀しき鏡像。
どの人物も一言で表せない深みがあり、それこそがこの映画を特別なものにしていました。
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